何度でも、生まれ変わる。小室等音楽活動50周年ライブ 

小室等50周年記念ライブ
「事実は議事堂の中で捻じ曲げられ 真実は交番の中に逃げ込む」
                         「寒い冬」(1980年小室等作詞・作曲)
 2011年7月11日、新宿・全労災ホールスペースZEROで開かれた「小室等音楽活動50周年ライブ~復興~」は、李政美(イ・ジョンミ)、梅津和時、及川恒平、太田恵資、鬼怒無月、こむろゆい、坂田明、さがゆき、佐久間順平、佐藤允彦、鈴木大介、竹田裕美子、田代耕一郎、田中邦和、谷川俊太郎、谷川賢作、渡嘉敷祐一、林英哲、八木のぶお、吉野弘志、四住佳子、そしてサプライズで井上陽水という超豪華な出演者が集まり、谷川賢作さんのプロデュースのもと、次から次へとすばらしいセッションをくりひろげました。
 1曲目の「寒い冬」は、田中邦和さんのサックスと小室さんの弾き語りのシンプルな編成で、30年も前の歌とは思えないライブ感でシャウトする小室さんは、最近の風貌からはうかがい知れない激しい人であることを、あらためて思わされました。
 2曲目の「おはようの朝」は、谷川俊太郎さんの作詞で、「いま生きているということ」におさめられているのですが、同時にゆめ風基金の呼び掛け人である山田太一さんの名作ドラマ「高原にいらっしゃい」のテーマソングでもありました。
 3月11日にこのライブの打ち合わせを終えた直後に地震が発生。報道によれば小室さんはしばらくは、「自分のことで浮かれている場合じゃない」と思い悩み、その後はライブを行っても、「心ここにあらずだった」といいます。「愛だの恋だの、プロテスト(異議申し立て)だのメッセージだのっていうものが通用しないって気分。自分のやってきた音楽、表現が震災の前に力を失った。舞台に立ち、人に向かって何かを発信する根拠が、波にさらわれたんです」
 そこから自分はどう立ち直っているか。被災地の復旧に役立ちたいという思いと同時に、ミュージシャンとしての「復興」が大きなテーマになったそうです。
 当日のパンフレットにはこう書かれていました。チャリティコンサートにはしない。あくまでも50周年を貫く。ただし、これまで手伝って来たゆめ風基金と日本チェルノブイリ連帯基金のPRを、このライブの広報活動と連動させ、側面からのバックアップに関しては積極的に行う。
 小室さんは自分を妥協なしのごまかしのできないところに追い込み、そこから立ち上がる音楽を友人たちと分かち合おうと願い、かけつけた友人たちもまたゲストとして小室さんの50年を祝うだけではなく、小室さんの呼びかけに応えて新しい冒険を試みたこのライブは、まさしく「波にさらわれた」後の音楽の誕生をわたしたちにプレゼントしてくれました。音響にしても残響をほとんどつかわず、音量もすごく計算されていて、ボーカルも楽器も対等でくっきりとした音が溶け合うのではなくひびきあい、そのためにわたしたちは手をのばせば届くようにその音楽が聴こえるのでした。
 小室等さんは1961年、17歳のときにギターを弾き始め、「自分の歌は自分で作る」フォークソングの黎明期を1971年の「出発の歌」(上條恒彦と六文銭)の大ヒットで確立し、Jポップへとつながるミュージックシーンをけん引してきました。
 その50年の活動が見事に再現されたステージの最初から終わりまで、出演者の方々のさまざまな組み合わせで時にはスリリングに、時にはやさしく、時にははげしく、超満員のお客さんの心をふるわせたこれらの歌たちは3月11日の震災の前に作られた歌なのですが、どの歌も震災を経験したからこそあらためて心に響く歌たちでした。
 梅津和時さんが作曲した「Vietnamese Gospel」、「老人と海」、「雨のベラルーシ」、「翼」、「鉄腕アトム」、井上陽水さんと歌った互いの曲「雨が空から降れば」と「結詞」、さらに谷川俊太郎さんの詩朗読…、 そして、最後の2曲、谷川俊太郎作詞・武満徹作曲「死んだ男の残したものは」、谷川俊太郎作詞・小室等作曲「いま生きているということ」でエネルギーは最高に達し、大きな悲しみを希望へと変えてくれる約束の場所へとわたしたちを連れて行ってくれました。
 そこにつらぬかれていたものは、とてつもなく大きな「祈り」だったのだと思います。最後の最後に全員で演奏された、おそらくこのライブが初公開の小室さんの新しい曲「何度でも」は、その祈りそのものでした。
 
何度でも、生まれ変わる。何度でも、生まれ変わる。何度でも、生まれ変わる。何度でも、生まれ変わる。
 ステージの間で小室さんは日本チェルノブイリ連帯基金とともに、ゆめ風基金の活動を何度も紹介してくださったのですが、会場にはゆめ風基金の呼びかけ人初代代表の永六輔さんが来られていました。「ぼくはいまリハビリ中で、まっすぐ歩く練習をしているんだけど、その先生(外国人の先生)にね、日本では<上を向いて歩こう>という歌があるんだけれど、あなたはその歌を知ってるかと聞かれた」と、うそのようなほんとうの話をされて、会場が爆笑につつまれました。
 こうして特別なライブが終わり、後片付けをして近くの中華料理店に入った時はすでに11時前でした。すぐ隣のテーブルに佐高信さんがおられたのですが、帰り際に「今日は小室のために来てくださってありがとうございました」と声をかけられました。
 こちらがあわてて「大阪から来ましたゆめ風基金です」と言いましたが、佐高信さんはきっと隣にいたわたしたちが小室さんのライブを聴きにきた一般のお客さんと思ってあいさつされたのだと思います。ささいなことですが、「小室のために」といった佐高さんの短い言葉に小室さんへの友情がこめられていて、とてもうれしく印象的でした。
 今回のライブの模様を収録した記念のアルバムが10月頃リリースされる予定で、この感動を「何度でも」再現できると思うと、今からわくわくします。そして、この会場にお見えになれなかった方々にCDでこの感動をお伝えできることを、とてもうれしく思います。

