「心のピアサポート相談電話」について、佐川美紀さん(「こころのネットワークみやぎ」会長)が電話出演されます。
●7月3日(日)ラジオ第2「ともに生きる」
午前8時から8時30分、再放送が午後7時から7時30分です。
「被災地から”地域移行”を考える」というテーマで、大阪府立大学准教授の三田優子さんがスタジオゲスト。
番組前半で、岩手県の社会福祉法人が運営するグループホームの話、
後半で佐川さんが「心のピアサポート相談電話」のお話をされます。
被災地障がい者支援センターふくしまから
被災地障がい者支援センターふくしまから
20110626日誌2011年06月27日 18:55
カレーパンマンさんの報告
10時前に支援センターへ。
Wさん、Sさん、和歌山からのKさん、Kさんが南相馬に出かけていく。
10時にヘルパーのW君と待ち合わせ。
日記つけをしていると、ボランティアのIさんが無線ルーターは?というので、みんな(私、S、W、I)で買い物へ。ケーズデンキへ。無線ルーターとサーバーに使うハードディスクを買う。イトーヨーカド―へ。傘立てを探すが、売っていない。変わりに可愛い緑の扇風機があったので、桃ちゃん用に買う。ビバホームへ。感電死させる電気虫取り機、噴霧器、傘立てを買う。ビバホームの駐車場0.74μ?。かなり高い。
支援センターに戻ると12時近くなっている。
昼食後、W君に手伝ってもらって、EM菌の培養。家から持ってきた1.5リットルのペットボトルに作る。大きいペットボトルで作ると失敗するかも知れないと、Uのたじまさんが言っていたが、35℃に盥の水を温めているので大丈夫ではないかな。
2時過ぎにきょうされんの京都グループのNさん、Kさんが南相馬から帰ってきて、3時に京都に向う。
4時ごろにMちゃんのお父さんがみえて、Mちゃん帰っていく。雨がひどく降っている。雨の日だけでもMちゃんの送迎ができる状況ができるといいな。ボランティアの体制を整えて。
相談支援のS君がみえて、ここの線量計を借りて家の中や外を測ったのだが、部屋の中が0.6μ?。玄関が0.8μ?。1μ?以上あるという。大分危険。愛情込めたEM菌の培養を急がなければ。
Uさんのお知り合いのSさんがみえる。知的障がい者のようだ。Uさんのお知り合いには知的障がい者が多い。宇田さん関係から知的障がい者など、いろいろな方が支援センターを訪ねてくる。良いことである。どんどん関係を深めていこう。
6時過ぎになるが、雨がやまない。Uさんが私の運転で良ければ送っていくというので、お言葉に甘えて、ボランティアさんたちとリフト車に乗り込んで、Sのセブンイレブンまで送っていただく。
20110625日誌 2011年06月27日 18:52
9時前に支援センターへ。裏からはいると、線量計の警告音が鳴る。0.64μ?。
EM菌の培養は順調にいっている。ポリ盥の水が少なくなっているので、ボランティアのIさんにお湯を継ぎ足してほしいと頼む。
日誌付け。
10時半過ぎにWさんとリフト車で福島に向う。
福島県社会福祉協議会の入っている建物の3階へ。Aさんや親の会のTさんなど多くの人が会場準備をしている。Y君の兄さんも来ている。親の会の人たちを始めたくさんの障がい者団体の方たちが集まって来る。身障福祉協会のHさん、聴障会のKさんと会長のYさん、施設協会のHさん、Mさん、ALS協会さんらが集まる。参議院議員の衛藤晟一さん(自民党)、衆議院議員の高木美智代さん(公明党)、衆議院議員の初鹿明博さん(民主党)、厚生労働省の地域移行・障害児支援室長の内山さん、支援センターに一度おみえになったMさんがみえる。1時過ぎに国会議員との意見交換会が始まる。私が開会挨拶をして、Wさんが支援センターの活動報告をする。そのご、3人の国会議員の挨拶。そして、各団体の発言に移る。29名のエントリーがあり、1人2分ぐらいの持ち時間で話していく。原発問題関係と事業所や施設の施策等に分けてそれぞれ話していく。放射能の問題で、それぞれの学者の発言ややインターネットでの情報には開きがあって、どれを信じていいかという質問に、自民党の衛藤さんが、政府のいうことが一番正しいという。困ったものだ。福島県民は見殺しなのか。みんなからの障がい者施策に対する質問に、国会議員が「県の方では大丈夫できるだろう」と言われて、県の障がい福祉課長は答えに窮していたようだ。予定時間を20分ぐらいオーバーして報告会を終える。自民党の衛藤議員のパフォーマンスというものであったのかな?衛藤議員は障害者自立支援法をつくる時に活躍した議員であるとのこと。きょうされんのことは目の敵にしていると、和田さんが言っている。
