7月22日 第6回救援本部会議を開きます。

第6回救援本部会議を開きます。
地震発生から3ヶ月を過ぎ、被災地では岩手、宮城、福島の3つの拠点に加えて、より沿岸部の近くで活動できるように岩手に1つ、宮城に2つの拠点をつくりました。
一般的にも避難所から仮説住宅へと重点が移動しているのに呼応する形で、障害者の状況は安否確認から仮設住宅でのサポートまでとより複雑になり、支援のあり方もある程度中期的なスタンスも視野に入れた継続的な支援も課題となってきています。
第6回目となる今回の救援本部会議では、継続的な支援についても議論したいと思います。
みなさんのご参加をお待ちしています。
 日時/ 7月22日(金)6時半~
 会場/パーティパーティ(地下鉄大国町からすぐ)
    大阪市浪速区敷津東3-6-10 TEL・FAX  06-6649-0455
 内容/ 1.被災地報告
     2.東京本部、街頭募金ほかの動き報告
     3.11月イベントについて
      そのほか 目白押し。

いよいよ今週土曜日街頭募金

今週土曜日6月25日、第7回目の街頭募金活動を行います。
午後1時から午後5時まで、場所は大阪なんば高島屋前です。
みなさんのご参加をよろしくお願いします。

ヒデの救援レポート、6月20日

ヒデの救援レポート、6月20日:25
被災障害者支援ゆめ風基金に寄せられた救援金、金額は、訂正あり。6月11日までに、150834097円。6月15日までに、152530242円です。これまでに支援した団体、個人への金額。6月10日までに、被災地障害者センター東北3県統括本部に救援活動資金として、計52314600円を支援しました。
このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌そよ風のように街に出よう編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。広く知ってもらいたいので、転送自由。自由にお使いください。
息の長い救援が求められています。長期戦です。救援金の送り先は、郵便振替口座00980-7-40043ゆめ風基金です。;とうほく;と書いてください。
東日本大震災救援活動の中のボクの風景
東京の救援活動の風景東北関東大震災被災障害者救援本部・代表・中西正司さんのメッセージ
 このたびの一連の東日本大震災に際しまして、亡くなられた多数のご冥福を祈念し謹んでお悔やみ申し上げますとともに、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
 この地震、津波の天災に加え、更に追い討ちをかける原発事故災害により、正に未曽有の大災害に見舞われた東日本一帯において、その渦中にいる方々は、ちゃんと避難できているのか、避難所で暮らせているのか、私たちは同じ障害のある仲間として、また支援者として心が痛む日々を過ごしています。
 主旨・私たちは今回の大災害で被災された方々に対して、早急にかつ継続的に必要な支援をすべく、多方面の支援団体の協力のもと東北関東大震災被災障害者救援本部を3月17日に立ち上げました。そして、その各団体の支援経験やネットワークを活かし有効な活動を展開していこうと考えています。家の倒壊等で避難生活をしている方のニーズ、自宅に留まることをよぎなくされた方のニーズ、障害を持っている方のニーズなど、この多様なニーズに私たちはできる限りの支援に全力を尽くしていこうと考えています。
 そして、この救援本部の活動が東北地方のインクルーシブな社会の実現の一端を担うことを願っています。被災地の方々の思いを聞いていく中で、救援本部が今できることはということに直面していますが、私たちが今できることは被災地の方々の意向を尊重し、それに寄り添っていくことであると考えています。
 救援本部のこれまでの活動・救援本部は東日本大震災直後に設立されました。震災直後は、現地の方々と連絡がとれない状況にありましたが、通信網が復旧すると被災地から必要な物資の依頼が続々と届きました。大震災から約1ケ月間は、物資の調達や発送に追われる日々が続き、その間にいわき市の障害者団体の方々の避難受け入れ、ボランティア活動が出来る方の募集と調整、被災地での情報収集、各避難所での聞き取り調査など出来る限りのことをやってきました。
 その後、宮城県、福島県、岩手県の順番で被災地障害者センターが立ち上がり、その各センターの後方支援が活動の中心に変わっていきました。現在、被災地への物資の流通が整ったかのように見えますが、まだ被災地では手に入りにくいものがたくさんあります。
 皆様からの支援募金の使い方・救援本部設置から約2ケ月間、関係団体、NPを見られた方などからたくさんの支援募金をいただきました。その支援募金は、各被災地障害者センターの活動資金、被災者が必要とする物資の購入や移送費などに使わせて頂いております。
 救援本部では、今後も引き続き物資の提供をすると共に、今後は、ヘルパー研修講座の開催、被災障害者のエンパワメントのための当事者ボランティア・ピアカウンセラーの派遣事業なども計画中です。今後とも皆様からの息の長いご支援を賜りますようお願い申し上げます。これまでに購入した物資を一部ですがご紹介させて頂きたいと思います。
