ヒデの救援レポート 2014年4月1日№154

●3月29日、大阪市の上本町にある、「たかつガーデン(大阪府教育会館)」にて、ゆめ風基金定期法人総会が開催されました。
ゆめ風ネットワーク15団体、理事役員10名、ネットワーク委任状、計42団体の参加で成立。
役員改選期なので、理事11名中、先日亡くなられた、楠敏雄さんに代わり、「ネットぎふ」の戸田さんが立候補されて、全員信任されました。
任期は、2年で、牧口代表理事とhideの副代表理事も任命され、来年の20周年イベントを担うことになりました。
●30日には、シンポジウム「大災害時における障がい者・移動制約者の実態と取り組みの課題」が、総会と同じ会館で行われ、150名強の参加がありました。
その中で「移動送迎支援基金」の立ち上げが確認されました。


東北関東大震災障害者救援本部特集号№10「自立情報発信基地」より転載。
連絡先 TEL 042-660-7747
    FAX 042-660-7746
●手探りからの2年と3ケ月…岩手県大船渡NPO法人センター123(被災地障がい者センターおおふなと)代表 千葉秀一
・立ち上げ
岩手県沿岸南部の町「大船渡」、サンマとセメントと新沼謙治が特産品の小さな町です。
自宅は流され、車で逃げて高台の娘の家にもう少しという時に津波と遭遇、車を捨てもうだめだと思いながらも逃げ切ることができました。
私は震災前からCILもりおかの職員として障害者の自立支援に携わっており、その経緯から避難所の障がい者・家族の身の回り支援を行っていました。
その活動がセンターいわての一員であるゆめ風基金の理事の目に留まり、大船渡の障害者支援をぜひお願いしたいというお話しになったのです。
通常であれば会うことのない関西のゆめ風基金の理事にお会いしたこと、それが全ての始まりです。
「被災地の障がい者を救っては頂けませんか」と。
しかし、私は被災者の身、ボランティアの経験も全くないため悩みました。
大いに悩んだ末に決意、2011年8月に「被災地障がい者センターおおふなと」を立ち上げました。
妻と二人で。
・手探りからの2年と3ケ月
あの震災後の混乱している状態の中、今何をすれば、どこから聞けばなど不安からのスタートでした。
医療班チーム会議・ボランティア定例ネットワーク会議などに出席し、ニーズの把握に努めている時、医療班チームの主任ドクターの山野目ドクターには送迎支援の強い要望を受け、たくさんの人を紹介いただき勇気をもらったことを思い出します。
被災当初は、物資提供、介助、買い物、見守り、救援物資の受け取り代行、送迎と様々な支援を行いました。
翌年(2012年)からは仮設住宅にほとんどが入居し、物のほうも各方面のボランティア団体の温かい配慮がいきわたり、最低限の環境が整い始めた頃から今のセンターおおふなとの送迎支援というカタチができました。
新しく若い才能のある職員を入れ団体として機能し、この年の4月にNPO法人化しました。
2013年9月までの送迎実績は、人数2007人、回数3462回。
月平均にして、人数88人、回数160回です。
その他の活動として、家族への生活介助と視覚障害・言語障害団体、家族会への送迎とイベントのサポート、それから3年目になる「利用者との交流会バーベキュー」を行います。
また被災地支援として、小さな仮設住宅4~5か所で開催する秋の「みんなでサンマを焼いて食べよう」の会などは非常に好評で喜ばれています。
利用者は支援に対し皆さん感謝し、ありがたがっています。
全国の募金された多くの善意と、ゆめ風基金、東北関東大震災障害者救援本部にかかわるすべての人に対して…
私も支援された人の一人です。
手探りからの2年3ケ月の支援を振り返ると、当初から掲げた「すべてのことをやろうとせず、できることをやる」が負担を軽くし、そして何より、数え切れないくらいの人に支えられて継続できたと思います。
・この先も手探り
今、センターおおふなとは、来年の4月に就労継続支援B型事業所の開所に向け指定申請、作業所建設と大事な時期にいます。
ニーズの多い送迎支援と事業所運営は両立できるのか。
送迎支援の受け皿はなく、中止すれば利用者の気持ちは・・・
自立できなければ認証を受けNPO法人格を得た意味もなくなる・・・など、など、たくさんの超えなければならない坂をひとつずつ…
この先も手探りが続きます。
亡き妻の見えない力に背中を押されながら。
・遠くから応援してくれる皆様へ
被災地のことを「今もまだ」忘れていないことに感謝し、とてもありがたく、大きな励みになっています。
皆様の優しさに対し、少しばかりのお返しと思い、私たちのできることは微力ですが、これからも支援活動していきます。
以上
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
これまで届けた救援金
301,261,224円(2014年2月28日現在)
内・東日本大震災救援金総額
255,252,139円(2014年2月28日現在)
ただいまの基金残高
238,331,044円(2013年12月末日現在)
このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。
広く知ってもらいたいので、転送自由。
自由にお使いください。
息の長い救援が求められています。
長期戦です。
救援金の送り先は、
郵便振替口座:00980-7-40043 ゆめ風基金です。
とうほくと書いてください。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
●東日本大震災救援活動の中のhideの風景
・社会福祉法人 えんぴつの家機関誌「えんぴつの家だより」№345より転載
 連絡先 TEL 神戸252-0109
・震災の傷痕
1月12日(日)、阪神淡路大震災で甚大な被害を受けた長田区の復興した町を巡る「こうべあいウォーク」に参加した。このウォークは1999年に始まり、毎年この時期に行われていたようだが、私は友人からの年賀状で今年初めて知り、初参加した。
JR鷹取駅の南にある大国公園に集合。
この公園は震災当日火災が発生したこの地域の人々の避難所となったところである。
その後、第1回被災地メーデーを開催した所でもある。
ガイドの人の説明で、公園のクスノキを見上げた。
この樹木が火災からの延焼を食い止めてくれたのだという。
幹の右側半分が黒く焦げている。
これでも随分と新しい樹皮が育ち傷口が目立たなくなったのだという。
そういえば震災の傷痕が神戸の町からほとんど消えていったことに気づかされた。
JR新長田駅の南の国道2号線の地下に焼け残り、今は淡路島に保存されて居る「神戸の壁」の土台石がベンチになって並んでいるのを初めて知った。
この日、カトリックたかとり教会、JR新長田駅周辺、大正筋、旧二葉小学校、六間道、水笠公園、御蔵通と随分歩いた。旧二葉小学校では「震災の企画展」が開催されていたのだが、歩き疲れて入り口のベンチに座って休憩だけした。
美しくなった町、高く聳える高層住宅、せせらぎが流れる公園、クスノキと土台石以外、どこにも震災の傷痕は見当たらなかった。
これで良いのだろうか。
震災はもう神戸では忘れ去られるのではないか。
なんとも言えぬ複雑な気持ちになった。
10日余り経って、近くのコンビニへ弁当を買いにゆく途中で、「震災の企画展を当センター4階でしています」というポスターを見つけた。
当センターとは目の前の「コミスタこうべ」だ。
弁当を買わずに駆け登った。
震災当時を写す数々のパネルの中に、今もなお残っている数少ない震災の傷痕が写されていた。
崩れた港の岸壁、浜手バイパスの座屈した橋脚、地盤沈下で傾いた湊小学校の手洗い場、地盤沈下で一段ずれた東遊園地のフェンス、そして焦げたクスノキ。
傷痕は僅かだがまだあったのだ。
安堵感のような気持ちがわいてきた。
傷痕が見えなくなると震災の忘却や体験の風化が進むのではないかと思えたのだ。
解説の看板を付けてみんなに知ってほしいとも思った。
まだ他にもあるかもしれない、探し出したいとも思った
(松村)
以上

