お知らせで何度かご紹介した、「第30回 日本障害者歯科学会」の総会と学術大会に行ってきました!
秋晴れの10月13日日曜日、神戸国際展示場まで、福本は電車でトコトコと~。
一般公開講座は、「想像するちから」と題して、京都大学霊長類研究所・教授の松沢哲郎氏の講演が。
人間とは何かを知りたいからチンパンジーの研究をしていますとおっしゃる松沢教授。
おもしろいことに、チンパンジーには、人間より優れた瞬間記憶の能力があるとわかってきたそうです。
瞬時に見る力、聞き分ける力、記憶する力。
これが、チンパンジーが自然の中で生きていくのにどう影響するのか。
人類と比較してどうなのか。
わかってきたのは、人間は、ひとり一人の能力が限られているからこそ
コミュニケーションを多くの人ととり、経験を記録し、共有することで、さらなる高みに行ける可能性を手にしたということ。
そうして、一人で生きていく術(すべ)を学んでいったということ。
-人は、今日に絶望する。が、人間は、明日に希望が持てる-
との、最後のことばが、大きな指針となりそうな気がしました。
ロビーでは、ゆめ風基金のスペースを頂き、被災地の様子や、ゆめ風が行ってきた支援の様子をパネルにして展示!
手前の黒づくめの男性は、当会副代表・河野さんです。
ゆめ風をずっと応援し、この日もお手伝いに来てくれた森田さんと福本の2ショット!
午後からの一般公開シンポジウムでは、
「大震災時の障害者支援を考える」と題し、我がゆめ風基金代表理事の牧口 一二がコーディネーターをつとめました。
(シンポジウムの様子~~広い、りっぱな会場でした!)
パネリストは、下記の4人の皆様です!
それぞれに、震災体験や震災後の支援活動について語ってくださいました。
●野橋 順子氏(NPO法人生活支援研究会理事長)
「阪神・淡路大震災を経験。一階だったので、ベランダからとりあえず避難したものの、車いすで使えるトイレやお風呂がなく不便でした。ボランティアはすぐ帰ってしまうので、命をつなぐ最低限の介護をお願いするにも、大変でした。でも、その経験が、今のヘルパーさんの手を借りての一人暮らしにつながりました。人とのつながりに、感謝ですが、震災直後は、行政がもっと・・・・。」
●松村 敏明氏(社会福祉法人 えんぴつの家 理事)
「阪神・淡路大震災後、『被災地障害者センター』を立ち上げ、全国からのボランティアの受け入れ態勢を整え、
長年の障害児教育や「きょうだい会」の経験を生かし、障害者の名簿を作成。住所ではなく、人がそこにいる場所がわかる情報が大切だと痛感しました。結局、それが、地域と人をつなげることになります。何かあれば、逃げることが一番大事なんだけど、障害者は特に日ごろからだれとどんなふうに逃げるかを考えて、つながることができる人を普段からつくっていくことが命を救うんだと思います。」
●菊池 正明(CILたすけっと仙台事務局)
「東北大震災の時は、障害者メンバーと一緒にとりあえず、車中で避難生活をしました。避難所は、とてもじゃないけれど、居場所を作れそうになかったんです。福祉避難所にしても、介護者がいないわけだから、看板だけあっても使えません。「たすけっと」という場所と人間関係で、互いに助け合いながら連絡が取りあえました。今日生きるのが精いっぱいで、明日なんて見えない中でも、そんなに、人間って捨てたものではないと、実感しました。」
●青田 由幸(南相馬市:NPO法人さぽーとセンター ぴあ 代表理事)
「地震・津波・原発事故の時に避難できずに残されるのは、高齢者と障害者、そしてその家族です。医療や物資や支援を一番必要としている人が一番後回しになる。津波で亡くなった人の数より、その後、関連死された方の数のほうが多くなってきている今、福祉が、人とつながれる場所になると思うのです。ただ、原発問題は、今、語ることすらタブーになってきていています。」
牧口「この世の中で命を大事にするには、どうしたらいいか。それを考えて、情報を作って共有できる社会になったらいいよね。災害が起きたら、の避難は、もちろん考えないといけない。何もないときに考えて、みんなで生き延びるようにしようね。いざというとき、人は人をほっとけないって、僕は信じているんだけど。」
『人は人をほっとけないって、僕は信じているんだけど。』
う~ん・・・牧さん深い!
