被災地センターくまもとでのボランティア活動報告 5月6日から9日まで
(永村夏美 大阪「たびだちの仲間の会」登録ヘルパー)
●ボランティアに行った経緯
4月の熊本地震発生以後ボランティアに行こうと思っていた。
ゆめ風ブログをチェックしたり、学園大の花田先生のフェイスブックでの情報を見つつ、「パーティー・パーティー」(大阪市)から早々に現地入りした福田さんから現地での情報をもらっていたりした。
4月27日:福田さんから「熊本救援本部などでは大阪から人を派遣しない」方針を聞き、熊本入りは無くなったと思っていた。
その後、5月4日:福田さんから電話があり、被災地センターくまもとでボランティアが欲しい状況になっていると知る。
八幡さんに電話して「ゆめ風ブログではボランティア要件に1週間ほど滞在とあったが数日でもいいか」と聞くと週末は特に人手不足なので歓迎とのことで、5月5日飛行機を手配し5月6日の夕方熊本に入る。
≪※この時点では現地の情報やニーズが刻一刻と変わっていた。テレビでボランティア自粛を促すムードなどもあり、4月末の時点で被災地センターくまもとにボランティアのニーズはないと思っていた。≫
●5月6日
「被災地センターくまもと」(以下センターくまもと)に着くと一日の終わりのミーティングが行われていた。
避難所の聞き取り調査報告、そこから個別支援に繋がるケースの検討、明日からの動きの確認などの内容。
熊本学園大の花田教授、東教授もやって来て避難所の現状報告などがあった。
●5月7日 午前、午後
大阪市「パンジー」で相談支援を行っている女性のSさんと一緒に活動する。
彼女は実家が熊本で、実家からセンターに通っていた。
彼女が前日から入っている「レスパイト支援」に同行する。
(*注レスパイト(respite)とは、「休息」「息抜き」「小休止」という意味で、在宅介護の要介護状態の方(利用者)が、福祉サービスなどを利用している間、介護をしている家族などが一時的に、休息をとれるようにする支援のこと)
熊本市南区の日吉小学校に隣接するコミュニティーセンターが避難所になっており、そこに避難しているFさんの小4と小1の子供の預かりを行う。
小4の兄は病気で、一度出血すると血が止まりにくいため見守りが必要である為センターが支援に入った。
熊本市では5月8日に小さな避難所を閉鎖して、大きな避難所に集約する決定が出された。
余震も続いており、恐怖心などから夜間のみ避難所を利用している人も多数おられたが、家から遠い避難所に通うのは大変でなんとか5月9日までに片づけを済ませて家に戻る人が多くいた。
Fさんもひとり家の片づけや棚の設置などの大工仕事をしなければならず、その間の子供さんの見守り支援であった(後日八幡さんに「なぜお母さんの片づけの支援も申し出なかったのか」と聞くと、申し出たが片づけの支援は断られたそう)。
コミュニティーセンターにはFさんともうひとりの女性しか残っていなかった。
前日入ったパンジーSさんいわく、もうひとりの女性の息子さんは障害があるように思ったそうだ。
私が行った日には息子さんはおらず、日中に様子を見に来た看護師がその女性に息子さんのことを尋ねられていたので何らかの保護や支援を受けていると思われた。
私たちが預かった子供たちはパンジーSさんが持参したおもちゃの助けもあって、怪我なく楽しんで過ごせた。
Fさんは10時過ぎに出て6時過ぎに子供を迎えに戻ってこられた。
●5月7日 夜間
夜は以前「NPO法人 ちゅうぶ」(大阪市)に勤めており、現在は「たびたちの仲間の会」の作業所勤務をしている男性のMさんと熊本学園大学の避難所の夜勤に向かったが、花田教授の呼びかけで数名のボランティアが集まり、人数が足りているということで避難所のこれまでの経緯と明日の夜勤の内容を聞いてセンターくまもとに帰ることになる。
<花田教授のお話>
5月6日の時点で夜間の見守りが必要な人は高齢者が中心でその家族も含めると15名ほど。
夜勤は4名2交代で行う。
ヘルパー労働組合長のIさんという女性が取りまとめを行っており、朝8時から夜勤者が来る夜の9時か10時までおられる。
日中は、他の教授や花田先生の生徒さんや、元教え子さんたちがボランティアに来ている。
それまで講堂は、要支援者スペースで、一般の避難者は他の教室を使っていたが、5月10日から大学の授業が再開することもあり、5月8日に一般の人も講堂に移ってもらうことにする。
講堂は1階にあり、授業は2階以上の階で行う予定とのこと。
その日1階の教室には何人かの人がおられ、廊下にはペットの犬と一緒に避難している女性もおられた。
