皆様へ
連日の活動お疲れ様です。及川智です。
先日5月1日に東京帝国ホテルにおいて行われた、社会貢献支援財団主催の「東日本大震災における貢献者表彰」表彰式に出席してきました。
これは、CILたすけっと及び被災地障がい者センターみやぎの活動に対して表彰されました。
合わせて128の団体、個人が表彰を受けました。盛大な表彰式で一人ひとりの活動が紹介され登壇しました。さまざまな活動があった中、地震発生直後人命救助をされるも津波の犠牲となられた方々も多数いらっしゃいました。また、被災地の消防団、医師看護師、支援団体、個人と本当にいろんな支援活動があったことがわかりました。
センターみやぎの活動がこういった形で評価されたことはとても嬉しいことですが、まだ活動は長く続きます。「復興」を目指して活動する方々と思いを共有しながら日々の活動をしていきたいと思いました。
表彰の副賞として50万円を頂戴しました。これはセンターみやぎの活動費として活用したいと考えております。
最後に社会貢献支援財団のホームページを紹介いたします。ご参照ください。
社会貢献支援財団のホームページ
http://www.fesco.or.jp/
ヒデの救援レポート、2012年5月7日
ヒデの救援レポート、2012年5月7日:69
バス事故、山岳遭難、竜巻の記憶を残して、hideが1日しか休めなかった連休が去りました。またまた非日常の日常が始まります。
東日本大震災被災障害者救援本部
仮称いわてトライについて
目的
復興へ向けた要望活動・障害者を含めたまちづくりへのアピール活動。トライを通して当事者や支援者を集め、今後のいわての当事者活動の活性化につなげていく。
テーマ
復興にむけて、障害者が住めるまちづくり。ここに障害者がいますよ、復興は障害者も住める町を創っていこう、ということをテーマとし、取り組みを行う。
活動
行政への要望活動・沿道の市町村を訪問し要望を行う。・復興計画は、障害者も含めたまちづくりにすること。・介助制度を整えることなど。・避難所、仮設住宅、復興住宅など障害者が使えるものに。アクセスの要望活動・県北バス、低床バスの導入。・三陸鉄道、バリアフリー化を。・JR東日本、バリアフリー化を。バリアフリーチェック・沿岸部のお店などを訪問し、バリアフリーチェック。市民を巻き込んだイベント・沿道のポイント、ポイントで市民を巻き込んだイベントを企画する。・宮古、釜石、大船渡、陸前高田など。
期間
7/29(日)~8/11金曜日・7/29に宮古市田老地区スーパー堤防をスタート。
8/9に陸前高田市一本松付近でゴール
8/10盛岡にいき、岩手県庁、県北バス、三陸鉄道、JR東日本を訪問し、要望書提出。コースと宿泊・宮古市ー陸前高田市、約100キロ・被災した沿岸部を歩く。
宿泊は、野宿、避難所、各地の拠点釜石などに泊まる。・流れに応じて自由で楽しくできるように、野宿も1/3くらいは取り入れてみる。
マスコミ
できるだけ多くの人にアピールできるように、積極的にマスコミに取材してもらう。また、活動資金としての寄付も呼びかける。新聞、テレビ全社へ取材依頼。ドキュメンタリーなどを撮ってもらえるように依頼してみる。
実行委員会メンバー
被災地センターいわて、みやこのメンバー、CILもりおか。
当事者として核になる人が必要。CILもりおかが事務局を担当する。今川さんも実行委員をやりたいとのこと。岩手の当事者や健常者など実行委員を新たに新聞で募集する。会議・本部は盛岡とする。沿岸部の宮古などでも関わってくれる人を集め連携していく。週1回程度、盛岡で実行委員会を開き、企画話し合い、準備を進めていく。沿岸部の被災地センター釜石などとも連携をとり、一緒に運営していく。
地元実行委員会で運営する意義
救援本部や関西との関係
いわてトライは、基本的に地元実行委員会で企画と運営を行う。救援本部や関西は側面的サポートのみとする。地元が主体となって運営することにより、
1、新しいメンバーを集め、
2、実践を通じて運営力を身につけ、
3、トライ後の岩手の当事者運動につなげていく。
救援本部や関西のメンバーは、あくまでも上記についてアドバイスするというスタンス。地域を変えていくことはそこに住む人にしかできない。他地域のメンバーがやってしまうと、実践する機会が奪われ、トライ後は何も残らなくなってしまう。
いわては岩手のメンバーで変えるという主体性がこのイベントの成功の鍵。
運営費
マスコミを通じて寄付を呼びかける。
宿泊は野宿や、無料で泊まれる場所にして、経費はできるだけ押さえる。
今後の進め方
企画書作成・タイムスケジュール案作る。→佐藤作成。・4/30日に再度会議を開く。障害当事者で核になる人が必要。誰ができるか考えてきてもらい、話し合う。そこで最終的に実施するかどうか決める。→4/10に川畑さんから連絡があり、CILもりおかが実行委員会を担う方向で検討しているとのこと。以上
これまでのトライについて日本でのアクセス運動
1986年~95年まで日本で開催。
大阪から東京まで野宿しながら歩き、沿道の駅によりバリアフリー化を要望。
マスコミ取材を積極的に受けて、アクセスの問題を社会にアピールする。
これ以降も、東北や福岡~東京などでも開催。
日韓トライ・2001年7月~8月。
釜山から北京まで20日くらいかけて歩き、沿道の駅や、2002日韓ワールドカップのスタジアムを訪問しバリアフリーチェックをした。
アクセスのアピール・日本メンバーと韓国メンバーで運営
Asiaトライ
メインストリーム、夢宙センター、ばあとなぁの3団体で支援しているアジア6カ国・パキスタン、ネパール、カンボジア、台湾、韓国、モンゴルのメンバーが集まり、2年に一度、アジアの国でトライを開催。
テーマは自立やまちづくりなどその国の状況に合わせて決める。
2007年Asiaトライin韓国
2009年Asiaトライin台湾
2011年Asiaトライinモンゴル
うちなートライ
