現地ボランティアレポート

被災地へ (宮城県 2011・4・3~4・9)
NPO法人ゆめ風基金(阪神・淡路大震災を機に地震などで被災した障害者を支援する団体)がボランティアを募集していたので、申し込んだ。(3月29日~4月9日)初めは「短期ならいらない」ということだったが、人がいないのか、「来れますか?」という突然の電話で仙台へ向かおうとしたが、なかなか交通手段が確保できない。新潟経由ダメ。東京経由ダメ。ようやく山形へ飛ぶ飛行機が1席確保できた。
4月3日 早朝に家を出る。前夜に急いで荷物をまとめたため不足もあったが、何とかなるものだ。飛行機は満席。乗客は、消防、警察、医師など被災地支援の人がほとんど。山形空港には10時前に着く。地震後、被災地支援の人のために、山形空港から仙台市内まで臨時に直行バスが出ていた。仙台に近づくにつれて、屋根にビニールシートをかぶせている家などが見られるようになってきた。
昼過ぎに仙台市内にある「CILたすけっと」に到着する。ここに「被災地障がい者センターみやぎ」(宮城県内の13の障害者団体で設立、ゆめ風基金がバックアップする。被災した障害者への物資・支援金・人員の提供、情報の収集、政策提言などを行う)の事務所が置かれている。
「CILたすけっと」は障害者は男性9名、女性2名。建物に大きな被害はないが、壁に亀裂、入り口付近の歩道は一部陥没していた。ライフラインは震災直後ストップしたが、近所で発電機を持っている人がいて貸してくれ、明かりなどは確保できた。3 日目には電気と水道が復活。プロパンであるため、ガスも復活している。一時は障害者7名と職員等、15名程が事務所で避難生活をしていた。「CILたすけっと」としては、緊急態勢で毎日の活動をしているため、職員も他の人の支援にかかりっきりになっているが、障害者メンバーの生活を復活させるには、人手が足りない。
1 軒おいて隣にスーパーがあるが、連日7時前から人が集まりだし、開店時には500mをこえる行列ができ、昼ごろまでその状態が続いている。自分たちには全国の支援のおかげで物資もあり、ライフラインも復活している。他の困っている人たちに支援をしていかないと申し訳ない状態。少し離れた海岸通りは悲惨な状態で、その光景を目のあたりにして、みんなができることはやっていこうと活動している。(といっても職員の方はずっと事務所にいて、家の片づけもできていない状態)                          
(3月19日「ゆめ風ブログ」より)
4月4日
仙台市以南に向かうチームの一員になる。障害者の事業所や避難所などに行き、状況を伺い、支援することがあれば行う。つまり、まだまだ「調査」の段階。ご一緒するのは、大阪から来たDさん、わが子と同じ年齢の男性。国道沿いのボーリング場が遺体安置所になっている。私ができたことは、横を通る時に手を合わせることだけ。
  山元町のAさん宅へ・・・(4月15日現在、山元町では死亡623人、行方不明約150人、
避難1850人 )
脳血管障害による半身マヒの男性が、ズボン、リハビリパンツなどの物資の支援を電話で求めてこられた。がれき撤去のための避難勧告がでている場所に住んでおられるので、消防団が「検問所」を設けている。物資を届けにきたと説明し、通してもらう。避難勧告がでていても、家が(見た目は)そのまま残っているところもあり、数軒に人が住んでいる。Aさん宅のようにかろうじて残っている家以外は、がれきだけがあり、自衛隊が撤去作業を行っている。
3月11日のことを伺う。腰のところまで水が来たとき、もうだめだ、とあきらめた。大勢の人が流されてくるのを窓から見ていた。家の横にある用水路の鉄柵につかまった人たちだけが助かった。その人たちを窓から家に入れて、一晩を過ごした。小さな子どもを連れている女性を含めて6人。床は水がきていたので、テーブルの上など高い場所に分かれて眠った。食べる物は残っていたご飯だけがあり、それをみんなで分けると、ちいさなお団子くらいしかなかったが、その夜はそれで過ごした。老夫婦2人の服を皆さんの着替えにし、下着はAさんのリハビリパンツを代用した。
すぐ近くの家にふじ幼稚園のバスがひっかかって止まった。その家の人は亡くなったが、園児と職員3人はその夜は2階で過ごし、助かった。(これは、4月8日か9日のNHKニュースが報じていた。)遺体を乗り越えて脱出した子どもたちのこころのケアを心配しておられた。