いよいよ明日!移動送迎支援活動の現状と課題・シンポジウム

いよいよ明日、移動送迎活動の現状と課題を探るシンポジウムを開催いたします。
震災から3年が経ちましたが、被災地の復興はまだまだです。
とりわけ人々の生活の復興は、住宅建設が大幅に遅れているため、なかなかめどが経たない状態です。
もともと耐用2年の仮設住宅の住みづらさとあいまって、人々の不安は増大する一方です。
そんな中、様々なボランティア団体によって移動送迎支援活動が続いていますが、被災地における切実な必要性は、やむことがありません。
各団体とも、持続可能な活動をめざして奮闘しているところです。
被災地で果敢に活動を続けておられるみなさんから報告いただきます。
この貴重な機会にぜひご参加ください。
<ご案内>
*シンポジウム *大災害時における障がい者・移動制約者の実態と取り組みの課題*
2014年3月30日(日)13:30~17:00(13:00開場)
たかつガーデン(大阪府教育会館)
地下鉄谷町線谷町九丁目、近鉄上本町 すぐ
講演:災害時における障がい者・移動制約者の実態と必要な移動送迎支援活動
講師:吉田 樹さん(福島大学経済経営学類・準教授 福祉送迎調査研究者)
パネルディスカッション 「災害時の移動支援の現状と3年になっての取り組みと課題
パネラー
村島弘子さん(NPO法人移動支援レラ・代表/石巻市大街道東)
竹下敦子さん(NPO法人ハックの家・代表/岩手県下閉伊奈郡田野畑菅窪)
小山貴さん(日本障害フォーラムいわて支援センター/岩手県陸前高田市気仙町)
助言者 吉田 樹 さん
コーディネーター:八幡隆司(認定NPO法人ゆめ風基金・理事)
行動提起~まとめに代えて 柿久保浩次さん(関西STS連絡会・事務局)
資料代 500円
主催:認定NPO法人ゆめ風基金/関西STS連絡会

くわしくはここをクリックしてチラシ(PDFファイル)をごらんください。

フィリピン巨大台風被害~手の届かない障害者への国際支援を

馬垣理事が代表を務める、社会福祉法人 ぷくぷくの会が発行する、「まねきねこ通信」より、
先のフィリピン視察に行かれた、千葉寿夫さんの文章を転載いたします。
ここから転載。
フィリピン巨大台風被害
手の届かない障害者への国際支援を

障害と開発コンサルタント 千葉寿夫さん・想像を絶する台風被害
昨年11月、フィリピンを直撃した台風30号・ヨランダ(フィリピン名)によって、中部レイテ島を中心に高潮や土砂崩れなどによる甚大な被害が発生しました。
死者・行方不明は7千人を超え、避難した被災者が390万人とも言われる深刻な被害です。
ところが、災害復興支援が遅々として進まず、3カ月経った今も、食料・水の不足、衛生環境の悪化など被害拡大のおそれすらあります。
とりわけ障害者にとっては、東日本大震災でも見られたように、食料などの支援物資を配給しているところまでたどり着くことができない、避難所を利用できない、情報が得られないなど、困難な状況に置かれます。
8月にも大洪水災害があり、すでに動き出していたゆめ風基金と、DPI日本会議が協働して今回の被災障害者支援のため、現地調査が行われました。
タクロバンの障害者共同組合のメンバーを中心に聞き取りが行われ、車イスなど福祉機器の提供等が進められます。
フィリピン大学に留学中でアジア途上国の障害者の状況を情報発信している千葉寿夫さんが現地での協力者として同行されたので、報告をお願いしました。            (文責・編集部)
 