沖縄での条例づくりの運動で、トライを開催。離島等を巡り条例づくりのためのイベントなどを開催。
トライの活動・当事者と健常者が一緒に運動する。
沿道を歩き、野宿をするというスタイル。若者の旅。・主催は実行委員会。費用は自分たちで集める。Tシャツ販売、企業からの協賛金など。社会にアピールすることも活動の柱として、できるだけマスコミも活用。
被災障害者支援ゆめ風基金に寄せられた救援金、金額は、4月14日までに、227969836円です。これまでに支援した団体、個人への金額。支援総額は、5月2日までに、東北関連で、129999050円になります。
台風12号関連、2942828円。
フィリピン洪水関連、1000000円です。
このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌そよ風のように街に出よう編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。広く知ってもらいたいので、転送自由。自由にお使いください。
息の長い救援が求められています。長期戦です。救援金の送り先は、郵便振替口座00980-7-40043ゆめ風基金です。;とうほく;と書いてください。
東日本大震災救援活動の中のボクの吾亦紅風景
吾亦紅と名付けられた植物は、小さな赤い花をつけます。大輪の紅薔薇のようにではなく、ひっそりと。大きな声、叫び。大勢の群集の権利要求、強い権力ではなく、小さく、ひっそりと。しかし、その大勢の人たちと同じように、わたしにも、赤い血潮がしっかと流れているんだぞと、われも、また、赤い吾亦紅と咲くのです。
ゆめ風基金の理事のおひとりの馬垣さんが関わっている、大阪府吹田市のぷくぷくの会の機関紙・まねき猫通信117号の記事。
新聞の作り方88、石塚直人さんからの引用。
連絡先・吹田市南高浜町1番17-2号
TEL・06-6317-5598-FAX・06-6317-0936
各社総力戦の3・11朝刊・大きく二つ分かれた社説・全文ルビ付き
あの日から1年が過ぎた3月11日の朝刊紙面。各紙はそれぞれ、この1年を振り返り次代を見据える大量の記事を載せた。戦後ならぬ災後の言葉も生んだ歴史的な大災害を再点検する特集記事は、各社の総力戦の趣を呈し、被災地の苦難に寄り添おうとの姿勢がうかがえた。
ただ、社説は大きく2つに分かれた。脱原発を明確にしたものとそうでないものと。京都新聞は、経済優先の・あの日・以前に、なし崩し的に原発を戻すようなことは許されないと書き、原発再稼働に前のめり気味の野田政権を批判した。原発によって、エネルギー浪費型の社会になっていなかったかとも問いかけた。
東京新聞の「私たちは変わったか」は、雪の福島で印象深い二人に会ったと説き起こし、彼らの口を借りて地域の願いに冷淡な国の現状を照らし出した後、被災地の人々は変わったけれど、そうでない人々は変わらないという事態を恐れます。原発に頼らない国を創る。核なき世界を目指す…とした。深い内省に裏付けられた、格調高い文章だ。
被災者の肉声に耳を傾け、原発に依存してきた自分たちを問い直す謙虚さが、この日の社説には欠かせまい。政府や住民に高みから注文をつける、例えば読売社説の感覚に違和感を持つ所以である。ドイツの脱原発を決定的にしたのは、福島の事故のような危険を後世に引き継ぐことは倫理的に許されないとの判断だったとされるが、同社などが原発再稼働を説く記事には、経済の視点こそあれ、倫理のそれは見当たらない。
福島県田村市にあるNPO法人ケアステーションゆうとぴあから、素敵な機関誌あくせすが発行されています。原発事故、放射能情報、被災障害者情報が満載された、内容のある冊子です。その98号の編集後記から
東日本大震災から1年が過ぎました。福島県では地震、津波、放射能汚染に加え政治、行政不信が生じた。この間の時間感覚にもマヒを感じます。この時間の経過と共に、地域に留まった人にも、地域から避難した人にも疲弊と想定外のことが生じています。復興コミュニティー絆など、これまで人、家族と地域に必要なキーワードが今では、分断を意味する隠語に。
先日沖縄を訪ねました。地元野菜等を当所に送っていただいた方々へのあいさつとお礼を込めて。基地を押し付け られた沖縄と原発を押し付けられた福島に共通するのは被害者と連帯感。
NPO法人ケアステーションゆうとぴあ
福島県田村市船引町字山ノ内129-8
TEL&FAX・0247-82-5508 以上
被災地障害者センター大船渡から
お世話になっております。
センター123の太田です。
大船渡にて、利用者さんを集めたバーベキュー会を先日行いました。
そのご報告をさせて頂きます。
4月21日(土)に、
大船渡湾とサン・アンドレス公園を一望できる当事務所の駐車場にて
開催しました。
参加者は19名
・利用者さん 10名
・スタッフ、ボランティア 9名
風がちょっと肌寒い中でしたが、大変盛り上がりました。
利用者さんからは、
「今までこういった会に参加したことがない。すごく楽しかった。」
などとご意見を頂き、
初回にしては上出来だったと思います。
今後も2ヶ月に一度ぐらいのペースで開催し、
なるべく利用者さんを巻き込んでいこうと思っております。
これからも頑張っていきますので、
どうぞよろしくお願い致します。
ヒデの救援レポート、2012年5月2日
ヒデの救援レポート、2012年5月2日:68
大至急のお知らせ!!引っ越しました!
5月5日、カール・マルクス生誕の日、人工呼吸器を使用する子の親の会・バクバクの会初代会長の平本さんの命日、不肖hideの亡き母親の誕生日ひととしての幸せを願う、世界中の子どもの日を前にした5月1日、メーデーの日、ゆめ風基金事務所が、多くの人たちに支えられて、引っ越ししました。
新しい住所は、大阪市東淀川区東中島町1-13-43-106。電話番号及び、連絡方法は、変わりません。
場所は、前の事務所から50M東、大きな交差点を北へ10M、5軒目です!!