Aさんの妻が、怒りを込めて、語る。
先日も山元町の町長が、「物資は足りているので」とテレビで支援物資を断っていたが、「支援物資は避難所にいる人のためのものなので、自宅にいる人のものではない。」と言われた。在宅の自分たちは不足している。パック入りのご飯もあと2~3日分しかない。電気はきているが、水がなく、町長に直接抗議すると、給水車が毎日やってくることになった。「人道的配慮から」給水するのだと言われた。『うるさい』人だけにもってきているようで心苦しい。『おとなしい』人のところには給水車は行っていない。 
避難勧告がでているが、半身マヒの夫は避難所で暮らすのは難しいので自宅にとどまった。福祉事務所の所長に、避難所生活が難しいと言うと、ならば施設に預けるようにと言われた。
帰り道、痩せた犬ががれきの中を歩いていた。
亘理町(わたりちょう)Bさん宅へ・・・(4月15日現在、亘理町では、248人死亡。約40人行方不明。
約1510人避難。住宅約1千棟全壊)
20代の自閉症の女性Yさん。その叔母さんにあたるBさんから連絡があり、伺う。Yさんの父親がBさんの長兄にあたる。Yさんは、3月11日は、「通所授産施設・虹の園」へショートステイをしていて無事だったが、両親と精神疾患をもつ姉は津波に流され、行方不明のまま。行方不明者を探すために避難所を回っていたときに、大学時代の友達からYさんがいると知らされた。Yさんは、22歳か23歳だと思う、3月12日生まれなので、避難所で一人の誕生日を迎えたことになる。3月15日にYさんを自分の家につれて帰ったものの、関わり方が難しい。自分が慣れていないだけなのかもしれないが・・・。夜、一睡もしないで大きな声を出すことがあり、近所に気をつかう。偏食がはげしく、水分はとてもよくとる。自分から家を飛び出すということはない。Bさんは3人きょうだいで、Yさんとの生活がしんどくなったので、今日は次兄の家にYさんを頼んでいる。
亘理町役場の福祉課に何度も電話をするが、通じない。
「とにかく手帳の再発行をしなければならない」と言うと、明日役場に行ってみる。また、岩沼にあるケアハウスに4月から入所することになっていたが、保護者が行方不明なので、どうなるのか、それも尋ねなければならない。このケアハウスも4月中はライフラインが整っていないので、5月から開始だとのことだが・・・。とにかく何からすればいいのか・・・。ガソリンがなくて動けなかったが、やっと昨日から遺体安置所を回れるようになったばかりなのだが、それに認知症の母も家にいるのだが・・・。
ご本人は言っていることをきちんと伝えているつもりなのだが、私には、あちらこちらと話がとび、理解することが難しいところがあった。
後からCILの事務所に「話を聞いてもらえてやっと頭の中を整理することができてよかった」と電話があったとのこと。人間は「話す」ことが大切なのだと実感する。今後は地元の「CILたすけっと」が支援していく。
4月5日 名取市内
ドリームゲート:特定非営利活動法人 重度障害者に対する生活支援をおこなっている。
10時に到着。Fさん、Oさん、Tさんに対応してもらう。3月11日の状況を最初に伺う。地震で事務所の入り口横のガラスが破損した。一旦は避難所になっている中学校に向かったが、体育館は整備されておらず、真っ暗で、受付なども混乱しており、結局ドリームゲートの事務所に戻った。水の備蓄と発電機、おりたたみベッドや介護用ベッドがあり、みんなでぎゅうぎゅうになりながら一緒に寝た。自宅のライフラインが不安なため、利用者も事務所で寝泊まりすることがあり、一番長く事務所に滞在した人は一週間事務所にとどまった。避難所では入り口に一応ストーブがあったが、寒い。また横になったまま尿器を利用する人もいて、障害者が避難所で過ごすことは難しかった。避難所より自宅がマシ、自宅よりドリームゲートの事務所がマシだということで利用者が集まった。長時間並んで買い物をすることも難しいので、物資が入りやすくなってから帰宅した人もいる。地震の後、行政は何もしていない。
社会福祉法人みのり会:知的障害者通所施設、短期入所施設、相談支援事業をおこなっている。
