みやぎ登米支部・「そうそうの杜」活動日誌 NO.9

 震災直後から被災地障がい者センターみやぎの支援活動に参加されてきた社会福祉法人「そうそうの杜」は、現在は被災地障がい者センターみやぎ登米支部を拠点にして、地元のグループ「ハグハウス」とともに登米市や南三陸町の仮設住宅をまわり、移動カフェを運営しながら個別ニーズを掘り起こす活動をされています。
「そうそうの杜」・東日本大震災派遣報告書 NO.9
日時:2011年9月9日(金) 天気:晴れ
報告者:T
9:00~12:00 仮設調査・物資配達 ①細浦仮設 ②沼田仮設(2期〕③小森仮設
12:00~16:00 Wさん送迎 ミニカフェ(田沼2)
活動した上で感じたこと
 志津川地区でまだ調査していない細浦仮設、小森仮設の調査をおこなう。いずれも高台に位置し、バス停までは急な砂利の坂道を降りていく必要がある。また、自治会は発足しており自治会長もおられる。特に細浦では子供の学童保育や高齢者を中心にした裁縫など住民からの構想は出来ている。
ただ、予算に関しては誰しもがぎりぎりの生活の中、決めていくのが難しいとの事。行政がしっかりと補助なりの支援を打ち出す必要を感じる。被災した住民が良い方向へ考えたことでも、バックアップが無い限り実行するのは容易ではないのが被災地の現状。コミュニティの形成のためにも、前述のような取り組みは大切だと感じた。
 沼田2期仮設では依頼のあった食器を届ける。とても喜んでくださり、午後のミニカフェの実施も了承くださる。午後は現地でミニカフェを行いながら、ハグハウス倉庫にあった他の食器も分配する。
午前の分は個人からの要請であったが、独占せず他の入居者にも自ら必要な分を分け与えられる姿勢は、震災という悲劇を乗り越えるために被災者がここまで乗り越えてきた和の気持ちを感じさせる。
 被災者の方々は口をそろえて役場の対応、行政の対応に不満を持っておられる。被災してから仮設に入るにいたるまでの経過や仮設の構造、改修依頼に対する対応の悪さなど不満は絶えない様子。それでも最終的には「助かっただけでもありがたい」「こんな状態だから不満を言えばきりがないけど、なんとかやっていかないとね」と前向きに切り替えられる。それが頼もしくもあり、寂しさも感じさせる。
 まだまだ生活レベルが低く、「自分たちだけじゃないんだから我慢しないと・・・」というのが地元の方々の現状で、意見を訴えるまでには至っていない。声を張り上げるべきか、我慢すべきか迷っておられるような感も受ける。
必死で毎日を生きておられる被災者の方々を思うと、大阪の生活保護のあり方などにも疑問をもってしまうのは自分だけなのか。とにかく東北の復興に携わっていきたい。
感じたことを改善・向上させるのに必要なこと
 住宅改修などについては、行政に訴えても「釘1本打ってはいけない」という返答があるとのこと。逆に「黙ってやればそれ以上は言わない」という中途半端な対応。
RQ市民災害救援センターの東北現地本部が仮設の改修などのボランティア活動を行っているとの事で情報の提供は行っている。