比較的安い家賃で借りれました。
室内も広く、作業や障害者雇用も充分に可能になりました。トイレも、ストレッチャー型車イスでも使用できるように、広げました。皆さんが遠慮無くおいでいただくよう、ゆめ風スタッフは、お待ちしております。拝
京都花園大学の人権教育研究センター報第21号に掲載された、障害者問題総合誌・そよ風のように街に出よう・副編集長の小林敏昭さんの文章「大震災と想像力」からの抜粋。
発行・花園大学人権教育研究センター
TEL・075-811-5181
東北関東大震災から一年が過ぎました。10か月後の今年1月11日の時点で、亡くなった人は1万5千人を越え、行方の分からない人は3千5百人に達しています。当たり前のことですが、その1人ひとりが社会の中でさまざまな人たちと関係を結んでいた、かけがえのない存在でした。遺された人たちの悲しみはどれだけ深いことでしょう。
妻と幼い娘2人を津波にさらわれ、家族の中でただ1人生き残った30代くらいの男性がテレビのインタビューに答えているのを観たことがあります。その人はカメラに向かって、淡々と娘たちのことや被災した時の状況を語っていました。その姿に、私は大きなショックを受けました。私が彼だったら、あのように取り乱すことなく語ることができるだろうか、いや、そもそも生きようという気力など出てくるだろうか、と思ったのです。
彼が深い悲しみの中にあることは、その表情からすぐに読みとれました。それでもなお、彼は愛する者たちの思い出を語り、そうすることによって生きようとしていました。私はそこにたくましさとかひたむきさ以上のもの、何か生き物としての人間のすごさのようなものを感じて、その映像に見入ってしまいました。
大震災からの復興には長い年月がかかります。地震と津波による被害だけでも甚大なのに、そこに福島第一原子力発電所の爆発事故という大惨事が加わりました。人類が歴史上経験したことのない巨大復興プロジェクトです。みなさんがおばさんやおじさんになり白髪の老人になってもこのプロジェクトは続いているかも知れません。
その長い復興の道のりの第一歩は、被災者の生活再建のための制度や資金を十分に用意することと、放射能汚染によって生じた損害を電力会社と国がきちんと賠償することです。これは政治や司法の仕事です。一方、被災地に入ってボランティア活動をしたり息の長い募金支援をしたりといった、市民サイドの活動も欠かせないでしょう。 そして長期的な視野に立って、原発に依存してきた私たちの国のあり方を変え、安定した再生エネルギーを産み出しいく方法を真剣に考えていかねばなりません。
そうした復興プロジェクト全体を支えるのは、被害に遭ったひとたちに対する私たちの共感力や想像力ではないかと私は思います。テレビに登場した男性に感銘を受けたのも、私の心が彼の心に共振したからだと言えるかも知れません。被災した人たちが失ったものに思いを馳せ、その人たちと思いを重ねること。そのことを通して、復興だけではなく今後襲ってくるだろう新たな天災に備えることもできるし、同じような人災を繰り返さないための努力を傾けることもできると思うのです。
この文章を読んでいるみなさんの中には大震災で身近な人を失った人もいるかも知れませんが、たいていの人はそうではないと思います。だから被災した人たちと思いを重ねることなど無理だ、想像したり共感することなどできるはずがないと思うかも知れません。
でもそうではありません。私たち人間には、他の動物にはない共感力や想像力が備わっているのです。中略・
目の前にあるものだけを見ているチンパンジーは、瞬間的な記憶力、例えばコンピューターの画面に一瞬提示された数字を覚える、では人間よりはるかに優れています。でも、そこにはないものを想像する力では3歳の子どもにも及ばない。
松沢さんはチンパンジーは絶望しない。たぶん、明日のことさえ思い煩ってはいないようだ。それに対して人間は容易に絶望してしまう。でも絶望するのと同じ能力、その未来を想像するという能力があるから、人間は希望をもてる。どんな過酷な状況の中でも、希望をもてると書いています。
これから続く復興プロジェクトの長い道のりでは、私たちの想像力が試されるでしょう。復興という場面に限らず、その力は私たちが他者と共に生きようとする時に必ず役に立ってくれます。みなさんには、ぜひ大学生活で、その力に磨きをかけてほしいと思います。人権研センター委嘱研究員
被災障害者支援ゆめ風基金に寄せられた救援金、金額は、4月14日までに、227969836円です。これまでに支援した団体、個人への金額は、12月31日までに、123599050円です。
●その他、台風12号被災地に、2942828円。フィリピン洪水被災地に1000000円の支援をしました。
このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌そよ風のように街に出よう編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。広く知ってもらいたいので、転送自由。自由にお使いください。
息の長い救援が求められています。長期戦です。救援金の送り先は、郵便振替口座00980-7-40043ゆめ風基金です。;とうほく;と書いてください。
東日本大震災救援活動の中のボクの風景。
●hideの畏友のおひとり、花園大学の八木教授さん発行の個人メディア;試行社通信;305号の中の記事;メディアと向き合う;からの抜粋、○その2
●連絡TELFAX075-221-2672
○定義不明の;冷温停止;報道の垂れ流しも絶対に許容できない。通常運転の原子炉をとめて安定的に冷却できたことを冷温停止ということくらいはすでに常識のはずなのに、メルトダウンした炉心が圧力容器をもメルトスルーし、しかもその状態を誰も確認できないまま水をかけつづけている状態を冷温停止などといえるわけがありません。
この2月中旬、2号機の格納容器の温度がかなり上がったことについて東電は温度計の故障と説明しました。それならいいのですが、ならば東電はなぜに再臨界防止のためのホウ酸水や大量の水を注入しなければならないのかと素人ながら疑っていたところ、どうやらキセノンが確認されたらしいという。つまり核分裂がつづいているらしいのです。何が冷温停止なものか。新聞各社のかなり優秀な科学記者は一体全体なにをしているのでしょうか。
これも素人ながらかねがね疑問におもっているのが除染。原発事故が終息せず、放射性物質も出つづけている2号機の温度上昇の際、セシウムが異常に高値になったという情報もある。
そんな段階でおこなう除染に意味があるのかどうか。さらに除染はどうかんがえても、汚染の移動でしかないはずですが、本当のところはどうなんでしょうか。福島から遠隔の地にあって、無責任な発言は慎むべきでしょうが、私の目には、除染は人々を避難させないための手段、すなわちある種の人体実験にしかみえません。除染の有効性を強調するマスコミは、人々の自主避難をも切り捨てる政府の棄民政策に加担していると批判されても仕方がないのではないか。放射性物質にたいしては除染よりは;避難;あるのみだと新聞は説得すべきなのではないか。
いま思い出しましたが、管おろし報道が激化したのは、管首相が浜岡原発の運転停止を要請した昨年5月6日以降のこと。管が安全が確認されるまでと発言したことへの反応です。この点について産経の社説は手続きを欠いた管首相の要請には、原発事故の深刻さをパフォーマンスに利用した思いを禁じ得ない。諸外国からは、日本が原発を否定したと受けとめられる恐れがあると書き、読売の社説は、浜岡に限らず各地で原発停止が広がるかもしれない。そうならないよう、政府と電力各社は対応を急がねばならない。と書きました。
原発維持のための管おろし、実に破廉恥だ。
頑張ろう、東北!頑張ろう、仙台!頑張ろう、
パルいずみ!仙台七夕ストラップ、
1個500円
パルいずみ・宮城県仙台市泉区七北田字大沢烏谷ケ沢8-11
TEL・022ー377-4802FAX・022-377-3762
○ストラップは、ピンクと青の2種類あります。
○パルいずみは、就労移行支援事業所・就労継続支援ビィ型事業所です。申し込みは、数をなるべくまとめてあげてください!