ヒデの救援レポート7月11日

ヒデの救援レポート7月11日:28
東日本大震災4ヶ月目です。このメール通信は、先日お知らせしたように、ゆめ風基金呼びかけ人代表の小室等さんのデビュー50周年&被災地支援コンサートに駆けつけるべく、牧口代表とのデコボココンビで、東京に向かう新幹線乗車前に、発信しています。まぁ、それがどうしたですがね。
被災障害者支援ゆめ風基金に寄せられた救援金、金額は、7月6日までに、160406611円。7月7日までに、160631420円です。このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌そよ風のように街に出よう編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。広く知ってもらいたいので、転送自由。自由にお使いください。
息の長い救援が求められています。長期戦です。救援金の送り先は、郵便振替口座00980-7-40043ゆめ風基金です。;とうほく;と書いてください。
東日本大震災救援活動の中のボクの風景
ゆめ風ネットワークしまね呼び掛け人、太田明夫さんが投稿した中国新聞・今を読む・からの、島根県からの救援風景。16年前の阪神大震災。私は被災地に行けない後ろめたさを感じながら地域の障害者団体とともに小さなコンサートを開き、後方支援をしていた。
3月11日、東日本大震災の発生を知った時、今度こそ被災地へと思い立った。折しも自治会活動の防災訓練を続けていた縁で日本赤十字社日赤島根県支部の要請を受け、4月初めの一週間、災害ボランティアとして宮城県に赴いた。亘理町などで住宅に流れ込んだ土砂の除去、避難所のテント張りなど、日赤だからというわけではなく要請があれば何でもした。ただ、活動できる人は多いのに、多額の義援金と活動とが直結しないもどかしさもこの時に感じた。
そこで4月下旬、阪神大震災をきっかけに生まれたNP0法人・ゆめ風基金(大阪市)などが運営する被災地障害者センターいわての活動にあらためて参加した。ゆめ風基金は一番困っているところにすばやく届けるのがモットー。ゆめ風ネットしまね呼び掛け人の私は、幸い事務局の人たちと顔が見える間柄だった。
今回の活動は2、3人のグループで避難所や行政機関、福祉施設などを回って被災した障害者を探し、心配事、困りごとを聞き出して動くこと。早い時期に入ったメンバーは寝袋で車中泊したり、雪で帰れず訪ねた施設に泊めてもらったりしたこともあったという。
私の役割は彼らをフォローし必要な物資を届ける、新たな課題を見つける、被災施設の詳しい調査を、行う、といったことだった。電池、紙おむつから施設の修復資金まで、必要と判断すればすぐに届けるのである。私が会った岩手県山田町の車いすの女性Kさん。兄と認知症の父親の三人暮らし。自宅近くまで押し寄せた津波の直接の被害はなかったが、よく通っていた商店が流され、買い物に困っていた。私たちはこの家庭に医療器具や衣類、食料などを届け、通院や買い物の介助を続けている。Kさんはいったん避難所に入ったが、障害者の居場所はなく、あなたの来るところじゃないという言葉まで投げつけられる。こんな体になった自分が悪いと、悔しい思いで自宅に帰った。死にたいとも思った。そうした話をじっくり聞くことも私たちの仕事だ。
同県大船渡市の精神障害のある男性Kさんは8ケ月前に県外から転居したばかり。直接の被害はなかったが、津波で病院が被災したため障害者手帳交付に必要な診断書をもらえず、年金が支給されていない間接的被災者だ。なぜ今、私がこの町で…と思いながらも行政などの窓口を回り、生活保護や生活福祉資金貸付などの道筋をつけた。つなぎ役が私の仕事だと思ったからだ。そして次の町へカーナビを頼りに走るが、浸水でルート通り進めず、突然、がれきの中でナビが終了。目的の同県陸前高田市役所は倒壊していた。近くを歩く人に道を尋ねると、まだ見つからない家族を探していた。私たちは言葉を失う…。
しかし、同じ町で早くも将来に向けて動き始めた人たちもいた。被災した障害者を受け入れ、グループホームをつくりたいという。震災を教訓にソーラーと井戸水を組み合わせた電力を使う、と夢は広がる。自らも母親を失い、ようやく火葬を済ませたという男性も休みなく働いている。
私たちはつらく厳しい状況を目にしてきたけれども、温かい心、熱い思いにもたくさん出会うことができた。単なる復興ではなく、障害者が自立して生きるまちづくりへ、応援したい。そしてボランティアはどこでどう動いても、主役ではない。それだけは忘れず、できることをできるところで、力まず続けたいものだ。
少し古い記事ですが、6月25日(土)の読売新聞から。
見出し、障害者を被災地派遣へ
メインストリーム協会の会議風景の写真付き
全国各地の障害者団体などでつくる東北関東大震災障害者救援本部は、障害者自身をボランティアとして東日本大震災被災地に派遣する事業を始める。障害者同士の交流を通じ、前向きな気持ちを持ってもらうとともに、必要とされる支援の掘り起こしを図る。
同本部は岩手、宮城、福島の3県に被災地障害者センターを設立し、障害者の状況調査や介助、移送などの支援を行っている。今回の派遣活動は、同本部世話人で、兵庫県西宮市の障害者自立生活センターメインストリーム協会事務局長の佐藤聡さん(44才)が5月に被災地を訪れた際、現地のスタッフから支援のニーズが把握しにくい。健常者だけでなく、障害者にも来てもらい、被災障害者の声を聞いてほしいと要望されたのがきっかけという。
もともと東北は、自立生活センターや福祉サービスを提供する事業所が少なかった。施設入所や家族介護など、障害者が閉じこもりがちな生活を送っていたことが背景にあるのではと佐藤さん。震災以前の状態に戻すだけではなく、障害者が暮らしやすい街に変えるためには、障害者自身の意識の変革が必要。他地域で自立している障害者をロールモデル・ひな型・として示す意義は大きいと話す。27日から同協会のメンバーが1週間ずつ、介助者とともに被災地入り。現地のボランティアとともに、仮設住宅の巡回などの活動を行う。秋以降は同本部を通じて現地入りする障害者を募り、来春まで続ける予定。同本部では、被災障害者への救援金や1週間以上現地で活動できるボランティアも募集している。問い合わせは同本部の大阪事務局を務めるNP0法人ゆめ風基金06-6324-7702へ。
この事業には、ゆめ風基金から300万円の支援をしました。
バクバクの会人工呼吸器をつけた子の親の会2011年度全国総会が8月6日(土)午後1時より、開催されます。場所・大阪、エルおおさか旧・府立労働会館京阪電車、天満駅下車すぐ。時期が時期なので、記念講演は、ゆめ風基金の八幡理事による、被災地特別報告講演になり、会員以外の一般参加も広く呼びかけられています。ご参加をどうぞ!電話072-724-2007
全国移動ネット災害支援の会・電話03-3706-0626
東日本大震災災害支援だより創刊号巻頭言より
いま、試される市民の力・災害支援の会プロジェクト代表柿久保浩次
今回の震災で被災された方々に心からお見舞いを申し上げます。震災当日から大変なことになったという思いが心を占めて、押しつぶされそうでした。阪神大震災の時の経験は持っていても今回はそれを大きく上回っています。これはいかんと自分にできることを探し始め、関係者に声をかけて全国移動ネットの中に災害支援の会プロジェクトを発足させました。幸い被災地の当会の理事たちが無事で、また山本理事が東京から素早く被災地に足を運んで支援物資を届けてくれたことも、我々を元気づけてくれました。しかし、1ケ月を経た今でも被災地や避難場所で多くの方々が生活とは言えない不自由な避難生活を強いられ苦しんでいます。我々ひとり一人ができる小さなことを集めて、この人たちを支援することはできないでしょうか。
今回の震災復旧は長期に渡ると言われていますが、この国の制度や支援体制を十分に機能させてこの方々を救えないでしょうか。市民の力が試されています。被災した方々に寄り添って考え、支援していきたい。
6月27日の朝日新聞の朝刊39面の半分を使ったデカい記事が掲載されました。障害者自活に箕面流内閣府の障害者制度改革推進本部の最終報告書に、全国で唯一の障害者事業所賃金補助金制度を持つ箕面流がモデル事業候補として盛り込まれたことの報道です。
被災障害者救援バザー活動を継続積極的に担ってくれている、豊能障害者労働センターが大きく取り上げられています。興味のある方はご一読ください。問い合わせは、豊能障害者労働センター・電話072-724-0324
6月30日、朝日新聞朝刊のボランティア情報欄に掲載されました。障害者支援ボランティア募集。被災した障害者を支援しているNPO法人ゆめ風基金06-6324-7702が、岩手・宮城・福島で活動する。障害者の支援に携わった経験がある人が望ましい。期間は最低1週間。特技・専門分野、活動希望場所、活動できる時期を申請。
7月7日、七夕の日。いつも、ゆめ風基金事務所に、事務仕事を手伝いに来所される森田さんという女性が、先週土曜日に放送された、永六輔さんのラジオ番組を録音して持って来られたので、事務所で聴きました。ゲストは、小室等さんで、ゆめ風基金活動の話しをされたとのこと。聞いていると、話しの方向が被災地のことになり、永さんと小室さんが意気投合されて、被災地に行って、何かやろうじゃないかと、展開していた。
そして、テープが終わると、ほぼ同時に、電話が鳴り、出ると、小室さんご本人。今、永さんのラジオ番組録音を聴いていたんですよと伝えると、笑いながら、それじゃあ話しが早い。永さんとふたりで、8月の23日に、仙台市に行くことになったので、会場を押さえて、何か企画を考えて欲しいとのこと。
あまりの急展開に、こちらがへどもど。急いで、牧口代表に連絡して、了解を得、仙台市の八幡理事に連絡。8日、朝には、仙台市の障害者センターのたすけっとから、会場を押さえたとの返事がありました。なんという、速さでしょうか。ちなみに、8月23日は、奇しくも、ゆめ風基金橘高事務局長の誕生日でもあります。何かの因縁ですかねぇ。
今回は、新聞記事ばっか。次回から、すっきりさせます。以上

