hideの救援レポート:2013年10月7日№139

●社会福祉法人 大阪ボランティア協会出版部【機関誌 ウォロ 2013年6月号】からの転載。
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《特集》
記憶の場の創出へ
『記録されたものしか記憶にとどめられない』佐野眞一
東日本大震災から2年、甚大な被害から物心両面で立ち直ろうとしても、なかなか日の目を見ない厳しい現実が横たわる東北各県。
それぞれの地域に根差した暮らしを日々守りながら、文学、美術、演劇、音楽、映像などの芸術活動を通して震災の記憶の場を創出し、繋げ、鋭い問題提起を突き付けている人たちがいる。
古(いにしえ)より独自の文化、芸術を育み、受け継いできたみちのくの地で発信を続ける、文化・芸術系市民活動にスポットを当てた。
・ルポ1 地域誌『奥松島物語』(奥松島物語プロジェクト)
「復興」という掛け声に、ただ流されないための舫杭(もやいぐい)

・故郷の歴史、掘り起こす拠点、築港資料室のあった頃
「あれが築港時の松ですか?」
地域社会史研究者の西脇千瀬さんの車に便乗し、仙台から奥松島に向かう。
鳴瀬奥松島インターチェンジを下りると、鳴瀬川沿いに所々が欠けた小さな松林が見えてきた。
だが西脇さん紹介の野蒜(のびる)築港時に植えられたという松はもう少し先だという。
鳴瀬川の河口に国際貿易港を造成し、北上川や阿武隈川と運河で結ぶ一大国家プロジェクト、野蒜築港。
1878(明治11)年、当時の内務卿、大久保利通により発案、着工されながら、内港の完成からわずか2年の1887(明治17)年に工事は中止、幻の近代化遺産とも呼ばれている。
めざす松はその市街地跡にあった。
堂々とした老木だが津波を受けて半分以上の枝は削ぎ落とされ、ほとんどL字に変形している。
「以前は夫婦松といわれていたんですよ」。
自宅のある東名(とうな)から合流し、築港跡を案内してくれた松川清子(せいこ)さんが話す。
地元出身の松川さんは、2000年に設立された市民サークル「野蒜築港ファンクラブ」の事務局長として、地域の歴史を掘り起こす活動に長く携わってきた。
常駐し、運営を担っていた野蒜築港資料室には、津波被害で閉鎖されるまでの7年間に約1万人の来館者があった。
一方、民俗学者の赤坂憲雄さんに師事しながら、野蒜築港の研究を続けてきた仙台在住の西脇さんは、7年前からたびたび野蒜に通い、松川さんと交流を深めてきた。
・地域の個別性を失わせる震災報道 危機感募らせ自らブログ開設
松の傍らには津波になぎ倒されていた『紀功の碑』が復元され、当時使われた石のローラーや、震災後に市の教育委員会が建てた野蒜築港跡の案内板が並ぶ。
それらを眺めていると、筆者のような遠来の者にも当地の歴史がくっきりと浮かび上がってくるようだ。
史跡としての野蒜の松はここだけではなく、今も駅舎が復旧していない仙石線の野蒜駅から海岸までの間には、「余景(よげ)の松原」という名勝もあった。
松島から少し離れた場所に位置することから、仙台の伊達家四代藩主綱村が命名した由緒ある松林だったが、西脇さんの話によると、津波の後にすべて伐採され、今は何もない更地のみだという。
「『奇跡の一本松』の報道を見聞きするたびに考えさせられていました。記憶に残る選択とは何なのかということをです…」。
ほとんど壊滅状態にあった岩手県陸前高田の海岸に唯一残った松は、各メディアで復興のシンボルと注目を浴び、永久保存の過程までがつぶさに報道された。
だがそれは津波に遭いながらも残ったという、ごく直近のエピソードだけが取り上げられたにすぎない。
ともすれば忘れ去られるかもしれない築港時の松や余景の松についての報道は、西脇さんの知る限りにおいてなかった。
未曽有の被害を受けながらも徐々に立ち直り、前向きに復興していこうとする被災地のストーリー。
それはわかりやすいものではあるが、どこもかしこも「被災地」としてひと括りにされ、地域の個別性を失わせる結果となりはしまいか。
このままでは野蒜のことも埋没してしまうのではないか。
そう危惧した西脇さんには松川さんの存在をはじめ、野蒜に多くのつながりがあった。
「今こそ何か地域に恩返しがしたい…」。
インターネットで検索してみると、かつて野蒜築港資料室を訪れた全国の人びとによる書き込みがいくつも見つかった。
「資料室にいた女性は?」
「市街地跡は?」
これらの声にこたえるため、4月初めにブログ『野蒜築港のまわりで』を開設、被害の状況のみならず、地域の歴史や震災前の美しかった風景のことも書き込んだ。
・手から手へ、時間をかけて 雑誌という紙媒体に思いを託す
「雑誌をつくってみない?」。
1年を過ぎ、共同体を構成していた人びとが散り散りになり、村も町も震災前のすがたから大きく様変わりしていたころだった。
土地の記憶を掘り起こすことの重要性を実感し続けていた西脇さんは、2012年の正月に野蒜を訪れた赤坂憲雄さんのこの一言に動かされ、避難先から東名の自宅へ戻った松川さんと2人で「奥松島物語プロジェクト」を結成する。
地域の記憶を編(あ)むためには映像化をはじめいくつもの方法があったが、今、語ることが辛い人も、やがては語ることができるかもしれない。
そのときのためにゆっくりと時間をかけて続けていきたいという思いや、小さなサイズにすることで地域外の人たちも気軽に手に取ってほしいという願いから、雑誌という媒体を選んだのだ。
「東北学」を提唱し、これまでも『津軽学』、『盛岡学』、『仙台学』、『会津学』などの発刊を手がけた赤坂さんの応援のもと、『奥松島物語』は2013年1月に創刊された。
赤坂さんと交流の深い仙台の独立系出版社「荒蝦夷(あらえみし)」が発行協力し、全国どこの書店でも手に入れることができる。
1000部刷った創刊号もどんどん在庫が減っていった。
・記憶を紡ぎ直す意義、心に刻む 喪失感に勝る大きさで
『これからの日々を送るため、途切れた時間を繋ぐことも一つの手がかりになるのではないかと思う。町の景色は失われたが、土地にはたくさんの記憶が歴史が、今はまだ刻み込まれている。しかし、放置すればやがて消えてしまうだろう。だから今、奥松島の記憶を新たに紡いでいきたいと思う。それは個々の携えた小さな思い出群だ。そこには地域で暮らす人は勿論のこと、レジャーで訪れたような地域の外に位置する人の思い出も含まれる。小さな雑誌だけれども、「復興」という掛け声にただ流されてしまわないためのもやい杭になれたらと願っている』。
巻頭言に綴られた西脇さんのことばだ。
(編集委員:村岡正司)
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これまで届けた救援金
253,305,994円(2013年9月27日現在)
内、 東日本大震災救援金総額
207,296,909円(2013年9月27日現在)
ただいまの基金残高
270,821,980円(2013年6月末日現在)
このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、
被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。
広く知ってもらいたいので、転送自由。
自由にお使いください。
息の長い救援が求められています。
長期戦です。
救援金の送り先は、
郵便振替口座:00980-7-40043 ゆめ風基金です。
「とうほく」と書いてください。
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