パルいずみは、精神に障害をお持ちの方を対象に、就労移行支援、就労継続支援という2つの事業を行っています。
○就労移行支援事業とは?
企業への就労を希望される方に対し、必要な知識・技能等を習得してもらうための支援や、関係機関と連携し、実習・求職活動から就職後の定着までの支援を一環して行う事業です。
○就労継続支援事業とは?
パルいずみ内での生産活動や、利用者さん同士の付き合いを通して、自分の希望を実現できるよう支援を行う事業です。
○生産活動の一環として、ビーズアクセサリー・仙台七夕ストラップなどを作製して販売をしています。売り上げ収入は、利用者さんの工賃給料となっています。
京都北部盲ろう者たんぽぽの会・設立5周年記念講演会
○東日本大震災を体験して~その時、障害者は~
○2012年6月23日(土)、式典・午後1時から20分。講演・1時30分から4時
○会場・福知山市総合福祉会館3階・福知山市内記10-18
○講演者・早坂洋子さん(みやぎ盲ろう児・者友の会会長)
○参加協力費1000円
早坂洋子さんプロフィール
1982年宮城県生まれ。弱視難聴。生まれつき、目と耳の両方が不自由。小・中・高と普通校に通い、高校卒業後三療の資格を取るため宮城県立盲学校現・視覚支援学校に進学。あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師免許取得。現在みやぎ盲ろう児・者友の会で活動中。
問い合わせ・設立5周年記念講演会実行委員会
TEL&FAX・0772-66-0034以上。
野崎観音に河内家菊水丸さん、桂文福さん
5月2日から5日まで、大阪府大東市の野崎観音で人権パネル展「3.11東日本大震災「その時障害者に何が起きたか!」が開催されました。この人権パネル展は29回目ということで、今年はゆめ風基金が製作した被災地の障害者支援活動を紹介するパネルを展示することになりました。
また、毎年参道から境内へと15万人が訪れる「のざきまいり」(5月1日~5月8日)の特設ステージをお借りし、ゆめ風基金を応援するため、3日は河内家菊水丸さん、4日は桂文福さんが駆けつけてくださいました。
3日は天気が心配でしたが、菊水丸さんのステージは雨が降らず、とても幸運でした。両日とも決して広くはない境内の開いているスペースが埋め尽くされ、大盛況でした。
お二人がよびかけてくださり、支援金もたくさんいただきました。
河内家菊水丸さん、桂文福さん、ほんとうにありがとうございました。
パネル展の方は約2500人のご来場をいただきました。支援グッズも良く売れました。
大東市市役所のみなさん、大東市人権啓発推進協議会の市民のみなさん、そして場所の提供に限らず、特設ステージの貴重な時間を提供してくださった野崎観音さん、関係者のすべてのみなさん、ほんとうにありがとうございました。
つづけて、11日には大東市立サーティホールで紙ふうせんさんのコンサートが開かれます。お近くの方はぜひご来場ください。入場無料ですが、入場整理券が必要です。くわしくはご案内していますチラシをご覧ください。
ヒデの救援レポート、012年4月23日
ヒデの救援レポート、012年4月23日:67
●ゆめ風事務所に届いたお葉書から
○ゆめ風基金さま、スタッフの皆様にはお元気にご活躍でいらっしゃいますでしょうか。
昨年3・11の大震災での尊いお働きを心から感謝申し上げます。力弱い私も何かせずにいられない気持ちで義援金を送らせていただきました。そして食卓に貯金箱を置き、1か月5千円を1年間続けようと決めたのでした。被災地の皆様の戦いはまだ続いており心苦しく思いますが、本日の送金で終わりにさせていただきたいと思います。
私は73歳、独居の障害者です。ヘルパーさんや友人に助けられながら生活しています。この後も皆様のことは忘れません。また、自らの力で立ち上がろうと奮闘しておられる障害のある若者たちの存在に大変励まされました。どうかお身体お大事に益々のご活躍をお祈りいたしております。私もこの一日を精一杯生きたいと思います。 ゆめ風の皆様本当にありがとうございました。
2012、3、27 東京、K・H
リウマチでボールペンが握れません。でもパソコンが使えます。感謝です。
●3月25日、NPO法人・ゆめ風基金・2011年度第11回定時総会が、大阪市北区にある山西福祉記念会館で開催され、参加者、委任状を合わせて定数が達成して、成立しました。
前日の24日夜には、会員、ネットの方々、30人以上が参加されて、会館のレストランを借りての交流会も開かれ、久しぶりの顔合わせの中、東日本大震災被災障害者救援活動の取り組みや、全国各地の情報交換を飲み、かつ食べながら、深夜まで語り合いました。
翌日、25日の午前10時からは、会館のホールにて、12時まで法人定時総会。牧口代表理事を議長に、活気ある進行でした。見慣れた顔顔と議論百出は、とても楽しいものです。
○参加されたのは、ゆめ風ネットワークの福岡、尾道、埼玉、宮城、淡路島、福井、愛知、石川、加賀、兵庫、富山、新潟、但馬、そして、8名の全理事、幹事合わせて、50名を上回りました。議事は通例通りきちんと進み、話し合いの大半が3・11以後のゆめ風基金、各地の取り組み、被災地の障害者拠点10ケ所、後方支援2拠点の動向、あり方に集まりました。
2時間という短い間でしたが、深い味わいのある総会になりました。今年は理事改選期に当たり、障大連の細井さんを新たに理事に選任して、その他の理事、幹事が再選されて、更なる被災地障害者支援を誓いながら、閉会しました。
●25日には、同時並行して、会館隣りの扇町公園で、第2回・東北イコール関西ポジティブ生活文化交流祭りが開催されました。
○あれこれのイベント○大団円!いも煮交流会
○東北被災障害者救援活動100人しゃべり場
○まちなか被災シュミレーション
と、折り重なるように行われ、寒い風が吹く中、述べ1000人以上が参加しました。ゆめ風基金総会に参加された方々も参加し、被災地から参加した被災障害者の方々と、交流を深めました。
○また総会会場では、交流祭り終了まで、ゆめ風基金制作の被災パネル展示も行いました。パラパラの見学者でしたが、みんな熱心に見入ってました。