ロサンゼルスからの手紙

ゆめ風基金の皆さんへ
私たちはロサンジェルス南部の郊外に住む、障がいを持つ子供の親たちの有志グループです。
ご連絡するのが遅くなりましたが、去る5月21日にトーランスという所で、ゆめ風基金の東日本復興支援募金プロジェクトに寄付したいとのみんなの想いから、ヤードセールをしました。
金額は米ドルで$1,295.07(日本円10,4071円)と少ないのですが、先日近畿労金へ送金させて頂きました。
数週間前から準備をはじめ、当日は朝6時から午後1時過ぎまで頑張りました。
地元の新聞にもお知らせを出した所、何人もの方が品物を寄付してくださり、又当日お手伝いに駆けつけて下さいました。
以下がそのときの写真です。View Albumという所をクリックしてください。
そして、以下のリンクが地元のテレビ局が放送してくれたものですが、残念ながら日にちが経っているので映像は見ることができませんが、音声は聞いていただけます。5月29日放送分をクリックしてください。4分30秒位のところからです。
http://www.soto-ntb.com/2011/05/
ゆめ風基金の皆さんの大変なご努力と行動力には本当に敬意と驚きの連続です。本当にお疲れさまです。
私たちは海外で何の力にもなれませんが、応援しています。
どうぞ皆さんお体お大切にこれからもご活躍ください。
ありがとうございました。
ロサンジェルス・障がいを持つ子供の親たち有志より
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Yard Sale
May 20, 2011
by heekochan1@yahoo.com shekaus1
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障害者派遣プロジェクト1

障害者派遣プロジェクト1
 障害者ボランティアを派遣し、障害当事者による被災障害者へのピアカウンセリング的な聞き取り、働きかけによるニーズ発掘をすすめようという画期的なプロジェクトがいよいよはじまりました。
 被災障がい者センターいわての代表・今川幸子さんの要請から具体化したこのプロジェクトによって被災地の障害者と各地の障害者がつながっていくことで、これからの被災地の障害者の自立生活をすすめていくエネルギーが高まることが期待できるだけではなく、日本全体の障害者の自立生活運動にも大きな足跡を残す予感を感じます。ゆめ風基金としてもこのプロジェクトを共に推進しようとと300万円の予算を計画しています。
 このプロジェクトでは当面来年の3月まで、障害者が介護者とともにボランテアとして一週間交代で現地に入り込み、支援活動をする計画です。
 ゆめ風基金では、障害者ボランティア派遣プロジェクトに参加された方の体験レポートをお願いしています。
 その一回目の現地報告です。
2011年7月4日(月)
「被災地障がい者支援センターいわて」での活動報告
<活動にあたって>
 5月に盛岡を訪問したときに話し合った結果、障害者の存在をアピールすることが大事だという話になりました。そのためにはJILの加盟団体が障害当事者を被災地に派遣して、被災者のお宅を回って障害があるからって他人に迷惑をかけるからとかいうような無用な遠慮をすることはない、震災前と変わりない当たり前の生活ができるということ、更にはもっと当たり前に地域で暮らしていける社会ということを障害当事者自身が伝えていく必要があります。
岩手の障害者はただでさえ引きこもりがちだそうです。今回の震災後ますますその傾向が強くなるおそれがあり、そういった状況を変えていくためにも日本全国から障害を持っている人に来てもらって、肩身の狭い思いをする必要がないと言うことを伝えて欲しいと被災地障がい者支援センターの今川さんは言っていました。
 そこで、メインストリーム協会として障害当事者スタッフ1名と健常者スタッフ1名が岩手に行き、被災された障害当事者に直接会いに行くことになりました。
障害者派遣プロジェクト1岩手1
【写真①】「被災地障がい者支援センターいわて」にて会議の様子
みなさん、マジメな表情。
<岩手県沿岸部の状況>
 沿岸部の状況は5月に訪問した際に比べて整地が進み、新しく家を建てているところ、住居の補修作業なども至るところで見るところができました。しかし、場所によって道路の交通事情もあるのか、整地作業が重機を使って行われているところもまだ残っています。
 避難所や親戚等へ避難していた人たちが、やっと出来はじめた仮設住宅へ入居申請をしたり、入居を始めているという状況です。
 物資はある程度行きわたっているように感じました。大船渡市の役所でも救援物資の支給活動は6月末で終了し、残った物資等はボランティア活動を行っているところなどに委託となっていました。
 町の中では津波によって海水が浸水し、それによって打ち上げられた魚や海藻が腐っているのかかなりの異臭が漂い、大量のハエが発生していました。今後気温が高くなってくるにつれてそれに伴う被害が増えるのか心配です。節電の中、ハエによって窓が開けられずそれに伴う室温の上昇による熱中症が心配されています。
 たくさんの不安要素がありますが、それでも地元の健常者の人たちは復興ムードが出てきていると感じました。
障害者派遣プロジェクト1岩手2
【写真②】津波に遭った沿岸部地域
5月に訪問した時よりガレキが撤去されていた。
<岩手県沿岸部の障害者と接して>
 沿岸部の障害者は健常者の復興ムードとは違いまだまだ悲惨な状況を強いられているように感じました。地元近所の社会資源、医療が完全に津波で流され、今まで送ってきた日常は全くおくれていない状況でした。
 人工透析をしている方は通院が不可欠ですが、通院するための病院が流されたため遠くの病院までタクシーを使わなくてはいけません。それにかかる費用が莫大になり生活していくうえで多大な負担になっていました。家族も付き添う必要があるため、仕事探し、日常の生活を送るのにも大きな負担がかかっていました。
 公共の交通手段がなくなり、町にあった買い物をする市場、髪を切る理髪店、薬などを買う薬局等、すべてが津波によって流され、物資を調達するにも役所などに取りにいったり、連絡をしてしばらく待たなくてはいけない状況もあるそうです。(物資は本人が来ないともらえないという対応の悪さもあるとか)
 保守的な傾向のある岩手ではまだまだ障害者の権利という考え方が浸透していないため、なかなか近所との関わりがもてない人が多く、数少ない知人との交流も、デイサービス等での活動も外に出ていけない状況によってもんもんと家の中で暮らしている人が多くいました。
介助制度も乏しいうえに、非常時ということもあってか役所の対応もかなり悪く、人によっては家族と生活をしている人には派遣しないということもありました。このままでは障害のある人のいる家は一家共倒れになってしまうということは目に見えているのに、その状況を把握するだけの余裕は行政にはない状況でした。それに緊急事態だから自分は我慢しなければというような傾向も少なからずあり、困っていることを強く言えない状況にもあるように思います。
 仮設住宅もいたるところで建設が進んでいますが、私たちが訪問したところすべて仮設住宅の周りは砂利が敷き詰められて、スロープはついていませんでした。
障害者派遣プロジェクト1岩手3
写真③】仮設住宅バリアフリー化が進んでなく砂利道&スロープがついていない
障害者はもちろん、高齢者やベビーカーの家庭は住みにくい!
 残念ながら内装は見ることができませんでしたが、支援者の中には入浴ができない、家の中が車いすを利用できないくらい狭いため這って生活をしなくてはいけない、洗面台にいけない、トイレに入れないため簡易トイレが必要な人もいました。
 非常時であることは仕方がないことかもしれませんが、こういった避難生活を送らなくてはいけない障害者たちはなかなか情報も得られず、どこに伝えればそれが解決できるのかということも知らない人が多く、また今は無理だろうとあきらめている人も相当いるという状況でした。
 そんな状況下被災地に当事者が行くことは本当に意味があることだと思いました。
 支援や情報提供だけでなく、ちゃんと要望していこうということを伝え、悲惨な生活状況を一人や家族が抱え込むのではなく、一緒に解決していこうということが訪問するというだけで伝えられます。被災している障害者の共通することは孤立化していることだと思います。外出もままならず、地域の交流もできず、普段もんもんとしてる生活状況を解決する原動力になるのは障害当事者が訪問し一緒に解決をしていくネットワークを作っていくことだと強く感じました。
 