まず自分の生きる力を信じることから始まるんだと教えてもらったような気がします。
そして、自分を大事にすることが、他人を大事にすることにもつながっていくのだと・・・。
災害時の避難や、防災を今後も考え続けることが、人としていかに生きるか、さらには、どんな社会をみんなで作っていくかにつながると思います。
人が人を信じられる社会。
一緒に作ってみませんか?
ヒデの救援レポート2013年10月15日№140
●10月13日(日)、神戸で開催された「日本障害者歯科学会・公開シンポジウム~大災害時の障害者支援を考える」には、200人強の参加がありました。
DVD「逃げ遅れる人々」や、「障害者市民防災提言集・東日本大震災編」などが、たくさん売れました。
・コーデネイト・牧口一二(ゆめ風基金代表理事)
・パネリスト
青田さん(南相馬市・サポートセンターぴあ)
菊池さん(仙台市たすけっとスタッフ)
野橋さん(神戸市地域生活支援研究会)
松村さん(神戸市えんぴつの家)
なかなか面白く、考えさせられるシンポジウムでした。
●社会福祉法人:鉄道身障者福祉協会発行機関誌「リハビリテーション・556号~特集・復興-東日本大震災から2年」からの転載(その1)
・大災害を体験して(斎藤惣一:社会福祉法人・ロザリオの聖母会・就労継続支援B型事業所・ワークセンター長)
連絡TEL 03-5276-0360
FAX 03-3264-4824
1.震災当日
ロザリオの聖母会は、23の事業所を抱える複合施設の総称で、当ワークセンターは、平成8年8月1日に精神障害者小規模共同作業所として開所。千葉県の北東部旭市に位置する。
震災当日も、いつもと変わらず出勤していた。
午前9時、作業開始となり、作業内容の異なる5班(印刷、外勤、請負、園芸、リサイク)に別れ、それぞれ決められた作業に着いた。
その日もいつものように、午後3時までに納品する野菜(袋詰めの委託品)を持ち、近所にある農場に届け、帰所しかけた「その時」、今までに経験のない激震を感じた。
農場で働く研修生や、パートさんたちが悲鳴を上げパニックになりかけていたため、安全と思われるところまで誘導し、揺れが収まるまで待った。
帰り道を急いだ。
数キロしかない道のりが、いつもの数倍の距離に感じられた。
やっとのことで施設に戻り、全員の無事を確認し胸をなでおろした。
施設の責任者である私は、自分に「冷静に、冷静に」といい聞かせ、パニック状態の利用者に向かい、
「大丈夫だ 、俺に任せろ」と声かけしてはみたものの、内心は動揺していた。
職員・利用者全員が私の言動に注目した。
「大丈夫だ、俺についてこい」と言いつつ、自分を鼓舞しながら移動したことを今でも思い出す。
避難場所である海上寮は普段は広く感じられたところだが、避難者で埋め尽くされた。
その後何度も余震が襲い、あちこちから悲鳴が聞こえてくる。
誰が用意したのか、携帯ラジオの地震情報が聞こえ、東日本全体に震災があったことを知った。
地震後すぐに法人本部に対策本部が設置された。
津波については本部職員が海上寮屋上に登り、監視を続け無線で伝えてきた。
当時の理事長(平成23年5月29日帰天)は、病身をおし陣頭指揮をとっていた。
いち早く休所の案内を出した事業所に対し「一刻も早く平常に戻せ」と叱咤激励が飛び、その姿は鬼神のごとくみえた。
私自身には怖くもあり、また頼れる存在でもあった。
今考えてみると、未曽有の困難時、福祉に身を置く者としてのあり方を問うものだと思われる。
その日は肌寒く、利用者の多くは寒いと訴えたため、ひとまず施設に戻り対策を練ることになった。
当時のワークセンターに備蓄食糧はなく(現在は3日分を備蓄)、近くのコンビニに職員を走らせ、水・食糧を確保し帰宅困難者のために備えた。
時間がたつにつれ、家族と連絡が取れるようになり、無事を知らせることができた。
また安全に帰宅できる方については家族の迎えまたは、職員付き添いにて送り届けた。
電気は、数時間程度で復旧し、電気が使用可能であったことが幸運に思われる。
利用者に温かい食べ物を提供でき、不安解消に繋がった。
最終的に9名の利用者が帰宅困難となった。
午後10時、私を除く職員は家族と連絡が付き、無事が確認できたので、私の判断で職員も帰宅させた。
その後、施設の隣にある研修棟を本部から借り受け帰宅困難となってしまった利用者と雑魚寝をして過ごした。
別室にあるテレビでは、九十九里浜一体大津波警報が解除されず、東北地方の湾岸に数百の人が浮いており、また湾の中での火災が報道されていた。
情報が錯綜し当地区の詳しい情報は取れずじまいであった。
私にとって嬉しい情報は妻よりの電話(母専用の黒電話を使用)。東京に住む娘たちは無事、自宅は停電とのこと、兎に角無事が確認された。妻には現状と暫く帰れない旨伝えた。
