この3か月、血のめぐりがわるくなった頭だけれど、いろいろ考えた。

この3か月、血のめぐりがわるくなった頭だけれど、いろいろ考えた。
               被災障害者支援NPOゆめ風基金 代表理事 牧口一二
 この原稿を書いている今日は6月11日、つまり東北関東大震災大津波そして福島第一原発大事故からちょうど丸3か月が経過したわけだ。ボクは3月27日ごろからランダムに、4月に入ってからは毎日、わが手帳に……新聞に載っている「いままでの死者数、行方不明数、避難所暮らしの人数」をメモるようになった。6/10は死者15,401名、行方不明8,136名、避難所暮らし91,523名(ちなみに避難所暮らしが10万人を切ったのは6/2のこと)となっていて、6/11は死者15,405名、行方不明8,095名、避難所暮らし90,109名とある(警察庁発表による前日のまとめ)。
 前日とのことだから、9日と10日の24時間の間に亡くなられた(あるいは遺体が発見された)人が4名増え、行方不明だった人の51名が安否確認できたことになる。地震が起きて丸3か月の時点だから瓦礫に埋もれていて助け出された、とは考えにくい。どこかに逃げられていて消息がやっと確認できた人や大海原に呑み込まれていて(海上保安庁などの捜索で)遺体が見つかった人、ということになるのだろう。つまり、3か月後のこの日の24時間に、なんらかの理由で47人が生き残って身元確認されたことになる。メモを取っていると毎日毎日2桁の人たちが生きて発見されている。3桁の生存が確認されていたのは5/7までの記録で、それ以後は2桁になった。しかしながら3か月にもなれば、遺体発見も身元確認も日々難しくなっている、と新聞は伝えている。
                   ◆
 なぜ、ボクが死者や行方不明などの推移をメモるようになったか。それは、まだ東北に(車いすの)車輪跡を残せないでいるが、テレビ画面に映し出される大津波によって根こそぎ大海原に呑み込まれていった跡の、人間社会の風景とは思えない映像やほとんど何も残っていない焼け跡ごとき景色など、それだけでも息をのむシーンなのに、周り360°が同じように荒れはてて暮らしの残骸しか残っていない真ん中に立てば、ボクはどんな言葉を発するか、いや何の言葉も出てこなくて、ただ頭が真っ白になってしまうにちがいない。
 だけど日が経つにつれ、あの残骸のいまはどんな風になっているのだろう、知りたくて知りたくて……という想いがつよくなってきた。3度にわたって津波が襲った、という。2度目が最も大きかったと聞いたが、実際はあくる日まで何度も何度も寄せては返す津波だったらしい。そのリアス式海岸沿いは450キロにおよぶという。あの地域は、いまどうなっているのだろうか?
 1,000キロ以上離れた大阪から被災地のいまを感じたい、そこで思いついたのが毎日の新聞に乗っている警察庁調べの「今日までの(前日の)死者と行方不明そして避難所で暮らす人々」の数字を拾い出してみることだった。きのうからきょうへの何かが掴めるかもしれない。もちろん、人々の暮らしぶりは数字の推移だけで分かるものではない。もっと多面的で複雑で、数字ごときで簡単に推し量れないが、何か、臨場感がほしかった。
                   ◆
 3か月経ってもなお、2桁の生存者が日々確認できることはとてもうれしい意外であった(その対象軸に日々確認される死者の数が増える事実がある)。阪神大震災の最終的な行方不明者が3人で、伊勢湾台風の最終行方不明者が401人だった、と新聞記事にある。大海にさらわれてしまったこと、被災地が広い範囲にわたっていることが、まことに捜索を困難な状況にしている。そのうち、障害者はどれぐらい死んでしまったのだろうか。
 5月に入って、隣り近所の知り合いなどから「障害者の人たちの状況がいっこうに聞こえてこないけど、どうしているんですか」と尋ねられることが多くなった。確かに一般の大災害関連ニュースで、障害者の状況はあまり出てこない。マスコミが取材しなかったのか、そうでもない。例えば、NHK教育テレビは3/17から福祉ネットワークで災害関連情報を毎日ナマ番組で流し始めた(3/29にボクも東京で出演した)。だが、障害者はいま、どこで、どうしているのか、なかなか見えてこなかった。
