ゆめ風☆被災地レポート

2011.4.2 現地レポート  八幡隆司
3月30日(水)
 3月19日に入り込んだときよりおよそ10日が経ち、今回(3月30日)が震災後2度目の現地入り。真っ暗で、歩とんと人影もなく、お店もほとんど開いていなかったのが、今回は同じ駅かと見間違うぐらいにぎわっていてびっくりしました。
 電気・水道が復旧し、ガスもかなりの部分で回復してきていると、活動拠点となるCILたすけっとの人たちに後で聞きました。しかしガソリン不足は今も続き、コンビニに行ってもカップめんやパンなど食品類が少なく、タバコも売り切れ状態。また事務所から少し離れた海岸沿いは、津波の跡が深く残ったままとも聞き、やはり震災の影が消えていないことに変わりはありません。
3月31日(木)
 31日午後には現地の障がい者団体に集まってもらう事もあり、午前中に仙台市社会福祉協議会、宮城県社会福祉協議会が運営するボランティアセンターを回るとともに、市の社会福祉協議会と同じ建物に事務所を置く障害者団体(精神障害、知的障害、身体障害の3団体)に話を伺いましたが、精神障害者の日中活動拠点が1か所津波で全壊、知的障害者の作業所1か所が建物の古かったために、今回の地震で運営できなくなっているとの事でした。
 午後からは地元の13団体(以下に詳細を記す)と現状報告や意見交換をし、宮城県内の被災障害者支援を行うため、「被災地障がい者センターみやぎ」を立ち上げることを決めました。
「被災地障がい者センターみやぎ発足」会議 会議内容
関係・参加団体
CILたすけっと、こっぺ、ピアサポートセンターそら、
わはわ、宮城精神しょうがい者団体連絡会議、グル~プゆう、アフタースクールぱるけ、B‐NET‐CLUB、社会保障推進協議会、ゆにふりみやぎ、共育を考える会、
フリースペースソレイユ、ドリームゲート、きょうされん宮城支部、ゆめ風基金
・名称
   ・被災地障がい者センターみやぎ
・代表者
   ・及川 智 (CILたすけっと代表)
・事務所
   ・CILたすけっと内に設置
・活動内容
   ・宮城県下の被災障がい者の支援。
会の運営に参加している、いないに関わらず、広く被災障害者のニーズを調査し、具体的支援を行っていく。
・スタッフ
CILたすけっとのスタッフ、B-CULB-NET・田中さん、ゆめ風基金・八幡、出羽の他県内外のボランティアで構成する。
・当面は障害者の活動拠点を中心に聞き取り調査を行い、物資や見舞金の支給を行うとともに、ボランティア等の派遣要請にもこたえられるよう、活動拠点の整備を行う。
・調査について
 被災障害者の現状把握については、現在の被災状況の聞き取りを行うだけでなく、今後様々な状況変化のなかで相談・支援が行えるように、人間関係を深めていくことを大きな柱として、顔の見えるネットワークを広めていく。
 
※次回会議予定:4月11日(月)午前11時。
 会議後、事務局の体制づくり、翌日の行動などについて、打合せを行う。
 夜になって、ゆめ風基金の代表の牧口さんの知人、光野さん(神奈川在住)が事務所に来られる。
 石巻市の避難所となっている「遊学館」がひどい状況であると障害者仲間からの情報をもらったことを伝えに来られた。障害当事者で石母田(いしもだ)さんと連絡を取り、とにかく訪問することを決定。
 石巻市には、他助っ人職員・小椋さんの先輩である村上さんが社会福祉法人祥心会で支援活動を行っていると聞き、合わせて訪問することとする。
4月1日(金)
 9:00  打合せ、準備。ゆめ風ネット埼玉の吉田さんの知人、新野さんが事務所に来られる。一緒に石巻へ行くことにする。
 11:00  事務所を出発。(八幡、出羽、新野)三陸自動車道を通り、石巻へ向かう。
     道路の右側には津波の傷が深い所が多く、左は被害が少ない。
     道路は走れるものの、でこぼこが多く高速道路とはいえ、時速50キロ制限。
 12:30  最初の目的地である祥心会事務所は、海岸に近く、車がひっくり返り、船が海から陸へ押し流された風景が並ぶ。こんなところに無事な拠点があるのかとみんなで首をかしげつつ、カーナビに従ってすすむと祥心会が運営するひたかみ園(知的障害者更生施設・入所)があらわれた。ほんの少しだけ土地が高くなっている程度なのに、ぎりぎり災難を逃れていることにびっくりした。