気がつくと車から見える景色が変わっていた。がれきの真ん中に道がある。ナビが目的地に着いたと知らせるのだが、がれきの中で止まってしまった。ようやく、みのり会という門標はかろうじて見つけることができたが、壊れてしまっている。1階平屋建ての建物は、壁はあるものの部屋の中はすべて丸見え、ロッカーなど、確認できるが、なぎ倒された木、泥、書類、身の回りの品々が散乱しており、言葉を失う。すぐ近くに流されていた車の壊れ方を見ても、大変な力で津波が押し寄せてきたことが想像できる。では、この建物の中におられた方は?逃げることができたのだろうか?と想像することが難しく、思考が停止する。自衛隊の車両が数台止まっている。がれきの撤去が今後の彼らの仕事になる。
名取市役所・福祉課へ。市役所の正面玄関は、普段と全く異なった風景。自衛隊の車両も多く止まっている。市役所の職員の表情も疲労の積もった様子が分かる。福祉課の職員に趣旨を説明し、チラシを渡す。
名取市社会福祉協議会へ。窓口にチラシを置くようにしてもらうが、ボランティアセンターにも行ったほうがよい、と助言してもらう。
避難所や社協や役場で障害者がいないか、聞き取ってもあまり情報を得られない。必要な支援を行政や避難所の責任者が把握していないということが分かる。
名取市ボランティアセンターへ。体育館の入り口で、ボランティアに来た若い数人の男女が大きな声で楽しげに会話をしている。そのすぐ横で、被災者の依頼・相談業務が行われている。とても違和感を感じた。窓口の方は、「ドリームゲートを通じて被災地障がい者センターの存在も知っており、チラシは自分たちがコピーします。」とのこと。
4月6日 名取市内
介護サービスセンターたすき:利用者60人中1人が行方不明。ライフラインは一時切れた。建物は無事だった。近所の方が事業所内のお風呂に入りに来られたので、大変な状況のなかだったが、かえって地域の方との交流がもてた。
岡部医院:避難所へ向かう途中、「緩和ケア・痛み治療」と出ていたので、お話を伺うことにする。ケアマネージャーが対応してくれる。
人口呼吸器をつけている方や在宅酸素をつけている方をこの個人医院が対応している。患者の一人は行方不明。入院が必要な方も、すぐ近くには受け皿がなかった。2週間で通常の業務に戻った。隣にある館腰小学校では、重症者はいなかったが、痛みで困っている方がいるかどうかは不明。
名取市立館腰小学校(避難所)
岡部医院の隣の小学校。学校の中の自衛隊車両を見ても、日常の風景と映るようになってきた。運動場で子どもたちがドッチボールをしている。指導中の教職員に聞くと、「子どもの人数が減り、学年は関係なく縦割りでおこなっている。保護者を亡くした子どももいる。今後は別の小学校へ統合される。」教職員は地震以来ずっと泊まり込みだったとのこと。阪神大震災のときの教職員も同じ状況だった。学校の間借、教室分散、統廃合がすすめられている。避難所になっている体育館の壁に神戸市立本山第一小学校の子どもたちからのメッセージが貼られていて、見たとたん胸に熱いものがこみあげてきた。神戸市東灘区にあるこの学校は、阪神大震災のときに大きな被害を受けた。この学校の被災の記憶がこの行動を起こさせたのだろう。
男の子が一人で、体育館の横につながれている犬と遊んでいた。館腰小学校の子どもたちの中には入らない。横に座ってみる。「M小学校の6年生。」ふーん、そうかあ。犬が好きなの?「ネコを飼っていたの」「家は道路が守ってくれた。」そうなんだね。(実際、高速道路を隔てて、海側と反対側との景色は全く異なっている)「避難所の中には、居られない」「夜は家で寝て、昼間は避難所に来る。父さんが迎えにきてくれる。」そうかあ。こちらからは何も言わないようにする。長年の勘で心が傷ついている子どもはわかってしまう。でもなんだか、たちの悪いメディアになったような気持ちになり、罪悪感を感じてしまった。
山元町立山下中学校(避難所)
玄関前で温かい食べ物が被災者に供給されていた。行方不明者の情報を求める掲示板には小さな男の子の写真もあり、正視できない。写真を貼り出さなければなかった方のお気持ちを想像する。
「毛布を持ち帰らないでくださいー学校長」という文書が貼られていた。