軽自動車・移送用リフトカー・電動アシスト自転車・ポーダブルトイレ・使い捨て介護シーツ・インバータ・布団一式・折り畳み式ベッド・紙オムツ、など。
大阪府寝屋川市の義務教育における医療的ケアを考える会通信からの抜粋
 東日本大震災については、被害のあまりの大きさに多くを語ることができません。被災された方々には心よりお見舞い申し上げるばかりです。医療的ケアについてのみいえば、医療機器に頼っているものにとって、停電が命に関わるというばかりでなく、その電力が、少なくない部分を原発という恐ろしいモノに依存しているということについて、改めて思いを馳せることとなりました。
 大勢の方が様々な救援活動をされていますが、ここでは、NPO法人ゆめ風基金の活動をご紹介します。この基金は、阪神淡路大震災を機に地震などで被災した障害者を支援する団体。全国の障害者運動と永六輔さん、小室等さんはじめ各界の多数の方々を呼びかけ人とし、自然災害の被災障害者への救援・支援をつづけてきました。外国の災害に際してもいち早く行動していましたが、今回の震災ではネットワークを駆使して全力で取り組んでいます。
 これまでの基金2億円に加え、3月11日以後5月末までに、同基金に寄せられた救援金は1億5千万円を超え、すべてをそっくりそのまま被災地の障害者・児に活用するとのことで、息の長い救援活動をめざしています。問い合わせ先ゆめ風基金。詳しくはHPを。
 ゆめ風基金の事務所に、11年前からの会員である、宮城県の女性からお便りが届きました。この方には、ゆめ風通信や、安否確認のハガキなどを送っていたのですが、所在不明がスタンプされて返送されてくるのです。どうしたのかなぁと心配していたのですが、その方からのお便りで、短い文面で、家が東日本大震災の津波で流されてしまいましたが、いのちは無事でした。通信物は、新しい住所に送ってください。例年通り、会費、救援金を送ります。とありました。ボクは、絶句してしまいました。ご自身が被災者なのに、他者の身を案ずる、その心の豊かさと、美しさにです。涙が一滴、二滴、零れ落ちました。こんなひとも確かにいるんだ。にんげんの希望も確かにあると。
 以前にも書きましたが、ゆめ風基金事務所の前の並木の根元には、ご近所の方が作ったのであろう、小さな花壇があります。今は、ミニ薔薇の季節も終わり、一輪の小さな百合のような花が可憐に咲き、多分、水仙の一種かな?風にラッパを揺らせている。
 あまりに綺麗なので、事務所内にいた、被災地から帰り着いたばかりの南理事を呼び寄せると、南さんが名も知れぬその花を見ながら、「宮城県の沿岸部を少し走ったけれど、ヘドロと、ガレキが高く積み上げられた、道路際の土のところに、雑草が芽を出し、根を張り始めているのを見つけた。海水に浸かり、粉塵まみれのドロドロの土地に、すざましい匂いの中で、新しい芽がね。いのちって、とても強いんだなぁと想った」と。
そして、東の空に遠く視線を放ったのでした。
 産経新聞の記者が来所されて、取材された記事が、6月9日に、5段・事務所風景の写真付きで、比較的に大きく掲載、報道されました。以上

被災地障がい者センターいわてのブログから

6月18日
釜石に行ってきました。
釜石は昨年9月に63メートルの防波堤を完成させたばかりだったとのことでしたが、すごい状況でした。大槌で見たときは、水の勢いで建物の1階部分が流されてしまって、2階だけ残っているような状態の建物が多かったのですが、釜石では泥水に浸った感じというのでしょうか…。
陸前高田に行くと水の勢いで全て流されてしまった状態だそうです。津波の状況によって、被害の形も違ってくるのでしょうね。釜石も防波堤がなかったら……
大きな通りはきれいにされているのですが、路地に入ると流された残骸がいっぱいです。
赤字で×印が大きく書かれた家…解体が決まっているものと思います。
×印の隣に大きく「ありがとう」の字…
釜石の被災されたお宅へお邪魔して、家の中の物の整理を手伝わせていただきました。
3階建てのお宅で、2階まで海水に浸かったそうです。2階の戸棚の一番下の引き戸が開かず、壊して空けると、100日経った今日、海水を含んでぬれた手ぬぐいが出てきました。
お母様の形見の着物も泥がかぶってだめになりまた。
仮設住宅に入居が決まっているので、仮設に持っていってくものを選別して仮設住宅に運びました。
仮設住宅に着くと救援物資が運ばれていましたが、まな板があるけど包丁がなかったり、タオル類など重複して運ばれていて、あるもはあるのにないものはない… なぜかはさみが4本も… コップがない…
大方そろっているけど、ちょっとした不足がまだまだいっぱい…
仮設住宅にガスの点検がきました。一通り説明を受けて、代金は口座から引き落としになるとの説明…
避難所ではかからなかった生活費が、仮設に入るとどんとのしかかってくる…
食事も出ないから、買い物もしなければならない。
お金もかかるし、お店もあまり開店していない…
そんな中でも再開した食べ物やさん、商店、お肉屋さん…がんばって欲しいです。
生協さんの宅配も始まるそうです。
明日、北海道に帰るのですが、時間があったら、被災地の美容室で髪を切って帰りたかったなぁ…
にゅうせんどうのおいしい牛乳、お米、海産物、おいしいものも、豊かな自然もいっぱい…
今度は家族旅行で東北に来ます。そして、元気になっていく東北を応援したい
H・M