ヨランダ台風発生から88日目にあたる2月3日、DPI日本会議、ゆめ風基金・ぷくぷくの会、AJU自立の家のみなさんに同行し、今回もっとも甚大な被害を受けたフィリピン中部・タクロバン市を視察しました。
被災現地に足を運んだのは、昨年11月末にセブ島北部の訪問に続いて2回目です。
被災直後の現地は大混乱で、通信・交通手段も麻痺していました。障害者連盟
の方にお話を聞きましたが、彼らも「まだ行ける状況でない」という状況でした。
フィリピン政府やNGOは一般の救助に手一杯で、障害者は取り残されているようで、「緊急に、薬、福祉機器などが必要になる」とのことでした。
今回視察をしたタクロバンも、当時はどうなっているのか分からない状態で、障害者団体もバラバラに動いている感じでした。
昨年11月末の段階では、災害から20日ほど経っていたにもかかわらず、セブ島北部は電柱が軒並み倒れているため、電気も復旧していませんでした。
風速100mの強風による家屋の倒壊が主な被害で、学校や体育館など大きな建物でも、屋根が吹き飛び鉄骨があわらに曝されていました。
この時は、RBI(視覚障害者支援基金)の視察に同行させて頂きました。
代表のランディー氏は、視覚障害学生支援プロジェクトで日本財団時代に一緒に仕事をしていた同僚です。
彼らは、現地の特別支援学校と提携しているので、視覚障害児がどこに住み、どのような被害を受けているのか把握していました。
障害者の直接参加が重要
この時は、フェリーに乗ってバンタヤン島へ行き、被災した3人の視覚障害児の住居と特別支援学校を訪問しました。
フィリピンでは、障害者のインクルーシブ教育の推進として、各地方にSPEDと呼ばれる学校があります。
普通校の敷地内に併設された障害児用の教室が、視覚・聴覚などに分かれて設置されている学校です。
訓練された教師が視覚障害児には触図や点字を使って教えたり、聴覚障害児には手話を教えたりします。
一般クラスでもやっていける学力があると判断されれば移動もできるそうで、一般クラスで主席を取る障害児もいるそうです。
幸い特別支援教室には被害がなかったそうです。
ランディーとRBIスタッフは、すぐに被害状況を細かく確認し、住居の修繕に必要な資材や工程、そして費用を算出していましたが、まだ連絡が取れないレイテ島(タクロバンなど)を考えると、100軒以上の視覚障害児の住居が深刻
な被害を受けているようでした。
日本からの支援を考えれば、生活再建は寄付や基金で支援し、コミュニティレベルの障害者を含んだ防災戦略は、専門的に計画し、長期に実施されなければならないでしょう。
その時、障害者の参加が何よりも重要になります。
タクロバン現地でニーズ調査
今回の視察では、タクロバン障害者共同組合のメンバーを中心にヒアリングし、被害状況を確認しました。
2月3日午後4時、タクロバン空港に降り立つと、ターミナルはまだ被害を受けており、荷物置き場も屋根があるだけ、吹きっさらしの状態でした。
空港から外に出ると、市内に進む道には、国連の簡易テントが散在し、倒壊したビルが残され、電線が垂れ下がり、寸断されていました。
幹線道路の脇にはUNHCR(国連難民支援機関)やUNICEF(国連児童基金)のテントが並び、掘建て小屋みたいなキオスクが並んでました。
建物もまだ壊れたものが多かったです。
市内に入ると、さすがに人通りが多くなり、復旧支援のトラックやバンとともに、トライシクル(サイドカーを着けたバイクタクシー)やジプニー(小型乗合バス)などが行き来していました。
店はオープンしているものの、電気は一部復旧に留まり、物資は一応揃ってますが、簡素に並べてあるだけでした。
コンベンション・センターの周りに避難所が用意されていましたが、水道もまともに来ておらず、テント横の側溝には下水が溜まっています。
そして海に突き出した簡易トイレが、衛生環境の悪さを物語っていました。
電気は簡易の太陽光発電機で、太陽光と言えば聞こえは良いのですが、玩具みたいな機材にLEDが付き、わずかな明かりと携帯の充電くらいしかできない代物です。
被害から3ヶ月近くたっても電気も復旧していない、というのは、話しでは聞いていたものの、正直、これほど進んでいないのか…と、驚きました。
バスターミナルで現地の障害者団体と落ち合い、その日は簡単に打合せをしました。
翌4日、障害者団体の事務所で現状の確認をしました。
タクロバン市内のTAPDICOという障害者約20名の共同組合を通して、障害者のニーズ調査や現状調査、事務所に来られない障害者の自宅訪問を行いました。
彼らが集めた障害者リストを頂き、現状のヒアリング。
その後、車イス等の福祉機器が必要な人15人以上との面談を行い宿舎に戻りました。
彼(彼女)らは、当面の食料や住居は確保できているものの、生活上の困難を多く抱えており、特に知的障害児の親には公的支援もなく、病院にも行けず、負担を1人で抱え込んでいるようでした。
視覚障害者夫妻にも出会いましたが、避難所の簡易テントで娘と親の4人生活を余儀なくされていました。
今回面談した障害者の多くは、震災以前から生活上の困難を抱えていました。
TAPDICO自体は共同組合であり、組合員として働ける障害者には収入がありますが、それ以外の障害者は自力で生計を立てなければならなりません。
就職口は限られ、家族の世話になる人も多く、障害当事者団体が組織されていないタクロバン市では、利用できる資源も限られています。
今回の支援は主に福祉機器の提供などが中心になるため、障害児は体の測定も行い、適切な車イスのサイズを確認していました。
視察隊は、TAPDICOの活動支援として、現在の工房や事務所の復旧作業に使うための車(マニラの障害者財団提供)の修理も行い、障害者の移動のため、復旧作業のため必要な支援は直ぐに提供していました。
政府の支援策と日本の役割
インフラ整備の遅れは中央政府に期待したいのですが、障害者支援に関しては、政府機関である全国障害問題協議会と民間団体の全国障害者連盟(A・K Pinoy)が協力して、復興支援策を策定中です。
2月下旬に関係諸団体を集め、マニラで支援内容を協議し、実施する予定になっています。
その他にも、国立国会図書館が障害者を含む社会的弱者の被災状況や避難の状況を聞き取り調査し、電子ファイルとして恒久的に保存することを考えているようです。
フィリピン中部は毎年強い台風が予測されるため、被害を少しでも防ぐために、過去の教訓から学ぶことが非常に重要です。
最後に
国全体の取組みに留意しながらも、日本の障害者団体として地に足のついた支援を提供することは非常に重要です。
現地の障害者団体と協力すれば、日本からでも十分に有意義な支援を提供することができます。
今回は福祉機器の提供を念頭においていますが、寄付金自体も貴重ですし、自助団体の設立を支援する方法もあると思います。
フィリピンにいる私たちとしても、現地情報の共有だけでなく、寄付集めなどの具体的な支援に繋げたいと思いました。
今後も現地を訪問し、フィリピンの障害者の様子を肌で感じて欲しいと思います。
そこから交流が生まれ、知識の共有がなされ、支援に継続性が生まれるかもしれません。
台風発生から3カ月近くが経過しても、復興は始まったばかりです。
支援を必要としている障害者が沢山いますし、ニーズはいくつか確認できました。
これからをもとに日本で報告会を開き、具体的な支援策を決めていくことになります。
復興には長期的な取り組みが求められます。
日本からできることを考えてみて欲しいと思いますし、息の長い支援をお願いします。
以上。

