ヒデの救援レポート 2013年7月23日№130

●hideの畏友のひとり、現在でも、東日本大震災被災障害者支援を、豊中市で
担っていて、青い芝の会運動時代から付き合って来た、
脳性マヒ者で、元豊中市議会議員でもあった、
入部加代子さんが体調を崩されて、先週の水曜日に、豊中市民病院に緊急入院をしました。
体調の起伏が激しく、投薬も出来ずにいます。
hideは、22日に心配なので、様子を診に行ったのですが、ただ、ただ、眠り続けていて、反応がなかった。
昨日、多数の見舞い客があり、疲れているようにも見えました。
hideは、息子の正也さんと連絡を取り、情報を交換していますので、状況報告を逐次します。
今のところ、お見舞いなどは、お控えいただければと思っています。
現在は、低血糖の状態で、調子は、低めです。
意識が時折、飛ぶようです。
退院できるかどうかは、近々、診断されるようです。
よろしくお願いします。


●福島県被曝問題調査報告 その2:ゆめ風基金理事・福永年久
(前回からの続き)
4月17日(水)午後1時~3時
被災者支援会議 @郡山市総合福祉センター
議題:①サテライト自立支援センターについて、②災害提言集について
参加者
白石清春さん 被災地障害者支援センター代表
設楽(しだら)俊司さん 被災地障害者支援センター サテライトCIL担当
秋本けいこさん あいえるの会 ワークIL
緑川さん あいえるの会 たいむIL
岡部さん あいえるの会
青田由幸さん 南相馬市さぽーとセンターぴあ代表理事
長谷川秀雄 NPO法人いわき自立生活センター理事長
鈴木絹江さん 田村市NPO法人ケアステーションゆうとぴあ理事長
4月17日(水)3時半~5時
@JDF被災地障害者支援センター
サテライトCIL担当の設楽さんにより、我々を迎えて保養について意見交換会を開いていただいた。
参加者
白石清春さん(被災地障害者支援センターふくしま 代表)
設楽俊司さん(被災地障害者支援センター サテライトCIL担当)
菅野昇さん (NPO法人ふよう土2100 交流サロンひかり所長)
上國料(かみこくりょう)竜太さん (特定NPO法人移動保育プロジェクト理事長)
黒田節子さん (子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク)
上國料さん
8年前から保育所をやっている。被災後は経済的問題などで移住できない人たちがいて、コミュニティの問題を抱えているので、ストレスケアをしたいと思った。そこで被曝線量の低い場所に保育所をつくり、週に2回やってきた。4月からは週1回で継続している。移住については、放射線以外にもいろんなことで悩んでいる人がいる。利用者には自閉症や発達障害、難聴の子どももいる。保育はインクルーシブなので、子どもが成長したと語る母親もいる。
設楽さん
2011年11月に相模原に拠点をつくって移住支援を行い、障害者が計10人が移住したが、障害児まで手がまわっていない。保養については体験ツアーを企画し、福島県内の関係施設約100か所に募集をかけて、10名の応募があり、6人が参加した。
黒田さん
「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」には「避難保養班」というのがある。被災者の間にネット環境があるかないかで情報格差が大きいという問題があるので、どうつなげていくかが課題となっている。
福永
今回は「ゆめ風基金」として来ている。被災者の被曝について状況を把握し、保養と移住について10年~30年という永いスパンの取り組みを考えている。
白石さん
福島県内では障害者の自立自体が難しくなりつつある。小さい子どものいる30~40代の多くが県外に移住したため。被曝の地から最後まで情報発信するという覚悟でやっているが、俺たちも県外に避難するか?と話すこともある。出た人も残った人も平等に支援すべき。出た人にもコミュニティ不安がある。
黒田さん
自主避難者への経済支援が復興支援法に入っていない。これでは放射能汚染の地に帰ってこいと暗に強制しているようなもの。チェルノブイリ原発事故後のソ連でさえも、被災者は自主避難を選択することができ、経済支援を受けることもできた。
設楽さん
福島県民の人口減により、行政が危機感を募らせている。放射能について不安をあおるようなことは言いにくい雰囲気。
十亀さん
チェルノブイリ後のベラルーシでは4~5年後から子どもの甲状腺がんが毎年何十人と見つかるようになった。福島でもあと2~3年後に同様な事態になると人々の認識もずいぶん変わってくるはず。
上國料さん
お母さんたちは今は0.2μSv/h未満といっている。被災当初は0.1μSv/h未満と言っていた。保育所の目的はメンタルケアで、安心させているだけ。ストレスを減らす選択肢の一つというスタンス。
設楽さん
残る支援も出る支援も同じ。自己選択にゆだねるべき。
菅野さん
被曝について気にはしている。「交流サロンひかり」は0.02μSv/h
黒田さん
低線量でも胎児への影響のおそれがある。キエフの専門HPによると、ウクライナでネガティブな影響。7~8割に何等かの異変がみられ、風邪が治らない、身体のあちこちに痛みが出る。10ベクレル/kgから影響が出るという説もある。
設楽さん
先日、反原発集会に参加してきたが、女子高生の発言がとても残念だった。おなかの子どもが障害児だったら下ろすって。出生前診断についても、優生思想がまかり通ったら、俺が俺を否定することになってしまう。
十亀さん
もともと原発は東京につくらないで地方にばかりつくっている時点で人をだましてきた。反原発運動、放射能汚染から人々を守る運動が、生きていていい人といけない人とに分けてはならないという理念をしっかり共有することが必要。
その3に続く。
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これまで届けた救援金
244,744,624円(2013年6月25日現在)
内・東日本大震災救援金総額
NEW!
199,235,539円(2013年6月25日現在)
ただいまの基金残高
261,092,105円(2013年3月末日現在)
このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、
被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。
広く知ってもらいたいので、転送自由。
自由にお使いください。
息の長い救援が求められています。
長期戦です。
救援金の送り先は、
郵便振替口座:00980-7-40043 ゆめ風基金です。
「とうほく」と書いてください。
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東日本大震災救援活動の中のhideの風景
●少し早めのお知らせです。
参加費無料!誰でも参加できます!
「第30回・日本障害者歯科学会~総会および学術大会」一般公開セッション
日時:2013年10月13日(日)午後1時30分より
会場:神戸国際展示場2号館
問い合わせ:運営事務局
TEL 06-6372-3053
FAX 06-6376-2362
●午後1時30分~
一般公開講座
「想像するちから-チンパンジーが教えてくれた人間の心-」松沢哲郎さん(京都大学霊長類研究所教授)
●午後2時45分~
一般公開シンポジウム
「大災害時の障害者支援を考える」
東日本大震災から2年、阪神大震災から18年。
尊い教訓は生かされたのでしょうか?
「逃げ遅れる障害者」、「いのちが脅かされる避難所、仮設住宅」といった問題は繰り返されています。
大震災を経験し、救援活動に奔走した方々に「その時、何があったのか」「障害者はどのような状況にいたか」、そして、今後、何が取り組まれなければならないかを提起いただき、行政の責任、市民の役割について考えます。
コーディネーター:牧口一二(ゆめ風基金代表理事)
パネリスト
青田由幸(さぼーとセンターぴあ代表理事・南相馬市)
菊池正明(たすけっと事務局スタッフ・仙台市)
野橋順子(地域生活支援研究会理事長・神戸市)
松村敏明(えんぴつの家理事長・神戸市)
以上。