その晩は一睡もできず、明くる日を迎え、数名の利用者が通所してきた。
昨日、安全を図った上で帰宅させたが「津波の心配のない所」、「余震が続き怖くて居られない」(全て独居の方)とのこと。
帰宅困難者を職員が送ることにするなどし、昨日研修棟に宿泊した利用者は翌日無事家族のもとに帰すことができた。
その2に続く
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これまで届けた救援金
253,305,994円(2013年9月27日現在)
内、 東日本大震災救援金総額
207,296,909円(2013年9月27日現在)
ただいまの基金残高
267,352,632円(2013年8月末日現在)
このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、
被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。
広く知ってもらいたいので、転送自由。
自由にお使いください。
息の長い救援が求められています。
長期戦です。
救援金の送り先は、
郵便振替口座:00980-7-40043 ゆめ風基金です。
「とうほく」と書いてください。
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●東日本大震災救援活動の中のhideの風景
・東日本大震災救援本部おおさか~9月11日の会合からの部分報告から!
(場所:ゆめ風事務所にて)
・東北=関西障害者支援ポジティブ生活文化交流祭
11月22日 被災地報告会&交流会
23日 本交流祭
長居公園にて
●救援統一合同カンパ活動(毎月第2土曜日、午後1時~5時。大阪難波高島屋前にて)
みなさんの参加を要請します!
2013年10月までに、計38回実施。
2013年度は、
1月12日 72,760円
2月 9日 47,351円
3月 9日 126,102円
4月13日 56,622円
6月 8日 50,453円
7月13日 82,388円
8月10日 56,829円
9月14日 53,340円
10月12日 69,605円
合計 3,451,026円
●「世界の終わりの為の備忘録」を、おすすめします!
・2011年3月11日の、東北の大地震、大津波、東京電力福島第1原子力発電所の事故の後、3月17日から書き始めた文章「じしんなんかにまけないぞ こうほう」を、「世界の終わりの為の備忘録」としてまとめることになりました。
東電福島の事故の、世界の終わり、滅亡の予感の中で書き続けた雑文は、原子力の大事故という、それ自体の抱き込む迷宮、誰かによって画策され続ける迷宮に、ひるまず挑み続けた比類なき備忘録であると言えます。
・著者 新免貢(東北・関東大地震大津波ボランティアセンター、宮城学院女子大学教授)
菅澤邦明(兵庫県南部大地震ボランティアセンター、西宮公同教会牧師)
・発行 兵庫県南部大地震ボランティアセンター
体裁・「じしんなんかにまけないぞこうほう」の50号分を1分冊として発行、200号まで4分冊(2013年7月13日現在、№246号まで発行。)
・価格 1分冊250円
・発行 第1、第2分冊=2012年4月28日、第3分冊=2012年7月17日、 第4分冊2013年1月7日。
・お問い合わせ=兵庫県西宮市南昭和町10-19 アートガレージ内 兵庫県南部大地震ボランティアセンター
・TEL 0798-67-4691
以上。
10月12日の街頭募金
10月12日の街頭募金は、27名がご参加下さり、69, 605円の募金をいただきました。
募金をして下さった方々、募金活動にご参加いただいた方々に感謝します。
震災から2年半がすぎ、被災地以外では関心が薄れているという声もあります。
しかしながら、大阪なんばの高島屋前で、粘りづよく続けられている募金活動に立ち合い、「忘れてはいけない」という思いを持って下さる市民の方々も少なからずいらっしゃいます。
そして、最後にいただいた募金を数えると、募金を呼びかけているときには想像しなかった金額になっていて、とても勇気づけられるのです。
募金活動が、単なるお金のお願いだけではなく、募金活動を通してそれぞれの心が重なりあい、被災地の空とつながっていることを実感します。
来月の募金活動は11月9日(土)です。
みなさんのご参加をよろしくお願いします。
振込用紙のコメントから~
台風一過の秋晴れ。
が、皆様もニュースなどでご覧になった通り、昨日、新潟県の糸魚川市では気温が35度を超えたという・・・。
『気象庁によると、新潟県糸魚川市では午後1時53分に、猛暑日となる気温35.1度を記録した。10月としては国内の観測史上最高記録という。』(毎日新聞jpより)
一回、しまった夏物をまた引っ張り出したかたも多いのでは??