フィリピン台風30号被害・現地視察について②

①からの続きです。
活動拠点とした「TAPDICO」は、2008年に発足した約20名の組合員からなる障害者自助組織( いわゆる障害者の共同組合)であり、働ける軽度や聴覚障害者が大部分を占めています。
市政府から提供された事務所で、学校用の椅子等を作製することで収入を得ています。
調査団は、ポリオや四肢切断等の約10名のTAPDICOメンバーと面会しました。
被災後、メンバーの多くは事務所内及び事務所の隣に設置された仮設住宅で生活しています。
聞き取り調査は、事前に用意した質問票に沿いつつ、障害の状況、現在の生活、福祉機器ニーズについて訪ねていきました。
聞き取り対象者は英語を話すものが少なく、タガログ語またはワライ語で、そこから英語への通訳は、
TAPDICOマネージャーのJose Juby Albay氏が行いました。
また、聴覚障害者に対しては、佐藤神父が手話にて聞き取りを実施。
2月4日には、事前にTAPDICOが把握したリストにより来所を呼びかけた障害者21名(TAPDICOメンバーを含む)に対しインタビューを行い、2月5日は5名の障害者を戸別に訪問し、調査を実施。
2月6日には、視察したコンベンション・センターの周辺で2名の障害者を戸別に訪問。
聞き取りした障害者は合計28名。
必要とされたのは、
車椅子 15台 (内子ども用5台)
松葉杖 8組
白杖  4本
トーキングフォン 2台
補聴器  4個
義肢装具 4台
車椅子車輪交換  1件
医療支援  2名   
すべての障害者に会えたわけではないので、まだまだニーズはあると思われます。
出会った人たちの中には、足をけがしたまま、医療を受けられず、壊疽をおこしかけている人も。
活動拠点となる予定の「TAPDICO」の事務所が、政府からの借用物件で、
ずっと利用できる保証がないので、TAPDICOは、新事務所への移転を計画中です。
・土地:CCA(Canadian Co-operative Association:カナダ協同組合) の資金により、郊外の土地10,000㎡(150万ペソ(約340万円相当)を購入し、現在、土地の認証手続き中です。
事務所、事業である椅子等の作製所、メンバーの住居を併せて建設する予定。
・事務所:CBM(キリスト教系の視覚障害者支援NGO)の資金により建設するが、作製所の建設にかかる80万ペソ(約180万円)、また整地、電気・水道工事にかかる50万ペソ(約110万円)の資金を得られていない。
調査団は事務所移転に対する日本側の支援の実現可能性を検討すべく移転予定地を視察したが・・・。
移転予定地は、中心部から車で30分程の郊外にあり、周辺は草地が広がる未開墾地であり、事務所建設までには相当の時間がかかると考えられる・・・。
といった状況です。
資金については、支援Tシャツを作り、日本で販売するなどの予定もあります。
海外支援の経験もあるNPO、NGOとの協働も必要になっていきます。
長期的な支援が必要であることはまちがいありません。
まず、忘れないこと。
東日本大震災の復興もままならぬ状況の中、できることから支援し続けていけたらと考えています。