●被災障害者支援ゆめ風基金に寄せられた救援金、金額は、4月14日までに、227969836円です。これまでに支援した団体、個人への金額。12月31日現在、●東北へ、123599050円●台風12号関連、香川県、和歌山県、兵庫県方面2942828円●フィリピン大洪水、10000000円です。
このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。広く知ってもらいたいので、転送自由。自由にお使いください。
息の長い救援が求められています。長期戦です。救援金の送り先は、郵便振替口座:00980-7-40043:ゆめ風基金です。:とうほく:と書いてください。
東日本大震災救援活動の中のボクの風景
●hideの畏友のおひとり、京都花園大学の八木教授が発行する、個人メディア・試行社通信305号中の「メディアと向き合う」記事からの抜粋。
○連絡先TEL/FAX075-221-2672
●ところで、3・11以後しばらくの間のマスコミはさながら大本営広報機関と化したような体たらくでした。昨年秋頃からは「毎日」を中心に若干正気をとりもどした観なきにしもあらずですが、当初はとくにひどかった。政府・東電・原子力安全・保安院、御用学者にマスコミも合体化して情報の隠蔽と統制にのみ力を発揮したといっても過言ではありません。
統制された情報を独占する記者クラブ制度の問題点はいうまでもありませんが、もう一つはやはり電力会社の広告宣伝費にマスコミは文字通り金縛りになっていたのではあるまいか。総括原価方式は戦前からありましたが、明確に制度化されたのは、1964年の電気事業法以降のこと。周知のように、総括原価方式というのは、燃料費、人件費、整備修繕費などのほか、広告宣伝費や業界団体会費などまで原価にふくめ、その4・4%を利益にしてもよいという仕組みです。
一般の企業では、なるべくコストをおさえて利益率を高める算段をするものですが、電力会社の場合は高コストであればあるほど利益もふえるという詐欺的な仕掛けができあがっているわけです。電力会社は完全な独占企業ですから、広告宣伝費など本来的に不要ですが、利益をあげるにはそれにもカネを使った方が有利なのです。人件費もそうです。
どの企業も今は人件費コストの削減に躍起になっていますが、電力会社は人件費が高ければ高いほど儲かるのです。現在正規労働者の平均年収は約400万円ほどだと思いますが、東電の正規社員の平均年収が757万円とかなり高いのもそのため。
東電1社の2010年度の広告宣伝費は116億円と相当膨大なものでした。新聞全社の広告収入は2000年からの10年で約4000億円も減少しているわけですから、電力会社の広告宣伝費は新聞をふくむマスコミ各社にとっては垂涎の金づるであって、そうであればあるほど電力会社への筆鋒はにぶくならざるをえません。実になさけないことですが、この場合も下部構造が上部構造を規定しているということになりますか。
●南相馬ファクトリー通信 ボリューム1号より
○私たちは、これからもふくしまで生きていきます。ずっと、私たちの事を忘れないで応援してください。
○南相馬の7つの作業所あさがお、えんどう豆、ほっと悠、ボニーハウス、身友会、ピーンズ、ひばり就労支援作業所と、原発から数キロにあった作業所の「ふたばの里」も仲間に入り、8つの作業所が共同して「南相馬ファクトリー」を立ち上げました。
まず、みんなで、ふくしまを応援するバッジを製作し販売します!そして、福島から情報を発信していきます。
●カンバッジ・10個入り、100個入り。卸価格1個100円。販売価格1個150円。●申し込み、えんどう豆内・南相馬ファクトリー
○TELFAX0244-23-4177
●ふくしまは祈ります。この悲しみを繰り返さないことを、;ふくしま;は願います。あなたの故郷がいつまでも、美しくあることを。
●僕は相馬、好きだよ
○作詞・えんどう豆、佐藤定広
梅雨の開ける相馬に、旗がなびくよ
野馬追の法螺の音、街に響くよ
城に集う武者たち、風が騒ぐよ
街の人は千年、守ってきたよ
みんな思いつないで、誇りをもって
君と暮らすこの街、守りたいんだ
僕は相馬、好きだよ・どこに居たって
なつかしいふるさとの温もりがするよ
宇多の流れ、清く、松川浦へ
うまいホッキと魚、食べにおいでよ
海は青く、鹿狼の、山は緑に
子どもたちは遊ぶよ、自然の中で
つらいことがあっても、諦めないで
みんなでつくろうよ、ぼくらの街を
僕は相馬、好きだよ いつの日だって
きっと元気君、できるはずだよ
さくら咲く馬稜の、城を歩けば
ひばり空を高く、さえずる街よ
冬が来て鹿狼の、山に光が
灯る頃に君は、帰ってくるよ
子供たちの瞳に、映る明日は
未来見つめ、夢にあふれているよ
今は君と別れて、暮らしていても
僕は君が好きだよ、どんな時でも
今は君がいれば、何もいらない
いつか普通の暮らし、必ずできるよ
つながりエンドレスふくしま
以上
4月14日交流会
4月14日(土)交流会
朝7時30分に大船渡を出て10時前にみやこ事務所に到着。
午後のプログラムで山田の佐々木留美子さんが出ていたNHK番組を録画したDVDを流そうということになったが、パソコンでは移らず電気屋へ伊藤君が走る。ただ録画していたものがDVD-RAMという記憶媒体で再生するには2万円以上の機械が必要ということでした。1万円以下で買えると思っていたので、今日のために高い買い物はできないと判断してとりあえずは購入を断念。あらためてパソコンを使って再生を試みる。最近デジタル波での放送が始まり、プロテクトがかっていて、パソコンでは再生できないらしい。
なんとかネットしらべて、とりあえず映像が映るようにセッティングし、私の役目は終了。他のみんなはひたすら調理とここへ来る人の送迎。午前中に今日ボランティアで歌をみんなに聞かせていただけるというRIKO(丸本莉子)さんが到着。昨夜の夜行できたということでした。
12時開始。少し遅れた人もありましたが、現地の人が16人、スタッフとCILもりおかの人も同じくらいの人数で、30人を超える交流会。
最初にじゃじゃ麺など食事を開始。採れたてのふきのとうの天ぷらはやはりおいしい。その間に佐々木るみさんの出ていた番組と竹田市立宮城台小学校からお蔵絵r手来たビデオを紹介。