7月13日、街頭募金ご参加ありがとうございました!


7月13日、各地で猛暑日が続く中、月に一度の「街頭募金」が行われました。


照りつける太陽は、体力を奪っていきます。
体温調整しにくい障害があるかたにとっては、かなりしんどいと思われます。
でも・・・
東北の「仲間」のために
忘れないために
一緒に笑える日が来るまで
それぞれの思いを胸に、参加してくださったのでしょう。

(いつも大きな声で呼びかけしてくれるAさん)

(介助者の皆さんも、汗びっしょり!)

参加してくださった皆さん、お疲れさまでした!
募金してくださったかたがた、ありがとうございました!
参加人数:43人
募金額 :82,388円
必要なところへお届けします!!
次回は8月10日(土)予定です^^
近くを通りかかったら、声をかけてください♪

ヒデの救援レポート2013年7月16日№129

●七夕の翌日の7月8日は、昨年に亡くなった、阪神淡路大震災から、被災障害者支援の活動に奔走されていた、
故・大賀重太郎さんの1周忌。命日です。
hideは、深く想いをいたし、合掌しました!


●福島県被曝問題に関する調査報告・ゆめ風基金理事:福永年久●その1
4月17日(水)午前
郡山市の介護事業所「たいむIL」
利用者、職員へのインタビュー
支給されたフランス製のガイガーカウンターで線量を毎日計測し、記録をつけてきたが、最近は週に何回かしかつけていない。測り方は、屋外に出てすぐのところで、地面から1cmの高さと1mの高さで測る。
2011年6月3日 屋外での記録
地表1cmで1.13μSv/h、地上1mで0.86μSv/h(マイクロシーベルト毎時)。
年間被曝量に直すとそれぞれ9.8mSv(ミリシーベル)、7.5mSv。
2013年3月15日 屋外での記録
地表1cmで0.33μSv/h、地上1mで0.34μSv/h。
年間被曝量に直すとそれぞれ2.8mSv、2.9mSv。
2012年6月14日 屋内での記録
室内玄関付近で0.37μSv/h、室内中央で0.41μμSv/h。
年間被曝量に直すとそれぞれ3.2mSv、3.5mSv。
2013年3月15日 屋内での記録
室内玄関付近で0.29μSv/h、室内中央で0.33μSv/h。
年間被曝量に直すとそれぞれ2.5mSv、2.8mSv。
このとおり、今日も年間被曝線量は1mSvを確実に超えていることがわかる。
しかし、被曝している福島の当事者たちにとっては、日々計測している被曝線量が少しずつ下がってきているのを直接見ており、日常生活の中で慣れてきている。
「被曝こわい。がんになる確率高くなるし。でも、感覚がマヒしてきている」
「被曝についての意識は下がってきている。はじめのころは避難訓練でいわき市や相模原へ1~3泊したけど、今はもう高速道路無料もなくなったし」
という声が聞かれた。
「食べ物も水も気にならなくなってきている。マスクなんかもう誰もしていない」
「被曝はこわいけど、わかんないです」
「当初はこわいなあと思ったけど、今は考えてないです」というように、日常生活の中でしだいに感覚がマヒしてきた様子がうかがえる。看護師に聞くと「子どもには登下校時にマスクをさせています」
「小学校や幼稚園では今でも外で遊ぶ時間を30分とか1時間以内に制限しています」
「福島県では子どもの肥満が増えており、体力の低下が数字に出ているという調査結果があります」という。
4月17日(水)昼食時
・就労支援B&介護事業所「ワークIL」
利用者、職員へのインタビュー
利用者9人中60代が2人いて、最年少で44歳という年齢層。
もともと就労支援Bで子ども向けのオリジナルストラップなどを制作してきた。
ところが、福島第一原発事故が起きた2011年に子どものいる世帯の多くが県外に引っ越していったので、販売会をやっても子どもがいなくなってしまった。
そのため、今では介護事業が主になっている。
15歳と20歳になる子どものいる利用者に聞くと、
「1年くらいはすごく気にしてマスクしたり、表に出ないようにしたり、子どもを外で遊ばせないようにしていたけど、最近は慣れてしまって、意識低くなった。高校も最初は1時間までと言ってたけど、今は何も言わなくなった」という。
来年から高校生になる子どもについては「県外の寄宿学校に行かせたい」と希望している。
食べ物については、産地をみて買うようにしており、昼食は弁当を持参する人も少なくないらしい。
職員にも話を聞いた。
「郡山市はこれまで除染は公共の場所だけ行ってきて、一般住宅の除染はやっと今年からはじまり、線量の高いところから順にやっています。ようやく業者がうちにも来て、もってきたドラム缶みたいな容器の容量から、庭の土は1cmしか削れないと言われて呆れました。それって逆でしょ?しかも、削った土を容器に入れても、保管場所がまだ決まってないので、庭に置いておくか?埋めておくか?決めるように言われたので、埋めてもらいました。保管場所が決まったら、取りにくると言われましたが、いつになるかわかりません」
続く~
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これまで届けた救援金
244,744,624円(2013年6月25日現在)
内・東日本大震災救援金総額
NEW!
199,235,539円(2013年6月25日現在)
ただいまの基金残高
261,092,105円(2013年3月末日現在)
このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、
被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。
広く知ってもらいたいので、転送自由。
自由にお使いください。
息の長い救援が求められています。
長期戦です。
救援金の送り先は、
郵便振替口座:00980-7-40043 ゆめ風基金です。
「とうほく」と書いてください。
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東日本大震災救援活動の中のボクの風景
【吾亦紅】と名付けられた植物は、小さな赤い花をつけます。
大輪の紅薔薇のようにではなく、ひっそりと。
大きな声、叫び。
大勢の群集の権利要求、強い権力ではなく、小さく、ひっそりと。
しかし、その大勢の人たちと同じように、わたしにも、赤い血潮がしっかと流れているんだぞと、
『われも、また、赤い』『亦紅』と咲くのです。
●神戸・社会福祉法人えんぴつの家機関誌337号からの転載「えんぴつの家だより」
・連絡先:TEL(078)252-0109 FAX(078)231-5281
以前にこのレポートでもお知らせした「廃校になった、大学の備品を東北の障害者団体に届ける」活動のその後です。
●無事届けました『東北へ備品を』プロジェクト
・東北の被災障害者支援プロジェクトにたいするご支援、本当にありがとうございました。
5月24日と25日に10トントラック1台と4トントラック2台で仙台市の2つの事業所へ備品などをお届けしました。
先日、53人の方々に机や椅子を校舎から運び出していただいたときには、あまりにも多いので、どうして運んだらいいのか、運送費はどのくらいかかるのかと心配になって、
「カンパをもう少し続けます」と申し上げたところ、続々とカンパが届けられ、
合計54万2千円となりました。
何とか運送費用などをクリアできホッとしました。
こころよりお礼申し上げます。
25日はトラックを見送って神戸へ帰ってきて理事会・評議員会を開きました。
挨拶の中でこのプロジェクトの報告をすると、議員の1人から、
「福島の子供たちは戸外で元気に遊ぶことができないので、安心して遊べ地域へ一時避難するというプロジェクトを考えているので、えんぴつの家も手伝ってほしい」という提案がなされました。
お手伝いできる範囲でやろうと思っています。
・えんぴつの家を支える会および寄付金並びに、東北への備品輸送費カンパのご報告
どうもありがとうございました(2013年5月11日から6月3日)
団体・ 5
個人・38人
●東北復興支援「いちいちバザール」毎月11日
JR神戸駅バスターミナル地下・サンポルタ広場
以上