<被災地障がい者支援センター>
 CILもりおかの事務局長である今川さんを代表として、責任者八幡さん、専従スタッフ5名と全国からのボランティアが集まり、被災沿岸部を中心に被災障害者を支援しています。
主に、避難所や仮設住宅、自宅で生活している障害者への物資提供や人的支援などを行っています。(物資提供のみの支援は7月末で終了し、人的支援や移送サービス、社会資源への引き継ぎに移行していく)。その他では仮設住宅の調査(スロープの設置状況、集会所の有無、障害者の入居状況、住宅改修の相談等)を行っています。
開設当初は被災されている障害者がどこにいるか町の人に聞いたり、ポスティングを行ったりしていました。6月半ばくらいから何人かの支援がはじまり、そこから口コミで支援センターの事が伝わり、支援が本格化していきました。
 現在は見守り支援、移送、自宅へ介助者を派遣、引き続き聞き込み、ポスティングを行っています。
障害者派遣プロジェクト1岩手4
【写真④】被災地障がい者支援センターいわて
夜7時10分頃の事務所の外から撮影
<現在の一日の流れ>
8:00 センター出発、
10:00 現地活動 (見守り、介助支援、ヒアリング、ポスティング、避難所・仮設住宅訪問、物資の手渡し、役所へ訪問)
15:00 帰還開始 
18:00 センター帰還
18:30 夕食
20:00 全体報告会議
 *現地の活動が早朝になる場合は遠野の支部で宿泊し朝から活動を行うこともあります。
 報告会議は内容によって深夜になることもしばしばあります。
<感想>
 今回訪問することになってまず感じたことは、こういった災害時になると置き去りにされてしまうのはやはり社会的弱者であり、その方々へのサービスが行きわたるには健常者が復興にとりかかるよりずっと後になってしまうことだと感じました。
 世間的にみると、まるで復興ムードだなと思う昨今ですが、障害当事者たちの生活状況を目の当たりにして、本当に震災当初と一体何が変わったのか、ただ支援を必要としている人が浮き彫りになっただけだという印象をうけました。
 支援を行うにしても、支援を必要としている人の情報開示も少なく、支援センターがどういうところなのか場合によっては不審に思われる方もあったり、支援をされていることが近隣の住民にわからないようにしてほしいという話もありました。
 支援先の遠さも大きな問題で、盛岡から車で2時間半かかる今の状況化で、本当に必要な支援を行っていくのは今後難しくなってくるでしょう。早朝から遅くまで活動をしている支援センターの方々も心身ともに負担が大きくなってくることは目に見えています。 今後拠点を沿岸部に作り、それにともなって支援の内容も変わってくると思われますが、このような状況で続けていくのには無理があると感じました。
 そんな激務の中、支援センターの皆さんは本当に毎日を明るくすごしてらっしゃったことには頼もしさを感じました。なかなか状況的に難しいこともたくさんありますが、そんな彼らのおかげで少しづつセンターへの信頼が得られるようになってきているということも感じました。
 被災者のところでは本当にたくさんの被災地障害者のおかれている状況、地震・津波があった時の状況を話していただきました。近所では「みんなが被災者だから・・・」ということでなかなかそういった話をする場所もなく家の中でもんもんとされているということも感じました。そんな中障害当事者である私が被災者のところに訪問することは彼らのもんもんとする生活の一部を語ることのできる貴重な時間だったのかもしれません。
 西宮での生活の話をこちらからもする中で、「やはり当事者が声をだしていかなくては」というような話も聞くことができました。
 復興をするのは現地の方々なしにはありえない中、障害当事者たちこそが今後の復興に声をだし、今後の町づくり、本当の意味での『災害に強い街』の実現ができると心から感じました。
 不謹慎かもしれませんが、津波によってできた大きな被害を今後新しいまちづくりへの大きな起点、障害者たちがまちづくりに参画していくという大きなチャンスに変えていってほしいと切に感じます。
 そのためには今後障害当事者たちが被災地にどんどんと行き、被災者をエンパワメントしていくことが本当に今求められていると感じました。

サポートグループ 風(鎌倉市)からの手紙

サポートグループ 風(鎌倉市)からの手紙
サポートグループ風・コサージュサポートグループ風 フェルト作品・コサージュ
みんなに届け わたしたちの風
2011年6月
売上をすべて被災地の障がいを持つ方々へ
 障がいが重く、外に出て活動することがあまりできない方々と、自宅や病院のベッドサイドで、小さなフェルト作品を作り始めて、3年半が経ちました。この間、たくさんの方々のご支援とご協力で、いろんな方のお手元に作品を届けることができ、自宅や病院から、社会参加への大切な歩みとなりました。
みなさん本当にありがとうございます。
 この3年半の間に、メンバーの中には天国へ引っ越しした方、新たに人口呼吸器をつけたり、濃密な医療ケアが必要になったりと、身体状況的には少しずつ厳しくなっている方もおります。
 それでも気持ちは、元気いっぱい!
「生きることにとても前向きです」
 「どんな状況でも生きていきたい。生きていってほしい」
 そう願い、これまでは売上の4割を、海外(アジア)の厳しい状況にある障がいを持つ方々の支援にあててきました。
 そして今回の大震災…想像を絶する被害、3か月経った今も、まだまだ大変な状況にいる大勢の方たち。そして障がいを持つ方たちは、避難所で生活することも厳しく、必要なサポートや物資を手に入れることが健常の方より難しく、生命の危機的状況(実際、避難生活中に亡くなった方もいます)の中にいます。現地に飛んで行って何かお手伝いしたい…私たちみんな、そういう思いでいます。しかし、実際に動くことが難しい中、その思いをフェルト作品にこめ、売上のすべてを、被災地の障がいを持つ方を支援する団体「ゆめ風基金(被災障害者支援)」に寄付することにしました。
*「ゆめ風基金」は阪神淡路大震災の際に発足し、これまでさまざまな自然災害に対し、日本だけでなく海外の障がいを持つ方々へも基金を届けてきました。そして今回の大震災に対し、基金のすべてを投入することにしています。詳しくは別紙リーフレットをご覧ください。
 これからもどうぞよろしくお願いします。
フェルト作品を買ってくださった方に、このパンフレットとゆめ風基金のリーフレットをお渡ししています。
フェルト作品を常時置いて下さっている鎌倉のお店
アジアンCafe「ソンベ カフェ」
フェアートレードの店「かまくら富士商会」
岩盤浴の店「ハマム」
サポートグループ風・フェルト作品

