なこそ授産所訪問他・長崎 圭子

2015年5月19、20日と、八幡理事と、5月19日、9:37分新大阪発の新幹線に乗り、被災地助成金申請のあった福島県いわき市で35年活動している「認定非営利活動法人 なこそ授産所」などを訪問してきました。以下、ご報告いたします。
法人本部でもあるなこそ授産所は、就労継続支援B、他にも自立生活「きらきら」(生活介護・就労継続支援B)、綴町就労支援センター(就労支援センターかぜ)を運営している。
今回、主な収入源の味噌作りに欠かせない味噌倉庫建て替え工事800万円のうち、500万円の支援要請があったので、他の福島の作業所訪問も兼ねて行った。
まずは東京で「特急ひたち」(いわき行)に乗り換える。
予約の段階で、車いす席があったので油断していたが、その席に行くまでは、車いすトイレが広すぎて、通路に大きくはみ出している状態。
なんと、電動車いすでは通れず(切り返しもできない)結局、車いすは隅っこに置いて座席に移乗した。
全く歩けない人はきついと感じた。(グリーン車には車いす席あり)手動車いすなら通れるかもしれない?)
しかも「勿来(なこそ)駅」にエレベーターがなく、高架橋を渡らないと、駅外に出られない。
東京行きの上りホームからは出られるとのことで、いったん勿来を通り過ぎ、泉駅で下車し、そこから勿来駅に行く予定で切符を取っていた。
が、いわき自立生活支援センターの長谷川さんのお連れ合いと、なこそ授産所・理事長の高村さんが古くからの友人で「ゆめ風から電動車いすの人が来る」と聞き、リフトカーを出してくれることになり、泉駅からなこそ授産所までおよそ20分ほどの道中を車で移動できた。
助かった~~。
到着は午後3時過ぎ。
周囲は田畑と民家、すぐ目の前には川が。
震災のときは、もう少しで、川が氾濫するところだったそうだ。
なこそ授産所の高村理事長とは、NHK時代からの知り合いで、震災後もいろんな情報を取材させて頂いていたがお会いしたことはない。やっとこの日、念願かなってお会いできた。
主に知的障害がある人たち、19人がここで「しあわせ味噌」を作り、35年もこの地で地域住民たちと一緒に活動してきた。
本棟は、丸紅の助成金と、グループホーム建設のために貯蓄していたお金で修理したそうだ。
(丸紅500万円、なこそ1000万円)。
その他の「きらきら」は福島県共同募金会から補助を受け、耐震強化工事を行っている。
今回、助成申請のあったのは「みそ蔵建て替え工事」だが、2棟のうち、1棟はすでに壊し、更地になっていた。
もう1棟がこの写真である。
なこそ1
35年前に開所したとき、譲り受けたプレハブ倉庫。
ぼろぼろである。
今にも床が抜けそうだ…。
(クリーム色のものが味噌樽)
なこそ2
以前に、ここの「しあわせ味噌」を買ったが、とてもとてもおいしいお味噌なのだ。
震災直後は、このお味噌で地域住民に炊き出しもしている。
土地は、市から無償で借りているので、土地を担保に借金するのは無理。
また、高村さんは、福島の障害者福祉において、先駆的な「地域と一緒に」を実践してきた人でもあり、震災直後は、お金を持って、あちこちの授産所や作業所を回ったらしい。
翌日に伺った二本松の「さくら」にも支援金を持って行ったそうだ。さくらの理事長は「あのときのお金は本当に助かったし、高村さんが頑張ってるんだからわたしたちも踏ん張らないと」と強く感じたそうだ。
何回か東北を訪問して思うのは、交通網がない、車移動が基本、障害者が外出できる場所が少ない、障害者を見かけない、などの地域間格差をとても感じる。
大阪で住んでいると、つい、「大阪の物指し」で物事を図りがちだが、少ない社会資源を最大限活用して、「地域で生きる」ことを実践している人々の辛抱強さに尊敬の念を抱く。
震災後、4年経て、ようやくゆめ風基金に辿り着いた「なこそ授産所」をどうか支援して頂きたいと、心から願うものである。
【二本松編】
20日には、郡山から在来線に乗り、福島県二本松市に移動。
駅のちょっとした広場には、『安達太良山の上に澄み渡る青空を指す、智恵子像』がある。
二本松駅前
詩集「智恵子抄」の一節の
「智恵子は遠くを見ながらいふ、安達太良山の上に 
毎日出ている青い空が智恵子のほんとの空だといふ。
あどけないそらの話である。」に由来するとか。
高校生の頃は、
『そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
私の手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ』
と暗唱できたのだが・・・。
この像の奥にある白い壁の建物が二本松市市民交流センターで、この中に、精神障害のある人たちの作業所「NPO法人コーヒータイム」が店を出している。
避難区域に指定された浪江町から避難してきた皆さん。
理事長の橋本さんにいろいろお話しを伺った。
東電からの保障のあるなし、被災民の中でも広がる格差・・・。
とても複雑な糸が絡み合っている。
東電賠償訴訟をしようとしているが、当時、赤字だったので、賠償が難しいこと、それでも
弁護士と相談して、訴訟準備をしようとしていること、今の場所が手狭になっているので、移転したいが、どこも土地建物が高騰し、なかなか難しいこと、2軒、候補があるものの、一長一短だということ、なこそ授産所の高村さんが震災後、救援金を持ってきてくれたのが嬉しかったこと、あのひとは尊敬すべきお手本にしたい人だ、などなど…。
店舗はかなり狭く、テーブルは2つ。
電動車いすが1台入ると、テーブル一つが占領されてしまう。
お客の回転数をあげようと思えば、広いところへ移転したいという気持ちもわかる。
場所が決まったらまた申請を、とお伝えし、アクセスホームさくらへ移動。
同じく浪江町から避難してきて、ゆめ風も救援金をお送りしたところ。
理事長の渡邊さんが迎えに来てくれたのだが、リフトカーではなかったので、電動車いすをコーヒータイムさんに預け、走ること15分。
入口に掲げられていた「近畿ろうきん」のプレートが光っていた。
ちょうど昼食前で、皆さんは作業中。浪江にいた頃から仕事を発注してくれた自動車部品工場が、二本松に来ても同じように発注してくれるので助かる、と。
また、いろんな助成金で買った「ラスク」を作る機械なども見た。ネット注文ができるようにして、全国に発送しているらしい。
昼食後は、皆さんが「手話コーラス」を3曲、披露してくれた。
また、震災後から移転するまでの記録をスライドショーにしたものも見せてくれた。
(http://acsakura.in.coocan.jp/index.html)
震災直後は、予算4000万円で移転しようとしたが、あっという間に高騰し、最終的には6000万円にもなった、というのには驚いた。また、今回訪問した3人とも顔見知りで、それぞれが福島で踏ん張っている女性だということに、元気を頂いた。
被災地ならではの、たくさんのしんどさも抱えつつ、歩み始めようとしているかた、または一歩を踏み出した皆さんをこれからも応援したいと強く願った訪問だった。
(長崎 圭子)

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