みやぎ登米支部・「そうそうの杜」活動日誌 NO.8

 震災直後から被災地障がい者センターみやぎの支援活動に参加されてきた社会福祉法人「そうそうの杜」は、現在は被災地障がい者センターみやぎ登米支部を拠点にして、地元のグループ「ハグハウス」とともに登米市や南三陸町の仮設住宅をまわり、移動カフェを運営しながら個別ニーズを掘り起こす活動をされています。
「そうそうの杜」・東日本大震災派遣報告書 NO.8
日時:2011年9月8日(木) 天気:晴れ
報告者:T
9:00~12:00 仮設調査(志津川地区)①袖浜仮設(33戸)②沼田仮設2(20戸)
                       ③沼田仮設1(40戸)
12:00~17:30 ミニカフェ・調査 波伝谷仮設
活動した上で感じたこと
 袖浜仮設は人の気配も少なく、高齢の女性に話を伺う。この仮設は半数ほどが地元の部落出身者とのこと。しかし、自治会はまだ発足しておらず、集会所も敷地内にはなく、仮設下の部落集会所を使用するとの事。
 沼田仮設1、2はベイサイドアリーナを挟むように設置されており、ローソンに近い沼田1は集会所はなく隣接の既存施設である「沼田ふれあいセンター」を使用するとの事。
この仮設ではスロープ棟はあるが、ほとんどが高齢者である。カフェなどの催しも時折実施されているとの事。
沼田2仮設はベイサイドアリーナの山手に存在し、集会所は存在するもののこちらも自治会は発足していないとのこと。沼田2では志津川高校の避難所におられた夫婦に話をうかがうことが出来る。これから冬を迎えるにあたって暖房器具の不足があるという(備え付けのエアコンは一部屋しか効かなく、収納がないため荷物が部屋の隅にあることからストーブも怖くて置けない様子)。
また、地元の漁師や高齢の方々は入浴時間が長い方が多く(20分~30分は浴槽に浸かっている)、追い炊きできない仮設の風呂ではぬるま湯にはいらなくてはいけなくなるとのこと。(お湯を入れ替えるには生活の資金面で苦しい)できれば給湯器が有ればとおっしゃられる。そのほか、雪が降ってくるとひさしがない仮設なので心配だとの事。
仮設の課題はまだまだ多く、行政の動きは住民の方には不満にしか映っていないこともうかがう。また、どこの仮設もやはり高台に存在することからバス停までの移動が困難で、雪が降ると出歩くことも出来なくなるだろうとの事。
 午後の波伝谷(はでんや)仮設では、10名ほどの住民が寄ってくださりカフェを通じて話をうかがう事が出来る。以前に情報のあった手帳をお持ちの方は、9-2棟に住まわれており、こだわりが強いが笑顔で挨拶などはできるという。恐らく自閉症・発達障害の方と思われるが本人には出会えず。
中には被災でご主人が行方不明になり、未だ見つかっておらず葬儀だけは執り行ったといわれる方、せめて遺体の一部だけでも帰ってきて欲しいといわれる方がおられ、まだまだ震災・津波の大きさをうかがい知ることができる。
最後に一人の方がMさんと抱き合った瞬間嗚咽され「本当は泣きたいんだけど、そんなこと言ってらんねぇから」と語られた言葉と姿が胸を打った。
被災地の方々は「復興に向けて」と頑張っておられるが、本当は誰しもが心の中に押し殺した悲しみを抱えながら生きておられるという現実を見せられたようだった。
感じたことを改善・向上させるのに必要なこと
 仮設のひさしについては、行政からの補助もあるとのことでできる限り行政を利用してもらう。また、RQ東北支部というボランティア団体が住宅改修のボランティアを行っているとの事で必要であれば調整できればと考える。
給湯器については風呂バンスをお試しで使用してもらうことも検討。
被災された方々に寄り添うこと、泣きたいときは泣いてもらい、笑いたければ笑ってもらえるような雰囲気が必要。無理に「笑顔を・・・」と頑張る必要もない。復旧ではなく復興を、街の復興、経済の復興、現地の方々の心の復興が大切。
備考
 作業所の再開、特別支援学校の再開で平日の日中は障害者はどこもほとんどおられない。土日を有効に利用するのも1つの策か。
つつみさん:昨日夜~ハグハウスに戻られ本日より活動。