「歌にできることは少ないけれど、歌だけにできることもある」 小室等50周年ライブ

小室等50周年記念ライブ
 7月11日、ゆめ風基金呼びかけ人代表・小室等さんの音楽活動50周年記念ライブがあります。そのライブ会場で、お客さんにゆめ風基金のリーフレットを配布していただくことになりました。また、会場ロビーではゆめ風基金の紹介コーナーを用意していただけることになり、ゆめ風基金では代表理事の牧口一二さん、副代表理事の河野秀忠さんの他、事務局スタッフ全員が参加し、被災障害者支援活動の紹介パネルを展示する他、永六輔・谷川俊太郎作詞、小室等作曲のゆめ風基金応援歌CD「風と夢・伝えてください」や防災提言集などの物品販売と募金箱の設置をさせていただきます。
 今回の震災では小室等さんはゆめ風基金への募金をよびかけてくださったり、新しい呼び掛け人のご紹介もいただきました。
 また、6月5日の仙台の「とっておきの音楽祭」では、無理を承知でお願いしたにもかかわらずストリートライブを引き受けてくださっただけでなく、被災地障がい者センターみやぎにも来てくださり、被災地の障害者を勇気づけてくださいました。
 ひとはパンのみで生きることもできるが、夢なくしては生きていけないと言われますが、歌もまた、わたしたちの悲しみをなぐさめてくれたり、勇気をくれたりするものであることは確かなことだと思います。小室さんの歌を聴くとこの大震災で被災されたすべてのひとに、そしてどんなに遠く離れていても被災地とつながるわたしたちの心に沁みます。
 「歌にできることは少ないけれど、歌だけにできることもある」
 このメッセージはとても奥が深い言葉です。
 よく「歌には力がある」といわれますし、それはそうなのかも知れません。しかしながら、時としてその言葉がとてもむなしく遠い言葉に思えることがあります。50年という長い間、全国各地の小さな町や小さな村の小さな会場にもギター一本で訪れ、それぞれの大地のぬくもりや風のおしゃべりや森の吐息や海の記憶をいとおしくだきとめ、静かに歌いだす小室さんの歌は決して歌の力をふりまわさず、それでいて歌を必要とするひとの心に届けられてきました。
 今回のライブの企画準備中に震災が発生し、急遽「復興」という祈りをこめたライブとなったそうです。理不尽な災害のさなかにあって、ひとがひととつながることでしかこの困難を乗り越えることかできないことを知ったとき、わたしたちにとっての復興とはごくシンプルに障害のあるひともないひとも、すべてのひとの希望をともにたがやす社会をつくりだすことに他ならないと思っています。共に生きることも助け合うことも決して心やさしいだけではないこともまたほんとうのことで、わたしたちは、わたしたちひとりひとりが他者の存在を認め、他者の夢を想像し、他者のために何ができるのかを問うことからはじめたいと思います。
今回のライブでは、小室さんならではの特別なゲストの方々が小室さんの音楽活動50周年を祝い、スーパーセッションを繰り広げてくださることでしょう。そして、小室さんの静かな歌がゆっくりと立ち上がり、ふたたび全国各地の愛を必要とする心へと歩きはじめるのを、わたしたちは聴くことでしょう。
「共に生きる勇気」を復興の鍬として、すべてのひとの希望をたがやすために。

「特定非営利活動法人地域生活ネットゆっくりっくかわちながの」様から

「特定非営利活動法人地域生活ネットゆっくりっくかわちながの」様からのお手紙です。
牧口 様
6月11日(土)にはお忙しい中をはるばる「第3回チャリティのつどい みんな輝いて」にお出かけ下さってほんとうにありがとうございました。
当日は、チャリティの目録だけで、すみませんでした。
6月30日に「チャリティのつどい実行委員会」があり、遅くなりましたがイベントの収支と、チャリティ募金金額を確定致しました。
特定非営利活動法人ゆめ風基金あてに110,045円を寄付させて頂くことになりました。
一人500円のチケットを672人の方が買ってくださり、募金もたくさん頂戴しました。
他の団体にも寄付させて頂きましたので、1団体当たりが少なくなりましたが、たくさんの皆さんのお気持ちです。
私たちは被災地に行くことはできませんが、せめてこのお金が、ゆめ風のネットワークのちからによって被災地の障がいを持つ方のために有効に使っていただけますよう願っております。
明日、ゆめ風基金の口座にお振り込み致します。
当日、同時にロビーで行いました「東北応援フェア」の売上も72,200円になりました。
5月以来、私どもが取り組んできた宮城県の13の施設・作業所の授産品を販売する「東北応援フェア」は6月23日のイベント出店で完売!となり、総額27万近い売上を各施設あてにお返しすることができました。
第2弾応援フェアは、地域のあちこちの夏祭りで展開しようと思っています。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