フィリピン台風30号被害・現地視察について①

先の台風で甚大な被害を被ったフィリピンに、
ゆめ風基金の馬垣理事、
社会福祉法人AJU自立の家:小倉さん、
障害と開発コンサルタント(D-knowledge代表):千葉さん、
フランシスコ会神父、PSFADC(フィリピン聖フランシスコ・デフ・センター) 代表:佐藤さん、
特定非営利活動法人DPI日本会議事務局員:堀場さんが、2014年2月2日から同年2月8日まで現地調査に行ってきました。
大変遅くなりましたが、そのご報告をさせて頂きます。
なお、詳細な報告書は、DPI日本会議のホームページにも記載されています。
被災地が海外ということもあり、どのような様子か、行ってみないとわからないというのが大きく、
風習の違いや障害者福祉への施策の違いなど、もろもろの異なる文化を持つ国。
相手に寄り添った支援をすることが大事ですが、それが長期になることが充分予想されます。
視察の目的は、前回2013年12月の第一次視察ではつかみきれなかった、当事者の現状把握はもちろん、
日本と現地を結ぶ助けをしてくれる当事者団体を見つけ、緊密なミーティングを行うことなど、です。
それによって、障害者の情報を収集し、「支援するもの」は何か、が見えてきます。
今回は、タクロバン市の当事者団体であるTAPDICO(Tacloban Persons with Disabilities Cooperative:タクロバン障害者組合)を現地活動拠点とし、同市内での福祉機器ニーズを含む障害者情報の収集を行いました。
調査の結果、以下の結論に達しました。
●視察後、馬垣理事とDPI日本会議は、今回のフィリピン台風被災障害者支援をゆめ風基金と協働して行うことを決定しました。
●活動拠点となる当事者団体との連携が可能と思われることから、支援対象となる地域は、レイテ島の中心都市であり被害が甚大であるタクロバン市とします。
また支援金が持続的に被災地の障害者の生活環境の復興に役立つよう、支援方針を以下の2点に絞る。
①当事者組織の拠点整備(事務所の改修、備品購入等)。
②(車椅子を含む)福祉機器の提供。
3ケ月経った今の様子をまず写真でご覧ください。

(陸に打ち上げられたまま放置されている船。右に小さく映っている車と大きさを比べてみてください。かなりの大きさです)

(風で折れ曲がった標識)

右手奥に見えるテントは、支援に入っているNGOなどのテント。現地の人たちは、バラックのようなところで生活)

(下水など復旧しておらず、集落になっているところから溝を作り、垂れ流している。衛生面でも不安が・・・)
以下、DPIの報告書より抜粋します。
1)電気、水道
電信柱が各所で傾き、倒れており、電力供給は部分的に復旧していると聞いたが、大部分はジェネレーター使用によるものと考えられる。
中心部を外れると日没後は極めて暗い。
また避難所や貧困家庭では、支給されたと思われるソーラー発電の懐中電灯の使用が散見された。
水道は普及しておらず、各家庭には大小のタンク、バケツが置かれており井戸や避難所の供給に頼っている。 
2)交通インフラ
街の中心部は舗装が行き届いており、道路の被害は僅少であるように見られた。
ジムニー(乗合バス)、トライシクル(サイドカー付バイク)など交通量は多く、また被災後に入ったと思われる新車のハイエース、ハイラックスやフォードのSUV車等も多く見られた。
バランガイ( 同国の最小行政単位)の警官が交通整理に当たっていた。
3)住宅
海岸に近い家ほど高潮により損壊が激しい。
内陸の家は強風により(最大瞬間風速は105mとされる)屋根が飛ばされているケースが多く見られた。
住民は部分的に壊れた家屋を自力で補修、または放置して住み続けている。
建築用の木材が街の各所で積まれている。
また、各所で国連機関や海外NGOにより仮設住宅が建設されている。
コンべンション・セターの敷地内や海岸近くにはUNICEFやUNHCRによる仮設テントが設置されている。
5)救援活動
ア)現地政府による救援活動
訪問した市政府の担当者によると、被災前には約800名の障害者が登録されていたが、高潮によりデータを紛失した。
現在約100名のリストを作成している。
災害前には家具作製等の事業に対しローン提供を行っていたが、現在は行っていない。
同国の中央政府における障害者政策はDSWD (Department of Social Welfare and Development:社会福祉・開発省)が担っているが、地方分権が強い同国においては市政府の下に置かれるPSWD(the Philippines Social Welfares Development:社会福祉開発室)が州単位で障害者フォーカル・パーソンを設置し、障害者のリストを作成している。しかし障害者に対する行政支援は特には確認できなかった。
イ)海外からの救援活動
街の各所で支援機関の看板や旗が見られた。
確認できたのは赤十字、Caritas、USAID、セーブ・ザ・チルドレン、UNDP、UNICEF、UNHCR、OXFAM、HANDICAP International、CRS(カトリック救援事業会)等である。
UNDPによるキャッシュ・フォー・ワーク[被災者を復興事業に雇って賃金を支払い、被災地の経済復興と被災者の自立支援につなげる手法]と思われる瓦礫除去なども確認できた。
市のソーシャルワーカーによれば、避難所となっているコンベンション・センターでは12名の障害者が生活しており、HANDICAP Internationalが福祉機器を提供しているということだったが、TAPDICOが把握していた高齢の女性(表2 27番)は車椅子を有していなかった。
②に続きます~

募金を届けに来てくれました!

3月14日
ゆめ風基金の事務所がある近くの、啓発小学校と中島中学校の生徒さんが
募金を届けに来てくれました。
140317_生徒会・児童会4
ジャージ姿のお姉さんと、ランドセルをカタコト揺らして制服姿の男の子。
140317_生徒会・児童会2
紙袋いっぱいに集まった、とても重たい募金を手渡ししてもらい、ゆめ風スタッフ一同は、ジーンときました。
この子たち・・・19年前の阪神淡路大震災の時には、生まれていなかったんですね。
でも、懸命に想像力を働かせて、東日本大震災のことも忘れず、自分たちにできることを考えてくれました。
復興が進まず、今も制約された生活を強いられいる人がいることを、身じろぎひとつせずに、聞いてくれました。
ほんとうにありがとう。
この子達の思いに恥じることがないよう、
今日も明日も
だれかの少しの笑顔のために、私達は、歩み続けます。

事務局員・福本千夏のちょっと行ってきました!

行ってきました!のご報告です!
3月1日土曜日、大阪市内の毎日新聞オーバルホールにて、
「NHKハートフォーラム」が行われました。
テーマは「東日本大震災 そのとき高齢者・障害者は・・・」です。
パネリストは、(敬称略)
青田 由幸(あおた よしゆき)NPO法人さぽーとセンターぴあ 代表理事
蟻坂 隆 (ありさか たかし)宮城県石巻市八幡町 民生委員・児童委員
八幡 隆司(やはた たかし)NPO法人ゆめ風基金 理事
立木 茂雄(たつき しげお)同志社大学社会学部 教授司会  
司会はテレビでおなじみの町永 俊雄(まちなが としお:福祉ジャーナリスト)。 
被災直後や避難所で障害者は、どんな状況に置かれたのか?
障害者に寄り添い、支援をし続けている5名の方々が、とてもわかりやすく話されました。
会場には、福祉関係・防災関係・行政関係など幅広い業種・年齢の方々が参加されました。
もともと支援が少ない日常の中で、障害者が災害にあったら・・・が、議論のスタートでした。
以下、福本の記憶からメモをお届けします!
まず、障害者は逃げるのが困難である。
避難の時には道の状況がいつもと全く違うので、歩行が困難になる。
車いすでの座位が取れなくなる。
遭遇したことがない状態の中での判断も難しい・・・。
行政も町のすべてのシステムも、すべて破壊して起動しない状態から考えるのが、防災である。
そこで、大事になるのが、地域のつながりなんだけど、普段からつながりがないものは災害時にも当然ない。
次に、なんとか避難所にたどり着いても・・・
まずはトイレが使えない。
物資ひとつ、動けない人は取りにいけないので、回ってこなかったり・・。
避難所で体調を崩して、命が危機にさらされていく障害者が数多くいたこと。
弱いもののことを考えると、平等性がなくなる。
集団生活なんだから・・・とよく言われるんだけど、みんなで話し合って公正に世の中にしていかないと。
そう!
言いたかったことはそこなんだ!
公正というのは、互いの立場を想像するという、とても難しいことで、一人一人が勝ち取るものなんです。
でも、そこから、あるべき福祉や社会の姿が見えてくると思うんです。
これからは、いつなんどきもすべての者が生きていく権利がある「生きる覚悟を持つ」という受援力を持っていただきたい。
という力強い言葉でしめくくられたフォーラムに感動しました。

ヒデの救援レポート 2014年3月17日№153

●3月15日、hideが事務局長をしている「箕面市人権啓発推進協議会」が、昨秋の義援ツアーの時にお世話になったNPO法人「つながっぺ南相馬」の代表理事の今野由喜さんをお招きして、学習会を開催しました。
●事務所兼自宅、福島県南相馬市桜井町1丁目173-1-1号
今野さんは、大震災の時に、自宅を津波で流され、ご自身も自動車を運転中に津波で流され、九死に一生で生還されました。
経験に裏打ちされたお話は、ズシンと響き、現実の日毎を原発事故の放射能と向き合っておられます。
約50名の参加者に深い感銘を与える勉強会になりました。
各地でも、このような勉強会が開かれれば、「つながり」が広がると思います。
ぜひ御一考を!


●豊能障害者労働センター機関誌「積み木」№246号より転載
連絡先 TEL 072-724-0324 FAX 072-724-2395
「保養キャンプのボランティアを通じて}
昨年、福島県の子どもたちを一定期間関西に招き、心身の疲れを癒やす取り組みの中で、実際にボランティアスタッフとして関わっておられる「西竜也さん」(常盤会学園大学生)に現場でのことを綴っていただきます。
初めて保養キャンプに参加したのは2013年の春でした。
宇野田さんの紹介で、「びわこ星印1・2・3キャンプ」という滋賀県で行われている保養キャンプに参加させていただきました。
保育ボランティアとして参加したのですが、最初はすごく不安で被災した子どもとどう関わればいいのだろうと悩んでいました。
でも、実際に関わってみると、どの子も明るくて笑顔が素敵な子ばかりでした。
少し考え過ぎていた部分があったなと反省して、それからはあまり考え過ぎずに自分らしく関わっていこうと決めました。
2013年の夏に、自分が未熟だと感じた出来事がありました。
和歌山県で大きな地震があったと誤報があり大人が少し慌ててしまい、その様子を見ていた子どもが不安がり、泣いていた子もいました。
しばらくして誤報ということが分かり一安心したのですが、しっかりしないといけない立場の僕が慌ててしまい、子どもを不安がらせてしまって本当に申し訳ないことをしたなという思いでいっぱいになりました。
また考え過ぎないことを理由に被災した子どもへの配慮が足りなかったことを痛感しました。
この出来事は原点に戻り気を引き締めるきっかけにもなりました。
2013年の冬のキャンプでは、大晦日ということでいつもは見ないテレビを見ました。
子どもたちは大盛り上がりで紅白歌合戦を見ていました。
しかし、見ているうちに震災のことを取り上げた映像が出てきてしまいました。
僕が他のスタッフと消すかどうか相談している時に、二本松から来ている小学6年生のRちゃんが『震災のことを思い出す子がいるかもしれないから消そう』と僕に伝えてきました。
その一言が決め手で僕はテレビを一旦消しました。
子どもたちからは大ブーイングでしたが、Rちゃんがみんなをなだめてくれました。
それは明るくて天真爛漫なRちゃんがいつもは見せない一面でした。
自分がというよりは、他の子を思いやっての行動だったので印象的に覚えています。
保養キャンプは環境面だけではなく、食事面からも子どものことを考え作られています。
選りすぐりの食材を使い、より体に良いものを、よりおいしいものを手間暇かけて作られていて、子どもだけではなく保護者の方や僕らボランティアスタッフにとっても嬉しい食事ばかりです。
横浜から来ているAちゃんは魚料理が出たときにすごく喜んでいました。
理由を聞くと、家の方では大丈夫な魚が少ないから滅多に食べられないとのことでした。
また郡山から来ているKちゃんは、お土産を買うために地元で作られた野菜などが売ってあるお店にみんなで行った時に、夢中で野菜などを家で待っているお母さんのために買っていて、自分のための買い物はしたのかなと思うぐらいでした。
自分では持ちきれないほどの荷物で、お母さんのためにという思いが本当に伝わってきました。
子どもたちにとって食材や食事がどれだけ大切か痛感し、子どももそのことを十分理解しているんだなと感じました。
保養キャンプは子どもたちにとってすごく大切なものですけど、始まりがあれば終わりもあって、子どもたちが帰るときは本当につらい見送りです。
地元での生活も大切であり簡単に避難出来ない事情もありますが、子どもの健康を考えると、より放射線量の低い場所へ避難してほしいなという気持ちが強くあります。
なので、保養キャンプが終わるときはお別れが寂しいものもあり、子どもたちに何もしてあげられない自分の不甲斐なさが悔しくて仕方がない時でもあります。
自分に何が出来るのか……。
その答えを見つけるのは難しいですが、探すのを諦めたくはありません。
諦めた時点で子どもたちを見捨てたことになると思うからです。
今の僕にできることは本当にちっぽけです。
どれだけ考えていても実際に行動に移せる力は僕にはありません。
それでも出来ることをしたいという気持ちで保養キャンプに参加しています。
多くの子どもと出会い、楽しい事ばかりで、自分にとっても学ぶ事が多くあり、保養キャンプはボランティアにとっても良い場所です。
保育ボランティアとしてただ遊ぶだけではなく、もちろん遊びは大切で、僕らにとっても子どもにとっても楽しい保養キャンプですが、保養キャンプの目的が保養であるように僕ら保育ボランティアには子どもたちが元気に過ごし、傷ついた気持ちを癒すことの心のケアの役割も担っていると思っています。
その役割を大切にして、子どもたちの笑顔を守りたい、保養キャンプに来ている時ぐらいは震災のことを忘れて過ごしてもらいたいという思いで子どもと関わっています。
僕らのボランティアサークルとしても、できることはやっていきたいという決意で、保養キャンプに参加したことがない子が参加できるように、保養キャンプの団体への寄付だったり、保養キャンプの広報だったり出来ることには全力で取り組んでいけたらなと思います。
以上
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
これまで届けた救援金
301,261,224円(2014年2月28日現在)
内・東日本大震災救援金総額
255,252,139円(2014年2月28日現在)
ただいまの基金残高
238,331,044円(2013年12月末日現在)
このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。
広く知ってもらいたいので、転送自由。
自由にお使いください。
息の長い救援が求められています。
長期戦です。
救援金の送り先は、
郵便振替口座:00980-7-40043 ゆめ風基金です。
とうほくと書いてください。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
東日本大震災救援活動の中のボクの風景
「吾亦紅」と名付けられた植物は、小さな赤い花をつけます。
大輪の紅薔薇のようにではなく、ひっそりと。大きな声、叫び。
大勢の群集の権利要求、強い権力ではなく、小さく、ひっそりと。
しかし、その大勢の人たちと同じように、わたしにも、赤い血潮がしっかと流れているんだぞと、「われも、また、赤い『吾亦紅』と咲くのです。
以上

振込用紙のコメントご紹介♪

今日は大雨。
昨日はあんなにあたたかい日差しが降り注いでいたのに・・・。
震災から4年目、各局の番組は、震災一色でした。
やはり見入ってしまいます。
報道されないところにも、きちんと思いを巡らし続けたいと思います。
さっそく振込用紙のコメントをご紹介いたします。
◆牧口一二様の記事は、わかりやすく感激いたしました。「てんでんこ」を、書展の作品にさせていただきます。(神奈川県藤沢市)
◆寒いけど、気持ちは明るく温かくを、モットーにしてます。(埼玉県越谷市)
◆釜石小学校の校歌は、本当にすばらしいですね。子供だけではなく、大人のためにも生きるための知恵が詰まった歌ですね。(兵庫県加古川市)
◆永六輔様―ラジオがFMしか入らず、しばらくお声を聴いていず淋しいです。毎日お健やかにご活躍をお祈りさせていただきます。(神奈川県鎌倉市)
◆これ以上、経済成長せずとも、生きていける世の中を取り戻したいと思います。脱原発を、ぜひ早く実現させましょう。(長野県佐久市)
◆店で一週間、バザーを開きました。多くのお客様と、気持ちのこもった時間の中、大切に使ってほしいなと・・・。(さいたま市)
◆自分にできることを、一つ一つできる時にしていきたいです。(東京都世田谷区)
◆高齢者の二人暮らしで、ボランティアに伺うことはできませんが、忘れずに応援しています。(神奈川県足柄下郡)
◆ラジオで永さんが年に1000円でも・・・と呼びかけに「それなら出来る!」。貧者の一灯です。(栃木県足利市)
◆お向かいの梅の花が3輪咲きました。送金の月です。(愛知県名古屋市)
◆もう3年なのに!!何時かのための軍事予算はいらない。今の人々のために税金を使ってほしい。貴基金の活動に感謝。(北海道河東郡)
◆春までもう少しですね。みなさん、お元気で過ごされますように。(北海道北見市)
◆思い出した時に、ポツリポツリと。ささやかペースで。(大阪府堺市)
◆今年こそ災害がなきように願っていましたが、記録的な大雪で・・・(茨城県土浦市)
◆NHKラジオ深夜便で、東北のパン屋さんに、ゆめ風基金が役に立っていることを知り、嬉しかったです。(東京都世田谷区)
◆去年一年は母の介護に手を取られていました。母も少しずつ回復し、私も余裕が出てきました。ゆめ風さんの息の長い活動に敬服。(神奈川県藤沢市)
◆自分では何もできないので、生かしたお金の使い方をしているゆめ風さんに(千葉県箕香取市)
◆3年経ちました。あの時の映像を見ると、ただ、ただ茫然!原発も気になります。できる事をしていかねばなりませんね。御活動を支援いたします。(東京都荒川区)
◆ほんの少しですが、お役に立てましたら幸です。助けがほしい人の多いことに、母を見ていて、気付かされます。(大阪府三島郡)
◆弱者が切り捨てられる戦時体制への歩みにNO!と言い続けたいです。(東京都世田谷区)
おひとりおひとりの思いがぎっしり書かれた振込用紙。
被災地にも伝えつつ、私たちも忘れずに・・・。