被災地障がい者センターいわてのブログから

6月17日
はじめての現地周り
 釜石、大槌町、宮古、田野畑村とまわってきました。
まだまだ瓦礫の山が残っているところ、店舗用の大きな冷蔵庫がひん曲がったシャッターから飛び出したままのところ、「解体OK」と大きく赤字でかかれた半壊の家がまだまだ残っている状態ですが、地震直後からみると8割、9割片付いている状態だそうです。
 大槌町でガソリンを補給。スタンドの建物が何もなくなって、地下タンクのガソリンを自転車をこぐことでポンプが作動して給油される緊急用のスタンドです。私も自転車をこがせてもらいました。
写真を載せたかったのですが、やり方がわからなくて…ごめんなさい。
 そこのスタンドのおじさんがとっても素敵な人でした。笑顔で地震の時の状況をはなされて「1000年に一度の地震にあえて、ほんとラッキーだったよ!俺なんて、津波の中泳いでたもんね!」
「……そうだったんですか…」と驚く私に「ははは!うそだよ!泳げるはずないじゃない」と笑っていました。
なんだろう…ただの面白いおじさんじゃなく、そこにとてつもない大きなエネルギーとやさしさと…たくさんのあったかいパワーを感じて、うまく表現できないのですが、こういうおじさんがいれば、きっと大丈夫と思いました。
 大槌町のさんずろ屋さんで昼食をとりました。素晴らしい景色を見ながらおいしい食事を頂きました。
さんずろ屋さんの駐車場で「こけめ農園」という農園をやっている方にお会いして、内陸から被災地にお花などを配っている方にお会いしました。もうすぐ2歳になるかわいい男の子を連れて、物資などを届けて歩いているとの事。元気な地元の方にお会いできると、本当に嬉しい!!
 田野畑村の保健センターに被災された障がい者の情報を聞きに行きましたが、田野畑村には介助を要するような障がいを持った方がいらっしゃないし、障がいを持った方もみなさん無事で、健康上の問題もなく、村の保健婦で充分足りているような状況との事。よかった!よかった!と思いきや、近くの知的障がい者の事業所で宮古の保健福祉センターの人とお会いして、「そんなことはないはず。地域性かこっちの人はそういう言い方をするんだよね。家族も障がい隠したりするし…」なんてお話を伺って、唖然…。地域生活を送る、障がい当事者のニーズをここの地域で拾っていくのは、簡単じゃなさそうです…
H M

被災地障がい者センターいわてのブログから

6月14日
本日より遠野市宮守町の事務所がテスト走行しました。
ここ本宮から一時間ですが、宮守町の事務所のほうが現地に近くなります。
移動時間が短くなる分、現地での活動に時間を費やせます。
 現地での活動も変化してきており、社協などを回って情報を収集するところから、避難所で情報を収集してまわり、現在は仮設住宅まわりへと動きも変わってきています。
継続的に支援される方も増えていっている状況です。
車であっちこっちと被災地を回るのですが、どの車もがたがきて連日修理しながらの活動です。
 一日おおよそ240キロほど走っています。宮守が拠点になっていくと半分の走行距離で済みそうです。
 毎朝、8時頃にスタッフ数人ずつでそれぞれ被災地へ向かって出発します。4時から6時くらいに事務所に戻ってきます。その間に事務所スタッフが食事の準備をして、みんなが戻ったら食事をして、ミーティングです。
 今日は冷やしラーメンを作りました。小さななべで13人分のラーメンを大忙しでゆでました。具沢山冷やしラーメンでまた、明日の活力へと…頑張りましょう!!
H・M