1時から地元参加者で今後ここでやりたいことを話し合いました。カラオケ、運動会、パソコン学習、手芸などが出てきました。他に家で困っていることを聞くと、施設でいじめられるとか、仮設住宅でやることがなくて暇で困っているというはなしもありました。
それが終わっていよいよRIKO(丸本莉子)さん登場。21歳の彼女は去年広島から東京へ歌で食べて生きたいと上京したそうです。自身の曲や上を向いて歩こうなど5曲を披露してくれました。途中じゃんけんゲームでRIKOさんの初CD(彼女いわくきっとプレミアがつくそうです)5枚をプレゼント。また彼女の手作りミサンガが地元の人たち全員に配られました。
3時にはにぎやかな交流会も終了。
その後川畑さんとTRYについて打合せ。やるかどうかという話はやる方向で固まりました。後は30日の当事者派遣のメンバーとの話し合いで、具体的な準備について教えてもらうことになります。
6時ごろに送迎に出ていたメンバーも帰り、盛岡に帰るメンバーと宮古に残るメンバーに別れました。
宮古に残ったメンバーは地元スタッフとご苦労さん会。今後のことについて色々話をしました。
みやこではどんこというさかなが良く売られてます。ここでもどんこのたたきがあったので、食べてみました。
4月11日、12日、13日
4月11日(水)
昨晩は釜石のAJUの被災地センターに泊まり、電車で盛岡に帰る。
最寄り駅は松倉駅。待合室があるだけの無人駅でパッと見には駅に見えない。
昼過ぎに盛岡事務所に戻り、武田君と打合せ。
夕方からはふれあいらんど(岩手県総合福祉センター)で「東日本大震災障がい者支援活動推進プラットフォーム会議」に参加。この会議はもともと被災6日後(3月16日)に、県社協障がい者福祉協議会(障がい協)と県知的障害者福祉協会(知福協)が、障がい者施設支援のため「合同支援プロジェクトチーム」を結成したのが発展したもの。この合同プロジェクトで昨年3月19日から被災地の障がい関係者の状況把握、救援物資の搬送、被災施設への人的派遣支援、支援ニーズの把握していたということですが、やはり施設中心で在宅の人や避難所の人への支援はあまりしていない感じがしていました。
ただ参加団体は広がり今は私たちを含め、岩手県、岩手県身体障害者福祉協会、岩手県重症心身障害児を守る会、日本知的障害者福祉協会、きょうされん、岩手県障がい者110番、全国脊椎損傷者連合会岩手県支部、盛岡市ボランティア連絡協議会、岩手県療育センター、NPO法人難民を助ける会、NPO法人日本セルプセンター、被災地障がい者
センターいわて、全社協全国社会就労センター協議会、JDF東日本大震災障害者総合支援本部、県社協障がい者福祉協議会、岩手県知的障害者福祉協会など17団体が参加している会議であり、昨年はここで色々と情報収集をした部分も大きくありました。
今年になって国の「障がい者福祉サービス復興支援事業(以下復興支援事業と略す)」がはじまり、今回の会議には復興支援センターの職員7名が会議に加わりました。
他にボランティア団体の連携を図るいわて連携復興センターの方も今回初参加。56回目の会議となり、県内の障がい者団体の参加が少なくなる中、久しぶりに人数の多い会議でした。
今回は復興支援センターの活動紹介、JDFいわての陸前高田事務所が4月17日に開所することが大きな報告としてありました。復興支援事業は県が県社協に委託をしています。県内9拠点のうち沿岸部は4拠点があり、宮古では被災地障がい者センターみやこ事務所の隣に復興支援センターができました。宮古は県社協の直営ですが、釜石や大船渡は既存の社会福祉法人が運営する形で職員増員をしています。
相談事業と既存の福祉サービス事業所へのアドバイス、被災障がい者の実態把握、今後の災害に備えた新たな支援マニュアルなどの作成が業務であり、直接支援をするわけではないので、私たちの仕事が減るわけではなさそうです。
またみなし仮設住宅に入っている障がい者情報も未だ掴めていないこともあり、どういう動きになるかはまだ現段階では良くわからないという感じでした。
ただ全体状況については今後もこの会議を通じて知ることができるのかなと思いました。
会議が終わった後も陸前高田の今後の支援のあり方などについてJDFいわての小山(おやま)さんと話をし、19時半に事務所に戻る。
事務所ではCILもりおかの川畑さんと田野畑村ハックの家の小野ひかりさんと会いに行っていたという西沢さんがすでに戻っていました。小野ひかりさんは将来自立生活がしたいという希望もあり、昨年は盛岡まで自立生活プログラムに参加していました。今回は田野畑村やハックの家がどういうところなのかを川畑さんが直接見に行くことを目的にしていました。
4月12日(木)
東京救援本部世話人会議
朝9時過ぎに事務所を出発。1時前には着くと思っていたのが、電車の時間がうまくなくて少し遅刻。何とか会議の始まりには間に合いましたが。
今回の会議は東北6拠点のメンバーも参加し、1年間の振り返りと今後の方針の確認をすることが主な議題。お互いが顔の見える関係で支援を継続していくうえで、重要な会議となりました。
会議の後に交流会があったのですが、私は世界銀行・JCIA共済パブリックセミナーがあり、世界銀行の東京事務所へすぐに移動。今回の会議は「大規模災害における市民社会の連携を考える」というテーマで、東京、仙台、神戸をインターネットのテレビ電話でつなぐ形式で行いました。
午後6時から8時までの予定が少し延び、8時20分ぐらいに終了。私は会議の後に交流会に参加できるような時間でなかったので、直接夜行バスで宮古に帰ることにしていました。ただ会議が長引いてバスの発車まで余裕なく、おにぎりとお茶を買い込んで品川バスターミナルに着いたのは発車10分前でした。
とにかくぎりぎりセーフで一安心。車内でおにぎりを食べたあとは、愛用の空気まくらと空気腰あてを膨らませ、体制を整えた後はただただ寝るだけ。翌朝7時過ぎには宮古に到着。
4月13日(金)
午前中はあすのみやこの交流会に向け参加者、メニュー、プログラムなど簡単な確認を行い、買出しなどに向かう。午後からはそのほかのことも含めてミーティング。
交流会のメニュー、メインはじゃじゃ麺。それと地元のふきのとうをとってきて天ぷらにすることに。