案内のところで、「障害者の方が家におられるということはありませんか?」と聞くと、「全滅しとるやないですか。行ってきましたか?私たちでも入れません。」疲れ切り、ややとげのある言い方にむしろ胸が痛む。山元町では約半数の家屋が全半壊している。
中学校は25日から再開する。中学校に避難しながら教室に通うことになる生徒もいるとのこと。エレベーターがあり、とても設備が整っている。トイレも洋式。特に障害者用トイレは広く、手すりもついていて、学校にこんな立派なトイレがあるのか、と驚く。在校生で障害者がいたのか?と聞きたいところだが・・・。
避難所にチラシをおくときには、「目に見える障害と目に見えない障害がある方がおられるので」とひとこと言うようにしている。
山元町役場
役場の入り口には、行方不明者のお名前が名簿にして貼り出されており、それを、1人1人指でなぞりながら、確認をしている男性がおられた。
福祉課そのものがない。案内の方に尋ね、臨時診療所になっている隣の山元町保健センターへ。入り口を入ったところが一応の待合室、高熱が出たと2人の男性が座っている。もう1枚ガラス扉を入ったところが診察室の様子、医師の診察している声が聞こえる。ついたての前には更に4、5人の方も待っておられる。既に「CILたすけっと」のピンク色のビラが貼ってあったので、ようやく走ってこられた保健師に、「1分だけ時間をください」と前置きをし、以前のビラと新しくできたビラの差し替えをすることと、簡単に趣旨の説明をおこなった。障害を持つ方はこちらのベッドにはおられないとのこと。
道端に、つい最近死んだ様子の猫が放置されている。誰もそんなことにはかまっておられないのだろう。
再度、山元町 Aさん宅
2日前に訪問したところ。避難勧告がでている地区に住んでいるために、「検問所」を通る。(9時から17時まで。それ以外の時間は「検問」はない)今日は、消防団の代わりに、年配の女性が立っておられる。「この中に住んでおられる方に物資を届けにきました。」と言うと、すぐに通してくれた。
事務所からAさん宅に布団を郵送したのだが、それが届いているかどうかの確認も兼ねて行く。布団は(避難勧告がでている地域のため)クロネコヤマトの集配所に止められているとの連絡があったとのこと。私たちが取りに行くべきかな?と思ったが、家の中に若い男性の姿が見えたので、尋ねると息子さんであった。彼はクロネコヤマト勤務だと聞いていたので、息子さんに引き取りをお願いする。
若い女性がおられ、取材に訪れた日本経済新聞社の社会部記者とのこと。Aさんは、彼女の車で役場の臨時診療所に行ったが、「こちらでは対応できない」とのことで、宮城病院に行き、薬をもらって帰ったとのこと。
翌日(4月7日)の「河北新報」の《津波被災首長に聞く》は山元町長。「震災発生から3週間が経過し、避難指示の解除が遅いと指摘する住民が多い」と指摘されるが、「防波堤などの安全対策を施さずに避難指示を解除出来ない」と答えている。
Aさんの状況は当分続くのではないか?
再度、山元町役場
「私は有名人だから、役場で言えばすぐわかりますよ」とAさんはおっしゃっていたが、役場で在宅の方の様子を伺うと、「ああ、Aさんでしょ。電気も無線も入らないし、何かあればこちらの責任になる。したがって通行規制に関してはやむをえないところもある。」また、「(Aさんのように)みんなが倒壊家屋に戻っても困る」と、行政の立場を強調していた。
  福島第一原発から10キロ圏内で避難指示が出ている浪江町で1ヶ月間自宅にとどまっていた男性のことを4月15日の朝日新聞が報道していた。彼は精神状態が不安定な弟と2人暮らしのため、避難所で暮らすのは「もたない」と考え、自宅にとどまった。食糧も水も尽きた。「弟のためにはここにいるほうがいいのだろうが、もう限界だ」と、町職員の説得に応じて自衛隊の車に乗り込んだ。弟は病院に、兄は避難所に。1か月の間、自衛隊は男性に栄養補助食品や水を渡したことがあるが、町は支給しない方針を貫いた。町の災害救援本部の担当者は「避難指示の圏内に残ることを勧めることになるから、食糧や水は支給しなかった。避難をよびかけながら配給するのは矛盾した対応だ。」と説明する。
避難所に「行かない」のではなく、「行けない」障害者とその家族への理解が行政に欠けている。
亘理(わたり)町 Cさん宅
頸椎損傷の男性。妻が全面介助を14年間行っている。話を聞く。(以下)
