被災地の、ほんとうに困っている仲間に一日も早く出会いたい 牧口一二

被災地の、ほんとうに困っている仲間に一日も早く出会いたい                                                                                                             
               被災障害者支援NPOゆめ風基金 代表理事 牧口 一二
 カタカナ文字(英語など)の氾濫にはついていけない年齢になった(でもまだ七四才、とカラ元気)。便利だから仕方なく、苦手ながら手を染めてしまったパソコンもなかなか思うように動いてくれず、何が原因かと、「ヘルプ」をクリックしてみても説明文が日本語なのにカタカナ語で皆目わからない。
 そんな毎日をすごしているボクに、ほんとに久しぶりにこの欄の原稿を、との依頼がきた。もう現役を引きつつある身に(軽~いジャブ)なんでだろう? きっと今回の東北関東大地震大津波そして福島原発大事故がらみに違いなかろう、と思いきや…………その通りだった。
 阪神淡路大震災のとき、障害者仲間はあちこちで後回しにされた。わからないことを尋ねると「いま、それどころではありません」とまで言われた。今回の東北でも「あなたの来るところではない」と言われた、と聞く。
 ほんとうは世の中全体が大騒動になったとき、いちばん先に助けられるのは、障害者・高齢者・子どもたち・社会的ハンディを負わされた人々だろう。ところが、「そんなの理想論」と世の中という顔がうそぶく。緊急時には、そんな論争をしているヒマがないから、われら障害者は何度も繰り返される苦い体験から、いざという時に備えてふだんからお金を蓄えておこう、と「ゆめ風基金」運動を始めた。 
 今回の原稿は、東北関東大地震大津波そして福島原発大事故(長く書けない、ということか、早くからマスコミなどは「東日本大震災」としたが、東北や原発があいまいにされそうで、ボクは略さない)のことに関連づけて述べよ、ということらしい。
 「ゆめ風基金」は十六年かかって多くの人々のおかげで、二億六千万円ほどを蓄えた。その内、この間に起こった海外を含めた三〇件ほどの被災地の障害者に合計六千万円強を届けてきた(当初は海外は念頭になかったが、災害が起こると知らん顔はできなかった)。そして今回の大災害、残り二億円をそっくり東北関東の障害者たちに活用してもらおうと、緊急の理事会ではみんながそう思っていた。
 そこで「ゆめ風ネット」(いま全国に51か所)に参加している「ネットみやぎ」と「ネットいわき」に連絡を取り、すぐに八幡隆司理事が現地に入り、二億円の届け先を探し始めたが簡単ではなかった。避難所めぐりをし、「困っている人は? 障害者はいませんか?」のビラを配ったが反応は鈍かった。「ゆめ風基金」はNPO法人といえど民間の勝手連みたいなものだから不平等が許される。ほんとうに必要としている障害者に手渡すごとく必要な額を届けたい。八幡理事は懸命に探してくれたが、あまりにも被災した地域が広く、なかなか見つからなかった。
 で、その前段階の拠点づくりから始めることになった。岩手、宮城、福島にそれぞれ被災地障害者センター(盛岡市、仙台市, 郡山市)と緊急避難所(宮守町、登米町、亘理町)を現地の障害者を中心にした活動で設置できたところだ。これらの拠点を軸に、ほんとうに困っている障害者との出会いを求めて本格的な活動が展開されようとしている。
 今回の大災害の後も全国から支援金がどんどん寄せられ、「ゆめ風」に寄せられただけでも新たに一億六千万円が加わった(7/8現在)。これらの支援金は全国の障害者と仲間たちに届けられたもの、どうか困っている仲間のことを知っておられる人はゆめ風事務局(TEL06-6324-7702~3/FAX06-6321-5662)にご一報ください。急いで理事が集まり検討させていただきます。
 ところで、全国連の運動趣旨に沿っていうと、災害が起こり避難所に逃げ込むとき、障害者の多くは避難所で暮らせるか否か、が問題になる。阪神淡路のときは車いす常用者がトイレに困り、半壊の車いす住宅に戻るしかなかった。また、愛知の水害では知的障害グループのリーダーから伺ったのだが、「避難所では落ちつかないし、他の避難者からトヤカク言われたくないので、知り合いのスーパーの屋上に避難させてもらって難を免れたけれど、後で考えると、まずは避難所に行き「どっこい生きてるよ」と伝えるべきだったかな」とのこと。
 今回の東北の避難所でも「福祉避難所」の必要性が大合唱される。つまり、障害者にはそれぞれ特別なニーズがあるから、その設備が整った避難所が絶対に必要だ、という声だ。そのように言いつつ、地域社会から山深い施設に障害者を追いやったのではなかったか。また、専門家がいる、仲間がいる、設備が整っている、と地域の学校から遠い支援学校(なんか、これもウソっぽい言い換えだなぁ、ほんとうの支援は障害児の壁を取り除くことだ)へのバス通学を強いてきたのではないか(本気の右ストレート)。
 それぞれのニーズに応える設備は当然必要だが、それは一般の避難所から障害者を分けることではない。そうではなくて、一般の避難所とそれらのニーズに応え得る備えとがパイプで繋がっていてほしい。必要のないところまで設備を整えろ、ではない。まずは、どのような人も拒まない、というのが避難所の(社会の、学校の)原則で、特別な手立てのルートをつねに準備をしておく、ということだ。そうした場では、急に障害者と同じニーズが必要になった障害なき人も救うことができるし、同じ場でさまざまな人が生き合っていることを実感できることにもなる。そこに現れる諸問題をどのようにこなしていくかが「生きる」ということだと考える。だが、そう簡単なことではないので悩み続けているボクである。だけど、しつこく悩み続けてやろうと思う。

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