4時過ぎに福島市を離れて、二本松の道の駅でおにぎりを買って、車中で食べて、支援センターへ。Wさんに携帯電話を取ってもらって、家まで送ってもらう
20110624日誌 2011年06月27日 18:34
11時半にあいえるの会事務所を出て、郡山駅に向かう。外は晴れていてとても暑い。しかし、マスクはかけていく。緑の窓口でチケットを買って、改札口に行き、これから新幹線に乗って福島まで行くのだがというと、「お名前は」と聞く。いつもなら介助者と行くのだが、介助者が私の名前を言ってしまう。きょうは私一人なので、電動車いすの者は私一人なので分かるでしょうと、名前は言わなかった。
12時23分発の新幹線で福島駅へ。西口に降りる。線量計で測ると0.22μ?。福島駅はそれほどでもないが、通常の5倍程度。
1時になり、ILセンター福島のS君とS君が車でみえる。私も同乗して、飯館村の役場が来ている福島市の飯野出張所へ。飯館村には何回も行ったので、顔なじみになったIさんに会う。飯館村の重度の身体障がい者の消息をざっと聞く。大震災前に入所していた身体障がい者は10名程度。今度の大震災で3名が入所したとのこと。残りの障がい者は家族と共に避難しているという。これから仮設住宅の生活になるので、障がい者の家族から相談があったら、支援センターへ連絡して下さいとお願いする。Iさん、「支援センターにはお世話になっているので、何かあったら必ず連絡します」とのこと。Iさんとは信頼関係ができたようだ。
次に、二本松市の男女共生センターに入っている浪江の役場出張所へ。支援センターに電話をかけて、Uさんに浪江の障がい福祉の担当者の名前を聞く。飯野から二本松に抜けていく山道(針道)を通っていくと、山頂から下り始める場所で0.7以上のμ?ある。車中でだから、降りたら3倍ぐらいになるのか。山は多い。
二本松市の男女共生センターの浪江出張所に行き、担当者はと聞けば、きょうは休みとのこと。上司に出てきてもらうが、私たちの質問に答えられない。いったい今まで何をしていたのだ、この人は。これではらちが明かないので、後からファックスに質問事項を書いて送るからよろしくと、帰ってくる。
帰りの車中で、設楽君とこれからの予定を決める。S君が会津にも行きたいと言っていたので来週の火曜日はどうかといえば、設楽君も良いとのこと。会津坂下町と美里町に行くことになる。それから、埼玉まで避難している双葉町の役場にはいつ行くかいう話になり、7/12に郡山で福島県自立生活センター協議会の総会があるので、それが終わってから埼玉に向かい、13日の午前中に双葉町の役場に寄り、午後から東京の参議院議員会館で行うJDFの大震災報告会に参加して、その日は東京に泊って、14日に福島に帰って来るかという予定を立てる。
20110622日誌 2011年06月27日 18:18
WさんとS君と待ち合わせる。10時過ぎの新幹線で東京へ。
東京駅から丸ノ内線で霞が関へ。エレベーターが少なく、新霞が関ビルから遠いほうの出口から出るようになる。和田さんが地図を調べておいたので、すぐに新霞が関ビルを見つけことができた。ビルの中で食事を摂ることにする。1階に蕎麦屋があったが、石の2段の階段が立ちふさがっている。全国社会福祉協議会が入っているのに、障がい者を締め出すような食事処があってもいいのか?隣の弁当屋で弁当を買って、狭いテーブルで食事を摂る。
ビルの1階で休んでいると立命館のAさんから電話がある。赤い羽根の助成金で支援センターのサロン作りの助成を申請するのに、申請書を書いても良いかというので、こちらではあまり時間が無いので、よろしく頼むと伝える。
1時近くなったので、5階の会議室へ。JDFの意見交換会。Hさん、Mさん、内閣府の東さんはじめ、宮城と福島の支援センターの面々。南相馬の報告にNさんも参加。会議の内容は、自己紹介を行い、宮城、福島の活動の報告と、今後の方針を話してから質疑応答、今後のJDFの活動の在り方について話し合う。