会員さんから、被災地訪問レポートを頂きました!その3

ゆめ風基金の会員さん、夏美さんから頂いた「被災地訪問レポート」いよいよラストです!
多くのかたに読んでいただきたい、と、切に願います【拡散希望!】


2013/6/30~7/4 東北ツアー(3)仙台とまとめ
7/4(木)仙台
いよいよ東北ツアーも最終日。
福島、南三陸、石巻のベリーダンス公演(?!)を終え、最後は仙台「たすけっと」を訪問した。
「たすけっと」は震災後被災地センターみやぎの拠点になっていたので、スタッフとは顔馴染みだ。
Kさんが持参したアルバムをじっくり見てもらい、地域での暮らしぶりを紹介した。
今回の旅行のためにKさんが関わるスタッフが準備してくれたアルバムは本当に役立った。
言葉で説明するのが難しいKさんだが、グループホームでの様子、様々なイベントでのダンス出演、20年間働いた保育園を退職する時のセレモニーの写真など、Kさんの暮らしを写真で分かりやすく紹介できた。
ベリーダンスはお馴染み氷川清の「ずんどこ節」に乗せて踊り、大いにウケていた。
たすけっとスタッフのKさんから「日頃の疲れを忘れてとっても癒されました」とメッセージを頂き、嬉しかった。
Kさんのダンスを通じて、また私個人としても、今後も被災地に関わり続けたいと思う。
☆まとめ☆
今回、やはり一番重かったのは放射能の問題だった。
2011年6月に南相馬を訪問し、原発事故の被害を目の当たりにした私は自分なりに放射能について勉強した。
本を読み、ネットで調べ、鎌仲ひとみ監督のドキュメンタリー映画を観にいったりした。
福島や東北、関東は放射線量が高く、外部被ばくは特に感受性の高い子供には心配だ。
そして食品から放射能が体に入る内部被ばくの問題は、もはや日本に住む誰もが抱えるリスクになってしまった。
「安全です」「食べて応援」を掲げる政府。
「安全の根拠は無い。チェルノブイリ事故で被曝した子供たちの痛々しい姿を見るべきだ」と食の安全を訴える人々。
しかし大半の人は、何が本当か分からず迷い続けているのではないか。
私は年間被曝量の上限を1mSvから20mSvに引き上げたり、燃やしても埋めてもいけなかった高濃度の放射性廃棄物を8000ベクレルまでは燃やして埋めても大丈夫といったり、平常時の何十倍何百倍の放射線量の地域に“自己判断・自己責任”で帰還させたりする政府をまったく信用していない。
本当に安全なら、世界中のあらゆる国が東北のみならず日本産の食品を全品輸入禁止にしているのはなぜか。
自分の子供の尿からセシウムが検出された時の母親の気持ちをどうして考えることができないのか。
セシウムが検出された冷凍みかんが学校給食に出され、それを子供に食べさせるか食べさせないかを保護者の判断に委ねることがなぜ許されるのか。
そういう思いから、私は「食べて応援」はできないと考える。
しかし実際福島に行くと、出して頂いたものはすべて美味しく食べたいと思う。
食べると美味しいけれど、このコメは福島産だろうか、この笹かまの魚はどこの港に上がったものだろうか、山菜はさすがにやめておこうかなどど考えながら食事をすることの異常さ。
南三陸の海鮮は見事だった。
すべてたいらげた。
美味しかった。
けれど、全品検査が課されていない以上、やはり不安は残った。
ワカメのふりかけのお土産を友達に買ったが、小さい子がいるので渡すのをやめた。
福島県の飯館村をバスで通った時、原発事故の風評被害でもう立ちゆきがいかないと自殺した人の商店を通った。
風評被害とは何か。
復興に向けて頑張っている人たちを応援できない私はひどい人間か。
放射能の知識もなく食べて応援する人は愚かか。
誰が悪いのか。
何が正しいのか。
鎌仲ひとみ監督が2014年秋に公開予定の映画のタイトルは「小さき声のカノン~選択する人々~」。
私たち日本人は、何をするのにも選択をしなくてはいけなくなった。
逃げるか、留まるか。
戻るか、戻らないか。
行くか、行かないか。
食べるか、食べないか。
すごい時代に生まれてしまったと思う。
でも諦めたくない。
参議院選挙が近い。
私たちはどういう未来を選ぶのか。
暗い気持ちを振り払って、とにかく元気に!と思う。
選択し続けるしかないし、やれることをやるしかないと思うからだ。
以上。
文:永村 夏美