みやぎ登米支部・「そうそうの杜」活動日誌 NO.7

 震災直後から被災地障がい者センターみやぎの支援活動に参加されてきた社会福祉法人「そうそうの杜」は、現在は被災地障がい者センターみやぎ登米支部を拠点にして、地元のグループ「ハグハウス」とともに登米市や南三陸町の仮設住宅をまわり、移動カフェを運営しながら個別ニーズを掘り起こす活動をされています。
「そうそうの杜」・東日本大震災派遣報告書 NO.7
日時:2011年9月7日(水) 天気:晴れ
報告者:T、N
午前:田尻畑仮設にてミニカフェ
午後:韮が浜農村公園仮設にてバザー(無償)、ハグハウスにてカフェ
活動した上で感じたこと
 田尻畑仮設では晴天ということもあり、急遽ミニカフェを実施。近隣の方々を誘って7名ほどの方が参加され、お茶を飲みながら震災当日の様子から現在の状況などについて語られる話に耳を傾ける。
 ある方の話によると、知人の方(おばあさん)が震災当日から行方不明で8月まで見つからず、お盆も近いとの事で葬儀を出した矢先、近くの島で見つかったとのこと。話された方は「おばあちゃんはその島に行ったことがなかったから行きたかったんだべ」と笑いながら話す場面もあった。
また、別の男性は震災当日、地震の少し前から飼育していた犬がそわそわしだし、散歩に連れ出そうとしたが、普段と違う方向に進んでいったため、そのまま散歩させたが、おかげで地震・津波から免れたとのこと。特に犬の勢いに引っ張られた分、後ろから迫ってくる津波に飲まれなくて良かったしみじみ話されていた。
 被災地の方々、それぞれ当日の思いは異なるだろうが、明るく元気にと思っている方や、やはり当日のことを考えると今でもしんみりとなる方、それぞれであったが、口をそろえて出てくるのは、「助かってよかった」ということ。
 一方、午後の韮の浜仮設でのバザーでは、17戸の家族に平等に配分ということで、同じものを同じ分だけ仕分けされ、そこには家族ごとの必要、不必要というニーズは全く反映されていなかった。
土地柄もさることながら、まだまだ仮設にあって近隣の家族状況まで理解しあえるコミュニティにはいたっていないことも原因かと感じた。その中で昨日も3名の遺体が見つかったということでヘリコプターが飛んでいる光景を見て話されていた。
 仮設の生活において、問題としてあがってきているのが移動手段である。買い物・病院なども車がないと移動できないのが現実。バスは走っていても、仮設からバス停までの移動が高齢者などではとうてい困難だとの事。
南三陸では仮設コンビニができてきてはいるが、買い物は登米の佐沼まで行かないと、なかなか必要なものは手にはいらないとの事。
感じたことを改善・向上させるのに必要なこと
 移動については、今後ニーズが大きくなってくるものと思われる。特に冬の三陸地方は高齢者・障害者の移動は難しくなるだろう。運転についてもボランティアが簡単に出来るとも限らない(雪道走行など)。現地の力を利用する策なども考えていかないといけないと感じる。
備考
 今週末 9月10日(土)、11日(日):仙台にてジャズフェスティバル(国内最大級)開催

みやぎ登米支部・「そうそうの杜」活動日誌 NO.6

 震災直後から被災地障がい者センターみやぎの支援活動に参加されてきた社会福祉法人「そうそうの杜」は、現在は被災地障がい者センターみやぎ登米支部を拠点にして、地元のグループ「ハグハウス」とともに登米市や南三陸町の仮設住宅をまわり、移動カフェを運営しながら個別ニーズを掘り起こす活動をされています。
「そうそうの杜」・東日本大震災派遣報告書 NO.6
日時:2011年9月6日(火) 天気:雨のち晴れ
報告者:T
終日:ハグハウスにて支援物資整理
活動した上で感じたこと
 志津川高校などで管理していた物資がハグハウス倉庫に管理されているが、物資の整理が出来ていなく、男性の人手が多いときに(今後のことを考えて)整理をしたいとのハグハウスHさん、Mさんの思いもあり、本日は終日倉庫整理を行う。
 物資を片っ端から確認し、使用可能なもの不可なもの、提供可能なもの不可なもの、用途別に仕分けし倉庫内を整理しなおす。直接、当事者の方や被災者の方々に会うことは出来ないが、これも長期の支援を考えると必要なことであり、整理をおこなう。
 昼前には東京から来られたボランティアセンターの方2名も合流し、Hさん、Mさんの指示で動く。
 ハグハウスの二人から聞く話は、避難所での物資の活用や仮設移行後の物的支援の途切れなど行政の対応。また、明日伺う予定の韮の浜仮設では、明後日は社協が入ってお茶子(カフェ)を予定しておられるため、カフェはあえてしないとのこと。
 社協の方々はボランティアの活動にあまり良い印象を受けておられない方も沢山おられる様子。「カフェなんて、何がしたいんだか・・・」といった具合。それでも小さな仮設などではまだまだ物資の支援も精神的な支援も行き届いていないのが現状だとの事。現地の方々の活動の妨げにならないように配慮しながらも、隠れたニーズを掘り起こすためにもカフェは有意義だとも感じる。
 個人的には前回の活動から2ヶ月が過ぎ、南三陸町のガレキが集めらている様子を見ると復興への歩みは感じるが、町はまだまだ何もない状態が続いているのは事実で長期の支援の必要性を感じる。
一方で南三陸では仮設商店街構想があり、歌津を中心に合計100店舗のコンテナ商店が早ければ10月ごろにはオープンするとの事。地元の方々の活力が少しでも生かされる環境ができることで復興に進んでいくのかなと感じる。
感じたことを改善・向上させるのに必要なこと
 菊池さんとも話をしたが、仮設商店街の一角で障害当事者の作業所が開設できればいいなと感じる。復旧ではなく復興を目指す町であれば、被災前に出来なかったことをやれるきっかけにもなればと。地元の大きな法人、商工会議所などが前向きに検討してくれればありがたいが、さて現実はどうか。
他へ依頼したこと
備考
 南三陸ではないが、被災地ではPTSDや統合失調症、うつなどへの支援が不足しているという課題が浮上してきているとのこと。
 仮設に入らず自宅で生活し続ける人には対応が行き届かないのが現実とのこと。今後も注意が必要。

