★1月21日、ゆめ風事務所の郵便受けに、普通の茶封筒が無造作に入っていました。
内容物を確認すると、現金が7万円、2枚の便箋。
その便箋には、短く3行の文章が書き付けてあり、
「私のあることへの贖罪の気持ちです。申し訳ありませんが、住所、氏名は、
仮のものです」とありました。
匿名のために、領収書もお礼状も出すことができません。
どのような贖罪なのかは、見当もつきませんが、ありがたく、被災障害者支援金として、拝受する事にしました。現金書留ではない茶封筒の裏書きの住所は、東京都江戸川区ですが、世の中には、想像を超える、人びとの気持ちがあるんだなぁと、ついつい、首傾げ、傾げでした。
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これまで届けた救援金
236,894,624円(2013年2月12日現在)
内・東日本大震災救援金総額
191,385,539円(2013年2月12日現在)
ただいまの基金残高
260,654,573円(2012年12月末日現在)
このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、
被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。
広く知ってもらいたいので、転送自由。自由にお使いください。
息の長い救援が求められています。
長期戦です。
救援金の送り先は、
郵便振替口座:00980-7-40043 ゆめ風基金です。
「とうほく」と書いてください。
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●東日本大震災救援活動の中のhideの風景
【たむら市民ネットニュースVOL:6 2013年1月21日号】からの抜粋
「市民による健康を守るネットワーク」
福島県田村市船引町東部台2-285
TEL 0247-82-2909(9時~17時)
私が国連人権委員アナンド・グローバー 氏(インド人弁護士)に話したこと(Sさんの文章の抜粋)
・昨年11月20日福島市内の被災地支援団体事務所内にて、夜7時30分から約1時間、単独インタビューという当初の内容を変更して行いました。
法人の事業・活動以外に昨年2月1日から食品等の測定を行う活動を通して、
また独自に市内小中学校、幼稚園の校庭、園庭付近の土壌を測定し、その結果、
予想を上回る放射能汚染のデータを市の災害対策室、市の教育委員会に対して提出し、
校庭、園庭内外の測定とその対策についての要望を行った。
市の災害対策室は、除染は、前年度の予算を今年執行することから、新たな除染費用を早急に予算化することは難しい事との説明を受けた事。
また、この土壌の測定を行っているところで、黒い色のある種のバクテリアは、放射能を多大に吸収する性格があり、船引町のJR船引駅の駐輪場付近のバクテリアを自前の簡易測定器で計測した結果、10万ベクレルの数値を示し、市内外至る所に生息していることを考えると行政としての対策を行う事が必要であると判断し、同じく市の災害対策室、市の教育委員会に対してデータを示して行った。
後日、市の災害対策室はゲルマニウム半導体測定器に委託測定しセシウム134、137合わせて10万ベクレルの測定結果から、国に問い合わせたところ、最終処分地が特定できないところで、何もできないと話されたとの事。
〓後略〓
18年前、阪神淡路大震災の折、「被災地障害者センターこうべ」を立ち上げた、ゆめ風基金の畏友、大賀重太郎さんの関連記事。(日本経済新聞 2013年1月11日(金)夕刊
「思い継いで~阪神大震災18年(写真付き)復興、障害者の目線で 被災地訪ね、自立支える」
・ハンチング帽をかぶった人なつっこい男性の遺影を車いすに乗った障害者ら約130人がじっと見つめた。
学生時代にたまたま障害者と出会って以来、障害者支援に半生をささげた団体職員、大賀重太郎さん(享年61)を偲ぶ会が昨年10月、神戸市で開かれた。
東日本大震災で被災した障害者を支援するボランティアも大勢駆け付けた。
・安否確認に走る
1995年1月、阪神大震災の朝、大賀さんは兵庫県姫路市の自宅にいた。
『身動きのできない障害者がたくさんいるはず』
つながりやすい公衆電話に通って障害者の安否確認などに奔走。
自宅を拠点にワープロ通信でファックスを送り続けた。
「無事か?だいじょうぶか?」
頭文字をとって「ΟZの箱」と名付け毎日発行した通信は何度も転送され、
全国100カ所の施設や個人宅に届いた。
半月後には「被災地障害者センター」を立ち上げて行き場を失った障害者を探し出し、
ボランティアの若者らと24時間介護をした。
『復興じゃない。震災前より良くしていくんや』が口癖でした。
ファックスをきっかけに神戸市を訪れ、今も同市長田区で障害者支援に携わる毛利須磨子さん(41)は振り返る。
『障害者は仲間。困っている人を探して、困っていることを聞くんや。』
若いボランティアに大賀さんはいつもこう語りかけた。
障害者の避難生活を間近で見た大賀さんは95年5月、兵庫県と神戸市に復興計画への要望書を出した。
「障害当事者と共同でニーズ調査を」
「仮設住宅の段差やトイレは高齢者や障害者の生活が前提になっていない」
こうした声が少しずつ行政に届き、復興の過程で駅のバリアフリー化などが実現していった。
そして16年後に起きた東日本大震災。
阪神大震災を機に障害者の自立を支援してきたNPΟ法人「ゆめ風基金」(大阪市)を中心に、
のべ100人を超える障害者がヘルパーを伴って東北を訪れた。
東北で、生活相談・東北の被災地では7カ所で「被災地障害者センター」が立ち上がり、
障害者の生活相談や送迎を手掛ける。
ゆめ風基金の橘高千秋事務局長は
『大賀さんを中心にやってきたことが今の活動の教科書になっている。』と話す。
2004年、大賀さんは交通事故で高次脳機能障害になり、晩年は障害者施設「ひびき福祉会」(兵庫県姫路市)などに役員としてたまに顔を出すのが精いっぱいだった。
昨年7月、食事をのどに詰まらせて急逝した。
『被災地に行きたいんや。』
昨春、同会の後藤由美子理事長(54)は大賀さんの絞り出すような声を聞いた。
『東北が気になって仕方がないのに、自らも障害者になり体が動かず悔しそうだった。
これからも活動を続けることが大賀さんの願い。』と空を仰いだ。
ヒデの救援レポート2013年2月18日№108 以上。