ヒデの救援レポート7月4日

ヒデの救援レポート7月4日・27
 怪人20面相もどきのヒデです。7月に入ると、後段でお知らせするように、ゆめ風基金呼びかけ人代表の小室等さんのデビュー50周年&被災地支援コンサートが、11日に開催されます。そのために、牧口代表理事と、副代表理事の面相をしたヒデが、東京まで馳せ参じます。
 また、15日16日に開催される、「あみ・全国精神障害者地域生活支援協議会第15回全国大会in徳島」が阿波の国から、きれいごとばかりじゃどないもしゃあない、くんだら、くんだらと銘打って行われます。怪人ヒデは、障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」編集長の面相をして、天翔るがごとく被災障害者救援と、障害者市民現代史・筆舌に尽くし難しをテーマに、記念講演とシンポジウムをこなします。その内容は、後日にレポートしますが、入手した情報では、東北地方方面の参加者は、やはり激減しているそうです。怪人20面相もどきヒデは、パタパタばかりです。被災障害者支援ゆめ風基金に寄せられた救援金、金額は、6月30日までに、157838362円です。
支援した団体、個人への金額
 NPO法人フルハウス。フリースペース・ソレイユに500万円。支援金決定の電話は、すごく嬉しくて興奮してしまいました。感謝するばかりです。ありがとうございました。利用者の皆さんが安心して作業ができるよう、新築費用に使わせていただきます。
 社会福祉法人みのり会に375万円、東北関東大震災被災障害者救援本部・障害者ボランティア被災地派遣事業に300万円を支援しました。
 このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌:そよ風のように街に出よう:編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。広く知ってもらいたいので、転送自由。自由にお使いください。
息の長い救援が求められています。長期戦です。救援金の送り先は、郵便振替口座:00980-7-40043:ゆめ風基金です。;とうほく;と書いてください。
東日本大震災救援活動の中のボクの風景。
 一週間、宮城県障害者センターに、救援ボランティアとして活動して来た、箕面市の豊能障害者労働センタースタッフ、Iさんと、少し呑みながら、話し合いました。その中で、ちょっぴり不良っぽくてシャイなIさんは、青年らしい責任感と心の揺らぎを吐露していました。被災地に救援ボランティアとして行くと決めてから、ずいぶん心とからだが揺らいだ。本当に自分が行って役立つのかなぁと。どんなことをすればいいのかも心配だった。
 結局、現地に行くことに、結構ビビっていたんやね。障害者センターに着くと、現地のスタッフは、相当に疲れきっていて、それは、そのスタッフ自身も被災者に他ならないからで、当然だと感じた。だから、やるべきことを指示するだけで、具体的な指示は、ない。先発のボランティアが残していった、申し送り書類を頼りに、チームを組み、避難所回りや、訪問活動をやった。ボランティアにやって来るひとは、何か、心に期するものを持っていて、ガチガチに力が入っている。だから、ちょっとした事柄で、意見が食い違ってしまう。自分が行った時には、多くのひとが、いっぱい、いっぱいのように見えた。その対抗軸として、自分が考えたのは、適当に、ゆっくりとして、しっかりしょうと、チームメイトに話しかけることだった。毎日、人間関係が気にかかった。
 ある避難所で、中年の女性精神障害者のひとに出会った。そのひとは、避難所の自治組織の役を積極的に担い、自分から見ても、限界筒いっぱいに踏ん張っていて、傍目から見ていても、頑張り過ぎていると感じ、大丈夫かなぁと心配したけれど、そのひとは、そうでもしていないと心が保てないのかもしれないと思い、見守るしかできなかった。自分が申し送り書類に書いたのは、そのひととは、つかず離れずに距離感を持って、キチンと見守ることだった。毎日の活動は、やったことのないことで、自分も素人だけど、現地スタッフも素人なのだと気づかされた。上から目線や、思い上がりな考え方は、絶対禁物だね。それを活動から学んだなぁと。
 いよいよ、帰る段になって、もう少し活動に残りたいという気持ちが強くした。大阪に帰ってきてからは、自分の気持ちをなだめるのに四苦八苦してる。現地では、チームメイトと、毎晩呑んで、意見交換をしたので、カネが底を突いてしまった。チャンスがあれば、また行きたい。とニヤリと笑った、Iさんではありましたね。
 どんな時でも、心の自在が、つながりの基礎ですねと思った風景の中のヒデです。
手をつなぐ育成会・京都、右京支部からの呼びかけ!障害を持つ子ども、青年たちの将来を考える学習会
 東北大震災!その時、知的障害者は!この経験から学んで、子供として?親として?地域にとって、何が必要で何が大切なのか?
7月22日・(金)・午前10時-12時、さんさ右京5階会議室(右京区役所内)
特定非営利法人・ゆめ風基金、八幡理事の被災地現地報告講演。ゆめ風基金は、阪神淡路大震災を機に、地震などで被災した障害者を支援しょうと、永六輔さん達の呼びかけで発足して以来、被災障害者支援活動を続けていられます。今回も、殆ど東北に張り付いて障害者の支援をされています。現地での体験談や、知的障害者の自立への挑戦と地域のつながりの大切さを改めて感じたとのことです。会員以外でも、右京地域以外の人でも、参加歓迎です。悩みは一緒です。子供や親のつながりこそが、親なき後の子ども達の明るい未来をつくります。連絡先・872-5376
ヒデの友人の吹田市の千里寺の住職、武田達城さんが出している寺報:如是:第824号のレポートの2です。
 震災支援の報告
 5月29日朝9時、阪急淡路駅近くにある拠点から、10トントラックに物資を積み込みました。作業も2回目、少し要領もよくなり1時間ほどで終了。このトラックは、桑名市の拠点で300セットを積み込み、翌日再び宮城県亘理町で再会します。ご門徒の法事をお勤めして、長男と一緒に午後3時15分伊丹発で空路仙台へ向かいました。
 翌30日は、台風2号から変わった温帯低気圧が梅雨前線を刺激し、被災地各地で記録的豪雨となりました。8時にレンタカーのトラック2台で仙台駅前を出発、予定より30分遅れて亘理町到着。まず避難所になっている体育館へ向かい、再会した10トントラックから284セットを下ろしました。これで亘理町へ1000セットの約束を果たすことができました。新たに近隣の新地町からの要請を受けておりましたので、真光寺で町民の皆さんとセット化作業を始めました。段ボールに入れて物品ごとに運んだ物を衣装ケースに入れていく作業です。これがなかなか手間がかかります。未使用品の食器も、ほこりやシミがついている物は洗い直して納めます。夜7時半に作業終了。
 31日は、手分けして数カ所の仮設住宅で無料バザーを行いました。仙台からトラックを借りたのはこのためです。皆さまからお寄せいただいた中に、お願いした物以外のいわゆる番外品がたくさんありました。お気持ちを無駄にしたくないと思いついたことで、各地で好評でした。一連の作業で出来たゴミを行政指定の場所まで運び、このたびの作業完了。仙台午後5時25分発で伊丹に帰りました。
 行動してわかったことですが、ボランティアには、はい、これでおしまいというような、きりはありません。6月中に新地町に合計586セット、福島第1原発事故に関連して、福島県楢葉町の被災者に対して、同様の生活用品500セットの提供を進めています。さらに仮設に入られた方には、食事の支援がないこと、限られた電力事情でこれから迎える猛暑、その次に来る厳冬と問題は山積みです。ひとまずの区切りを報告いたしました。今後は、息の長い支援の輪を広めていきたいと考えております。有り難うございました。2011年6月中旬。住職
障害者問題総合誌そよ風編集部の福本さんからのお知らせ!
7月30日午後4時より。武田さんのお寺、千里寺で:阪急千里山駅西口下車、徒歩5分:電話、06-6384-0747。参加費1000円。救援活動を兼ねた、視覚障害者の落語家・桂福点さんの落語会が開かれます。みなさんの参加を呼びかけます。ゆめ風基金代表理事の牧口さんも参加します。
6月25日に行われた、被災障害者救援本部おおさかの統一共同救援カンパ行動には、久しぶりに晴れたとはいえ、台風の接近による、猛烈な猛暑になりました。外を歩いているだけで、肩で息をしなければならない暑さでした。そんな中、45人以上の仲間が、難波、高島屋前で、午後1時から5時まで、被災障害者救援を声を枯らして、訴えました。集まった救援金は、111845円でした。本当にご苦労様でした。7月の統一共同カンパ行動日は、9日と23日です。(土)難波高島屋前で、午後1時から5時まで。みなさんの参加をお願いします。
ゆめ風基金に届いた振り込み用紙のメモから。
 最寄り駅の山陽本線中庄駅前で約30名の生徒たちが、5月31日(火)の放課後、自分の都合のよい時間に、ゆめ風基金の街頭募金活動をしました。その時の募金を送ります。よろしくお願いします。清心中学校・清心女子高等学校
 7月11日・午後6時より、ゆめ風基金呼びかけ人代表の歌手、小室等さん、デビュー50周年記念and被災地支援コンサートが、ゆめ風基金との共催で、東京新宿、全労災ホールで行われます。大阪のゆめ風基金事務局からもスタッフが参加します。
 
 東北関東大震災被災障害者救援本部とうきょうの会合が、12日午後、戸山サンライズで開かれます。
 東北関東大震災被災障害者救援本部おおさかの会合は、22日午後6時半より、地下鉄大国町駅下車、徒歩5分、バーティー・バーティーで開催されます。八幡理事の被災地報告もあります。以上!

「共生型の社会を探る」(~被災地の未来と、支え合う地域つくりを共に考える~)

 7月2日、大阪市立浪速区民センターで、NPO法人共生型経済推進フォーラム主催の「共生型の社会を探る」(~被災地の未来と、支え合う地域つくりを共に考える~)というシンポジウムが開かれました。
 湯浅誠さん(内閣府参与で震災ボランティア連携室長、元「派遣村」村長)が基調講演で被災地の復興はこれからの日本社会のあり方と結びついていること、「半福祉、半就労」という働き方を積極的に進めることで被災地をふくめた日本社会の就労問題への新しいアプローチの可能性を提案されました。その後のパネルディカッションでは法橋聡さん(近畿ろうきん地域共生推進室室長)さんをコーディネーターとして、「被災地の未来と、支え合う地域づくりを考える」をテーマに、勝部麗子さん(豊中市社会福祉協議会地域福祉課長、コミュニティソーシャルワーカー)、有井安仁さん(わかやまNPOセンター理事長)、斎藤縣三さん(共同連事務局長)に湯浅誠さんが加わり、それぞれのハネラーの方々の日常の活動のお話から被災地支援活動とのかかわりについて話され、議論されました。
 