みやぎ登米支部・「そうそうの杜」活動日誌 NO.5

震災直後から被災地障がい者センターみやぎの支援活動に参加されてきた社会福祉法人「そうそうの杜」は、現在は被災地障がい者センターみやぎ登米支部を拠点にして、地元のグループ「ハグハウス」とともに登米市や南三陸町の仮設住宅をまわり、移動カフェを運営しながら個別ニーズを掘り起こす活動をされています。
「そうそうの杜」・東日本大震災派遣報告書 NO.5
日時:2011年9月5日(月) 天気:曇り時々雨
報告者:・N
午前:登米拠点預かっている支援物資のをハグハウスまで運ぶ
午後:韮の浜農村公園(仮設)18戸・吉野沢団地(仮設)84戸
活動した上で感じたこと
 韮の浜農村公園(仮設)18戸では支援物資が行き届かなかったらしいと聞き、訪問する。会長さんに尋ねると少なかったと話される。公園で話しているおばあちゃんに聞くと、初めは4人だったのが8人までなり被災時の話をされる。
 物資は少なかったそうで、今ある物資をバザーをするからとたずねる快諾される。必要なものは毛布など、吉野沢ではお風呂セットがほしいと要望があり84個分持っていく。
 ここの仮設には談話室・集会所がなくイベントは屋外でされていたそうです。しかし自分たちでテントを張り、周囲3面を今はすだれで囲い中央にテーブル・イスを置き、テーブルにはポット・コーヒーが置いてあり、いつでも皆が集えるように自分たちで工夫されていました。テントの前には「福幸茶論」と書かれた看板がありました。来るときは「福幸」で出て行くときは「幸福」と自治会長が言ってました。
 何箇所かの仮設廻りましたが被災された皆さんの力強さを感じました。ただ仮設の仕様にバラツキが大きいのには残念な思いがしました。軒下が有る無し、集会所が有る無し、裏に縁側が有る無し、など。