7月以降の支援センターの活動の在り方については良く考えていなかったので、戸惑ってしまう。JDFとしては、3か月に一度意見交換会を持って、今後どうしていくのかを討議していくらしい。JDFとしては、支援活動で何らかの成果をあげたいらしい。訪問活動での聞き取り調査のデータの整理や福島、宮城のデータ共有化を図りたいとのこと。組織としてはそうだろうけれど、こちらとしては現場での個別支援等をどうしていくのか気を揉んでいるのに…。どうしても温度差を感じてしまう。Wさんが、JDFからの支援は長いスパンでは考えていないのか。福島の場合、原発問題でまのたまだ支援活動は続いていくだろう。長い目で見てのJDFからの支援をお願いしたいと述べる。宮城の支援センターのKさんも同じような発言を行なう。その発言に対して、Hさんが、3か月たったからそれで支援を終わるわけではない。3か月が過ぎれば、支援の仕方も変わってくるので、その点検の意味で報告会を開催していく。という答え。JDFの集めた義援金は2100万円あまり。これは少ないなとWさん。
20110621日誌 2011年06月27日 18:03
ミクシーの日記を三日分アップする。
10時にILセンター福島のS君とS君がみえる。3人でリフト車に乗ってビックパレットへ。まずは川内村の災害対策本部へ。U田さんから教えてもらったOさんと会う。支援センターのニュースとお願い文を手渡し、話を聞く。川内村は人口3000人。脳性まひ者は6人か。大震災前から8名の重度障がい者が施設に入所していたとのこと。数的には合う。重複の障がい者が避難先から仮設住宅に移ってくるとのこと。宇田さんの担当。知的障がい者は施設ごと他県に移っているという。震災後に入所施設に避難した方はいないらしい。
次に富岡町へ。健康福祉課のSさんが担当。富岡町は人口16000人。脳性まひ者は32人か。震災前から施設に入所している重度障がい者は10人程度だったという。残りは、脳性まひ者を含めても在宅の重度障がい者は40人程度か。震災後に入所施設に避難した方はいないという。二次避難場所のホテルや旅館を教えてほしいと言えば、ビックパレットに行ってホテルなどの住所録をコピーしてくる。
川内村も富岡町も職員さんの対応は良い。帰りにビックパレットの脇にできあがっている仮設住宅を見ていこうと思ったが、S君が午後から福島県自立生活センター協議会の常任委員会があるので、時間が無いというのでそのまま支援センターに戻る。
帰りの車中で考えたのだが、川内と富岡を見る限り、在宅から施設へと移った重度障がい者はいても少数にとどまることが分かった。飯館村の頚損のSさんが「施設に入るとお金を取られるので」と言った言葉が忘れられない。大人の重度の身体障がい者がいると障害基礎年金と特別障害者手当で月に10万円を超える金額が支給される。ところが重度障がい者が施設に入所すれば、特別障害者手当は支給されなくなり、施設のホテルコストを4万円弱払わなければならないし、重度障がい者のいる一般的な家族の意識として、「多少手がかかっても月に10万円のお金が入ってくるので、施設に入れないで家においておこう」という気になるのではないのか。あまり良くない状況ではあるが…。
今後、二次避難所から仮設住宅に移るようになると、障がい者のいる家族も仮設に入るようになるだろう。その時が勝負所かも知れない。
12時に支援センターに戻る。
午後から日誌付け。
S君とボランティアのSさんが小原田の被災障がい者の訪問へ。
H君の給料を払おうと思って、センターの近くの東邦銀行に行くが、暗証番号が分からずに降ろせず。O君に暗証番号を聞いてWさんに銀行に行ってもらうが、O君の暗証番号も間違っている。
3時前から明日のJDF意見交換会の資料の作成を始める。長くかかるだろうと思っていたが、やはり時間がかかる。完成したのは夜の7時過ぎ。
明日は朝の9時にWさんとS君と待ち合わせ。
20110620日誌 2011年06月21日 09:48
10時近くに支援センターへ。 みんなが来ていて、「白石さんがなかなか来ないので、どこかでビールでも飲んでいるのかな」と。毎日毎日飲んでいるわけではないよ。
Wさんが、医療関係者と東京電力の「損害賠償に関する会議」に参加するために出かけていく。
Mちゃん、ボランティアのSさん、S君が、Mちゃんでも使える電話機を買いに行く。
Hさん、障害連やDPIのホームページを見て、障がい者制度改革推進会議・障がい者差別禁止部会の開催日程を調べるが、なかなか分からない。障害連のOさん、DPIのOさんにメールを打つ。東京で近いうちに会いましょうという内容で。
昼食後、インターネットで情報散策。