なんだか、今年も秋が短くなりそうですね。
先の台風で被害を受けた障害者施設などの情報がありましたら、
是非、ゆめ風基金にお知らせください!
さて、いつもご支援、ありがとうございます。
皆様から頂いた振込用紙から、コメントのご紹介コーナーです!
◆自分の命は、自分で守る。確かにそうですが、やはり、人とのつながりの中で、生きていきたい。(大分県中津市)
◆忘れないように 忘れないように。(東京都豊島区)
◆父を引き継いで、力になりたい。(東京都足立区)
◆ずっと一緒に歩いていきます。1日1個、小さな幸せが、見つかるといいです。ねっー(大阪府吹田市)
◆夏の疲れが、出始めるころです。皆様、お体くれぐれも大切にお過ごしください。(三重県鈴鹿市)
◆熊本で差別をなくす取り組み、頑張ってます。河野さんの思いを、忘れずに!(熊本市)
◆震災復興などまだまだでずが、よろしくご尽力願います。(京都府舞鶴市)
◆震災復興、応援しています。きっと笑える日がやって来ます。(佐賀市)
◆何が正しくて、何が間違っているのか。懸命に生きることがウザくて、軽く流して生きることが常識なのか。自然を支配しようとすることが発達なのか、自然と共に生きていることが遅れているのか。(長野県北佐久郡)
◆ほそく長く協力していきたいです。(愛知県豊田市)
◆年1回の震災ボランティア。今年も仲間たちと都合をつけて行きました。風化が本当に恐いです。(さいたま市)
◆今年6月に2度目の東北を回りました。「被災地は今」の記事の通りです。忘れずに支援したいです。(長野県木曽郡)
◆暑い夏からやっと秋の風。ほっ。入院生活がたびたびとなり、気力と体力がなかなかうまくいきません。(東京都世田谷区)
◆先日、職場の避難訓練があり、緊張感を持って取り組みました。常にスニーカーを用意しておこうと思います。(静岡市)
◆「津波てんでんこ」生き方を問われるテーマです。(東京都練馬区)
◆被災された方々が、1日でも早く元の生活が取り戻せるように願っております、(東京都東大和市)
◆この国のやり方に、少しでも抵抗できることを、考えていきたいです。(東京都世田谷区)
◆台風の被害にあわれた方へ。(東京都調布市)
◆いつも会報をありがとう。応援してます。(大阪府吹田市)
◆息の長い支援をしていきたいです。お互いさまの気持ちを忘れない。(東京都府中市)
震災から2年7ケ月。
時間は進んでも、「復興」と呼べる地域の全貌が明らかでない今だからこそ、
皆様にご理解いただいているように、息の長い支援が必要なのだと思っています。
また、私たちのブログを通して、被災地の状況をお知らせすることも、大事なことだと思っています。
パソコンをさわりにくいかたがたへは、機関誌「ゆめごよみ」を通じて、など、情報発信も続けてまいります。
朝夕は涼しくなり、日中との温度差で、体調を崩しやすくなるかもしれません。
皆様も、ご自愛くださいませ!