施設は3月23日に取り壊して建て替えを図るところで、既にエアコンなどは取り外した後。
 そこへ今回の大地震・津波があり、その施設が町民の避難所となったということだった。施設へ逃れてきたのは、自衛隊が救出した人やこの春に祥心会を通所する予定だった人等様々で、40人ほどの避難者のうち、6人ほどの車椅子利用の人を確認できた。
  災害から3週間がたったこの時期でも、電気が復旧したのは、一昨日という事でした。
 以下は同伴した新野さんによる報告
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訪問日時 2011年4月1日
訪問先  石巻祥心会
対応者  理事長 、相談支援専門員
訪問者  八幡 出羽 新野
現況   石巻市   人口    約16万人
           避難者   約2万人
     祥心会
身体障がいのある方は社会福祉協議会、知的障がいのある方は祥心会が支援を行っている。
     知的障害者入所更生施設  50名
      立て替え予定で、23日に取り壊し予定だった。(エアコン等は取り外している)
      仮施設に利用者ともども移転していた。 
     他の事業
      通所施設(数カ所)    200名
      GH・CH(10カ所の内3カ所は損壊または水没)    
      生活支援センター
     職員数
      150人
     授産作業
      養鶏 
      リサイクル軽油、等
 
概要   
施設建て替えのため、仮施設に移転が完了し、23日に取り壊し予定だった。11日震災当日は、津波がすぐ隣の敷地や門まで押し寄せたが、わずかに敷地が高かったこともあり、難を逃れた。その後、自衛隊のヘリに救出された方が、とりあえずはと言うことで敷地内に降ろされ、帰るところが無く移動できずにそのままとどまっており、施設を避難所として利用することになった。
その後、日赤病院などからも医療対応でないとされた方や自宅にいた障がいの方、学校避難所などから移ってきた方などを受け入れ現在約180名の方が避難している。
 電気・ガス・水道が不通となり、備品の発電機や作業灯などあるものを有効に活用し乗り切った。当初はガソリンなども手に入らなかったが、リサイクル軽油を活用し、ディーゼル車で運搬などを行った。また、市内の取引のあった養鶏業者と連絡を取り、津波で塩をかぶったりして出荷不能となった卵をゆで卵にして配る。施設にあった回転釜を使い、プロパンガスを提供してもらって、日に1万個くらい茹で、延べ数万個、市内の避難所に配りながら、安否確認を行ったとのこと。
食料は、米を1年分買い置きしていた、キュウリなどは出荷ができないからともらったりしたとのこと。
 支援は、150人の職員とボランティアで行っている。職員は、今年度15名の採用予定者を予定通り雇用、可能な方は前倒しで支援に入ってもらった。施設内の支援は、ボランティア9人で、24時間行っている。
 ボランティアは、京都の相楽、新潟リトルライフの方が窓口となり、○月○日から、○人ボランティアが欲しいと要請をすると集めてくれている。
 診察など震災当初は保険証がなく窓口で10割負担を求められたりして、理事長が立て替えたりもした。その後、本人は逃げてしまったらしいが・・・・。
市内の地域活動支援センター、生活介護事業所も被害を受け、事業所ごと避難してきている。救難用のテント、発電機なども食料、灯油なども届くようになり、30日には電気と水道が復旧してようやく落ち着いてきた。
困っていること、今後の課題
      防水シーツはたすけっとより宅急便で送付。
     学校避難所は、21日までに出るように指示があったとのこと。今後は、施設に入っている、一般の方の仮設住宅への移動、避難障がい者の受け入れで避難者の入れ替わりがあるだろうとのこと。建設される仮設住宅へは車イスの方などは、生活が出来ず市にケア付き仮設住宅を提案したができないという返事だった。在宅でいる方が今後避難の必要が出てくることもあり、日本財団の補助を受けて実施できないか検討中とのこと。
     