1時近くにMちゃんたちが帰ってくる。電話機は7000円とのこと。
支援センターの物件でお世話になった不動産屋さんが、神明町の虎丸郵便局の隣の土地が空いているという。この前にOさんが見つけていた土地であった。75坪で2100万円とのこと。内部で話し合ってみると答えておく。
MちゃんとボランティアのSさんの名刺を作ろうとしたが、名刺用紙がない。何処に行ったのだろう?Uさんが、なごみの佐藤さんが名刺のことを言っていたので、もしかしたら南相馬に持っていったのか?と。
Sさん(自転車で)とケーズデンキに行って、名刺用紙を買ってくる。
支援センターへ戻り、Mちゃん、Sさん、私、S君の名刺を20枚ずつ印刷する。
Mちゃんは出かけていて、近くの道なりの放射線量を測って来たとのこと。でも、マスクをかけないで、帽子をかぶらずに出かけていたので、「これからはマスクをして帽子をかぶって出かけること」と注意する。Mちゃんは20歳なので、本当に注意しなければ…。
ボランティアのS藤さんに机の上に溜まっている書類をファイルに整理していただく。
Mちゃん、4時ごろに帰っていく。Uさんに、Mちゃんにマスクをかけてくださいと伝える。Mちゃんが帰った後、Uさんが、「桃ちゃんは障がいで体温調節ができないので、早めにエアコンを設置しないと」という。うっかりしていた。早めにエアコンを設置してもらおう。今週の初めに工事をすると言っていたが。
1歳の聴覚障がいのお子さんのいるお母さん(外国人か)が来て、放射線が心配なので、どこか非難する所はないかとのこと。急いでいるのですぐに帰る。
5時前にNさんがみえたので、虎丸郵便局の土地の話をすると、少し待っていれば良いという。様子を見よう。
夕方、Hさんがみえる。Hさんは知的障がい者当事者として頑張っている。私の息子と同じ施設団体で働いている。元気のよい女の子。
あす、ILセンター福島の設楽君と、避難区域となった各町村の職員あての「原発等で非難区域から非難した重度の身体障がい者の所在確認をしていますが」という文章を完成させると夜の7時になってしまう。
6月25日の街頭募金は111,845円
6月25日 第7回大阪救援本部街頭募金レポート
ゆめ風基金 橘高千秋
朝からギラギラと照りつける太陽。
真夏並みの猛暑の中、街頭募金活動が、在阪11障害者団体、45人が参加して貫徹されました。
1時から5時まで4時間の長丁場。
パーティの柿久保さん、障大連の細井さんはタオルを頭に巻き付けべドウィンさながらの勇姿。マッサクの松場さんは車いすを背に座り込み、肩は黒光りしていました。ほかにも一人一人ご紹介したいほど魅力的な面々がずらりと顔を並べ、過酷な環境の中、笑みさえ浮かべ、通りすぎる人々に声を枯らして支援の訴えを続けていました。
総じて、道行く人は関心なさそうな表情ではありましたが、立ち止まって財布を開けてくださる方もちらほら。
ストリート系の3人の若者が、「俺も・・」とポケットからカンパしてくれたのが新鮮でした。
炎天下 あまり休憩もとらずに支援を訴え続けた障害者、支援者のみなさん、その後大丈夫でしょうか(休憩と水分補給はしっかりと)。
阪神淡路大震災のときもそうでしたが、
大阪の障害者団体のみなさんは、被災障害者支援に懸命に取り組んでいます。
本当に魅力的な仲間たちをごらんください。
次回は7月9日(土)1時から なんば高島屋前です。
被災地障がい者センターみやぎ・及川より
被災地障がい者センターみやぎの及川智さんからの報告です。
ゆめ風基金 御中
いつも大変お世話になっております。
被災地障がい者センターみやぎ・及川です
先日福島県田村市「福祉のまちづくりの会」から「自立生活体験室の整備」ということで支援要請があった、722,855円について、八幡さんとも協議の上支援を決定し、6月30日に東北本部口座より振り込みました。
事後報告となり、失礼いたしました。
及川 智
村上春樹さんがスペインのカタルーニャ国際賞授賞式でスピーチした全文1
村上春樹さんが2011年6月9日(現地時間)、スペインのカタルーニャ国際賞授賞式でスピーチした全文
「非現実的な夢想家として」1
僕がこの前バルセロナを訪れたのは二年前の春のことです。サイン会を開いたとき、驚くほどたくさんの読者が集まってくれました。長い列ができて、一時間半かけてもサインしきれないくらいでした。どうしてそんなに時間がかかったかというと、たくさんの女性の読者たちが僕にキスを求めたからです。それで手間取ってしまった。