hideの救援レポート:2013年10月7日№139
●社会福祉法人 大阪ボランティア協会出版部【機関誌 ウォロ 2013年6月号】からの転載。
連絡先
TEL 06-6809-4903
FAX 06-6809-4902
《特集》
記憶の場の創出へ
『記録されたものしか記憶にとどめられない』佐野眞一
東日本大震災から2年、甚大な被害から物心両面で立ち直ろうとしても、なかなか日の目を見ない厳しい現実が横たわる東北各県。
それぞれの地域に根差した暮らしを日々守りながら、文学、美術、演劇、音楽、映像などの芸術活動を通して震災の記憶の場を創出し、繋げ、鋭い問題提起を突き付けている人たちがいる。
古(いにしえ)より独自の文化、芸術を育み、受け継いできたみちのくの地で発信を続ける、文化・芸術系市民活動にスポットを当てた。
・ルポ1 地域誌『奥松島物語』(奥松島物語プロジェクト)
「復興」という掛け声に、ただ流されないための舫杭(もやいぐい)
・故郷の歴史、掘り起こす拠点、築港資料室のあった頃
「あれが築港時の松ですか?」
地域社会史研究者の西脇千瀬さんの車に便乗し、仙台から奥松島に向かう。
鳴瀬奥松島インターチェンジを下りると、鳴瀬川沿いに所々が欠けた小さな松林が見えてきた。
だが西脇さん紹介の野蒜(のびる)築港時に植えられたという松はもう少し先だという。
鳴瀬川の河口に国際貿易港を造成し、北上川や阿武隈川と運河で結ぶ一大国家プロジェクト、野蒜築港。
1878(明治11)年、当時の内務卿、大久保利通により発案、着工されながら、内港の完成からわずか2年の1887(明治17)年に工事は中止、幻の近代化遺産とも呼ばれている。
めざす松はその市街地跡にあった。
堂々とした老木だが津波を受けて半分以上の枝は削ぎ落とされ、ほとんどL字に変形している。
「以前は夫婦松といわれていたんですよ」。
自宅のある東名(とうな)から合流し、築港跡を案内してくれた松川清子(せいこ)さんが話す。
地元出身の松川さんは、2000年に設立された市民サークル「野蒜築港ファンクラブ」の事務局長として、地域の歴史を掘り起こす活動に長く携わってきた。
常駐し、運営を担っていた野蒜築港資料室には、津波被害で閉鎖されるまでの7年間に約1万人の来館者があった。
一方、民俗学者の赤坂憲雄さんに師事しながら、野蒜築港の研究を続けてきた仙台在住の西脇さんは、7年前からたびたび野蒜に通い、松川さんと交流を深めてきた。
・地域の個別性を失わせる震災報道 危機感募らせ自らブログ開設
松の傍らには津波になぎ倒されていた『紀功の碑』が復元され、当時使われた石のローラーや、震災後に市の教育委員会が建てた野蒜築港跡の案内板が並ぶ。
それらを眺めていると、筆者のような遠来の者にも当地の歴史がくっきりと浮かび上がってくるようだ。
史跡としての野蒜の松はここだけではなく、今も駅舎が復旧していない仙石線の野蒜駅から海岸までの間には、「余景(よげ)の松原」という名勝もあった。
松島から少し離れた場所に位置することから、仙台の伊達家四代藩主綱村が命名した由緒ある松林だったが、西脇さんの話によると、津波の後にすべて伐採され、今は何もない更地のみだという。
「『奇跡の一本松』の報道を見聞きするたびに考えさせられていました。記憶に残る選択とは何なのかということをです…」。
ほとんど壊滅状態にあった岩手県陸前高田の海岸に唯一残った松は、各メディアで復興のシンボルと注目を浴び、永久保存の過程までがつぶさに報道された。
だがそれは津波に遭いながらも残ったという、ごく直近のエピソードだけが取り上げられたにすぎない。
ともすれば忘れ去られるかもしれない築港時の松や余景の松についての報道は、西脇さんの知る限りにおいてなかった。
未曽有の被害を受けながらも徐々に立ち直り、前向きに復興していこうとする被災地のストーリー。
それはわかりやすいものではあるが、どこもかしこも「被災地」としてひと括りにされ、地域の個別性を失わせる結果となりはしまいか。
このままでは野蒜のことも埋没してしまうのではないか。
そう危惧した西脇さんには松川さんの存在をはじめ、野蒜に多くのつながりがあった。
「今こそ何か地域に恩返しがしたい…」。
インターネットで検索してみると、かつて野蒜築港資料室を訪れた全国の人びとによる書き込みがいくつも見つかった。
「資料室にいた女性は?」
「市街地跡は?」
これらの声にこたえるため、4月初めにブログ『野蒜築港のまわりで』を開設、被害の状況のみならず、地域の歴史や震災前の美しかった風景のことも書き込んだ。
・手から手へ、時間をかけて 雑誌という紙媒体に思いを託す
「雑誌をつくってみない?」。
1年を過ぎ、共同体を構成していた人びとが散り散りになり、村も町も震災前のすがたから大きく様変わりしていたころだった。
土地の記憶を掘り起こすことの重要性を実感し続けていた西脇さんは、2012年の正月に野蒜を訪れた赤坂憲雄さんのこの一言に動かされ、避難先から東名の自宅へ戻った松川さんと2人で「奥松島物語プロジェクト」を結成する。
地域の記憶を編(あ)むためには映像化をはじめいくつもの方法があったが、今、語ることが辛い人も、やがては語ることができるかもしれない。