所感
地方都市に行くと、社会福祉事業を行う社会福祉法人が少ない。地域の福祉はその法人が握っていると言っても過言ではない状況も決して珍しくはないだろう。しかし、正直な気持ちで言えば、あまり過大な期待は無かった。
 高速を降り、インターチェンジ付近はイオンやスーパーマーケットなどが開店し、人と車で混み合っていた。車が進むにつれ道の隅に積み上げられた泥、段々と量が増え、壊れた家や金網フェンスの上に乗っかった車など日常ではあり得ない光景が広がるようになる。港に至っては、大きな船が、舫いをつないだままの状態でうちあげられていた。本当にこの先に施設があるのだろうかと不安に思いながら訪れると、施設の中は景色が一変していた。案内されたプレハブの事務室ではじめに食事を出され、遠慮していたがたくさんあって余っているのでどうぞと言われ、話の合間にいただいた。状況から言えば、とても外部の人間に気を遣っているどころではないだろうけれど、その心遣いがとてもうれしく、頼もしかった。
      地域の状態の把握や、誰でも困った人に対して支援を行っているとのこと。地域福祉を実践している、できることを行い、あるものすべて活用している。
      旧来の入所施設は、行事などを行うことが多く、様々な備品を備えているところが多いと思うが、こういう時に本当に役に立っていることに改めて感心した。
      障害者自立支援法への移行の最中、入所施設を抑制している状態だが、非常時にこれだけのことができる機能と地域福祉における役割を実践できている状況を目の当たりにすれば、その方向を一概にすすめることに疑問を感じてしまう。
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15:00  遊学館
    障害当事者の巴さんと約束し、合流。光野さんも同席。
    ほとんど寝たきりの人ばかりが140人もいる避難所はこれまで聞いたことがない。しかも市の人は「私は当番なので、何か質問があるなら、市役所へ行って下さい」というだけで、市、社会福祉協議会、医師、看護師(看護師協会からの応援を含む)など専門職種の人が集まりながら、誰がこの避難所運営の責任を担っているのかよくわからない状態。子どもたちが4人ほどいるのが不思議な光景で、声をかけてみると、「友達に誘われてきた」ボランティアと言うこと。しかも学年は中1。1~2週間続けているということで、かなり疲れている感じが見受けられた。
 もともと石巻市立病院が運営できなくなり、医療があまり必要ない患者と医師、看護師がここに避難したことをきっかけに、自衛隊の救出等で一般の避難所が難しいと思われる人もここに運び込まれたのではないかと思われる。
 体育館の様なフロアに蒲団が敷きつめられている様子は他の避難所と変わらないにしても、座位を保てる人がほとんどおらず、排せつもその場で行っている光景が他の避難所とは明らかに異なっている。子どもたちのボランティア姿が、痛ましく見えて胸が締め付けられた。
 以下はまた新野さんの報告。
訪問日時 2011年4月1日
訪問先  石巻市遊学館
対応者  石母田 政則氏
現況   石巻市   人口    約16万人
           避難者   約2万人
     遊学館
           石巻市の複合施設、文化体育館が避難所となっている。
 
概要   
      石母田氏は電気屋さんで、奥さんが看護師だったが、避難所での支援で倒れてしまい、代わりにできることをということでサービスの調整などを行っているとのこと。避難所自体は、石巻市の管轄で職員が交代で詰めている様。津波で孤立状態だった石巻市民病院の入院患者も避難してきている。医師、看護師、PTなども詰めている様。“様”とあるのは、出向してきている市役所職員に避難所状況を伺いたいと話しかけたが、職務で出向してきており、権限も何もないので話せない、役所に行くように言われ取り合ってもらえず、聞き取りが出来なかったため。この避難所には140名近くの方がいる。常時介護は必要だが、入院は要しない方が多く、介護特別養護老人施設津波で流されたGHの方などいろいろな施設から来ている方が多いとのこと。