亘理町は「災害時は3日間の備蓄をして、3日間は個人で対応してください」と言ってきた。3日間がんばったが、その後何もこない。震災後、25日経っているが、おにぎり1個、ジュース1缶すら一切行政からの物資は配給されていない。当初は家にあるものでしのぎ、スーパーが開くと妻や子が2時間位並んでその日分だけの食糧を得た。在宅被災者には一切のアプローチがなかった。一度だけ、家の損壊具合を確認に来たのみ。町長に面会に行くと不在で、副町長は核心に触れると「町長でないからわからない」と言う。副町長は「非常食は避難所の人用で、在宅の人には配れない」と言った。新聞を見たら、大槌町や気仙沼市では食糧は避難所と在宅避難者と半々に分けていた。
ガソリンも含めて避難物資は、行政と「抱きつきオバケ」=行政にくっついている地元の業者と、「抱きつきオバケ」が探してきた「にわかボランティア」(自分たちの知り合い)が独占している。
「救難車両」という名目で行政が2週間から20日間にわたって避難物資を独占していた。「抱きつきオバケ」がガソリンを得ていた。特に宮城県はそういう傾向がある。
海から3㎞のところにある「常磐自動車道」(高さ6m)は津波がきたときに堤防になったが、トンネル状になったところがあり、そこから鉄砲水のようになって、海水が流れてきた。
自分は建設業なのでよくわかるのだが、宮城県で死者の多い理由は、防災無線が旧式なため。旧式な防災無線では閉め切った部屋では聞こえないし、何を言っているのかわからない。今回も避難を呼びかけられても聞こえないし、地震後10分くらいで停電したので、電気が切れたら防災無線にならない。また、山元町の庁舎の防災無線用の鉄塔が倒れたので被害が甚大になった。これがダメならこれ、という対策が平時にとられていない。また、防災無線が「オオカミ少年化」して、みんなが(あ、またか)と思っていた。
亘理町はもともと医療・福祉の後進地で、介護保険を含めて、自分は福祉課と連絡をとっていないし、何もサービスは利用していない。頸椎損傷の人を介護出来る人が病院も含めていない。先日ショートステイを利用しようと「みのり会」を見学したが、入浴の機械も重傷者用ではなく、障害が重いということで断られた。今一番心配しているのは長生きしてしまうこと。これからも妻が介護をするのだが、妻も40才台後半にできていたことが70才台でできるか?今後はさらにできなくなることが増えていくことが心配。
今回「CILたすけっと」の豊川さんから送られた荷物は、いちがいに障害者とくくらないで、重症者用の必需品をよくわかって送ってもらえたのはうれしいことだった。「落ち着いたらまた来させてもらっていいですか?」と豊川さんが言ってくれているので、待っている。
今日聞いたことを詳しく豊川さんに報告することを伝えて、訪問を終える。
4月7日 利府町
特定非営利活動法人「さわおとの森」
多機能サポートランド。未就学デイサービス(児童デイサービス)、学童デイサービス(児童デイサービス)、生活介護、ショートステイ、ホームヘルプサービス(居宅介護)・行動援護・重度訪問介護。そのほか「日中一時支援事業」や「利府町乳幼児発達相談支援事業」「健康児一時保育事業」なども実施。
車で5分ほどのところに支援学校があるが、学校再開が遅れているので、(4月22日まで閉鎖)子どもたちが、こちらに来ている。
近くにある宮城県総合運動公園に利用者の人たちと散歩に行く。今は遺体安置所になっていて、時々ヘリコプターが飛んでくる。関西方面からの消防隊員が待機している。
総合運動公園のその広さに驚く。国体、サッカーワ-ルドカップなどに使用した宮城スタジアム(270億円)、約7千席をもつメインアリーナ(120億円)、メインプール(110億円)、ほかにもサッカー場、テニスコートなど、維持管理費もとても大きいだろうと想像する。地元の人間でもないのにあれこれと言うことはできないのだが、公共事業費がこんなふうに使われるのか、と驚く。
夜大きな余震があり、(仙台は6強)借りているアパートも大きく揺れた。
4月8日 利府町
昨夜の大きな地震で、道路の信号機はすべて消えている。せっかく再開したばかりのガソリンスタンドも電気がなければ給油ができないので、ほとんどが休んでいる。ようやく開けているガソリンスタンドを見つけたが、長い給油を待つ車の列を見て、並ぶのをやめる。