そのときのためにゆっくりと時間をかけて続けていきたいという思いや、小さなサイズにすることで地域外の人たちも気軽に手に取ってほしいという願いから、雑誌という媒体を選んだのだ。
「東北学」を提唱し、これまでも『津軽学』、『盛岡学』、『仙台学』、『会津学』などの発刊を手がけた赤坂さんの応援のもと、『奥松島物語』は2013年1月に創刊された。
赤坂さんと交流の深い仙台の独立系出版社「荒蝦夷(あらえみし)」が発行協力し、全国どこの書店でも手に入れることができる。
1000部刷った創刊号もどんどん在庫が減っていった。
・記憶を紡ぎ直す意義、心に刻む 喪失感に勝る大きさで
『これからの日々を送るため、途切れた時間を繋ぐことも一つの手がかりになるのではないかと思う。町の景色は失われたが、土地にはたくさんの記憶が歴史が、今はまだ刻み込まれている。しかし、放置すればやがて消えてしまうだろう。だから今、奥松島の記憶を新たに紡いでいきたいと思う。それは個々の携えた小さな思い出群だ。そこには地域で暮らす人は勿論のこと、レジャーで訪れたような地域の外に位置する人の思い出も含まれる。小さな雑誌だけれども、「復興」という掛け声にただ流されてしまわないためのもやい杭になれたらと願っている』。
巻頭言に綴られた西脇さんのことばだ。
(編集委員:村岡正司)
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これまで届けた救援金
253,305,994円(2013年9月27日現在)
内、 東日本大震災救援金総額
207,296,909円(2013年9月27日現在)
ただいまの基金残高
270,821,980円(2013年6月末日現在)
このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、
被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。
広く知ってもらいたいので、転送自由。
自由にお使いください。
息の長い救援が求められています。
長期戦です。
救援金の送り先は、
郵便振替口座:00980-7-40043 ゆめ風基金です。
「とうほく」と書いてください。
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「ゆめ風であいましょう」のお申込みは10月28日からです。
「ヒデの救援レポート」で、12月14日(土)の「ゆめ風であいましょう」のご案内をいたしましたが、
申し込み開始は10月28日からです。
よろしくお願いします。
9月29日:東淀川区菅原地域の防災学習会
先日、9月29日に、東淀川区菅原地域の、第二回・防災学習会に参加してきました!
一回目は、当基金理事の八幡が、東日本大震災において、障害者がどのような状態に置かれていたのか、どのような支援を行ってきたか、震災から2年半経過した今、被災地はどうなっているのか、などについて講演させて頂きました。
二回目の今回は、1テーブル10人くらいに参加者を分けて、そこに障害者や高齢者が一人ずつ入り(当日、障害者の参加者が少なく、全テーブルには付けませんでしたが)、
実際に避難所に行ったとしたら・・・という想定で、何が必要か、どんな風に避難所を運営していくのか、
などのグループワークを行いました。
地元の行政のかた(障害福祉課など)や、消防署のかた、社協さんも参加してくださり、1時間ほどの「想定」が始まりました。
まず、災害が起こったとして、避難所に行って、体育館で過ごすとしたら、行政が備蓄してある水、非常食などの他に、何が必要か、と、各テーブルで一人一つずつ、10個ほどあげてもらいました。
私がいたテーブルでは、このようなもの→ガスコンロ(ボンベ付き)、かんづめ、チキンラーメン、非常用トイレ、
などなど、いろんなものが挙げられました。
行政が用意してくれそうなものとそうでないものとに分けて考えるというのが、
実は難しかったりしますね~。
「チキンラーメン」
大好きですが、非常用の水しかないとき、お湯はどうする?とか
話し合いながら、見知らぬ人とも意見を言い合っていきます。
1グループずつ、出たものを発表し、八幡が突っ込みます。
「水を飲んだら出しますよね? 学校のトイレ、最近は、車いす用のもありますが
ないところもある。 災害時、トイレが使えないという理由で避難所に行かないという障害者もいました。」
確かに。
簡易トイレを段ボール箱で作るなど、智恵は出ているけれど、高齢者や障害者は使えないよな~と実感。
自分が避難所で1週間暮らすとしたら、トイレの問題でつまずく・・・。
高齢の両親を介護しているかたは、親御さんの実情を思い出しながら、同じように「無理かなあ?」と。
八幡「そこにあると思うのか、自分で用意するのか。個人で、これが欲しいと災害時には言えない場合もあるので、地域での防災訓練、例えば避難所に指定されている小学校の体育館などで1泊してみると、
訓練だから言いやすい。そこから、衣食住で必要なものを考えていくことが大事!」
なるほど!