=復興支援 特別シンポジウム= 共生型の社会を探る

=復興支援 特別シンポジウム=共生型の社会を探る
     ~被災地の未来と、支え合う地域づくりを共に考える~
 グローバリズムの暴風雨が吹きすさび格差と貧困がますます拡大する社会にあって、生きにくさを抱える人たちを 包摂する「切らない・分けない地域」を創っていくために、多くの制度・施策を動員していくことが必要となっています。
とりわけ、未曽有の被害をもたらした今回の東日本大震災によって、私たちの社会が長年紡いできたセーフティネット網が容赦なく寸断されるなか、痛む人々の暮らしを支え地域の復興をめざす取組みの中から、被災地と、そしてこの社会の未来の希望を見出していく営みが待ったなしで求められています。
 震災から3ケ月を経過し、多くのNPOによって被災地支援の活動が関西からも多彩に取り組まれ、さまざまな経験が市民の手に蓄積されてきています。こうした新たな経験とセーフティネット網をつなぐため、これまでの市民の活動をつなぎ合わせながら、具体的な地域づくりに活かしていくことが求められています。
 今回、復興支援のための特別シンポジウムとして、元「派遣村」村長であり、現在は、内閣府・震災ボランティア連携室の室長として被災地復興や地域再生の取組みの中心に立つ湯浅誠さんをお招きし、最前線の現状・課題・展望などをお話しいただきます。
 さらに、この間、関西でさまざまな経験を積み重ねてきた皆さんと、これまでの蓄積を私たちの未来にどう活かしていくのか、共に探っていきたいと考えています。 多くの皆さんのご参加をお待ちしています。
<日にち>   2011年7月2日(土) 13時半~17時 (※13時開場)
<開 場>   大阪市立浪速区民センター 
          ※最寄駅:地下鉄千日前線「桜川駅」
           (7番出口からなにわ筋を南へ約300メートル西側)
          ※地図等:http://www.osakacommunity.jp/naniwa/index.html)
<参加費>   1,000円(資料代)  
<タイムテーブル>
●13:30~13:45  開会あいさつ
●13:45~14:45  基調講演  湯浅 誠 さん
           (内閣府参与 社会的包摂推進室長/震災ボランティア連携室長、
               元「派遣村」村長)
●14:45~15:00  休憩
●15:00~16:45  パネルディスカッション 「被災地の未来と、支え合う地域づくりを考える」
 ・ パネラー     湯浅   誠 さん
             勝部 麗子 さん(CSW。豊中市社協 地域福祉課長)
            齋藤 縣三 さん(NPO法人共同連 事務局長)
            有井 安仁 さん(わかやまNPOセンター 副理事長)
 ・ コーディネータ  法橋 聡(近畿ろうきん地域共生推進室 室長)
●16:45~17:00  閉会
<主 催>   NPO法人 共生型経済推進フォーラム
          ※電話・FAX:0727-25-0244(ちまちま工房内)
<協 力>   近畿ろうきん地域共生推進室 (予定)
<申し込み>  メール・FAXにて、氏名・所属(職業)・連絡先(電話番号他)を沿えてお申し込みください。
          e-mail : kiranaiwakenai@yahoo.co.jp FAX:上記番号
          ※お申し込みいただいた個人情報は、本シンポジウムの運営についてのみ使用します。