交流会以外のことでは、1年経って活動報告を出そうということになり、被災者の人たちの聞き取りを5月末には終えるよう計画的に進めること。またここに来てもらったボランティアの人にも原稿依頼をし、原稿はできるだけ5月中に集め、6月に編集をし、8月には発行したいということを確認しました。
また東京の会議でメインストリームの佐藤さんから川畑さんとメールのやり取りをし、TRYの事務局についてCILもりおかで引き受けることが話されたので、その点も明日確認することにしました。
3時過ぎに会議を終え、みんなは明日の準備、私は大船渡の千葉さんと久しぶりに打合せをすることにしました。夕方5時40分ごろに大船渡の事務所に到着。事務所の向かいにあった建物が取り壊されていて、通り過ぎそうになりました。
トイレは事務所に併設する形で新たに作られ、ようやく水洗の洋式トイレに。
今後の予定について伺うと、今の事務所は来年11月で契約更新をしないといわれているので、となりの千葉さんの妻の実家の土地を利用し、事務所のみ引越しをする。障害者の活動場所についてはもう少し高台を予定。知人が山を整地しているので、そこの土地を借りて建てたいとのことでした。
難民を助ける会も補助については良い感触であり、赤い羽根共同募金からもすでに228万円の補助金が決定しているとのこと。さらに丸紅基金も申請中。事務所は平屋作りにしてあまり費用はかけたくないとのことでした。
その他リフトカーについて5月末車検の車は大阪に返さなければいけないこと、会計のルールについて、宮古と大船渡の合同会議を開き、東京で新たに担当となった森さんに来てもらうことなどを話しました。
そのままみやこにとんぼ返りするつもりでしたが、「事務所は今日は誰もいないので泊まって行ったら?」と声をかけられました。千葉さんは少し疲れていて、相手はできないとのことでしたが、夜に沿岸沿いを100キロ近く一人で走行するには少し体力的にも自信がないので泊まることにしました。それと復興屋台村がすぐ近くあると教えられたのが決め手にはなりましたが。
千葉さんお勧めのすし屋さんに案内してもらい、おいしくて、また地元の人と話をしながら楽しく過ごせました。
4月8日から11日まで
4月8日(日)
今日は全体の活動はお休み。西澤さん、広瀬さんは、地元に帰省中。土曜日の夜に宮古から山下くんと河口くん、ゆうのゆうのボランティアの井上さん、京都JCILの石塚くんが盛岡入り。
日曜は2班に分かれて龍泉洞、遠野などに遊びに行ったようです。私は静かな間に原稿書き。夜になって井上さんの希望で河口君はわんこそばの案内。八幡、山下、石塚は近所のお好み焼きやへ。山下くんのこの間の活動と悩みを聞きながら、今後の山下君の行動予定などについて話しました。
4月9日(月)
今日は少し寝坊してしまった。8時40分に事務所のシャッターが開いて起床。被災地でこんなに寝ていたのはたぶん初めて。
入ってきたのは井上さんと宮古の新専従員伊藤くん。宮古スタッフは11時集合なのにすごく早い。
今日は少し盛岡でみんなで会議。11時には宮古スタッフだけでなく、CILもりおかの川畑さん、遠藤さん、関西からメインストリームの佐藤さん、夢宙センターの平下さんも加わり、会議を開始。現在の課題や東京の事務局会議などの報告。
午後からはCILもりおかの伊五澤さん、JILの足立さん、またネットを利用したSKYP参加で広瀬さんも加わり会議。いわてTRYと障害当事者派遣のことなどを話しました。
宮古の新人スタッフは3人にもTRYのことがわかるように、TRYの歴史から佐藤さんは丁寧に説明してくれました。
今回はバスや鉄道など交通アクセスの改善、復興に当たってバリアフリーのまちづくりを視点に入れてもらうこと、災害時の障がい者支援方法の改善などを目的にTRYを実行します。
宮古の田老から陸前高田奇跡の一本松まで、およそ120キロの行程を10日間かけて練り歩きます。日程は7月29日スタート。基本は野宿ということ。途中3日間ほどは避難所になっていた体育館などを予定。
ただ外部の障がい者が実働の中心を担ってもらえると思っていたら、地元の実行委員会中心でないと、後に残るものがないと佐藤さんから説明されました。
その場合、盛岡を中心にするのか、宮古を中心にするのか、また実行委員長を誰にするのか、実働部隊を誰が担うのかなど、解決しなければならない課題が多すぎます。
すぐには決められないということで、結論を次回4月30日の会議に持ち越し、CILもりおかと被災地で障がい者センターでその間に話し合いを持つことにしました。
何となく遠藤くんを実行委員長にと考えていたのですが、彼が収入を得るために5月か6月頃に仕事が決まりそうということで、この案はボツ。仕事が決まると、土曜、日曜くらいしか関わることができないとのことでした。
ただ盛岡を中心にするには被災地障がい者センターとしては盛岡事務所を閉じるので、かなりの部分をCILもりおかで担ってもらわなければなりません。会議の場所も問題です。
CILもりおかでは現在の事務所の拡大移転を予定しており、移転先は被災地障がい者センター盛岡事務所にほぼ確定。あとは両者で時期の確認をするだけです。
5月までで被災地障がい者センターは盛岡の事務所を閉じることで調整することとしました。
4時になって「そよ風のように街にでよう」の取材で、牧口さん、河野さんもお見えになり、5時までは会議を続行して、いったん区切りをつける。宮古スタッフはここで解散し、宮古に帰ることにする。
その後は取材を受ける傍ら、食事の準備。CILもりおかのメンバーは川畑さんだけが残れるということで、みんなで食事をしました。
4月10日(火)
午前中は八幡が取材を受ける。
井上さん、石塚くんは今日で活動を終え、帰路に着きました。
昼からはメールの整理、原稿書きをして、午後からはAJU自立の家の車(宮城で借りていたもの)を返却にいく。
八幡はそのまま釜石に泊めてもらいました。
4月11日
現在の釜石から盛岡へ移動中です。
今日は少し盛岡で沿岸部障がい者センター支援プラットフォーム会議というのがあるので、参加します。
なかなか宮古へ辿り着けない。大船渡にも顔出ししたいと思っているのですが。
4月3日、4日、5日
少し間が空いてしまいました。
この間の活動報告をします。
4月3日(火) 新人3人目、杉田さんの初出勤。3月のイベントにも出席してくれたので、実質は2日目か?