というふうに、グループワークは続きます。
自分たちも、いつか高齢者となり、目が見えにくく、耳が聞こえにくく、体が動かしにくくなっていく・・・
そのとき、避難所に行けるのか、行けないのか。
避難所そのものを変えていくいいきっかけになれば、幸いです。
続きは、これを読んでくださった皆さんの地元で防災学習会を是非!
第30回 日本障害者歯科学会・シンポジウムのお知らせ
トップページでも、お知らせしていますが、
第30回 日本障害者歯科学会 総会及び学術大会 一般公開シンポジウムのお知らせ
です。
日時:2013年10月13日(日) 13:30~16:45
神戸国際展示場2号館にて、上記学会の一般公開シンポジウムが開かれます。
テーマは「大災害時の障害者支援を考える」
コーディネーターは、当会代表理事:牧口 一二、
パネラーは、東日本大震災や阪神淡路大震災を体験した方々です。
事前申し込み不要、手話通訳・要約筆記あり、参加無料。
チラシはこちら
シンポジウム出演者から一言、はこちらをクリック!
皆様、お誘い合わせの上、お越しください!!
皆様から頂いたコメントご紹介コーナー♪
10月に入って、少しは涼しくなる・・・と思ったら、大阪は一昨日31度、昨日も29度・・・
~~~”Q_(´ρ`υ))))パタパタ
早くも飛んでいる赤とんぼを見ながら、ここ数年の気候に自然界も戸惑っているのではないかと
通勤途中、ボーっとしておりました。
さて、そんな私に喝を入れてくれるのが、振込用紙に書かれた皆様のコメントです。
8月後半から9月前半までのご紹介!
◆暑い日が続きました。皆様お大事にお過ごしくださいませ。(神奈川県鎌倉市)
◆この夏の暑さは、例年以上に厳しかったですね。これからもお体を大事にされつつ、頑張ってください。(千葉市)
◆とってもとっても暑かったです。皆様お体大切に。(さいたま市)
◆天地と折合をつけつつ、ずーっとやってきての現在なのだと思わされる最近の事々です。(滋賀県甲賀市)
◆CDの売り上げの一部を寄付いたします。東北支援などに使って頂ければ幸いです。(兵庫県神戸市)
◆暑さ、寒さにめげず、ぼちぼちやっていきましょう。(東京都杉並区)
◆猛暑や豪雨が続きます。充分な健康管理の上お過ごしください。(広島県府中市)
◆残暑も続くと思います。が、楽しくいきましょう。(静岡市)
◆年金生活になっていますが、東北の方も気になりますし・・・。(愛媛県松山市)
◆この夏も暑さ厳しく大変でしたね。水の災害もあり、困っている方々のお役に立てればいいのですが。(東京都港区)
◆1つずつ石を積み上げるように、ゆっくりでも確実に希望の種がまかれますように。(滋賀県甲賀市)
◆趣旨賛同!出来ることから・・・。仲間入りさせていただきますね。(埼玉県越谷市)
◆救援活動の一助になればと思います。忘れないためにも、続けて支援ができたらいいなと思っています。(埼玉県上尾市)
◆2020年、東京オリンピック・パラリンピック開催。このことを、すべての人が希望に感じる社会にしなくてはいけませんね。(大阪市平野区)
◆やっぱり前を向いて歩いていきましょう(埼玉県東松山市)
◆東北の被災地の方々のためにお使いください(大阪府箕面市)
と、皆様も、今年の暑さには参っておられる様子がうかがえます。
その一方で、私たちに託してくださる思いは、とてもとても強いことが伝わってきます。
お預かりした大切なお金は、必要なところへお届けできるよう、
そして、来るかもしれない次の災害に備えるべく、活動を続けていきます!
