7日、8日に開催された、箕面市民人権フォーラムには、全体会に1000人を超える参加者がありました。
2日目の分科会の中の「障害者市民分科会」も盛況で、「障害者市民の防災」をテーマに、会場の小学校の地域防災備蓄倉庫、避難所になる体育館、1階にある1年生の教室などを見学。
ゆめ風基金の八幡理事のコーディネイトで、避難所を巡るグループワークがとても好評でしたね。
●東北・関東大震災障害者救援本部特集号№7
自立情報発信基地からの転載
連絡先
TEL 042-660-7747
FAX 042-660-7746
「被災地で移送サービスをしています」宮城県山元町 NPO法人 ささえ愛山元:理事長 中村怜子
~ともしび~
あの日から丸2年が経つ。
悲喜こもごも書ききれないほどの感情が湧き上がる。
ささえ愛山元が、高齢者に買い物や家事援助を提供するボランティア団体を立ち上げたのは、平成6年のこと、高齢化率が急速に高くなった頃でした。
民家を改造し小規模のディサービスを始めたのは10年前のことです。
会員も24名に膨らみ、高齢者に寄り添い、支える方も生きている喜びを感じながら3.11まで楽しく活動をしていた。
しかし、東日本大震災は、私たちの日常を根底から変えた。
大津波で2つの施設が破壊され、3名の職員も犠牲になり、再開など考えられなかった。
戦争でもこんなに破壊されない。
山元町はひどい被害だと支援の手をあちこちから頂いた。
戦後の窮乏生活は体験していたが、これまで味わったことのない身体の芯からの震えが止まらない日々だった。
移動サービスネットワークの菅原さんが菊地正明さんと一緒に避難先で憔悴している私達に会いに来てくれた。
ビッグなプレゼントを持って行くからとの前約束どおり、「隣町の元歯科医院の跡地で活動しませんか」と障害者センターと大文字のステッカーのある軽自動車を「自由に使っていいよ」と置いていった。
全てを失った中、地獄に仏であった。
忘れもしない5月2日のこと。
被災した障がい児・障がい者のために設立した「被災地障がい者センターみやぎ」の県南支部の業務を担当することになった。
主に高齢者に介護を提供する18年間であったので、私たちに出来るのであろうか。
震災から2ケ月も経っていて、障がい児や障がい者はどこで暮らしているのか?
避難所では会えなかった。
続々集まってくる支援物資を亘理や山元の仮設に配りながら探した。
余震がまだ続いていた頃、視覚障害者が余震で転倒して…と役場から援助依頼の電話が入った。
職員はすぐ飛び出し、額に傷を負って震えていた白杖使用者のWさんを助けた。
その後彼女は、サロンのお客様第1号となった。
又、みなし仮設に朝7時に迎えに行き、20キロ先の中学校に息子を下ろし、更に7キロ先にある障害者憩いの場へ母親を乗せた。
帰りは母と息子を家に届ける。
混み合っている時間帯の送迎も職員の協力で支えることができた。
親子の移送サービスを何日かしていた日、息子から被災地障害者センターの看板をはずしてほしいと云われた。
恥ずかしくて学校に行けないと。
車が1台しかなかったので私たちも、デリカシーが足りなかった。
急きょ、職員の買ったばかりのプリウスを走らせた。
ケアホームの交通も寸断され、職員の車を使いながらの受診や買い物などを支援することができた。
町の半分以上が被災し、地域を知り尽くしている私たちは仮設を順番に回ってパラソル喫茶を開き、被災者に寄り添った。
今度の3月9日は久しぶりのパラソル喫茶を開催します。
この2年間は生きるということはなにか、幾度も自問しました。
宮城県の最南端で細々と活動している「ささえ愛山元」が、多くの方々と関わりを持って今日まで生かされてきた。
絆というともしびとなって。
以上
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これまで届けた救援金
302,305,994円(2013年11月29日現在)
内・東日本大震災救援金総額
256,296,909円(2013年11月29日現在)
ただいまの基金残高
263,092,225円(2013年10月末日現在)
このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、
被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。
広く知ってもらいたいので、転送自由。
自由にお使いください。
息の長い救援が求められています。
長期戦です。
救援金の送り先は、
郵便振替口座:00980-7-40043 ゆめ風基金です。
「とうほく」と書いてください。
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●東日本大震災救援活動の中のhideの風景
・大阪府吹田市にある:ぷくぷくの会「機関紙:まねき猫通信№129」からの転載
連絡先
TEL 06-6317-5598
FAX 06-6317-0936
当事者リレーエッセイ
●失敗から学ぼうとしない人々(佐野武和)
「『想定外』でなくなった原発事故」
改めて考えるに、私の住んでいる湖北は敦賀・若狭の原発から30キロの位置にある。
若狭には日本で唯一稼動中の大飯原発がある。
滋賀県は盛んに電力会社との間で原子力事故防災協定をむすぼうとしている。
しかし「隣接の自治体以外は協定の対象から外れる。」らしい。
なんという言いぐさだ。
風に乗ってさまよう放射性物質には県境も市町の境もない。
湖北の自治体・長浜市と米原市が相次いで原子力防災計画を発表した。
ハンドブックも各戸に配布された。
しかし、かなり失望した。
国や県の情報を伝達するという姿勢を超えられていないし、その中でも要援護者に関する独自の支援策が見えてこなかった。
ところが唐突にぽてとファーム事業団と市の間で福祉避難所としての協定をむすびたいときた。
そうすれば緊急避難物資の配給を受けられ個々の要援護者の状況に沿ったコーデネイトが受けられるという説明だった。
まったく楽観的で、福島で起きたこと、今なお起きている現実とかけ離れてしまっている。
たとえば南相馬ガソウデアッタヨウニ多くの市民が避難流出する。
国が線引きする避難指定区域と避難準備区域に惑わされ、しかも多くの要援護者が取り残される。
行政機能を移転させようにもその根拠と指針を失い一転二転する。
病院機能も福祉的機能も崩壊すれば本来要援護者は地域にとどまることはできない。
すでに原発事故は想定を超えた出来事ではない。
現実の事故なのだ。
原発で失われた大切なもの
幼いころ若狭の海に何度か海水浴に行った。
琵琶湖と違って塩っばい海水に驚き、なんとなく浮力があってはじめての泳ぎを覚えたのもあの海。
冬になると カニが美味で、敦賀からの行商のおばさんを待ち続けた。
小さなセコガニが好物で売り切れと聞くと泣いたのを覚えてる。
あんなに敦賀や若狭と暮らしが結びあっていたのに、豊さの代償、原発のおかげで大切なものを失った気がする。
どれだけたくさんのお金がばら撒かれても、地域の人々が幸せにはなれなかった責任を、政治や電力会社そして得体のしれない原子力を生業にしてきた人たちにとらせるぞ、と怒りがこみ上げる。
加えて「原子力の平和利用」を掲げていた人たちにも怒りをぶつけたい。
以上