被災地障がい者センターみやぎ 及川 智さん

2011年5月26日原稿
被災地みやぎの2か月
CIL たすけっと 
被災地障がい者センターみやぎ 
 及川 智
  
はじめに、東日本大震災で犠牲になられた方々に対し心よりお悔みを申し上げますとともに、被災された方々に対し心よりお見舞い申し上げます。
 3月11日14時46分。東北から関東にかけて魔物じみた津波を伴って震度7、M9.0の巨大地震が襲った。
当時たすけっと事務所で会議中で、揺れはじめ少しづつ揺れが強くなるにつれ、机にもぐったり車いす上で頭を抱えることしか出来なかった。
指定避難所へ向かい、6時間ほど経ったのち、避難者でいっぱいになった体育館では横になるスペースもなく、トイレにも行けなくなったため、水が出てストーブがあったたすけっとの事務所に戻り、10数人で震災当日の夜を明かした。
最初の2日は、事務所を避難所兼支援拠点として、食料、生活用品を事務所に集めて自分達の安全確保と安否確認に終始した。
その後は、JIL、ゆめ風基金、日本財団などをはじめ、全国各地の団体・個人の皆様から頂いた支援物資をもとに・障がい者の方への物資提供を始めた。
思いつく限りの方法でチラシをまき、広報をした。
今も続く物資提供件数は200件を超す。この時に全国各地でかき集めてくださったガソリンが本当にありがたかった。改めて心から感謝申し上げる。
この物資提供が現在に及ぶ活動の基礎である。
今回の震災の特徴は何と言っても津波である。
津波の被害がない内陸部はほぼライフラインが復旧し、商店も大半通常に戻っている。
そうした二分されたような状況がある。
現在の「被災地障がい者センターみやぎ」の活動も沿岸部への調査とニーズへの対応が中心だ。
また、被災した障がい者の拠点(作業所、通所施設など)の1日も早い再開のため、そして新た障がい者の支援拠点を立ち上げるために必要な救援金を届けることだ。こちらは6つの案件に救援金をお届けすることができている。
これからは社会基盤をどう作っていくか、という議論も必要で、そこには運動が必要だと思っている。それをどう作って盛り上げていくか。少しづつ考え、行動していきたい。
これは「ゆめごよみ風だより」にも書かせていただいたのだが、宮城県は、人・物・金が圧倒的に仙台市に偏っている状況がある。
自立生活センターも当たすけっとが宮城県内では唯一である。
16年の活動の中で広がっていない。
社会資源も乏しいと言わざるを得ないが、その理由の一つは運動団体にあるととみに思う。
街、県をもう一度作り上げていくことになるが、その一端を担えるようにしたい。
連日ボランティアを含むセンターのスタッフは懸命に支援活動にあたっていただいている。
そのおひとりの「さら地と復興は紙一重」というつぶやきが耳を離れない。
さら地となった場所には、風土や歴史とともに無限の可能性がある。
どんな心を入れ、復興していくのか。長い取り組みになる。
 
最後に、全国各地から物心両面にわたってご支援いただいておりますこと、心から御礼申し上げます。
被災地障がい者センターみやぎ 及川 智 井上朝子
左:CILたすけっと代表 及川智
右:CILたすけっと事務局長 井上朝子