社会福祉協議会に行き、局長のMさんと、Tさんと会う。利府町の社協はなんとか存在している。「さわおとの森」への地元ボランティアの派遣要請をすると、「物資の支援要請はあったので、食糧や紙おむつは届けた。人的な要請はなかった。今後もしも園長から要請があれば対応する」とのこと。
「さわおとの森」の園長と話す。園長は元県社協の職員で、社会福祉協議会のTさんとは同僚だったとのこと。お互いよく知っている。「今後、職員が疲弊してきたら、地元のシルバー人材センターにでも頼もうと思っていた。」とのことで、今後、「被災地障害者センターみやぎ」としては、人的に余裕のない状態であり、地域のボランティア活用の方向を検討していただくようにお願いして、今後こちらからは人的派遣を行わないことを伝える。昨夜の地震で停電しており、津波警報もでていたので、午前中の児童デイサービスは中止したとのこと。それでは、と事務所に帰ろうとするが、昨夜の地震のためJRが動いていない。職員に頼んで地下鉄の最寄り駅まで車で送ってもらい、事務所まで帰ってきた。
4月9日 仙台市内
他の団体とも課題を共有し、人、物、情報を交換・共有して、支援をつなぐことが必要である。
「NPO法人難民を助ける会(東京)」に連絡をとる。協力しあえるようなら、今後もつながっていく必要があるので、仙台で動いている方と会うことにする。難民を助ける会の東京事務所に電話を入れ、折り返し電話をいただくようにしながら、「CILたすけっと」代表の及川さんと共に地下鉄駅に向かう。住所も電話番号もわからないのに、行くのか?とも思ったが、私は16時の山形空港発の飛行機に乗るためには14時30分に仙台駅前を出るバスに乗らなければならないので、時間的余裕もない。背中にリュックを背負い、及川さんの電動車椅子を追いかけるように走る。地下鉄5駅を乗ったところで降り、事務所から及川さんにメールがはいり、仙台で活動している小林さんの電話番号と仙台事務所の住所が届いた。お互いに携帯電話で位置を確認しながら、ようやく出会えた。近くに開いている喫茶店はなく、中華料理店を見つけて入り、早速情報を交換する。(以下聞き取り)
 「難民を助ける会」は震災2日後に3名が被災地に入り、宮城を中心に活動をしている。今日現在は10名が東京から来ている。活動の内容は、県、社協と協力し、障害者・高齢者施設を回って調査とその場で物資・食料配布を行ってきた。緊急支援物資として、初期には毛布・食糧・水・軽油・灯油などが求められた。一週間ほど経つとおむつなどの衛生用品、下着肌着、ウエットティッシュなどのニーズがでてきた。調理ができるようになると副菜などを、風呂に入れるようになるとシャンプーや歯ブラシを届けている。現在まで170箇所、延べ2万人に支援物資を届けた。災害本部や地域社協と顔をあわせたり、事業所のホームページを見たりして情報を得ている。電話がつながらないところへは直接行っている。
今後は、施設に属さない在宅などの個人をどう支援するかが課題。明日は、全く支援物資が届いていない在宅の方のところに行く。在宅の方はガソリンがなくて、物資が取りに行けていない。また、網地島など離島は、自衛隊から物資は届いているが、水も電気もない。
人や物資は集まってきており、国・県などの指定避難所などには支援が行くが、個々の施設には行き届かない状況。特に沿岸部の状況が厳しい。地元のドライバーを雇って行動した。物流が復活したあとは宅配便で物資を送ることもある。区単位でボランティアセンターがあるので、(区はまたげない)青葉区のボランティア15人に、倉庫管理をしてもらっている。
今後は、物資の対応は、大きくはそろそろ終わりと考えている。「施設自体は残っているが修理が必要」というところは、地元の建設業者に修理を頼むことにしたい。また、高齢者への巡回診療も必要だが、地域を決めて行いたい。今後1週間くらいで、地元の医師やボランティア、介護士を巻き込んでいきたい。 
盛岡には3月末から活動の拠点を置いているとのことなので、連絡先を教えていただき、こちらも明日から事務所設置など盛岡の拠点を作っていくことを伝える。小林さんも14時までなら、ということだったので、14時に中華料理店を出る。及川さんが「タクシーに乗って仙台駅に向かうほうがいい」と教えてくれたのでタクシーに飛び乗る。何とかバスにも間に合って、大阪伊丹に帰って来た。