 「ゆめ風基金」の成り立ちなどは後で書こうと思うが、16年間の活動で全国に51か所のネットワークができ、その1つ「ゆめ風ネットみやぎ」(じつは仙台の「CILたすけっと自立生活センター」)にゆめ風・理事の八幡隆司が3/18に入り、当地の活動を手伝うことになった。「たすけっと」は当初、自分たちと仲間の避難所になったそうだが、八幡が加わった頃には障害者支援の拠点として活動を始めた。最初の仕事は各避難所を回って、「困っている人はいませんか、障害のある人を教えてください」というビラまきだった。だけど、反応は鈍かったらしい。車いすや白杖など目立つものがあれば分かりやすいが、ほとんどの障害者は付き合いを始めないと分からない。孤立して困っている障害者を見つけ出すのは大変な作業になったようだ。
 5/24朝刊の新聞報道によると、東北3県の津波で被害を受けた沿岸37市町村に住む障害者は約15万人で、内閣府が障害者団体などに聞き取り調査した結果、9,000人のうち2.5%にあたる約230人が死亡または行方不明になっていた、とある。住民全体に占める死者・行方不明の比率は1%弱というから、障害者の死亡・行方不明は2~3倍ということになる。だが、少し疑問を抱く。ボクもそうだが複数の団体に顔を出している。ダブルやトリプル・カウントされていないだろうか。この疑問を、東京のこうした道に詳しい仲間に問い合わせたところ「大きな誤差はないだろう」とのこと。ならば、想像したくなかったことだが、相当数の障害者が大津波に呑み込まれてしまったのではないか。1度目の津波から逃れて、やれやれとひと息ついたところに2度目の大津波がきて呑み込まれてしまった障害者も多かったのではないか、その無念を想った。
                   ◆
 16年前の阪神淡路大震災、世の中全体が大混乱になったときの障害者の置かれた立場は、やはり危ういものだった。伝言や伝達が取りにくい視覚・聴覚障害者たちが避難所のリーダー格に、「何の列ですか?」と尋ねると「いま、それどころではありません」と後回しにされてしまったケースがあちこちで起きていた。今回の東北の避難所でも「あなたたちの来るところではありません」と言われた障害者がいた、と聞く。
 阪神淡路大震災のとき、大阪もそこそこ揺れたが、ひと息ついたところで神戸の障害者のことを想った。長田あたりで火の手が出て、炎がぐんぐん広がり、脳性まひの友が柱に足を挟まれ、必死に逃げだそうとしているところに火の手が回って、意識がはっきりしているのに焼け死んだなら……と勝手に想像し、さぞ怖かっただろうな、と思ったり。
 その次の日、障害者運動の仲間の女性が崩れ落ちた屋根の下敷きになって亡くなった、とのファクスが神戸からの第1報だった。まるで,イヤな予感が当たってしまったようなファクス、ところが第2報に驚いた。ふだんからの助け合いネットワークが機能し、他の救援物資が交通停滞の中、いち早く届いた食料で炊き出しを始め、寒さに震える地域の人々に「日頃お世話になってるお礼です」と豚汁を配って回った、というではないか。
 このファクスにどれだけ励まされたことか。30年ほどやってきた障害者による市民運動が1つの実りを示してくれた感動だった。ボクの体内からふつふつとエネルギーが湧いてくる不思議な体験をした。それが「ゆめ風基金」運動に発展するとは……
                   ◆
 神戸や西宮の障害者たちが地域の人々に豚汁をふるまったことにエネルギーを得て、被災地神戸のようすを知りたかったが、テレビ画面からは不通になっている鉄道レールの上をリックを背負って神戸に向かって歩く人々の列が映しだされていた。当時、松葉杖をついていたボクにはマネのできないことだった。
 そんな折、我らが『そよ風』編集長、河野秀忠が「とりあえず、オレが行ってくる」と神戸に向かう。着くや「えらいことになってるでぇ。金や金、お金を集めなあかん。10億円は要るなぁ」と受話器の向こうで叫んだ。そのとき、ボクは「5億円ぐらいにしないか」と募金目標を値切っていたのだ(笑)。河野の10億もボクの5億も大した根拠もない直観の出まかせだった。ただ、河野は全国を、ボクは近畿を念頭にしていただけのこと。