被災地障がい者支援センター 白石清春さんの日記2

2011年06月14日10:48
白石個人
Y君、Tさん、私とで午前3時まで飲みながら話している。Sさんは居眠りをしている。Y君とSさんは帰る。私とTさんはたいむILに泊まる。何回か目を覚ます。朝方寒くなったので、Tさんに蒲団をかけていただく。Tさんも寒かったかな。
7時に起床。Tさんに着替えの介助をしていだく。8時にSさんがみえる。3人で支援センターへ。きのうのNさんの講演会の際にもらったというEM菌を、Tさんに分けてもらう。そして、Tさんに支援センターにあったペットボトルにEM菌の培養液を作っていただく。EM菌をたくさん増やして、郡山中に噴霧していこうか。まずは、放射線量が高い地面にEM菌をまいての実験をしてからか。F-787プロジェクトと並んでEM大作戦も展開していこう。
…………………………。
電くるのバッテリーが少なくなってきたので7時ぐらいに、Sさんに車で送っていただいて家に帰る。眠いので部屋で横になって寝ている。
支援センター
UさんとSさんが、新聞紙を濡らしたものを千切って、センター内にまいている。そして、それをほうきでかき集めている。なるほど、濡れ新聞紙にほこりがくっつくので放射性物質もとれる。
9時半にヘルパーのW君がみえる。
9時過ぎに私、Tさん、W君が乗り、Sさんの運転で郡山駅前へ。ヨドバシカメラで名刺の用紙を買う。薬屋ダイコクドーで強力ワカモトを買う。
Tさんと別れて、支援センターへ戻る。
日誌付け。
ミクシー、ツイッターにアップ。
1時過ぎにSさん、たいむILのボランティアへ。
午後から提案と要望の点検。Wさんが来ないと…。Wさん少し遅れるとのこと。
2時前にTさんがひまわりの種を届けてくれる。その後、Tさんボランティアでパソコンの仕事をしていく。
Wさんが来て、提案と要望をまとめ上げる。Hさんと構成団体にメールで添付して送る。
Wさんのところのにんじん舎では、EM菌の培養をしているとのこと。大きな噴霧機も持っているとのこと。にんじん舎の存在と、この大震災、何か大きな縁を感じる。
4時ごろになるとさすがに眠くなる。電くるの上で居眠りする。
R君がみえて、携帯電話の継続の手続きのことで充電池の裏に書いてあるシリアルナンバーを書き写している。
西宮市のFさんからファックスがあり、市営住宅の入居に関しては地元からの罹災証明書がないとだめなので、こちらで罹災証明を取れるようにしてほしいとのこと。たいむILの職員の奥さんが妊娠しているので、早めに移住してほしいのだが、職員の彼が郡山に戻ってきてから(今、たいむILの利用者とともに西宮まで避難訓練に行っている)動き始めよう。
2011年06月15日11:22
白石個人
7時前に起床。疲れているためかぐっすり眠る。
8時過ぎに家を出る。雨が多少降っていたので、栄子に合羽を着せてもらう。
8時半に支援センターへ。
支援センター
午前中はミクシーとツイッターアップ。Yahooメールの点検。
あいえるのO君から電話があったので、西宮に避難したいというたいむILの職員の件を話すと、鼻から無理という。少し頭に来て、まだやっていないうちから 無理というな!と声を荒げてしまう。原発の避難区域に入っていないと被災証明は難しいのか。でもやる価値はあるだろう。だめでもともと当たって砕けろだ。
聴覚障がい者協会のKさんが手話通訳さんとみえる。コミュニケーション法を国会に提出するための署名運動をしているので、協力をお願いしたいということと、小冊子を一部300円で販売しているので協力をお願いしたいということ。快く了解する。
お昼はボランティアのSさんと隣の隣の沖縄料理店「三浦屋貝願亭」へ。タコライスを注文する。私の過去の障がい者運動のことや、福島を含め東北人の気質から障がい者運動はなかなか進んでいかないことを話す。貝願亭の放射線量は0.24μ㏜。支援センター内は0.6-1.6μ㏜。
1時ぐらいに支援センターに戻る。Sさん、たいむILのボランティアへ。
IL センター福島のN君に電話をすれば、避難区域になっていない地区外からの、原発の影響で非難した人たちには被災証明書は発行していないとのこと。ただ、 家の一部や家具などが壊れた時には被災証明書が出ることもあるとのこと。たいむILの職員が西宮から帰ってきたら相談しよう。
きのうの夜に、田村のSさんの旦那の匡くんからのメールに、福島第一原発4号機が倒壊しかかっている。倒壊したらプルトニウム等の有害放射線が福島県中に降り注いで大変なことになるとあったので、インターネットで調べる。それらしき情報がいくつか見つかる。4号機の核燃料プールには1,500本もの燃料棒が置いてある。プールの底から燃料棒が流れ落ちたら、多量の放射能で2号機、3号機にも人間が近づけなくなり、あとは水素爆発を待つのみの状態になってしまうのではないかとある。多量の放射線が福島県始め全国にばらまかれるであろう。そうなったら、郡山も避難区域になるに違いない。覚悟しておく必要があるのかもしれない。Wさんにも情報を渡す。