伊丹空港で、若い夫婦と2人の小さな子どもの4人家族が柔らかな表情で過ごしているのを見て、あれっと驚いてしまう。しばらくこのような表情の人を見なかったな、と気づく。帰宅し、一週間ぶりに孫を見てもかわいいと思えない。やっと自分が人間的な感情を押し殺すことで一週間を過ごすことができたのだと知る。体が揺れる。地震かと周囲を見ると、揺れているのは自分だけであった。「どこを切りとっても壊れている景色」が日常でなくなり、非日常になった。何もかもそろっているスーパーで買い物をしているときに、突然罪悪感のような感情がやってきた。
《他のチームの報告から》
避難所には障害者がまだまだいることがわかってくる。
・東松島市矢本東小学校の避難所でストーマを使用している女性。避難所ではスト-マの洗浄のため別室に行く。カテーテル固定用のテープは病院でもらうが、1個しかもらえない。津波に流された時、母親は18時間雪の上にいたため脚が凍傷になり、最近は手もしびれてきた。また、現金がない。避難所を出たとたんに現金が必要になるので、仮設住宅の申し込みも躊躇する。
・身体障害者手帳2級を持つ女性は、自宅の玄関が閉まらないので、夜だけ避難所に来る。
・山元町役場で視覚障害者を見かける。
・山元町中央公民館:隣に日赤の診療スペースがあり、そこに近いスペースに寝たきりの人や半身マヒの人がいる。トイレは仮設の和式なので、日赤からポータブルトイレを借りている。
・山元町役場坂元支所:「精神障害者が1名おられるようだ。その方がインフルエンザのため医療にかかり、わかった。現在手帳の再交付を申請しておられる。」
 40台女性、精神障害者手帳1級。今まで母親が1人でケアをしてきた。かかりつけ病院は南相馬市の雲雀ヶ丘病院だが、原発事故のため移動してしまった。薬がきれると暴れる。岩沼市の小島病院で薬をもらった。本来なら1週間分しかもらえないところ、1か月分を北海道から来ていた医師がだしてくれた。薬を取りに行く手段が確保できないので、本当に嬉しかった。薬の副作用で便秘になるので浣腸をするのだが、その時にパーティーションがほしい。本人は(体型は痩せ型の方だが)きつい下着が着られないので、LLサイズの下着が2枚ほしい。また、できれば男物のスウェットスーツも。→すぐに届けるようにしたが、「ただでさえ、『へん』に見られているのに、パーティーションはかえって目立つのでいりません。」とのこと。
・坂本中学校:240名近くが避難。女性の視覚障害者がおられた。今のところ必要なものはない。全部夫がしてくれている。トイレは外の仮設と体育館のトイレは和式1、洋式1だが、この洋式トイレも狭い。『このトイレが使える人』と、16人の名前が貼り出されていた。
・真庭公民館:約160名が避難。区長が対応。「うちにはそういう方はいない」他の方に聞くと「区長に聞いてください」
・山元町障害者地域活動支援センターやすらぎ作業所:社協運営だが、何の助けもなかった、とのこと。
・多賀城の避難所で、聴覚障害者が手話通訳者を求めていた。
行政が機能していない。相談してきた方に、行政が、ここ「被災地障害者センターみやぎ」を紹介するケースもある。
《終わりに ~感じたことなど~》
大きな災害は、平常時には見えていなかった様々なことを浮き彫りにする。
・作業所や事業所などは、「地域とつながっているか」ということと、「障害者同士のネットワークがあるか」ということがとても大切。地域とのつながりを普段から積極的に模索していた場合は、互いに助け合えることができ、困難を抱えながらも日常に戻る道筋が見える。「障害者同士のネットワーク」は、同じ立場の者だから共有できる想いがあり、より具体的な支援ができる。全国の仲間とつながっている、という実感は心強い。
・普段から自分たちの暮らす地域にどんな障害を持つ人が暮らしているのかを、地域全体が知っておくことも大切。100人単位で暮らしている避難所で、「ここには障害者はいません」とおっしゃることがあるのだが、そのこと自体がどこかおかしい。いるはずの人たちがいないことへの疑問がない。障害者が避難所で暮らすことをあきらめて、どこか別の場所やライフラインのない場所にいるのか、障害をできるだけ隠して避難所の中にいるのか。災害がおきて1カ月以上を経過して、少しずつ明らかになってきている。在宅を強いられている障害者が最も気がかり。