 貧困問題が示す日本社会のありようをえぐり、その解決にむけた取り組みから新しい日本社会のすがたを提案してきた湯浅さんは、被災地ではいま2つの貧困があると言います。
 ひとつは家が壊れ、仕事をなくし、蓄えもない状態で生まれる新たな貧困ですが、もうひとつの貧困はもともとあった貧困、ワーキングプア、非正規雇用、請負、ホームレスなど、格差社会の底辺で少しずつ顕在化してきた貧困が、震災をきっかけに凝縮してあぶりだされると言います。
震災から4カ月になろうとする今、避難所に残されているひとびとはもともとの貧困をかかえている人が多く、幸か不幸か、震災前には見つからなかった人が、避難所にあつまったことでサポートの入り口になるチャンスも生まれています。
 そして、貧困から脱出するには地域で就労していく道筋を制度的につくりだしながら、それぞれの貧困に寄りそい、復興のプロセスで誰一人取り残されないよう(「社会的包摂」・ソーシャル・インクルージョン)きめ細かいサポートが求められます。
阪神淡路大震災ではそれをせず、多くの震災関連死(孤独死など)がありました。今回でもすでに起きていますが、これ以上犠牲者を生まないようにするのが、残されたわたしたちの役割なのだと思います。
 わたしたちの社会ではいままで、働くことと社会保障が併存しませんでした。ですから、日本の社会保障は年金に偏っています。働くか失業かの2つしかない労働観にもとづいた就労政策では被災地の地域雇用がまかなえるはずはなく、生活保護の受給を求めるひとが多くなります。日本全体の生活保護受給者の数は1952年と同じになっているそうです。
 わたし(湯浅さん)は一般就労と失業の間に、中間的就労とよべる就労を制度的に位置づけることを提案しています。そうすることで、働くことと社会保障が併存する仕組みが生まれ、失業を減らし、生活保護に頼らない生活が保障されるのです。
 たとえば障害者の就労について学ぶことで、その仕組みを考えることができます。
 障害者の場合、福祉、つまり社会保障と就労が併存しています。就労継続支援事業B型は福祉の方に重点があり、就労継続支援事業A型は就労の方に重点があります。このような柔軟な働き方がマイノリティの分野でなく、マジョリティになっていくことで「中間的就労」を制度化し、失業者を減らし、そんなに多くの給料でなくても助け合いながら暮していける共生型社会への一つのアプローチになるでしょうし、「無縁社会」をつくらない社会的包摂の取り組みを進める大切なものになると思います。
 湯浅さんのお話は、大きくみればまったくそのとおりだと思います。ただ、「中間的就労」のモデルとして障害者支援事業のA型、B型で説明されていましたが、ここはもしかすると湯浅さんの勘違いがあったのかも知れません。というのも、障害者自立支援法にもとづく就労継続支援事業はB型はもとより、A型でも福祉政策であって労働政策ではないと思います。もともとB型は生きがい対策だけで給料をともなわない授産施設や作業所に適用できるものですし、A型は福祉工場に適用されたものです。A型は雇用保険の適用や最低賃金の保障など労働行政と思われるかも知れませんが、あくまでもそこで「働く」障害者は福祉サービス利用者であり、事業所側はサービスの提供者になります。そのため、大きな問題になったのが利用者の一割負担の問題でした。当時は負担そのものが大きな問題となって目立ちませんでしたが、就労継続支援事業A型の場合、労働にかぎりなく近い形でありながら福祉サービスの受益者として位置づけられ、一割負担をせまられることになりました。
 もうひとつ、湯浅さんは障害者ひとりひとりにあわせたサービスとして個別支援計画を肯定的にとらえられていましたが、ひとりひとりの支援ニーズにあわせたサービスと言えば聞こえはいいですが、実は障害者を国の福祉サービスの枠内に閉じ込めてしまうとても危険なものであることは障害者運動がかねてより指摘するところです。わたしたちは障害のある人もない人も共に働き、給料を分け合う就労の場を求めているのであって、障害者を福祉サービスの対象とする福祉的就労の場を求めているのではないのです。
 それでも、湯浅さんのお話はとても大切な提案で、一般企業への就労が困難なひとの中間就労を制度化していく中で、障害者就労も福祉サービスの枠内に閉じ込めるのではなく、福祉と労働の複合政策による第三の道をめざすチャンスになるのではないかと期待します。
 パネルディスカッションでは障害者運動の立場から、斎藤縣三さんがそのあたりをわかりやすく例を用いてお話しされ、参加者の理解を深めました。斎藤さんは近年障害者の就労問題から一歩踏み出し、湯浅さんとまったく逆の立場から社会的事業所の制度化とその推進を一貫して提案されてきました。社会的事業所とは障害者に限らず働きにくい立場におかれるひとびとが生き生きと働ける事業所で、そこでは障害のあるひともないひとも共に働き、ともに給料を分け合います。そんな働き方は湯浅さんの中間就労と同じで、被災地での就労をすすめる力となるだけでなく、被災地をいままでとはちがう、新しい日本社会のあり方を示す再生へと導くことを、力強く発言されました。
 勝部麗子さんは豊中市社会福祉協議会の活動として、しのびよる「無縁社会」とたたかい、小規模な福祉の大切さを形にした活動を報告されました。
 豊中市は阪神淡路大震災の被災地として、貴重な体験と課題を持っていました。避難所での公平平等の論理では今困っている人を助けられないと、必要なひとに必要な支援をとNPO活動やボランティア活動が生まれた16年前の経験がある一方で、復興の過程でコミニュニティがずたずたに分断され壊れていた姿も目の当たりにしてきました。
 その経験が今回の災害に充分には生かされていないと思いながらも、被災地とつながる支援のあり方はさまざまにあり、目的がはっきりしている学用品を救援物資として届けたり、被災地の地酒を飲む会を開きその収益を被災地におくったりと、ユニークな支援活動を企画実行されてきました。
 そして、被災地から疎開してきた11家族28人の被災者を訪問し、必要なものを届けたり池田、箕面の社会福祉協議会と共同で箕面温泉での被災者交流会を開いたりされました。その中で印象的なお話として、農業しかしてこなかった被災者から農産物をつくるために毎日触ってきた土をさわれない悲しみを聞き、地元の障害者団体などがしている園芸教室の講師になってもらったということでした。
勝部さんは、大阪府が進めるコミュニケーションソーシャルワーカー事業の担い手として、個別のニーズに寄り添うことでいろいなサービスの隙間を埋めることの大切さをうったえられましたが、この考え方は湯浅さんが提唱され、国がモデル事業としてはじめているパーソナルワーカーとほぼ同じ活動で、連携することでより効果的な活動になることが期待されます。
 わかやまNPOセンター理事長の有井安仁さんのお話では、まずわかやまNPOセンターは多様な価値観や文化が尊重され共生できる社会をつくることをめざして10年になる民設民営のNPO活動を支援する組織で、和歌山県全域を対象としているとのことです。今回の災害では和歌山県下のNPO団体がわかやまNPOセンターに結集し、相互連携しながら被災地支援活動をするためのコーデイネートをしているとのことでした。被災地支援活動に携わる人は現在150人が登録していて、毎週水曜日に定例ミーティングを開いている他、毎月11日に現地報告会を開いています。
 とりわけ画期的なのは、一般の義援金ではなく、被災地の支援をするNPO団体の活動を支援する「支える基金」募金活動を展開し、200個の募金箱を一ヶ月単位で設置、回収し、累計2,374,295円の基金が寄せられたそうです。すでに第一回助成が終了し、4団体に各25万円の助成をし、現在第二回助成の選考中です。被災地支援とは言え地域を越えた支援活動を支援するこの活動は、息長く被災地とつながる支援活動として注目されています。
 今回のシンポジウムは、被災地の復興プロジェクトの中でともすれば忘れられ、取り残されてしまう人々の存在が排除されることのない、共に生きるセーフティネットを市民の手でつくり、それを行政施策へとつなげていくことを課題として提起しました。そして新しい日本社会への再生は、「共に生きる」ためのさまざまな冒険から実現できることを確信し、今後の活動に有意義な集まりとなりました。
 この会を企画され、準備されたNPO法人共生型経済推進フォーラムに敬意を表します。
                                        報告・文責 細谷常彦