4時過ぎに染井さんがたいむILから帰ってくる。
夕 方の6時ごろか、養護学校同窓会の役員のHさんから電話があって、養護学校同窓生の名簿を頼りに訪問活動をするのはやめにしたいという。養護学校同窓会の 開催案内を出すので、それに近況報告のらんを設けて書いてもらうので、それで大丈夫だろうとのこと。それも葉書だ。同窓生は900名ぐらいいるが、返事が戻ってくるのは100名にも満たないだろう。なんか、郡山養護学校同窓会も行政のようだ。がっかりしてしまう。軽度で自分の力で避難できる障がい者はいいが、家族の世話になっている重度障がい者はどうなるのだろうか。
8時まえに支援センターを出る。
2011年06月16日11:46
白石個人
7時前に起床。
8時半に家を出て、放射線量を測定。神明町・あいえるの会事務所前0.49μ㏜。長者・モールリビン前0.46μ㏜。長者・郷さくら美術館前・0.73μ㏜。その近くのみんなの保険プラザ前1.32μ㏜、急激に2.32μ㏜まで跳ね上がる。緑町・ファミリーマート前0.68μ㏜。センター前0.32μ㏜。センター内0.22μ㏜。窓を開けて換気をしたら0.11に下がる。さくら通りの長者付近が高い。
支援センター
9時過ぎに支援センターへ。
福島県に提出する提案と要望に、入所施設へ非難している障がい者の情報提供の件を、入れることを忘れたので付け加える。
ミクシーをアップして、ツイッター、Yahooメールを点検する。
2時過ぎにWさんとあいえるのトッポ号で福島県庁に向かう。
車中でいろいろな話をしていく。私の応援に大阪から来ていたFさんとはいつ頃からの付き合いなのか?22歳 ごろからの付き合いで、青い芝の会を福島に作ってほしいと私をオルグに来た時からの付き合いだと答える。Wさん、Fさんには大変お世話になったと。被災地障がい者支援センターふくしまは障がい者が主人公であると強く主張していたFさん。そのことを一番分かっているのはWさんかも知れない。
私の言うことは時には暴走することもあるが、言っていることは正しいので、一緒にやっているのだとWさん。本当にうれしい。Wさんは、自分の所の知的障がい者の事業所「にんじん舎」の仕事を半分にして、被災地障がい者支援センターふくしまの活動に力を注いでいる。頼もしい同志である。
2 時半に福島県庁へ。2階のロビーで身障福祉協会のHさんと待ち合わせて、障がい福祉課との話し合いの打ち合わせ。Hさんに、提案と要望の最後に「文章にて回答を」と記してあったが、これをやると行政は嫌うので、この文言は消して、口述して答えを求めた方が良いとのアドバイスを受けて、そのようにする。まあ、喧嘩を売るわけでないので、穏便にいくか。
3時に県庁7階の障がい福祉課へ。主幹兼副課長のSさんといつもの矢吹さんが対応。まずは、私のあいさつから始まり、Wさんが提案と要望の下線の引いてある個所(重要要望)を説明していく。Wさんが話しているときに非常に眠くなる。ぐっと我慢している。
仮設住宅に車いすの障がい者は入れないと話すと、そのような話があったら県に言って欲しい。家族状況を考慮して、仮設住宅を考えるという。果たしてどうだろうか?
仮設住宅の中に福祉サービスの拠点を作ってもよいという厚労省の通達が出ているので、ある町に聞いたところ、高齢者のサービスで手いっぱいなので障がい者のサービスは考ええていないという答えがあったが、県としてはどう考えるのかと質す。そして、市町村と県とで調整してほしいと伝える。
最後に私が、福島県内の避難所や入所施設を回って、障がい者の所在確認を行っていったが、重度の身体障がい者の姿が少なかった。県外の入所施設に避難してい るのではと、問い質せば、市町村で避難先の調整をしているので、県としてはあまり把握していないとのこと。本当かなあ?そして、飯館村からの情報では重度障がい者に関するものは4件あったが、一人入所施設に入ったとのこと。どこの施設に入ったかを教えるわけにはいかないとのこと。ここでもプライバシーの壁が…。
各市町村の担当者に聞いてみないと分からないが、重度の身体障がい者は入所施設にもあまり入っていない模様だ。障がい者の捜索活動の方法を検討しなければならないかも。
もっとWさんは話したが、これまでにしておく。
県との話し合いは30分程度で終わり、帰路に着く。
途中に、二本松の道の駅に寄り、買い物。サイダー、こんにゃく刺身、わさびせんべい、Hさんに甘酒を買う。
Wさんが眠い顔をして運転している。危ない、危ない。
5時前に支援センターへ。
ボランティアのSさんが滋賀に帰っていく。お疲れ様でした。
6時過ぎに支援センターを出て、モールまで行って買い物。EM菌の培養するため砂糖を溶かす鍋、ビンに水分を入れるロート、EM菌の餌とする黒糖を探すがないので、きび砂糖、裂きイカ、焼酎を買って、家に帰る。
居間に行って、パソコンを動かして、きょうの日記を打つ。夜の9時まで。