会員さんから、被災地訪問レポートを頂きました!その2

ゆめ風基金の会員さん、夏美さんから頂いた「被災地訪問レポート」その2!
ご覧ください!


013/6/30~7/4 東北ツアー (2)南三陸、石巻、仙台
7/2(火) 南三陸
南三陸を訪問。
今回ダンサーのKさんと共に旅行に行った知的障害のRさんが、NPO法人奏海の杜(かなみのもり)のだざいさんの手助けで志津川保育園を訪問された。
Rさんは保育園で保育士として働いている。
グループホームで生活しており、Kさんとは同居仲間である。
折り紙が得意なRさんは、志津川保育園の子供にプレゼントする為に大きな紙袋いっぱいに折り紙のくすだまを持参していた。
Rさんが同行していたTスタッフと一緒に保育園で交流されている間、私とKさんは南三陸の復興仮設商店街「さんさん商店街」を散策した。
お茶でもしましょうかと入ったお茶屋さんのカフェコーナーで休憩していると、私たちの会話を聞いて「私も奈良から来たんです。」と店員さんが話しかけてきた。
とてもきれいな女性で、年齢は30歳前後くらいに見えた。
彼女が話すには、震災2週間後にボランティアに飛び込み、そこで出会った地元の男性と結婚、子供は1歳と数か月になるそうだ。
旦那さんの自宅は津波が到達したものの倒壊には至らず、そこに住み続けているとのこと。
「家を流された人たちは仮設に移り、人が流出している。商店もなく、買い物に行くのに車で30分かけてスーパーに行く。仮設にはイオンの移動販売などが来るが、一般の住宅には来ない。近所の病院も小児科は週二回しか来ず、大学病院から当番の先生が来るので毎回違う医師に診てもらわないといけない。言葉の話せない小さい子供を診てもらうのに毎回違う医師では不安なので、車で1時間2時間かけて小児科のある病院に通う母親も多い。時間もガソリン代もかかり、負担。」と話してくれた。
また、「訪れる観光客の中に、もうすっかり復興したと思っている人も多い。まだまだなのに。」と少し憤りの様子であった。
さんさん商店街でRさんと合流し、その後少しドライブした。
何度もテレビに移された南三陸の防災庁舎は津波の巨大さを物語る。
以下、ネットから引用。
< 南三陸町の津波による死者数は566名、行方不明者数が310名(12月28日現在※おそらく2011年※)にも上った。住民の大多数が「地震の後には津波」との意識が高かった地域でありながらこんなにも多くの犠牲者が出てしまった。防災対策庁舎では繰り返し「高台へ非難してください」と防災無線で呼びかけ続けていたが、まさかその3階建て庁舎屋上を2mも上回るとんでもない津波が襲ってくるとは、高台に避難していた人たちさえ目を疑ったほどだった。> 
*参考:こちら 

赤い鉄骨だけを残す3階建ての建物の前には数体のお地蔵様と多くの花束が供えられていた。
生花はどれも新しく、遺族や近所の人が頻繁にここへ来て手を合わせているのが分かった。
2011年の6月、私は被災地センターみやぎのボランティアとして1か月活動していた。
私は仙台市、名取市担当のグループで、まだ建ったばかりの仮設住宅を訪問し、障害者を探していた。
仮設住宅を訪問する前に、まずはここで何があったか見ておいた方がいいからと東京から来ていたボランティアに町を案内してもらった。
町ごと流された閖上地区を訪れた時、私はほとんど無感情で放心状態になった。
目の前に広がるのは住宅の基礎だけが残る見渡しのいい平地で、ここは町だったと言われても理解し難かった。
当時全国各地から仙台へボランティアへ来た人は皆閖上を見に行った。
涙を流し手を合わせている人を見て、なぜ私は涙ひとつ流せないのか、こんなに冷静でいられる私は冷酷人間なのではないかと思っていた。
しかし、2年たった今、千羽鶴いっぱいの柵、お地蔵様の優しい顔、立てかけられた仏教のお札を見た時、突然「おえっ」という風に悲しさが込み上げた。
2年前の閖上地区は、私にはキャパシティーオーバーだったのかもしれない。
ボランティア中、一番苦痛だったのが仮設住宅訪問だった。
すべてを失った人たちが薄い壁の小さな家に暮らす。
高齢者が多数おり、通院や買い物すらままならない。
そこへ行って「障害のある人を探しています。」と言うのは本当に苦痛だった。
障害とは何か。
その疑問を抱くのは自然に思える。
居住空間は外にほぼむき出しで、壁は薄くプライバシーが無い。
そこへよそ者がずけずけと入っていき、誰もが困っている中である特定の特徴を持つ人間だけを救済するというのは正しいことなのか分からなかった。
今自分が一体何をしているのか分からない。
「泥かき出しボランティアに行きたい」なんて口にしていた。
分かりにくいのだ。
「点が線となるから、今無意味に思えても、必ず繋がるから」と言われると、分かったような分からないような気持ちだった。
すべてを失った人の前にすべてを持っている自分が存在していること自体が苦痛だった。
今思えば一種のサバイバーズギルト(事務局注:「サバイバーズ・ギルト」(Survivor’s guilt)は、戦争や災害、事故、事件、虐待などに遭いながら、奇跡的に生還を遂げた人が、周りの人々が亡くなったのに自分が助かったことに対して、しばしば感じる罪悪感のこと。「サバイバー」(survivor)は「生き残り・生存者・遺族」を、「ギルト」(guilt)は「罪悪感」を意味する英語。ウィキペディアより)と言えるかもしれない。
たとえ障害者に出会い、通院を手伝ったり物資を届けても、被災地センターとしてその支援はいつまで続けることができるのか。
仮設住宅に訪問する際、センターのスタッフにレクチャーを受けた。
「私たちの支援は今だけで終わるということはありません。今後も続けていきますと住民の方に伝えることで支援を受け入れてもらえる」と。
しかしその言葉は嘘ではないか。
継続的な支援が必要な人が「もう大丈夫ですから結構です」と言うまで支援を続けることなんて実際にできていないではないか。
自分は嘘をついているのではという気がしていたけれど、実際嘘をついていたのだ。
次もし同じような支援に入ることがあれば、「続けていきます」なんて容易く言うまいと誓う。
「よそ者が一時の哀れみで。」と追い返されても、それが普通ではないか。
いつまで、どこまで支援できるか分からないけれど、とにかく今できることがあります、それをさせて下さいと申し出るべきだったと思う。
当時の被災地センター宮城では関西からのボランティアが多く、関西人は元気でいいですねと現地スタッフに言われたりしていた。
私たちボランティアは、ボランティアらしからぬ不謹慎さで毎夜酒を飲んでいた。
体もしんどいしお金もないのにあれだけ毎日飲んでいたのは、みんなそれぞれに私が抱いていたような苦しさがあったのではないかと今になって思う。
けれど被災者を前にそんな弱音を吐くことはできず、ほとんどハイになって自分を励ましていたのだ。
落ち込まないでいるには、そうするしかなかった。
NPO法人奏海の杜の放課後児童預かりをやっている「にこま~る」はまだ建物がなく、公民館を間借りして運営している。
Kさんと私が訪問した日は小学校低学年の障害児を中心に子供が5~6名いた。
みんな本当に元気で、抱きつかれたり噛みつかれたりの洗礼を受けてへとへとになったが、ベリーダンスタイムはみんな踊って楽しんだ。