 こうして、被災した障害者を支援する「ゆめ風基金」運動がスタートした。永六輔さんは「10年計画なのが、とてもいい」と快く呼びかけ人代表を引き受けてくださり、10年間を本気で大きな仕事をしてくださって、小室等さんにバトンタッチされ、いまもラジオなどで大いに呼びかけてくださっている。そのとき電話は鳴りっぱなし、事務局は大わらわ。
                   ◆
 今回は津波の恐ろしさを痛感させられたが、それにも増して原発による放射能のしつこさには驚きと怖さを思い知らされた。ボクはあまりにも原発のことを知らなさすぎた。だが、専門家や当事者たちがあんなにアタフタするなんて想定外。ボクでも、原発危うしとなった当初のヘリコプターから建屋に水をかけるシーンを眺めていて(多くは的ハズレ)、なんとチャチな、と思ったものだ。これが、放射能漏れの危険性を社会が2分するほど騒いだ後に出てきた安全宣言のなれの果てだったのか、背筋がゾクッとした。
 原発推進派といえど、したり顔で解説していた政治家や大学教授が、後から次々と出てくる失態をすでに知っていて、のうのうと顔色も変えずにウソを宣っていたなら、ボクは放射能よりそのほうがはるかに恐ろしい。
 危ない、安全、が取り沙汰されていた40年ほど前、ボクは廃棄処分できないものを後世の人たちに残すのは現代人の傲慢だと考えて原発反対の側にいた。故・松下竜一さん(じつは広瀬隆さんと思い込んでいた)が書かれた『暗闇の思想』を読んで、夜の暗闇は静かに語らったり物事をじいっと考えるとき、と教わり、深い感銘を受けたことを思い出していた。いま、電動車いすがなければ一歩も外に出られない身になっているが、節電なんて言わずに夜は暗闇で静かに過ごそうと思う(歳をとったせいかな)。
                   ◆
 もう1つ、気になることがある。今回の東北の避難所でも「福祉避難所」の必要性が大合唱される。つまり、障害者にはそれぞれ特別なニーズがあるから、その設備が整った避難所が絶対に必要だ、というのである。
 そのように言いつつ、地域社会から山深い施設に障害者を追いやったのではなかったか。また、専門家がいる、仲間がいる、設備が整っている、と地域の学校から遠い支援学校(なんか、これもウソっぽいなぁ)へのバス通学を強いてきたのではないか。
 それぞれのニーズに応える設備は当然必要だが、それは一般の避難所から障害者を分けることではない。そうではなくて、一般の避難所とそれらのニーズに応え得る備えが繋がっていてほしいのだ。必要のないところまで設備を整えろ、と言っているのではない。まずは、どのような人も拒まない、というのが避難所の(社会の、学校の)原則で、特別な手立てのルートをつねに準備をしておく、ということだ。そういた社会では、急に障害者と同じニーズが必要になった人も救うことができるし、同じ避難所でさまざまな人が生き合っていることを実感できる場にもなる。そこに現れる諸問題をどのようにこなしていくかが、「生きる」ということだと、ボクは考えている。
                   ◆
 いま理事の八幡は、長期間にわたって東北に入り込み、当地の障害者たちを側面から支える難しい立場で活動している。もちろん主目的は、ゆめ風基金を本当に必要としている人(ところ)に手渡すごとく届けるためである。だが、さまざまな市民から託された大切なお金を確実に届けるのは簡単なことではなかった。そのためには、拠点を創り出すお膳立てから関わることなのだ。現在、福島の郡山市、宮城の仙台市、岩手の盛岡市に被災地障害者支援センターを立ち上げ、続いて緊急避難の駆け込み寺的な拠点を福島の亘理町、宮城の登米市、岩手の遠野市に設けたところである。でも、復興に向けてお金を必要とするのはこれからだ。ぜひ、ご支援をお願いします。ゆめ風基金・事務局のTEL:06-6324-7702/FAX:06-6321-5662/E-mail:yumekaze@nifty.comへご連絡のほどを。
        (編集部だより「そよかぜ」139号/「そよ風のように街に出よう」より)

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *