東日本大震災から3年が過ぎ、4年目に入りました。
阪神大震災の時は、翌年から住宅が建ち始め、かなりの人たちが自力で再建していたころです。
県や市が建設する復興住宅にしても3年目で96%が完成していました。
ところが、東日本大震災で被災したほとんどの地域は、時が止まったまま何も変わっていないように思います。
岩手県でいえば、釜石や陸前高田では重機が目まぐるしく動いている様子が見られますが、その他のところでは重機もまともに動いていません。
(陸前高田の元の市街地。 かさ上げも何も進んでいない。まるで時が止まったよう)
(岩手県山田町の今。がれきがまだ積み上げられているところも。津波で住宅が流され、家の土台だけが残ったまま。)
がれきの撤去が終わった後は道路づくりこそわずかに進んでいますが、住宅建設が全く進んでいないのです。
3月末までに建つ復興住宅が、計画値のわずか6.7%という数字が復興の遅れを物語っています。
宮古市をはじめ住宅建設の遅れている町では、今年度末で1軒の住宅完成もありません。
また、緊急支援で訪れたボランティアは、次々と撤退し、今は県外から常時応援に来ているボランティアはほとんどいません。ほとんどが地元民を中心とする支援団体に切りかわっていますが、そこに対する支援金がだんだんなくなり、
支援活動が尻すぼみになっているのではと危惧します。
岩手、宮城はそれでも復興途上と言えますが、福島は現在も被災が進行していると言わざるをえません。
昨年末の段階で震災関連死が、震災による直接死を上回ってしまいました。
復興住宅建設もいまだゼロ。
福島では若いヘルパーが他の県へ避難し、ヘルパー派遣がうまく回らず、ヘルパー派遣事業所が大赤字になっているといいます。
仮設住宅は、もともと短期・大量に建てられ、職人不足であったため、天井に隙間があって、その隙間をセロハンテープで埋めているようなありさま。
冬に暖房をすると結露がひどく、床が湿気てカビが大量に発生します。
どの県でも修理や補修の苦情が後を絶たない状態です。
ドアは凍って冬に外出すると戸が開かないなどの苦情もあります。
それでなくても壁は薄く、プライバシーが保てない仮設住宅。
このような仮設住宅に、あと何年居続けなければならないのかと住民の不安は高まっています。
そのような中、財政力のある人たちは、山手や内陸の物件を購入し引っ越していきます。
仮設住宅の高齢化率がどんどん高くなっていきます。
車を持たない高齢者、とりわけ何らかの支援が必要な人たちは満足にバスにも乗れず、移動支援が必要な状態です。
ただ、移動支援も短期的なものに終わるのではなく、高台移転ということで復興住宅に入れても何ら問題が解決に向かうわけではありません。
まちの小さなお店がつぶれて大型の量販店がどんどん進出してきている状況を見れば、移動支援が恒久的な問題になってきたと感じます。
沿岸部はもともと産業が少なく人口流出が続いてきたわけですから、今回の災害で、そのことに拍車がかかったということもまちの再興に大きな影を落としています。
神戸阪神間は、一時、人口が減ってもまた元に戻りましたが、沿岸部では高校を卒業した若者が働く場所がなく、
どんどん街を離れていくのです。
沿岸部のまちで仮設住宅に入れず、内陸の仮設住宅に 入った人たちの半数近くがもう自分の住み慣れた街ではなく、今住んでいる街での定住を求めています。
ただ、こうなってくると山間部の復興住宅建設計画にも影響が出てきます。
意向調査のたびに入居希望者の数が変わり、町として建設計画を確定できなくなるからです。
建設後に空き室が多いと、家賃収入と国からの補助金が減り、市町村の負担が大きくなる問題もでてきます。
ただ、被災者の意向調査を繰り返しても、入居者数と建設戸数を完全に一致させるのはそもそも無理があり、
ある程度の余裕を見込み、建設に踏みだすしかないといえます。
このように、「まちの復興」にはまだまだ課題が数多くあるといえます。
そのような中、ゆめ風基金では、移動送迎支援活動を応援すること、被災地において、障害者の活動拠点を作ろう、
活動を続けようとする拠点を支援すること、また福島への息の長い支援を続けていくことを念頭に被災地支援を行っています。
「本当の復興は、障害者が肩身広く生きていけるまちを作ること」
牧口代表の言葉です。
これを胸に刻んで復興支援を応援していきます。
2014年3月11日 ゆめ風基金一同