みやぎ登米支部・「そうそうの杜」活動日誌 NO.4

 震災直後から被災地障がい者センターみやぎの支援活動に参加されてきた社会福祉法人「そうそうの杜」は、現在は被災地障がい者センターみやぎ登米支部を拠点にして、地元のグループ「ハグハウス」とともに登米市や南三陸町の仮設住宅をまわり、移動カフェを運営しながら個別ニーズを掘り起こす活動をされています。
「そうそうの杜」・東日本大震災派遣報告書 NO.4
日時:2011年9月4日(日) 天気:曇り時々雨
報告者:・N
10:00~12:00 ハグハウスにてお茶会
12:00~13:00 ハグハウスにてバザー
16:00 ハグハウスにて打ち合わせ
活動した上で感じたこと
 ハグハウスにて午前中お茶会、お茶会の席に電話線の工事に来られた方を大家さんが休憩にと呼ばれ一緒に談笑する。神奈川の相模から来られて今ホテル観洋で宿泊されているとか、ほとんど休みなく仕事をされているそうです。話の中で海岸の壊滅状態のところは家が建つと工事のやり直しをする必要があるそうです。なぜか訪ねるとNTTの建物がだめになっているので建て直しそれから、電話ケーブルを引いていくそうですと、仕事をされている方が話されてました。だから年数は掛かるでしょうと言われる。改めて被災のすごさを感じました。
 午後からはバザーを開催し近隣から(徒歩5分程度)田尻畑地区の方々と保呂毛地区の方々が来られる。20人程度が来られお皿・バスタオル・フェイスタオル・毛布・などが必要とされていました。一人暮らしの高齢者の方には一緒に荷物を運ぶ声を掛けると断られるが一緒に行く。
 バザー終了後大家さんの奥さんより被災されたときの話を聞く。町長・議員はだれも被災後メディアばっかりで町民のところに来ない。防災センターのアナウンスが聞こえたがなぜ女の子なのと聞いていて思った。「もういいからはよ逃げろ」。自分所は水が出るから一部短期だが避難所として近隣の人に使ってもらった。炊き出しもした。「役所の方に白米は切れたから・玄米でもいいかと尋ねると黙って帰った」と笑って話される。原発事故で福島から避難してきた人がソーラーパネルを付けてくれて3部屋でその電気使っている。県外の人たちが直接来てくれるのに町長たちは来ないと話される。
感じたことを改善・向上させるのに必要なこと
 自分は話を聞きすぐに返事をしようとするが、聞き続けることも大事と分かっていながら出来ていないこと感じたし、身をもって体験できたように思う
他へ依頼したこと
 関西地区生コン支部Mさん(志津川高校でボランティアされていた方)ハグハウスの荷物を運んでもらう。

みやぎ登米支部・「そうそうの杜」活動日誌 NO.3

震災直後から被災地障がい者センターみやぎの支援活動に参加されてきた社会福祉法人「そうそうの杜」は、現在は被災地障がい者センターみやぎ登米支部を拠点にして、地元のグループ「ハグハウス」とともに登米市や南三陸町の仮設住宅をまわり、移動カフェを運営しながら個別ニーズを掘り起こす活動をされています。
「そうそうの杜」・東日本大震災派遣報告書 NO.3
日時:2011年9月3日(土) 天気:雨
報告者:・N
10:00~12:00 K君レスパイト
12:00~13:00 ハグハウスにて打ち合わせ
14:00 田茂川・志津川・戸倉仮設住宅訪問
16:30 登米拠点にて打ち合わせ
活動した上で感じたこと
 午前は風が強いが雨は降っている地区と降っていない地区などがあり天候がよく変わっていた。
K君のレスパイト。到着するとすぐに車に乗り込み、少しテンション高めだがすぐに落ち着いて過ごしており、雨がやんでるときに散歩などして過ごす。
 午後からは天候を見ながら気になっていた人のところへ訪問。田茂川では90歳女性の独居に方に出会い元気な様子に見えた。家族のほうも定期的に電話や顔を出してくれているとのことで本人も安心されているように見えた。田茂川は高齢の方が多く住まれている。
 その後は、天候であまり動きはとれず。戸倉中からの景色眺める。高台にあるのにも関わらず学校の一階部分まで津波が押し寄せたことを年配の女性からお話を聞いた。皆さんが口にするのは「ここまでくるとは思わなかった」と・・・・・・・。戸倉の地区ではゴルフ場のところに4つの集落をまとめ町をつくる計画があると言われていた。
 ハグハウスと一緒に活動して、傾聴というところではものすごく勉強になったと思っている。今後も少しでも生かせれるように行っていきたい。
感じたことを改善・向上させるのに必要なこと
 話を聞くときの姿勢であせらず、ゆっくり。
備考
 昨日、言っていたJDF・その他関係機関との会議は9月20日になりました。