その時にはリンゴの唄(赤いりんごに..)を地元訛りで披露してくれた。ヘルパー1級の免許を持っている彼女の前職は老人デイサービス。なるほどと納得。
また彼女は今年中学1年になる息子と暮らしているが、昨年の震災で家は流され、現在は仮設住宅に住んでいる。仕事をやめたのも、そんなことでバタバタとしていたから。出勤して朝のミーティングが始まるまで、ボランティアのIさんに聞かれ当時の様子を話していました。
この日は夜のミーティングを朝に切り替えてみようという最初の日。午前の活動が控えていて、テキパキと話は進み30分で足りるかな~と思っていたのが、それより5分早く終わる。
午前中は定期的に入っているAさんのところに山下さんとボランティアの男性がまず出発。京都JCILの矢吹さんとボランティア3人が、田野畑村ハックの家に見学に。実は先日ハックの家が京都で展示即売会を開いたとのことで、その時に知り合って、今回是非訪問したいと思ったとのこと。こちらとのつながりもあり、話はトントン拍子に進んだらしい。
新人3人は今後の活動についての話し合い。面接日も含め、新人3人が揃うのは今日が初めて。 杉田さんは親の通院もあり、週3日の希望。これまでは1週間単位に仕事の確認をしてきていて、ボランティアさんにはその都度、仕事を指示していた。
新たなスタッフについて、毎日仕事のことを細かく指示することはできないので、今年やるべきことを大方知ってもらい、担当できそうなことを暇ができた時にやってもらうことにした。
午後からは初めての方の移送が入っているが、地元の人でもあまり行かない重茂(おもえ)半島。今日は強風で途中の道が通行止めになってもおかしくないといいながら、とりあえず出発。ほかに夕方田老町の方の透析のための送迎も入っている。
午後からは仙台に移動。3月で被災地障がい者センターみやぎのスタッフを務めてもらった田中万里子さん、仁礼さん親子が退職したので、今日は二人の御苦労さん会。登米のメンバー2人、石巻のメンバー3人も仙台に集まり、スタッフ内部としては割りと大きな集まりになりました。
ただ三重の実家に帰っているという太齋さんは暴風のため、飛行機が飛ばず残念ながらの欠席。代わりというわけではありませんが、登米の阿部さんの娘さんが参加していました。みんなと久しぶりにゆっくりと話ができました。宿泊施設の空きがなくなり、私は事務所どまり。なんか1年前とあまり状況が変わりません。
4月4日(水)
今日も暴風はすごい。9時から朝のミーティング。あまりの風のすごさに、活動はほとんどお休み。10時からはたすけっととしての会議。団体運営のあり方について、色々見直しが必要ということで、私が講師として呼ばれました。
震災後テレビなどを見たとかで、たすけっとへの相談が増えています。自立生活をしたい人。人工呼吸器をつけた人のヘルパー派遣ができないか、など。事業規模が徐々に拡大をする中で、整理すべき点、課題など今のうちに改善するところは改善しておこうというのが狙いです。
昼からはとっておきの音楽祭からの相談。今年も6月2日、3日と去年同様とっておきの音楽祭が開かれます。今年の実行委員長は車イスの伊藤清一さん。
暴風はすごくて、ニュースで○○が飛ばされたの、怪我をしたの、列車が止まっただのちょっと恐ろしい状態。出かけることもあまりできず、今日はこれで終了。(今日も事務所泊です)
4月5日(木)
今日は風もまだましで、活動再開。センターみやぎの代表及川さんと鴻野事務局長は石巻へ。阿部さんの先輩で車イスの人でパソコンの得意な人がいて、今後機関紙編集などをお願いできないかということで面談。
私は久しぶりに登米の事務所へ。着いたときは3人のスタッフとワーカーズコープからの研修生の女性一人の4人がいました。この女性は昨年ワーカーズコープの受講生として応募した方で、登米でバックアップもあって、登米市内での起業を目指す。いくつかのグループがあり、彼女のグループは障害者班。全体で8人グループ。8人はさらに喫茶などを業種とするグループと農業を業種とするグループの2つの班にわかれているという。
少し話をしたところでK君の今後の支援の打合せということで、小野寺さん、阿部さんは出発。太齋さんと今後のことで意見交換をする。
4月になり高速道路の無料利用がほとんどの部分で終わり、南三陸道もかなり空いていました。それでも夕方5時半に出発し、たすけっとに着いたのは夜の7時過ぎ。及川さんたちはまだ帰っておらず、8時前に帰ってきました。及川さんはそのまま次の地元の会議へ。ご苦労様です。