・避難所は地域社会を凝縮した形で現れた。避難所となったのは、学校や公民館などの公共施設である。スロープなどを確保できていないところや、トイレも高齢者や障害者仕様にはなっていないところも多くあった。普段からのまちづくりの推進がどの視点を重要にしてすすめられてきたのか、が問われる。
・パーテ-ションなどにより少しでもプライバシーを保つことが誰にとっても必要なのだが、障害当事者からは声をあげにくい状況がある。プライバシーを保つことは自分の心を守ることであり、性暴力を遠ざける手段である、という考えが浸透していない。
・知的障害者や、精神障害者は、見た目ではその障害や病気がわからないこともあり、一般には理解されにくい。また、すぐには医療が届かないため、必要な薬がなく苦しい思いが強いられる。日常と全く異なる状況の中で生活のリズムが崩れ、情緒が不安定になりパニックをおこしたり、周囲の理解が得られず摩擦をおこしたり、病気が悪化することもある。
・視覚障害者や聴覚障害者は情報から遠ざけられやすい。情報が得られないことは、命にかかわることであり、不安感を増幅する。放送、防災無線、避難所などでの情報保障の課題がある。
・避難所は介助や支援を必要とする障害者には安全な場所ではなく、むしろ危険でさえある、ということが、障害者や介助者にはよくわかる。
・災害時の「平等」とは何か?たとえばガソリンは、自衛隊などの緊急車両のためのものであり、人々は「平等」に困難を分かち合った。食糧を購入できない、身内の安否確認に行けない、遺体安置所に行けない。等々。
それでも、酸素ボンベや薬などが入手できないことは命にかかわることであり、「障害者には配慮が必要だ」と当事者が声をあげるしかないのだが・・・。大災害は「想定外」という言葉で締めくくられていくなか、多様な人々の状況や想いを封じ込め、矛盾を覆い隠していく。
・今回私たちが出会えた在宅障害者は行政に異議申し立てができる方々であった。「在宅障害者には物資を渡せない」という行政トップの姿勢を知り、抗議したうえで私たちに物資の支援を求めてこられた。 
これらの行政は、住民全員に一律に対応することが、あたかも行政として公平で責任のある態度であると考えているようだが、「みんなも我慢しているのだから」と、障害のある人もない人もひとくくりにして対応をしている。余裕のなさが頑なさを生んでいる。今後、どうして障害者が避難所を第一に選択できなかったのか、その原因を探る努力をするべきだと考える。せめて個人としての想像力を求めたい。
・組織は人である。災害は役所で働く人の命も奪った。また、自分の家族を守れなかった無念さを抱えながら役所で働く人もいる。今回、役所の福祉課や社会福祉協議会などは機能できなかった。行政には限界もあると知ることも必要なのではないか。被災地障害者の支援は、今後行政を支えるかたちで他団体とネットワークを作り上げ、情報を共有し、協力関係を築き上げる必要があるのではないか。
・今後の復興、復旧については、「地域で安心して自立した生活」ができるように地元の当事者が主体的にすすめていくことになるが、それを長期的に物心両面で支えていくことが全国の仲間たちに求められている。
多くの命が奪われ、遺された人々はとにかく今日一日を生きることから始めなければならなくなった。「人はどこからきてどこへいくのか?」「人はなぜ生きるのか?」・・・。生命科学者や哲学者や宗教者がながく研究してきたことを、被災地に生きる人たちは、突然背負うことになった。
人はやはり誰かとつながらなければ生きられない、と強く思う。障害者同士のつながり、支援をする人とのつながりが、命を支える。それぞれの立場で「あなたをとても心配している」「あなたと共に生きたい」という思いを形にして結集することが、困難な状況を共に生きる具体的な形へと姿を現してくると信じる。障害者や高齢者が安心して暮らせる街は、災害に強い街や社会と言える。復興にはこの厳しく貴重な経験を生かすことが強く求められる。
大阪府 茨木市 桜井真澄

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