      布団が並べられていて、大半の方が横になっている。パーティションなど仕切りが無い。石母田さんによれば、パーティションはあるとのことだが、トイレに行きたい時は、手を挙げてもらうようにしていて、見えなくなるときついという話。社会福祉協議会の人は昨日来たが、避難所に関与しているわけではないとのこと。中学1年生のボランティア4名が常に布団の間を回り話しかけたり、介助を行っていた。トイレの中での介助は看護協会のジャンパーを着た方2名が対応。オムツ対応の避難者に介護エプロンを身につけた方が2名で順番に交換作業を行っていた。ここには余り物が来ていないと言うことだった。      
所感
      遊学館の中に入るとガラス越しに体育館の中の様子が見えた。上半身を起こしている人や、片隅のテレビを見ている方がいるが、大半の方が横になっている。全容が見渡せるということは、仕切りが無い。中に入ると、布団の間を常に歩き回っている子供達がいた。市の職員に話を聞こうとしたが取り合ってもらえず、正確、詳細な情報が聞き取れなかった。心情は察するところはあるが、杓子定規な受け答えは切ないものを感じた。
      子供達4人が常に避難者の間を歩き回り、横になっている方に話しかけたり、手を挙げた方に車イスを押して駆け寄り、移乗を介助したり、あるいは大人を呼んで対応してもらっている。トイレまで車イスを押していき、看護協会のジャンパーを着た方に引き継ぐ。トイレから出てくると布団の所まで車イスを押していくが、下りスロープでは後ろ向きに下がりるし、スロープを上ってくる人がいるときは安全確保のためだろうか、上で待っていた。あまりに見事な介助に、一人の男の子を呼び止めて少し話を聞かせてもらった。1,2週間前からボランティアに来ている。他の三人も同じで中学1年生になると言うことだった。地元の子供だが避難してきているというわけではなく、希望して通ってきていると言った。話していて重々しい顔つきがとてもいたたまれなく思った。女の子の一人が足を庇って歩いていて、靴を履いた方が足を痛めないし疲れないとアドバイスすると、靴を履くようにしますと笑顔で答えてくれた。誰が、介護技術を教えたのかはわからないが、支援に必要なのは気持ちや利用者への安全配慮だけではない。看護師やヘルパーらしき人たちは皆靴を履いていて、なぜ動き回る子供達が裸足なのか理解に苦しむ。そして、この過酷とも言える環境に、長期間懸命にがんばっている、そうしていることがとても心配になった。一人の大人として胸が痛くなった。
      ヘルパーらしき二人が順番におむつ交換を行っているが、陰部を隠す配慮などが全くない、丸見えの状態。
      この避難所にいる方は、何らかの病気、障がいがあると思え、行動の一部または大半を介助、支援が必要とする方が殆どではあるが、震災後三週間も過ぎ、この野戦病院の様な状態はどうすれば、少しでも改善できるだろうかと考える。
      可能なら、私も介護に入りたいと思った。それで、支援力が少しでも改善されるならそうしたいと。      
      だが、おそらくこの避難所の問題は、違うところにあるように思える。市が管轄し、病院スタッフもいて、ヘルパーのようなスタッフもいれば、子供達のボランティア、看護師協会の方もいる。それぞれが連携協力が充分にとれているのか、現在の状態は適切な対応なのかを点検し検討していただきたい。
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19:00 事務所到着
   東京のJILのメンバーが物資をもって到着。(西尾、阿部)
   夕飯を食べながら、意見交換。
24:13 東京の杉田さんが合流。(新宿よりバス)
    この間の経過など意見交換
2:00 事務所を出て宿舎で就寝。

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