被災地障がい者支援センター 白石清春さんの日記1

2011年06月12日10:56
白石個人
6時に起床。栄子はきょうから出かける。100キロマラソンに挑戦する。帰りはあさってになる。当分栄子の介助なしで生活。さすがに眠いので少し横になっている。
9時に家を出る。放射線量・家の玄関前0.5μ㏜、緑町・三部会計事務所前0.56μ㏜、朝日・立正佼成会会館前0.63μ㏜。
………………。
午後の7時前にR君がみえる。みんな(白石、S君、Sさん、R君)で車に乗って、白石の家からシャワーチェアーを運んで、H宅へ。H君、ヘルパーのKさんを乗せて、女子大の近くの島の湯という温泉に行く。疲れをとる。ちょっと熱めだったが、気持が良かった。
9時ごろに島の湯を出て、開成山のアンジェロへ。夕食を食べる。ピザ4皿と大皿のサラダ、その他にS君とR君はパスタも食べる。Sさん、S君、R君の健啖ぶりにはびっくり。
10時半ぐらいに家に帰る。息子は寝ている。
支援センター
9時過ぎにボランティアのK君が東京へ帰っていく。K君は東北関東大震災障害者救援本部(全国自立生活センター協議会やゆめ風基金等)から支援センターに詰めているS君のお友達である。K君はいったん東京に帰ったりしたが、4月のはじめからきょうまでよく働いてくれた。お疲れ様でした。
ミクシーや日記付け。
ボランティアのSさん、Iさんがみえる。Iさんは千葉からみえる。
田村のWさん、介助者さんがみえる。
11時からS君の司会でボランティアのミーティング。
6.11原発いらね!郡山パレードは雨が降ったら中止と書いてあったので(ちょっとだけ雨が降っている)、どうなるのか、問い合わせれば予定通り行うとのこと。
ボランティアのSさんが持ってきてくれたおにぎり、煮物、フルーツをみんなでご馳走になる。
12時前に車で出て駅前へ。私、Sさん、S君で行き、S君は車で帰る。雨がちらついているのでSさんに合羽を着せてもらう。Y君、H君が来ている。昔左翼系の連中が顔を見せている。私の従兄も来ていた。田村のCILのEさんが挨拶をしている。代表者の挨拶の後、駅前周辺をパレードして歩く。雨が上がって晴れてくる。参加者は300人程度か。30分ぐらいパレードして、駅前に戻って解散。S君が時間と場所が分からなかったとのこと。マイミクのPeaceさんと会う。
S君に車で来てもらって、3時前に支援センターに戻る。
女性陣で支援物資の整理を行なっている。
インターネットでチェルノブイリのかけはしのNさんの講演の動画を見ている。EM菌で作った発酵ジュースのことを知る。発酵菌が放射性物質を自分の身体に取り込んで、放射線をエネルギーとして活用しているのではないかとNさんは言っていた。発酵ジュースを薄めて庭にまけば、庭の放射線量が減るのだそうだ。EM菌で発酵ジュースを作ってみようか。
2011年06月11日10:24
白石個人
7時起床。ニュースで、本宮で名古屋の大学の准教授がイネやヒマワリなどを植えて、一番放射線を吸収する植物を調べて、放射線除去とバイオマスの研究をするとのこと。UF-787プロジェクトと連携していくことができる。早速連絡を付けなければ。
8時半過ぎに支援センターへ。
…………
夜8時過ぎに事務局会議が終り、三浦屋貝願亭へ。ボランティアのK君が帰られるので、私、O部君、S君とでお別れ会を開く。生ビール2杯飲んだら、疲れているのでふらふらになる。11時前に家に帰る。風呂場で身体を洗ってから寝る。
支援センター関係
9時ごろにボランティアのIさんが帰っていく。
9時半ぐらいに白石、S君、K君とで車で出かける。あいえるの会事務所へ。ICコーダーを取って→日和田のさくら館へ。K君がナビにさくら館の電話番号を入れたが、違う場所に行ってしまう。慌てて住所を入れて、10時 過ぎにさくら館に到着。施設長のSさん、生活相談員のGさんが対応。大震災で南東北病院に入院していた方が一時的に非難してきたとのこと。 ディサービスを利用している方の家の荷物が散乱して、帰れないので何人かが一泊していったという報告。さくら館の天井のパイプがズレて、水浸しになったと のこと。
須賀川の福島病院へ。室長のAさん、女性の医師、事務の方が対応。重度の重複障がい者が入院している。一棟に40名(三棟ある)、 一室に8名の障がい者が柵付きのベッドに寝かされて、昼食を食べていた。避難してきた障がい者は女性で重複の方一名で、田村市から来たとのこと。家族は仮設住宅に入ることが決まったが、一緒に住むか、福島病院に入所させるかは決めていないとのこと。少し動ける者は部屋の床や廊下に出てはいずり回っていた。 郡山から入院したY君に会ってくる。私の顔をあまり覚えていないらしい。いくら重い重複障がい者でも地域の中で、グループホームのようなものを造って住民と共生した生活をさせたいなあ。
それから銀河のほとりへ。Aさんがいる。お昼ご飯を食べる。タケノコカレーとまめ入りカレー。Aさんがテレビ朝日の取材を受けている。明日行われる反原 発の運動のことでの取材らしい。スイートホットで作っているという墨入りビスケットが置いてある。Aさんから支援物資(主に服類)をもらってくる。偶然(はないか)に マイミクのまるさんが銀河のほとりにみえる。義母さんを一人にして置いていけないので、お子さんと郡山にいるとのこと。でも元気そうで良かった。夏休みで もちょっと旅行にでも行こうかなと言っていた。ちょっとでも少しでも遠くに行けば、気がまぎれるから。元気が出れば免疫力がアップするので。
2時半ぐらいに宇津峰十字の里へ。園長のNさんと係の方が対応。はじめに園内を見学。知的障がい者の施設だからか、段差だらけ。部屋は4人部屋が多い。定員は50名。他に20名規模(通いか)の作業所があったが、今回の大震災によって倒壊したので十字の里の一部を使っている。そのようなことがあって、一件被災障がい者の受け入れを要望されたが断わったという。園長さんが1人でしゃべっている。施設は避難する時にはみんなで逃げなければならないので、在宅より大変だというようなニュアンスでしゃべっている。そして、最後には、JDFで原発をなんとかしてほしいと言う。なんだこの人は。施設反対のJDFを目の敵にしているのか。「原発のことは東電に言ってください」と言っておく。そんなに言うのなら反原発の運動でもすればよいのに。
4時過ぎに支援センターへ戻る。