避難所に残っている人の理由は様々で、地震前からある家庭内の問題等もあるとのこと。
障害者は、避難所で寝たきりの生活が続き、ADL(*注:日常生活動作(にちじょうせいかつどうさ)、ADL(英: activities of daily living)とは、食事・更衣・移動・排泄・整容・入浴など生活を営む上で不可欠な基本的行動を指す)が低下していたり、眠剤を飲みふらつきが出る人もおられるため、夜間のトイレ誘導などが必要になっている。
また、精神的に不安定な人は、余震でパニックになるため、声掛けして落ち着いてもらう支援が必要。
数時間おきに寝返りが必要な方もおられる。
大学は、地震後2、3日は水が止まり、水が出るようになった後も水が濁っていた。
現在は、問題なく水が使用できる。
食べ物や日用品の支援物資が、廊下のあちこちに積まれており、入り口には本部が設置されボランティアスタッフ(大学の教授など)が常駐する。
明日5月8日には今日と状況が変わっている旨を確認してセンターくまもとに戻った。
●5月8日 午前
午前中は「たびだちの会・Mさん」と熊本市北区の避難所の聞き取り調査。
この日は、翌日から大きな拠点避難所に集約されるために、どこも引っ越し日でばたばたとしていた。
龍田(たつだ)出張所(公民館)、龍田体育館、武蔵野武道場の3つは隣接しており、北区の拠点避難所のひとつになっている。
市役所職員や看護師が忙しく迎え入れや案内を行っていた。
市役所職員で「保護」と腕章をした男性が障害者数などを把握しているとのことでお話を伺うと電話でどこかに問い合わせてくれるが、引っ越し日なのもあってかすぐには把握できなかった。
また伺わせて頂くことにしてセンターくまもとに引き継ぐ。
避難所の受付をしている地元女性に話を聞くと、今のところ障害者は見受けられないが、スタッフを捕まえてはあれこれと苦情を言う女性避難者がおり、大変とのこと。
ストレスで被害妄想になったりしている人もたくさんおられるのだろうか、と想像した。
拠点避難所の後は避難所閉鎖、学校再開に向けて準備をしている小学校を回った。
役所職員が、発達障害らしき小学生の男の子のことを教えてくれた。
彼はお母さん、おばあちゃんと避難していたが、その小学校が閉鎖になるので、今日出て行ったとのこと。
子供は落ち着きがなく、母がいなくなると祖母に暴力を振るったりして見守りが必要だった。
自分の小学校に避難しているので、その子を知る先生たちや話してくれた役所職員が何となく支援していた。
拠点避難所には、先生たちのように、その子を知る大人がいなくなるので大変かもしれない。
●5月8日 午後
前日も、センターから派遣された精神障害を持つ30代前半?の女性Aさんの片づけ支援に一人で入った。
大きくて立派な一軒家だが、地震の影響で壁に亀裂が入り、片づけをした二階の床は斜めに傾いていた。
住宅の診断はまだ受けられていなかった。
父親はおらず母、祖母と3人で暮らす。
妹も鬱があり、別で住んでいたが地震後、子供を連れて実家に帰ってきている。
地震以降、怖くて一人で2階に上がれず、片づけられないので、センターくまもとから個別支援に入った。
もともと、物が捨てられない性分もあり、片づけがうまく進まない。
センターくまもとからの引き継ぎでは、片づけ半分お話半分で、心の整理と居住空間の整理を一緒に行う支援と聞いていたが、Aさんが、2階が片付かないことには心の平静も戻らないと判断し、前半はハイペースで片づけを進めさせて頂く。
2時間ほどでAさんが「疲れた、休憩しましょう」と自らブレイクを入れてくれたので、それ以後は少しペースダウンする。
散乱したままのガラス片を取り除き掃除機をかけると「やっと片付いた、嬉しい」とほっとされる。
Aさんは手帳保持者であるが、サービスを利用している様子はなかった。
地震以後しばらく近所の出身小学校に避難しており、そこで出会った地元ボランティアグループと交流を持っている。
私が支援に入っている時も、そのグループから連絡があり気にかけてもらっていた。
片づけはだいぶ進んだが、物の整理などまだ残っているため「もしまた応援が必要ならセンターくまもとに連絡してください」と伝えセンターくまもとに引き継ぐ。
Aさんから連絡がない場合は2、3日後にセンターくまもとから「その後どうですか?」と電話してみることになった。
●5月9日 夜間
「たびだち・Mさん」と学園大へ。
Tさんという女性で、花田教授の元教え子さん、大学院で沖縄の精神障害について学んでおられる方が、夜勤の引き継ぎをしてくださった。
この日も4名のボランティアニーズに対して6名が集まり、2名は後日の夜勤に備えてゆっくりやすんでもらうということで帰られた。