みやぎ登米支部・「そうそうの杜」活動日誌 NO.2

震災直後から被災地障がい者センターみやぎの支援活動に参加されてきた社会福祉法人「そうそうの杜」は、現在は被災地障がい者センターみやぎ登米支部を拠点にして、地元のグループ「ハグハウス」とともに登米市や南三陸町の仮設住宅をまわり、移動カフェを運営しながら個別ニーズを掘り起こす活動をされています。
「そうそうの杜」・東日本大震災派遣報告書 NO.2
日時:2011年9月2日(金) 天気:雨
報告者:N
10:30 平成の森仮設住宅 訪問調査
12:00~13:00 ハグハウスにて打ち合わせ
14:00 登米拠点にて引継ぎ
活動した上で感じたこと
午前は雨もやんでいたので平成の森仮設へ。引継ぎで気になる人が居るとのことで出会いに行くが出会えず。アズマーレというカフェを毎日開いているようで盛況しているとのこと。今回は閉まっていたが・・・・高齢の方が中心で若い方はあまりこられない。仮設内でなんでも行ってしまうと閉鎖的になってしまう可能性もあるのではないかと思った。歌津地区では支援員は20名で4つのグループに分かれて1グループ170名程度の担当を持つとの事。把握するまでに相当の時間が掛かるのではないかと思う。Oさんの話からで生活支援員の方は研修時に3つほどどのようなことをやりたいか書いてそれを実行に移していくそうだがそれで本当に大丈夫なのかなと思う。詳しくはわからないが。社協さんはこれからカリタスさんと一緒になって支援を行っていくとのこと。どのようなことを行っていくのかは気になるところ。
 午後からは登米拠点で引継ぎ。
感じたことを改善・向上させるのに必要なこと
支援をとぎらせないこと。
他へ依頼したこと
Sさん:出張理容(宮川床屋)場所はベイサイド付近
備考
昨日、5日に集まって話し合いを開く予定でしたが八幡さんがJDFやその他関係機関と会議があるとのことで延期。次回は9月20日登米拠点にて話し合い予定。
5日はたすけっと菊池さんが登米に来られるので今後については話し合う予定。
元志津川高校避難所ボランティアリーダーHさん:9月5日からハグハウスにて活動予定。

みやぎ登米支部・「そうそうの杜」活動日誌 NO.1

 震災直後から被災地障がい者センターみやぎの支援活動に参加されてきた社会福祉法人「そうそうの杜」は、現在は被災地障がい者センターみやぎ登米支部を拠点にして、地元のグループ「ハグハウス」とともに登米市や南三陸町の仮設住宅をまわり、移動カフェを運営しながら個別ニーズを掘り起こす活動をされています。今回から、その活動日誌を連続掲載します。
「そうそうの杜」・東日本大震災派遣報告書 NO.1
日時:2011年9月1日(木) 天気:雨
報告者:・N
10:00 荒砥・平貝仮設住宅 訪問調査
12:00~13:00 ハグハウスにて打ち合わせ
14:00 ハグハウスにて支援物資の整理
16:30 登米拠点にて引継ぎ
活動した上で感じたこと
 午前は荒砥・平貝の仮設に訪問調査。荒砥・平貝はどちらも部落ごと移動しており、顔見知りの方が多いとの事。平日と言うこともあり、皆さん出掛けているところが多く出会える人が少ない。独居老人の方が暮らしており、少し話を聞くと震災当日の話をしてくださる。奥さんを津波で亡くしたことにとても後悔をしているように感じた。最後には「話を聞いてくれてありがとう」とポツリと言ってくださる。
話を聞くだけでもほんの少しかもしれないが心が和らぐのではないかと感じた。そこからコミュニティ作りのきっかけになってくるのではないか。そしてニーズも拾えて来ることもあるのではないかと思った。
 平貝の仮設では、身体的に障害を持っている方などが居る。まだほとんどの団体は入っていないようで話を聞くと社協の方が挨拶程度に来ただけだとのこと。入居して日が浅いせいもあり、出会えていないこともある。
皆さん遠慮されている部分が見られ、難しいとは思うが本当のニーズを拾っていかなければならないと思うし、見極めも大事になってくると思う。焦らずじっくり考えていきたい。体は元気だが精神的に追い詰められている人などがいたりそのことを言い出せない人はまだまだたくさんいるのではないかと感じた。
 送迎で関わっているWさんが避難所から平貝仮設に移ってきており、母と出会う。最近になってひざを悪くしたとの事で歩くのが大変だということで余っていた杖をその日に届ける。話の中でJDFさんから9月末に撤退し、送迎は出来ないと話されたとの事。今後の方向性については話がなかったようで不安が強かったとのこと。まる投げの状態。9月半ばで市従さんも撤退することもあり、改めて方向性を確認できる時間が必要だと思う。
 午後からは大雨のためハグハウスで支援物資の荷物整理。Hさんも来られ一緒に行う。Hさんがハグハウスに関わっていることがカリタスさんからはよく思っていないようでポツリと漏らしていた。この状況の中にあるのにそんな風に思うところもあるんだなあと思った。
感じたことを改善・向上させるのに必要なこと
 JDF・市従さんが撤退していくので送迎のことを含め今後の体制作り・方向性を決めていかなければならない。
他へ依頼したこと
 特になし
備考
 Tさん9月1日から9月7日まで学会のため神戸へ。
菊池さん・八幡さん・Oさん・Sさん・そうそうの杜で今後の体制作りを含め方向性について話し合い。9月5日予定