いつも言っていることですが、その気持ちを忘れたら、たぶん、だめだと思うので、何度も何度も
こうして書き記していきます。
深謝。
ちなつのちょっと行ってきました-東北編その1-
実は、私、事務局員・福本千夏は、
9月9日~9月15日、東北研修に行かせていただきました。
私にとっての「東北」は、小岩井牧場や宮沢賢治記念館の、美しいのどかな風景。
家族でとった一昔前の写真は、少し色あせています。
震災前、友人たちと行った山形国際映画祭では、若い世代のエネルギーと東北の魅力をふんだんに味わいました。
震災が起きてから2年半、テレビからは、海開きやさんま業、政界、皇室関係者の訪問が、復興の証としてニュースが流れています。
私たちは、ともすれば、それを異国の出来事と同じぐらいの視点で見ています。
でも、東日本大震災を経験したかたと、震災後に東北に足を運んだものはわかる・・・。
国は、東北を見捨てていることを。
震災直後から、東北の映像を目にするたびに心は痛んだ。
何もできないのだけど、東北に足を運びたい。
亡き夫がもう一度行きたかったはずの東北。
ゆめ風基金の事務局員として、震災後、2年半たった東北が置かれている状況を知りたい。
だけど、何をしでかすかわからない私。
「何かしたら、その時考えたらええ。が、暴れて飛行機だけは落とすなよ」と、
ゆめ風の同僚たちに背を押され、手を引かれ出発!!
伊丹空港~花巻空港までおよそ90分。そこからバスを乗り継ぎ4時間・岩手県宮古市到着。
地図で観ると、すぐそこという感じがしてしまうが、宮古市は遠い。
くねくねとした山道。
夕方近く、薄暗い車中でも、谷深い山をいくつも越えているのがわかる。
「うわっ。鹿だ」山のことを何も知らない私でも、先人たちがこの地で生きてきた知恵と経験は、壮大なものであることは想像できる。
今、はぎ取られている山は、綿密な計画の元だろうが・・?
私の眼には無秩序、無計画に映る。
(今回、拠点にさせてもらった、被災地障害者センターみやこの事務所内)
着いたあああ!
今日から一週間の東北研修。
体も心も少し背伸びして
ううーん。
とりあえず、薬に助けてもらって寝ます。
翌日、(9月10日)ハックの家に伺いました。
ここは、岩手県下閉伊郡田野畑村にあるパン屋.織物、漬物3工房の作業所。
ゆめ風基金と連携して、被災地障害者支援を行っています。
出迎えてくれた障害者スタッフと共に作業所を運営する健常者スタッフは、
「震災の時はね、道路がふさがれてねー。でも、復興業者が利権のもとで道路造ってちゃ・・・。復興とは名ばかりで。行政区画もはっきりしない中じゃ住居はなかなかね。でも、順序が逆で しょ。震災後は人口流出に歯止めがきかなくなって・・・。そりゃー、帰ってくるところがないもの」
穏やかな表情と言葉が、心の引き出しにしっかりと入りました。
(スタッフさんとの記念撮影)
沿岸部に行けばいくほど、彼女の言葉はより真実となり私に迫ってきた。
あたり一面、町があったであろうと思われる広大な水を含んだ土地。津波にすべてをのみこまれた、ここにいたであろう人たちは、あの時も今も声をあげることなどできない。
とうとう震災関連死が、震災死の数を超えたという新聞記事を思い出す。
私たちは誰かに何かを押しつけて、誰かに何かを押しつけられて生きているんだけど、この光景は・・・死人に口なしは・・・。
唇をかみ、こぶしを握り締めながら、次の訪問地、センター釜石に着いたのは夕方。
ほっ。
(スタッフさんたちと、はいチーズ!)
次回・その2に続く
(少し間があくかもですが、気長に待っていてくださいね!)