「にこま~る」は女性スタッフ3名のみだそうで、男手がなく大変なことも多そうだ。
これから男の子も大きくなっていくことを思うと男性スタッフが必要とされるが、なかなか難しいと被災地センター石巻のMさんから後になって聞いた。
7/3(水)石巻
被災地センター石巻に関わる女の子2名が事務所に来てくれて、ベリーダンスを披露した。
そのうち一人は20歳の女性で地元の障害者NPOの作業所で働いている。
彼女は去年の8月に支援学校の仲間らと大阪に来ており、私は彼女のガイドボランティア担当をした。
コスプレが大好きな彼女を日本橋に連れて行って喜ばせようと意気込んでいたが、結果的に私が彼女に連れまわされた。
好奇心は留まることを知らず、歩きすぎで足が痛み変な歩き方になりながらも歩き続ける彼女についていく私がギブアップ寸前だったが、とても楽しかった。
もう一人の女の子は高校生で、この夏大阪に来る。
韓流が好きだそうで、コリアタウン訪問などを予定しているらしい。
今回も私が彼女を担当し、連れまわされるかもしれないなぁなんて想像している。
二人とも踊り好きで、汗をかいて踊っていた。Kさんも堂々とベリーダンスを披露していた。
センター石巻
続く~

会員さんから、被災地訪問レポートを頂きました!その1

ゆめ風基金の会員さん、夏美さんから、被災地訪問をした、そのレポートを頂きました!
是非、ご一読&【拡散】してください♪


2013/6/30~2013/7/4
 ダウン症のベリーダンサーKさん東北ツアー
6/30 (日)福島
福島県南相馬市の田原町でピープルファースト総会が行われた後、マイクロバスで福島第一原発から8kmの福島県双葉郡浪江町を見学した。
私の父、奈良県にある「ひまわりの家」の渡辺が福島県南相馬市に拠点を置くNPO法人サポートセンターぴあと連携し実現したツアーのようであった。
浪江町は住人の一時帰宅は許されているものの居住禁止区域で、町に入るのは許可証が必要だ。
白いゲートの前には警備員が立っており、許可証を見せて車が入っていくシーンは仰々しい。町はもぬけの殻でゴーストタウンであった。
不謹慎にも、まるで映画の撮影所を観光しているようだと感じた参加者は少なくないはずだ。
今回見学したエリアは原発事故後高濃度の放射能が風に乗って通ったゾーンより少しずれているのでその日の線量は0・076mSv(2013年7月5日現在大阪市此花区区役所の数値は0.046mSv、環境省設置の線量計による)くらいだったが、原発に近いため復旧作業ができず、震災後そのままの状態で放置されている。
ペシャンコに潰れた車、文具やせっけんなどがそのまま棚に陳列してある商店、折れた電柱。伸びた雑草以外は震災の年の6月に沿岸部で見た景色と変わらず、時間が止まっている。
道中、ぴあの代表理事である青田さんが震災時の様子を語ってくれた。
本震の後に大きな余震が続き、およそ10分間は立って歩くことすらできなかったそうだ。
地震から津波到達まで30分とすると、やっと避難しようと動き出した時はもう20分しか残っていない。
その間に一体どこにどう避難するか。
「その時考えていたのでは間に合いませんよ、どうしますか?道路と橋の間に亀裂が起こるので橋は渡れませんよ。エレベーターは止まっていますよ。利用者を連れてどこに逃げますか?福祉の仕事に就いているということは、そういうことですよ。」
という青田さんの言葉は、重度の身体障害がある利用者のお宅で週数回も夜勤をしている私にはあまりに重く、私は
「避難シュミレーションもないままで大災害に遭ったら、利用者共々死ぬ確率が高いな。なんて大きな宿題をもらったことか。」と唖然とした。
青田さんからは、震災後利用者の安否確認が取れなかったこと、子供がいる女性職員が一生懸命動いてくれていたが「青田さん、次に余震が起きたら子供のもとに帰らせてください」と言われ「利用者のことばかり考えてスタッフの家族のことをまったく考えていなかった」と反省したことなども語ってくれた。
「災害後どのスタッフが動けるか。子供がいる女性は動けませんよ。誰が動けるかシュミレーションしておかないといけませんよ。」と青田さんは言う。
7/1(月)
サポートセンターぴあの施設のひとつで、南相馬市で日中受け入れや生活介護を行っている「ぴーなっつ」でピープルファーストメンバーと施設利用者との交流会に参加。
ピープルのメンバーは自己紹介をし、前日の被災地見学で感じたことを述べた。
北海道から来た女性は「テレビで見るのと実際に見るのでは全然違った。たくさんの仲間が亡くなったということが悲しすぎて、・・・」と涙で言葉を詰まらせた。
ぼうぼうに茂った草の下には建物の基礎が残り、折れた柱が無造作に放置され、よく見ると割れた食器の破片などそこに人が暮らしていた証拠が落ちている。
私がヘルパーとして同行したダウン症のKさんも、初めはいまいち状況が掴めない感じであったが、被災地を見ることでそこで起きた出来事を想像し、被災した小学校を見た後は「子供さん亡くなったん?」と自ら質問するほどであった。
実際に見るのが一番早いし、大切だと思った。
障害があってもなくても、世の中で何が起こっているか知るということは重要であるし、その人の人生に少なからず影響を及ぼすと感じている。
自己紹介タイムでは、私はこんな紹介をした。