現地ボランティアのナマナマ情報3

6月24日木曜日
今日は仮設住宅の集会所で行われているお茶飲み会に参加した。
「傾聴の会」という普段は高齢者デイサービスなどに赴きお話ボランティアをしている団体が、宮城県名取市内の仮設住宅で週一回住民の方に呼びかけて集会所に集まってもらい、お茶やお菓子を出してお話をするという取り組みにお邪魔した。
その住宅(仮設住宅に名称が付けられたが「○○住宅」「○○団地」というように「仮設」という言葉は使われていない)に住む障害当事者と関わりを持つようになり、障害を持ちながらもその住宅の要となり様々な活動をされているその人(Aさん)を「被災地センターみやぎ」がさりげなく支えていける関係を持ちたい、という野望のもとお茶会にお邪魔する作戦を実行。
当初は自治会長に受け入れてもらえず交渉に苦戦した。被災前からの町内ごとに仮設に入居している為、おそらくこの住宅の自治会長は震災以前もその地区で自治会長もしくはその町内で影響力のあった人物と考えられる。Aさんに直接交渉しても「自治会長を通してください」と返される。何とか自治会長にお許しを頂き、お茶飲み会作戦を思い描いて2週間後にようやく実現した。
集会所には60代くらいのボランティア6名ほどと、主に高齢者の住民がテーブルを囲ってお茶を飲みながら話していた。すでに話し込んでおり、突然やって来た若者が話に入れる雰囲気ではなく、床に座ってお茶汲みをしているボランティアさんの横で色々話を聞きながら観察することにする。住民2人とボランティア1人で話しているグループは、住民の1人がハンカチで涙をぬぐっている。そうかと思うとみんなで笑ったりして、お茶飲み会の役割の大きさを目の当たりにする。ぜひ他の仮設でも開催してほしいと思ったが、傾聴の会仙台の名取支部はボランティアが10名ほどしかおらず、震災以前から行っている高齢者デイでの取り組みも続いており、なかなか他の仮設住宅にまでは手が回らないとのこと。傾聴の会代表の60歳くらいの女性はバリバリのキャリアウーマンのような雰囲気で、この人なら手広く広げていくかもしれないと思った。
自治会長は話してみると気さくなおじさんだった。いわゆる「地域ボス」の風格漂うものの、帰り際には「また来なさい」と声をかけていただく。聞くと以前は小学校の校長をしていたそうで、なるほど自治会の運営にもその経験が生かされ集会所の活用やボランティアの受け入れ態勢ができていると感じた。その住宅は入居が第一次であったことに加え、そのような自治会長の存在や住宅の要として動いてくれるAさんのような住民の存在があるお陰で他の仮設住宅にはない活気がある。まだまだこれから自治会を組織しようとしている段階の他の仮設に比べ、この住宅の集会所の活用度は飛びぬけている。
Aさんは相変わらず忙しく走り回っている。業者との相談、訪問者への対応、ボランティアの調整、自治会長との打ち合わせなどなど、やること山盛りで大忙しのご様子。とてもこちらから世間話ができる雰囲気ではなく、今日は話せないなと諦める。本人が「被災地センターみやぎ」に対して支援を必要としているのは主に住宅に住む住人への物資提供(オムツ、杖、踏み台など)であり、Aさん本人への支援ではないので、こちらから見れば限界間際で頑張っているその人を何とか支えたいという思いを持たずにはいられないが、ゆっくり時間をかけて関係性を作っていく必要がある。センターの人間も、Aさんをキーパーソンのような位置づけでつかず離れず繋がっていきたいと考えている。
昨夜はボランティア10数名で飲んだ。埼玉にある知的障害者の入所施設から二人の職員が5日間のボランティアで来ている。センターの活動を知って自ら志願した32歳男性の主任と24歳女性の職員が一生懸命活動している。ボランティアに志願した理由を主任に問うと、「自分は入所施設という小さい枠の中で働いていているが、もっと広く障害者のことを知りたい」というようなことを言っていた(私の理解では)。「施設」というフレーズには敏感に反応するような支援者が多い中で、施設職員という彼らの存在はある意味異質だ。施設職員の主任の方が、飲み屋で脱・施設派の年上のボランティアに何やら懇々と説教されたり思想性について詰問されている様に大いに同情しつつも、もしかしたらこのボランティア活動が彼の価値観を大きく変えるかもしれないと思うと、「まぁそれもありか」と酔っ払いに説教されている彼に心のエールを送った。「利用者」「メンバー」というフレーズにすら反応するくらいはっきりとした思想性を持つ支援者と、「障害者に関わる仕事がしたい」という純粋な思いで入所施設職員になった人間が一緒に飲むなんて、そんな面白い場面はなかなかないのではないか。ここに来る前私は母に「毎日飲みなや」と警告されていたが、ボランティア仲間と飲むのはこれだから止められない。と言ったら言い訳がましいが・・・。
今週は社会資源調査と称して名取市内の福祉サービス提供事業所をしらみつぶしに回った。障害者を専門にしているところはほとんどなく、多くは介護保険を中心に事業を行っていた。建物がえらく立派な事業所で「こんなに金があるところはまぁ大丈夫だろう」と思ってしまうが、話を聞くと津波で利用者が大勢亡くなりヘルパーが多数被災したのも加え仕事が3分の1になった、という事で大変そうだ。対応してくださった職員の「また一からですね・・・」という言葉には、今まで積み上げたものを失くしまた一からスタートすることの大変さを感じた。
ちょっと聴き取り調査に行ったつもりの社会福祉法人では、施設長からゆめ風基金から資金の支援の要請を受けた。津波で全壊した知的障害者通所施設を案内され、急遽建設した仮の施設の見学へ行き、津波で町ごと流されたゆりあげ地区を解説つきでドライブして頂く。自分たちで許可証を取って入っていった地区に施設長は顔パスで入るのはさすが。やはり自分たちだけで車で走るのと被災した張本人に案内されて見るのとでは実感がまるで違う。日中活動の場を失った利用者に一日でも早く活動に戻ってもらおうと緊急的に作った建物は、行政に様々な申請や報告をする前に作ってしまったので補助を受ける条件を満たしておらず、あらゆるところに資金提供をお願いするもことごとく断られたという。施設長は総費用2000万円のうちの、早急に支払わないといけない工事費用900万円のせめて半分をお願いできないかと言う。とにかくどこかから金を引っ張ってこないといけないという必死さ、「被害の状況を目で見てもらって伝える!」という施設長の熱意には感銘を受けつつも、もとあった施設も新しく建てた仮の施設もそれはそれは立派で、「ゆめ風がこういう法人をバックアップする可能性は低いかも」と思っていたが、今朝八幡さんに聞くと資金提供を決定したとのこと。わたしたちの3時間は無駄じゃなかった、というよりは施設長の熱意の勝利であり、たまたま私たちが訪れたラッキーとも言えるかもしれない。数十名の知的障害者まとめて引き受ける巨大な通所施設は「地域で生きる」という運動とは違う方向を向いているように見えるが、この地域にはあの法人のような大きな施設の他に障害者が行く場所がほとんどない。ゆめ風基金がこの法人への支援を迅速に検討し決定したことは良かったと思うが、それで終わるのはもったいない気もする。将来何かの形でこの法人とゆめ風やCILたすけっとが繋がれば、支援した甲斐がなおさらあるんじゃないかと思う。
精神障害者のグループホームを訪ねて世話人に「何か情報はありませんか」と聞いたら、逆に情報を流してくれませんかとお願いされたこともあった。グループホームで生活していた60代の男性が、震災から4日目の3月15日、おそらくパニックを起して失踪した。警察に捜索願を出しているが震災から3ヶ月経った今もまだ見つかっていない。詳しい情報をFAXしてもらってローリングで回る各チームに気にかけるようお願いした。当時は雪が降っていて長靴を履いていたという。今の仙台は先週は夏日で汗をかき、今週は梅雨入りして毎日雨が降っている。その人はどこかで雨をしのいでいるだろうか。