当事者同士って、やっぱりすごいなぁ~と思う。

現地ボランティア情報
「8月22日(月)」
NPOちゅうぶ S 仙台に到着したのは18日。それから25日までの滞在期間7日間。私が会って話しをすることができたのは、聴覚障害者のご夫婦KさんTさんだけだった。会って話しをしたとは言うものの、「話をした」とは言い難い状況だった。 本当に印象的な日だった。
 私は、少々の手話ができるからという理由もあった為なのか、聴覚障害者の梶原さんと同じチームになった。私は多少の手話表現は覚えているものの、聴覚障害者の人たちと話したことはほとんどない。手話の読み取りも苦手で、英語に例えるならABCを読めるくらいものなのだ。それなのに、タイミングとは本当に困ったもので。彼女と同時期というだけで、手話を使わなければならない環境に放り出されたのだ。私は手話の読み取りに、目も頭もしびれる一週間を送っていた。
 19日はまず、情報収集。行政や障害者の情報を把握しているだろうと思われる団体等に電話をかける。初めて電話したのは、某市役所の障害福祉課。緊張で舌がからまわる。私の説明下手がさらに磨きがかかる。結局、「電話では教えられない」との冷たいお声が…。まぁ、当然ですよね…。そりゃ、逆の立場だったら、あたしだってこんな良く分らない電話にホイホイ答えたりしないわ…。つくづくそう思わされた。
 公の機関に電話で当たっても、個人情報に関しては教えてもらえない。当然のことではあるが、大震災という非常時であってもそれは変わらないのだという現状を目の当たりにした。「個人情報保護法の観点から」そう言われてしまえば、これ以上言い返すすべもない。当然なのかもしれないが、歯がゆかった。ただ時間だけが、空しく過ぎていくのを感じていた。
 そんな時、手話通訳ボランティアで参加してくれているHくんのお父様が公務員であることが判明。仮設住宅に住んでいる聴覚障害者三世帯に呼びかけ、お茶会を設定してくれることになった。日程や時間まで、すんなり決まった。
 「あぁ、やっぱりこういうときは現地での関係性がモノを言うのだー。」
 短期間でのボランティアの意味があるのだろうか?仙台に来る前からの疑問。そして、電話掛けするたびに、明確になるその疑問の答え。分ってはいたけど、それに無力感を感じずにはいられなかった。けれども、この時、様々な個人がボランティアとして参加する意義がなんとなく分ったような気がした。こうやって、他から人が訪れることで、新しい関係性が生まれ、次の展開が生じてくるのだ!その事実に、ぞくっとするような感動を覚えた。
 そして、22日。朝からセンターを出発。聴覚障害者三世帯に会いに向かった。
現地に到着すると、女性が2人。AさんとBさん。三世帯のうち、二世帯の奥様2人だった。とても親しい感じで仲が良さそう。梶原さんが手話で話し始めると、2人とも待ってましたとばかりに、生き生きとした表情で話し始めた。
 「もう1家族いるんですよね?」梶原さんが尋ねるとAさんもBさんも困った表情になった。なにやら、高齢で話しが通じないらしい。だから、ここに来てもらってもね…という雰囲気だった。わたしも意味が良く分らず、梶原さんも「大丈夫だと思う」ということで、そのご夫婦にも来て頂くことになった。
 その間も、AさんとBさんのトークはどんどん続く。梶原さんが入ってさらに盛り上がり、AさんとBさんの表情がきらきらする。当事者同士って、やっぱりすごいなぁ~と思う。私は、その生き生きした会話の速さについていけず、話しに加わるどころか、内容を把握することすらあきらめかけていた。
と、そこに最後の一世帯。二人とも70代くらいだろうか。ご夫婦が入ってきた。梶原さんが話しかけるが会話にならない。AさんBさんが、二人に話しかけるがそれでも通じていない様子だった。
 手話が分らない私は、ごく自然に、手話が分らないこのご夫婦と話しをすることになった。
聞き取りをするのは、今日が初めて。私は、とりあえず名前から聞こうと思った。焦りながらメモ用紙を取り出し、「名前を教えてください」と書いた。すると、奥さんが○○と名字だけを書いてくれた。下の名前も教えてほしいのだが、手話をしても通じない。しばらくすると、雰囲気を察してくれたのか、○○に続けて、奥さんの名前T、ご主人の名前Kと書いてくれた。それぞれ、指さしして顔を合わせると、「うんうん」と頷いてれた。名前を聞き出すにも10分以上はかかっていた。
 