「こんにちは。大阪から来ました永村夏美です。私は震災の年の6月にピープルの人たちと一緒にここを訪問しました。放射能は目に見えないのでどれくらい怖いものなのかよく分からなかったけれど、ここへ来て施設長の郡さんのお話を聞いて、原発事故によってたくさんの人が苦しんでいるということを知って、もう原発はこの世の中には必要ないと分かりました。だから大阪でも、原発はいらないと考える人と一緒に道を歩いて、原発はもうやめてくださいとアピールしたりしています。今日は、大変な思いをしている人たちに少しでも楽しい時間をお届けしたくて、Kさんと一緒にダンスをしますので、よかったら一緒に踊りましょう。よろしくお願いします。」
今思えば2011年の6月、ぴーなっつのある辺りは相当放射線量が高かったと思うが、勉強不足の私はそんなことは何も考えずピープルの人たちの活動について行った。
ぐにゃぐにゃに折れ曲がった火力発電所の煙突を見学する時雨が降っていたが、私もピープルのみんなも普通に雨に濡れていた。
参加したボランティアの一人が雨に濡れまいと車から降りてこず、なんて慎重な人なんだと思っていたが、彼女には知識があったのだ。
その時の私には原発や放射能に関する知識はほとんど無く、そこに残された人たちがどのように暮らしているか知りたい一心だった。私の父も同じだったようで、「あの時郡さんに“こんな線量の高いところによくぞ来てくれた”と言われて、“え?そうなの?”と思ったほどだった。」と言っていた。
わざわざ被曝しにいくようなものだった。
けれど、そこに赴いた人が事実を目撃した意味は大きい。
その時聞いた施設長の郡さんのお話はあまりにリアルで重く、私が反原発を誓うきっかけとなった。
その時郡さんはこのような内容を語ったと記憶している。
「原発事故が起きて、ある夜突然住民が公民館に集められました。“避難したい人は、明日の朝10時にここへ来てください。避難用に観光バスを手配しています。行き先は分かりません。車で逃げたい人にはガソリンを10リットルあげます。それで自分で逃げてください。ここに残りたい人は残れますが、自己責任です。”そう言われました。自閉症の人が行き先もわからないバスに乗って避難できますか?ガソリン10リットルで、どこまで逃げられますか?私たちは、ここにお米の備蓄が少しあったので、そのお米を炊いてみんなでおにぎりをして食べようと決めました。そうして私たちはここに留まっています。」
私は今でもその話を思い出すと悲しくて悔しくて涙が出る。
選択肢を与えられたようで、実際彼らは選択肢を持っていないのだ。
反原発の人間がネットなどで「なんで逃げないの」と軽く言い放ち留まる人を非難するのには本当に腹が立つ。
見て来いよ。
様々な理由で逃げられない人たちを。
その逃げられない人たちを見捨てるわけにいかないとそこに留まり支え続ける人たちを。
そう思う。
ぴーなっつでのベリーダンスは大いに盛り上がった。
きらびやかな衣装をまとい堂々と踊りを披露するKさんのダンサー魂には毎回感服する。

ぴーなっつの利用者で高齢の女性が踊り好きらしく、Kさんが踊るやいなや一緒に踊っていた。
最後は私がレクチャーをしてみんなが踊った。
ピープルの支援者のひとりに「踊りは世界共通のコミュニケーション。
Kさんみたいに踊れるっていいね」と言って頂いた。
音楽や踊りは人を解放し、人に喜びを与える。なんといってもタダでできるというのがいい。
今後このような繋がりが増えることを期待している。

原文ママ~続く!

皆様から頂いたお言葉紹介♪

7月上旬なのに、早くも猛暑日が続いていますね。
体調を崩したりされていませんか?
休憩中、事務所の前で、
「この暑さ、どこからくるんやろう」と、空を見上げたり、道を手で触れたりしていると
「福本さん、気分でも?」と心配され・・・(^_^;)
ゆめ風基金の事務所には、「今こそ、がんばろう」と書かれた旗が貼られています。
それをしっかり目に焼き付けて、再び机に向かいます。
さて、恒例の、振込用紙に書いてくださった皆様のコメントをご紹介させていただきましょう!
◆復興が遅いといわれています。再建計画が住民の意見と一致していないのではないのでしょうか。(東京都豊島区)
◆ 主人との2人展収益です。(千葉県館山市)
◆出来ることは限られていますが、権力には平和憲法を守りつつづけましょう。(北海道富良野市)
◆ゆめ風講師の方にお話に来てほしいので、子供たちが通う小学校の校長先生に話してみようと思います。がんばるぞー!(福島県白河市)
◆お金はとても大事なんですけど、正しく流れてくれないと困ります。どうぞ使ってください。希望のために。(滋賀県甲賀市)
◆少しずつ、永ーく応援していきます。(千葉市)
◆東北のために。(三重県四日市市)
◆わずかですが支援し続けます。東北の方々のことは忘れません。(大阪府箕面市)
◆3・11を忘れないために・・・。続けていきたいと思います。(滋賀県大津市)
◆皆さんのがんばり、応援しています。(さいたま市)
◆お給料がはいったので・・・。みんなで助けあって明るい国になりますように。笑顔と感謝!(大阪府高槻市)
◆支援活動は続けることが大事ですよね。脱原発も言い続けましょう。(埼玉県戸田市)
◆お役に立てれば、うれしいです。(愛知県一宮市)
◆今後とも息の長い活動を期待しています。微力ですが、私も頑張り、協力いたします。(栃木県佐野市)
◆被災地を忘れないために。(大阪府高槻市)
おひとり、おひとりのご支援が、ほんとうに、ありがたく、こころにしみます。
スタッフ一同、皆様に道案内していただきながら
これからも、まっすぐ歩んでまいります。