3.11~ 震災から3年 変わらぬ被災地の中で

東日本大震災から3年が過ぎ、4年目に入りました。
阪神大震災の時は、翌年から住宅が建ち始め、かなりの人たちが自力で再建していたころです。
県や市が建設する復興住宅にしても3年目で96%が完成していました。
ところが、東日本大震災で被災したほとんどの地域は、時が止まったまま何も変わっていないように思います。
岩手県でいえば、釜石や陸前高田では重機が目まぐるしく動いている様子が見られますが、その他のところでは重機もまともに動いていません。

(陸前高田の元の市街地。 かさ上げも何も進んでいない。まるで時が止まったよう)
写真
(岩手県山田町の今。がれきがまだ積み上げられているところも。津波で住宅が流され、家の土台だけが残ったまま。)
がれきの撤去が終わった後は道路づくりこそわずかに進んでいますが、住宅建設が全く進んでいないのです。
3月末までに建つ復興住宅が、計画値のわずか6.7%という数字が復興の遅れを物語っています。
宮古市をはじめ住宅建設の遅れている町では、今年度末で1軒の住宅完成もありません。
また、緊急支援で訪れたボランティアは、次々と撤退し、今は県外から常時応援に来ているボランティアはほとんどいません。ほとんどが地元民を中心とする支援団体に切りかわっていますが、そこに対する支援金がだんだんなくなり、
支援活動が尻すぼみになっているのではと危惧します。
岩手、宮城はそれでも復興途上と言えますが、福島は現在も被災が進行していると言わざるをえません。
昨年末の段階で震災関連死が、震災による直接死を上回ってしまいました。
復興住宅建設もいまだゼロ。
福島では若いヘルパーが他の県へ避難し、ヘルパー派遣がうまく回らず、ヘルパー派遣事業所が大赤字になっているといいます。
仮設住宅は、もともと短期・大量に建てられ、職人不足であったため、天井に隙間があって、その隙間をセロハンテープで埋めているようなありさま。
冬に暖房をすると結露がひどく、床が湿気てカビが大量に発生します。
どの県でも修理や補修の苦情が後を絶たない状態です。
ドアは凍って冬に外出すると戸が開かないなどの苦情もあります。
それでなくても壁は薄く、プライバシーが保てない仮設住宅。
このような仮設住宅に、あと何年居続けなければならないのかと住民の不安は高まっています。
そのような中、財政力のある人たちは、山手や内陸の物件を購入し引っ越していきます。
仮設住宅の高齢化率がどんどん高くなっていきます。
車を持たない高齢者、とりわけ何らかの支援が必要な人たちは満足にバスにも乗れず、移動支援が必要な状態です。
ただ、移動支援も短期的なものに終わるのではなく、高台移転ということで復興住宅に入れても何ら問題が解決に向かうわけではありません。
まちの小さなお店がつぶれて大型の量販店がどんどん進出してきている状況を見れば、移動支援が恒久的な問題になってきたと感じます。
沿岸部はもともと産業が少なく人口流出が続いてきたわけですから、今回の災害で、そのことに拍車がかかったということもまちの再興に大きな影を落としています。
神戸阪神間は、一時、人口が減ってもまた元に戻りましたが、沿岸部では高校を卒業した若者が働く場所がなく、
どんどん街を離れていくのです。
沿岸部のまちで仮設住宅に入れず、内陸の仮設住宅に 入った人たちの半数近くがもう自分の住み慣れた街ではなく、今住んでいる街での定住を求めています。
ただ、こうなってくると山間部の復興住宅建設計画にも影響が出てきます。
意向調査のたびに入居希望者の数が変わり、町として建設計画を確定できなくなるからです。
建設後に空き室が多いと、家賃収入と国からの補助金が減り、市町村の負担が大きくなる問題もでてきます。
ただ、被災者の意向調査を繰り返しても、入居者数と建設戸数を完全に一致させるのはそもそも無理があり、
ある程度の余裕を見込み、建設に踏みだすしかないといえます。
このように、「まちの復興」にはまだまだ課題が数多くあるといえます。
そのような中、ゆめ風基金では、移動送迎支援活動を応援すること、被災地において、障害者の活動拠点を作ろう、
活動を続けようとする拠点を支援すること、また福島への息の長い支援を続けていくことを念頭に被災地支援を行っています。
「本当の復興は、障害者が肩身広く生きていけるまちを作ること」
牧口代表の言葉です。
これを胸に刻んで復興支援を応援していきます。
 
                
2014年3月11日   ゆめ風基金一同