 「二人暮らし」なのか「子供や家族がいるのか」を聞こうと思うが、コミュニケーションの方法が思いつかない。しかし、Tさんは話したい気持ちは持ってくれているようで、一生懸命に何かを書こうとはしてくれていた。Kさんを指さし、○才と書き、続いて数字の羅列を書く。そして、Tさん自分自身を指さし、○才、また数字の羅列。二人の年齢と生年月日だった。
 続いて「3月11日」と書いてくれた。私が手話で地震を表現すると、手話が通じたのか、ゼスチャーとしての理解だったのかは分らないが、TさんKさんともに、同じ地震の手話をして、「そうそう!地震!」という表情になった。
そこから、TさんもKさんもゼスチャーで話し始め、地震が起こった時のこと、避難した時のことを教えてくれた。
「いつからここに住んでいますか?」
「こまったことはありますか?」
「買い物はどうしてますか?」
 聞き取りをしようにも、どれを書いても、二人には通じなかった。Tさんが書けるのは、地名と日付と時間。それ以外は、ひらがなでも通じない。Kさんは、読もうとも書こうともしなかった。
 困った私にOさんが助け舟をだしてくれた。iPadだ。彼が、iPadでこの付近の地図+航空写真を出し、二人に見てもらいながら、指さしとゼスチャーで新しい会話を始めた。
 二人は、被災前は島で暮らし、Kさんは養殖の仕事をしていたこと。逃げた場所のこと。仮設住宅に住み始めた日。そして、いつも買い物に行っている場所。病院に通っていること。それに、いつも食べている食事のことまで分った。iPadに映しだすことで、お互いに『そうそう!これこれ!』と確認できて、コミュニケーションがスムーズになるのを感じた。今回の聞き取りで分った内容は、共通の言語があれば15分程度のものだったと思うが、それに2時間は費やした。
 聞き取りで判ったのは、今の二人の生活には、特に困っていることはないということだった。私には二人の会話を理解することはできなかったが、二人の間ではコミュニケーションが成立しており、穏やかな生活の様子が感じられた。報告そして、会議の結果も、二人には特に支援は必要ないということで終わった。
 震災ボランティア7日間の中で、特に支援を必要とする方にお会いすることはなく、あっという間に一週間は過ぎていった。ただ、TさんKさんにお会いして話しをしたことは、大阪に戻り、仕事に戻っても頭を離れない。
 震災ボランティアに参加してみて、私自身日本人である責任として、被災地で感じたことや経験させてもらったことを忘れず、伝えなければならないと思うようになった。そして、TさんKさんのように、言語を獲得する機会なく生活している人達がいるということについても、もっとたくさんのひとが、きちんと知り考えるべきことだと感じている。