【拡散希望】「逃げ遅れる人々」上映会のお知らせ

被災地でも、DVD「逃げ遅れる人々~東日本大震災と障害者」上映会が計画され始めています。
以下、河北新報社からの記事です(宮城のニュース「河北新報社」)
東日本大震災の被災地で障害者が直面した困難な状況を記録したドキュメンタリー映画「逃げ遅れる人々 東日本大震災と障害者」の上映会と討論会が13日、仙台市青葉区のエル・パーク仙台で開かれる。
震災後に障害者と支援者が設立した「被災地障がい者センターみやぎ」が主催する。
<福島県中心に取材>
「逃げ遅れる人々」は、全国の障害者団体で設立した東北関東大震災障害者救援本部(東京)が製作した。
監督は横浜市出身の飯田基晴さん。
震災で地震と津波、さらに福島第1原発事故に見舞われた福島県を中心に、被災した障害者とその家族らを取材した。
ある身体障害者は、避難所で横になるスペースがなく、車椅子の上で2週間を過ごした。
発達障害児の母親は「周囲に迷惑を掛けるから」と避難所に行けず、家族で自宅にとどまり続けた。
原発事故でほとんどの住民が町を去り、取り残されてしまった視覚障害者の証言もある。
<備えの大切さ訴え>
センターは「障害があるというハンディは、災害が起きると普段にも増して大きくなる。
避難が難しい現実と、日ごろからの備えの大切さを伝えたい」と話す。
上映は午後2時からと同6時半からの2回。
それぞれ上映後に、映画の出演者と障害者団体の代表ら計4人による討論会がある。
映画は字幕付き、討論は手話通訳付き。
入場料は前売り800円、当日1000円。
連絡先は被災地障がい者センターみやぎ022(746)8012。
2013年07月06日土曜日


翌日、7月14日(日)には、福島でも上映会が。
日時 :2013年7月14日 13:00受付~ 13:30開始~
会場 :田村市文化センター大ホール 電話 0247-82-5030
上映協力金:500円 中学生以下無料 介助者は無料
連絡先:福祉のまちづくりの会 0247-82-2909
映画でインタビューに答えていた、南相馬市の青田さんの講演会も行われます。
今も被災し続けている被災地の声に耳を傾けて頂ければ…

ヒデの救援レポート2013年7月8日№128

●ゆめ風基金の事務局長・橘高千秋(きったか ちあき)が、昨日、宮城県の各支援拠点を巡り、
情報交換をして、帰阪しました。
入れ替わりに、8日、八幡理事が岩手県に入り、兵庫県の凪さん、大阪の石原さん、本沢さん、小西さんの4名が、宮城県の石巻の支援拠点に入り、支援活動を、現地スタッフと共同で続けます。
もう、何度目になるか数え切れなません。