うち1名の地元男性は「何かやることがあればやります、なければ帰ります」というスタンスで避難所に毎日来て下さるそうだ。
昨日、今日と、ボランティアが溢れたが、それまではあてにしていたボランティアのドタキャンなどで、夜勤を回すのが大変だったと花田教授が話した。
この日は数名避難所を出られたのもあり、要支援(福祉)スペースに残ったのは、義足と松葉杖を利用する中年の男性、車いすユーザーの男性市会議員の村上さん、高齢で身体障害者女性4名、30代の軽度身体障害と精神障害をお持ちの女性とその母親、高齢で精神障害をお持ちの女性1名だった。
精神障害の女性が壁がみしっと鳴っただけでも「地震だ!」と怯えるのは、前日に片づけ支援に入った方も同じだった。
大きな地震で、怖い思いをされているのでトラウマになっている。
夜間私が仮眠交代中に、震度3の余震があった時も、その女性がパニックになったと後で聞いた。
数時間おきに体位交換が必要な女性は、地震が起こるまで母親がほとんど家から出したことがなく、地震がきっかけで外の世界にようやく出たと聞いた。
その方の足がむくんでいたのでマッサージさせて頂くと、うとうとと眠られたが、やはり深くは眠れないようで、すぐに目覚めていた。その方のように、地震以前からの根本的な事情も花田教授はたくさん聞いていて、個別支援や自立支援に繋ごうとされていた。
松葉杖ユーザーの高齢女性と精神障害の女性は、夜間トイレに立たれた際に、見守りでお連れしようとしても「大丈夫だから」と頑なに断れた。
引き継ぎの際、スタッフの照谷さんからは「消灯後は薄明りで視界が悪く以前も転倒されたことがあるので大丈夫と断られてもお連れしてください」と聞いたが、ご本人がとても迷惑そうに断られるのでついて行けなかった。
平常時は一人で行動される方が、トイレの度に見知らぬボランティアに付いて来られてはストレスだろうと思ったからだ。
避難所生活で、気心が知れた現地ボランティアスタッフなら同行させてもらえるのかもしれない。
翌朝8時前には避難所を切り盛りしているいなださんが来られ、引き継ぎ、交代した。
彼女らは地震以降、不休で支援に入っており、疲労の蓄積が心配される。
Iさんは前日に地震以来初めて1日休みを取られた。
ボランティアが来たから、やっと取れた休みだ。
しかし避難所の日勤は、朝8時から夜9時頃までで、長時間労働であり、1日の休みで疲れが取れたとは思えない。
そもそも、彼女らも被災者であるから、何かと用事があるはずで、外からのボランティアで現地スタッフの負担を少しでも減らせないものかと思った。
ちなみに避難者の入浴は、繋がりのあるデイサービスなどが突然「今日利用者の入浴が終わった後にうちのデイでお風呂に入っていいよ」などと電話をもらった時には、避難者をお連れして入浴介助するが、そうでなければ清拭や足浴のみだそうだ。
●5月9日 午前
夜勤明けで空港に向かう前に被害の深刻な益城町、西原町を車で回ってもらった。
古い家屋がほとんどで、上から押しつぶされたようにペチャンコで全壊だった。
水もまだ復旧していない。
●気になっていること、まとめ
◎私がそうだったように、ボランティアが必要とされているというニーズが各団体に届いていない。
八幡さんはゆめ風ブログで情報を更新しているというが、みんなが毎日ブログを見るわけではないので(ブログは毎日更新されないのでなおさら)、人手の要請などはセンターくまもとの大阪支部のような機関が各団体に発信すべきではないか。
◎ボランティアに行った人のレポートの窓口を作って情報を収集してはどうか。
センターくまもとの常駐スタッフ、花田教授、東教授は仕事が膨大で、ボランティアから聞いた情報まで集約して大阪に送る余力はない。
◎小さな避難所が閉じられ、大きな拠点避難所に集約されたことによって、学園大避難所に困難ケースが集まる可能性がある。現在は、花田教授の人脈でボランティアを回しているが、地元ボランティアの負担軽減のためにも継続的にボランティアを送るような仕組みは必要とされていないのか?(東北に「そうそうの杜」がスタッフを派遣し続けていたような取り組みを、大阪のネットワークでやるとか。どこも人手不足は分かっていますが連携してどうにかならないのか、とか。)
急いで書いたので誤字脱字お許しください。
6月3日(金)から6(月)また行こうと思ってます。
知り合いが「ボンド&ジャスティス」という炊き出しNPOをやっていて、益城などで車中泊の人にも炊き出ししたりしています。
繋がれたらいいなと思うので、3泊4日のうちの1日くらいはタイミングが合えば炊き出しチームに混ざるかも。
永村夏美