●厚生労働科学研究費補助金・障害者対策総合研究事業(身体・知的等障害分野)
「障害者の防災対策とまちづくりに関する研究・平成24年度総括研究報告書~研究代表者:北村弥生
平成25(2013年3月)が届きました。
お問い合わせ:所沢市ボランティア連絡協議会
TEL&FAX 042-922-7622
●研究要旨・本研究では、災害時要援護者のうち対策が遅れている知的・発達障害者(児)を中心に、身体障害者(肢体不自由、視覚障害、聴覚障害、盲ろう)に対する災害準備と急性期・復旧期・復興期における情報提供と心理的支援を含めた福祉的避難支援のあり方を4つの側面から明らかにすることを目的とする。
以下、特別に指定しない場合は全障害を指す。
1.東日本大震災被災地における発達障害者(児)とその家族に対して、災害時ならびに経過にそって浮かび上がったニーズを調査するとともに、地域の主体性に配慮して連携を開始している支援の評価を行い、時期に応じた支援マニュアルを作成する。
2.全国の発達障害者支援センターと当事者を対象とする調査により、東日本大震災の影響の全国的な経時変化を追跡し、情報提供マニュアルを作成する。
3.被災地で、地域の社会資源とニーズに基づいた要援護者の個人避難計画と避難場所における配慮マニュアルを作成する。東日本大震災で被害の多かった在宅および通勤・通学中の個人避難計画を優先して作成する。
4.知的・発達障害者(児)自身が災害・避難・避難生活について理解するための教材と教育プログラムを開発し、被災地における復興支援で成果を評価する。また、同じプログラムを身体障害に拡張する。本研究の特徴は、当事者自らが災害と対処方法を理解し、「助けられる存在」ではなく「自己の役割を持った存在」として緊急時に主体的に行動するための確信と決意を持つための支援を開発することである。
平成24年度には、被災地においても次の地震および津波被害を被災地および他地域が防ぐための災害準備が希求されていることが明らかになった。
●目次
1.東日本大震災における発達障害者(児)のニーズと有効な支援のあり方に関する研究:前川あさ美
2.知的・発達障害者に対する災害時の情報支援に関する研究:深津玲子
3.障害者(児)の個人避難計画と避難所における配慮ガイドラインの作成:北村弥生・筒井澄栄
○埼玉県所沢市吾妻地区荒幡町内会の場合
○精神障害者による津波避難準備活動と地域~北海道浦河町
○社会福祉法人による甚大被害への準備活動と課題~愛知県名古屋市
○呼吸器利用・電動車いす利用で単身生活を行う難病盲ろう者の自助による災害時個人計画~東京都
○災害時の避難候補場所の選定における電子地図の活用:埼玉県所沢市
○障害者(児)を対象とした災害時前訓練教材の開発:北村弥生
○災害時要援護者支援に関する国際比較研究:河村宏・北村弥生
○災害時要援護者支援に関する勉強会:記録
○資料多数
○A4版全289ページ
以上
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これまで届けた救援金
244,744,624円(2013年6月25日現在)
内・東日本大震災救援金総額
NEW!
199,235,539円(2013年6月25日現在)
ただいまの基金残高
261,092,105円(2013年3月末日現在)
このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、
被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。
広く知ってもらいたいので、転送自由。
自由にお使いください。
息の長い救援が求められています。
長期戦です。
救援金の送り先は、
郵便振替口座:00980-7-40043 ゆめ風基金です。
「とうほく」と書いてください。
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【東日本大震災救援活動の中のhideの風景】
東日本大震災被災地の障害者支援活動の各拠点の連絡先です。
●認定NPO法人・被災障害者支援「ゆめ風基金」
大阪市東淀川区東中島町1-13-43-106
TEL 06-6324-7702,7703
FAX 06-6321-5662
●岩手県
・被災地障がい者センター宮古
岩手県宮古市末広町6-8
TEL 0193-77-3636
・被災地障がい者センター大船渡
岩手県大船渡市大船渡町字笹崎13-8
TEL 0192-27-6203
●宮城県
・被災地障がい者センターみやぎ
宮城県仙台市太白区長町1-6-1(CILたすけっと内)
TEL 022-746-8012
・被災地障がい者センター南三陸
宮城県登米市中田町上沼字西桜場32-1
TEL&FAX 0220-44-4171(9時~17時)
・被災地障がい者センター石巻
宮城県石巻市蛇田字中埣37
TEL&FAX 0225-25-5388
●福島県
・被災地障がい者センターふくしま
福島県郡山市桑野1-5-17深谷ビルB棟101
TEL 024-925-2428
FAX 024-925-2429
●連携拠点
・ハックの家
岩手県下閉伊郡田野畑村菅窪20-2
TEL 0194-34-2303
・被災地障がい者センターかまいし
岩手県釜石市甲子町第10地割599-1
TEL 0193-55-5400
FAX 0193-55-5401
・ケアホームめぐみ
宮城県気仙沼市本吉町津谷館岡148-10
TEL 0226-42-3211
・ささえ愛山元
宮城県亘理郡山元町山寺字西頭無43-35
℡ 0223-37-3333
●避難・移住支援拠点
・東日本大震災障がい者新潟支援センター
新潟県新潟市西区小針5-1-47
TEL 025-232-7245
FAX 025-378-0153
・サテライト自立生活センター(被災地障がい者支援センターふくしま)
「被災地障がい者支援センター」では、福島県自立生活センター協議会と連携して、
若い障がい者を中心に福島県外への避難を支援しています。
神奈川県相模原市にある旧ケア付き住宅「シャローム」を借り受けて、避難拠点を設けました。避難拠点のある相模原市では、地元団体等の支援を受けています。
以上

「さよならCP」映画上映会のお知らせ

伝説の映画「さよならCP」上映会開催!
・監督:原一男、疾走プロダクション製作(1974年作品)
日時:2013年7月7日 開場13:30~ 開会 14:00~16:30
(上映時間83分)
場所:西宮市総合福祉センター 多目的ルーム 
参加費:無料(資料代300円)
ゲスト:河野秀忠(そよ風のように街に出よう」編集長、ゆめ風基金理事)
主催:NPO法人障害者生活支援センター遊び雲
連絡先:電話 0798-75-6340  FAX 0798-75-6341
〒662-0862
兵庫県西宮市青木町12-5
後援:西宮市社会福祉協議会
★CP(脳性麻痺)者の急進的な団体「青い芝」の人々の生活と思想をカメラに収めた、原一男監督の第一作。
障害者だからといって自ら片隅でこっそりする生き方は、障害者差別を容認することになると考え、
その不自由な体を積極的に人前にさらしていく。
「CP(障害者)=健全者という関係の共通項が身体の階級性にあり私自身の〈関係の変革〉というテーマをベースにして、被写体=演じる者を、撮る側にどこまで見ることに耐えられるかを賭けてみたかった」(原一男)
《上映会を開催する趣旨》
遊び雲では、障害者運動の歴史を学ぶ連続上映会を今年度、企画し、その第一弾として
『さようならCP』の上映会を開催します。
現在、障害者差別解消法の成立も見込まれるなど、障害者制度改革が推進されていますが、
どのような歴史を経て現在の状況に至ったのでしょうか?
日本の障害者運動の進展の中で、障害者の生存権を正面から社会に問い、重度障害者の自立生活、交通/教育の在り方に鋭く問題を提起したのが、青い芝の会、中でも1970年代初めから社会に訴えを発した神奈川青い芝の会の運動が、よく知られています。
その活動の初期の記録をドキュメンタリーとして、原一男監督により映像化されたのが『さようならCP』です。
同映画の全国的な上映運動により、「・・・全国の障害者の、脳性マヒ者の考え方を変えたんだ。各地の脳性マヒ者が『そうか、俺たち黙ってちゃいけないんだ』ってね。それで青い芝の会が福島、福岡、大阪、兵庫、和歌山とか全国にできた。あの頃の青い芝の会は本当に暴れていた。施設の前に座り込んで、デモ行動もやった・・・」。
これは同映画で主演された横田弘さんの言葉です。
その横田さんが2013年6月3日、80歳を迎えられた直後に残念ながら逝去されました。
横田さんへの追悼の意も込め上映し、上映後には、当時をよくご存知の河野氏をゲストにお招きして、当時を振り返りつつ、現在、そしてこれからを、皆で語り合うような交流会を開催したいと思います。
多数のご参加をお願いします。
(※上映に当たっては、原一男監督ならびに製作会社「疾走プロダクション」から著作権に関する了解は得ています)