僕はこれまで世界のいろんな都市でサイン会を開きましたが、女性読者にキスを求められたのは、世界でこのバルセロナだけです。それひとつをとっても、バルセロナがどれほど素晴らしい都市であるかがわかります。この長い歴史と高い文化を持つ美しい街に、もう一度戻ってくることができて、とても幸福に思います。
でも残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、もう少し深刻な話をしなくてはなりません。
ご存じのように、去る3月11日午後2時46分に日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。地球の自転が僅かに速まり、一日が百万分の1.8秒短くなるほどの規模の地震でした。
地震そのものの被害も甚大でしたが、その後襲ってきた津波はすさまじい爪痕を残しました。場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても助からないことになります。海岸近くにいた人々は逃げ切れず、二万四千人近くが犠牲になり、そのうちの九千人近くが行方不明のままです。堤防を乗り越えて襲ってきた大波にさらわれ、未だに遺体も見つかっていません。
おそらく多くの方々は冷たい海の底に沈んでいるのでしょう。そのことを思うと、もし自分がその立場になっていたらと想像すると、胸が締めつけられます。生き残った人々も、その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、生活の基盤を失いました。根こそぎ消え失せた集落もあります。生きる希望そのものをむしり取られた人々も数多くおられたはずです。
日本人であるということは、どうやら多くの自然災害とともに生きていくことを意味しているようです。日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になっています。毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。各地で活発な火山活動があります。そしてもちろん地震があります。日本列島はアジア大陸の東の隅に、四つの巨大なプレートの上に乗っかるような、危なっかしいかっこうで位置しています。我々は言うなれば、地震の巣の上で生活を営んでいるようなものです。
台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、地震については予測がつきません。ただひとつわかっているのは、これで終りではなく、別の大地震が近い将来、間違いなくやってくるということです。おそらくこの20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、マグニチュード8クラスの大型地震が襲うだろうと、多くの学者が予測しています。それは十年後かもしれないし、あるいは明日の午後かもしれません。もし東京のような密集した巨大都市を、直下型の地震が襲ったら、それがどれほどの被害をもたらすことになるのか、正確なところは誰にもわかりません。
にもかかわらず、東京都内だけで千三百万人の人々が今も「普通の」日々の生活を送っています。人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで働いています。今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。
なぜか?あなたはそう尋ねるかもしれません。どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に生活していられるのか?恐怖で頭がおかしくなってしまわないのか、と。
日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。
「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。
自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のことであるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。
どうしてか?
桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。
そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、ある意味では「仕方ないもの」として受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。あるいはその体験は、我々の美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。
村上春樹さんがスペインのカタルーニャ国際賞授賞式でスピーチした全文2
村上春樹さんが2011年6月9日(現地時間)、スペインのカタルーニャ国際賞授賞式でスピーチした全文
「非現実的な夢想家として」2
今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。
でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。
結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。少し揺れたからといって、文句を言うこともできません。ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。好むと好まざるとにかかわらず、そのような自然と共存していくしかありません。
ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。それらはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、というものではないからです。
僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。
みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった六基の原子炉のうち、少なくとも三基は、修復されないまま、いまだに周辺に放射能を撒き散らしています。メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、近海に流されています。風がそれを広範囲に運びます。
十万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされました。畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。そこに住んでいた人々はもう二度と、その地に戻れないかもしれません。その被害は日本ばかりではなく、まことに申し訳ないのですが、近隣諸国に及ぶことにもなりそうです。
なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因はほぼ明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、安全基準の見直しを求めていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。
また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられます。
我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなりません。その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです。
日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させるのはそれほど得意ではない。そういうところはあるいは、バルセロナ市民とは少し違っているかもしれません。でも今回は、さすがの日本国民も真剣に腹を立てることでしょう。
しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。
ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という二つの都市に、米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、合わせて20万を超す人命が失われました。死者のほとんどが非武装の一般市民でした。しかしここでは、その是非を問うことはしません。
僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていったということです。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。
村上春樹さんがスペインのカタルーニャ国際賞授賞式でスピーチした全文3
村上春樹さんが2011年6月9日(現地時間)、スペインのカタルーニャ国際賞授賞式でスピーチした全文
「非現実的な夢想家として」3
戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。どのようなことがあっても二度と武力を行使することはしない、経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、その二つが日本という国家の新しい指針となりました。
広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。
そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。
何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?
理由は簡単です。「効率」です。
原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。
そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。
そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。
そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。
原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。
それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。 そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。
ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。
「大統領、私の両手は血にまみれています」
トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。「これで拭きたまえ」
しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界のどこを探してもありません。
我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。
村上春樹さんがスペインのカタルーニャ国際賞授賞式でスピーチした全文4
村上春樹さんが2011年6月9日(現地時間)、スペインのカタルーニャ国際賞授賞式でスピーチした全文
「非現実的な夢想家として」4
我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。
それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。
前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、我々は自然災害の被害を乗り越えていくことができます。またそれを克服することによって、人の精神がより強く、深いものになる場合もあります。我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。
壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。
その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。
最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。
僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけたことを、誇りに思います。我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られることにもなるのです。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。
カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、豊かな文化を護ってきたことを僕は知っています。我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。
日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。
最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人々に、義援金として寄付させていただきたいと思います。そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。そして先日のロルカの地震の犠牲になられたみなさんにも、深い哀悼の意を表したいと思います。(バルセロナ共同)
この3か月、血のめぐりがわるくなった頭だけれど、いろいろ考えた。
この3か月、血のめぐりがわるくなった頭だけれど、いろいろ考えた。
被災障害者支援NPOゆめ風基金 代表理事 牧口一二
この原稿を書いている今日は6月11日、つまり東北関東大震災大津波そして福島第一原発大事故からちょうど丸3か月が経過したわけだ。ボクは3月27日ごろからランダムに、4月に入ってからは毎日、わが手帳に……新聞に載っている「いままでの死者数、行方不明数、避難所暮らしの人数」をメモるようになった。6/10は死者15,401名、行方不明8,136名、避難所暮らし91,523名(ちなみに避難所暮らしが10万人を切ったのは6/2のこと)となっていて、6/11は死者15,405名、行方不明8,095名、避難所暮らし90,109名とある(警察庁発表による前日のまとめ)。
前日とのことだから、9日と10日の24時間の間に亡くなられた(あるいは遺体が発見された)人が4名増え、行方不明だった人の51名が安否確認できたことになる。地震が起きて丸3か月の時点だから瓦礫に埋もれていて助け出された、とは考えにくい。どこかに逃げられていて消息がやっと確認できた人や大海原に呑み込まれていて(海上保安庁などの捜索で)遺体が見つかった人、ということになるのだろう。つまり、3か月後のこの日の24時間に、なんらかの理由で47人が生き残って身元確認されたことになる。メモを取っていると毎日毎日2桁の人たちが生きて発見されている。3桁の生存が確認されていたのは5/7までの記録で、それ以後は2桁になった。しかしながら3か月にもなれば、遺体発見も身元確認も日々難しくなっている、と新聞は伝えている。
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なぜ、ボクが死者や行方不明などの推移をメモるようになったか。それは、まだ東北に(車いすの)車輪跡を残せないでいるが、テレビ画面に映し出される大津波によって根こそぎ大海原に呑み込まれていった跡の、人間社会の風景とは思えない映像やほとんど何も残っていない焼け跡ごとき景色など、それだけでも息をのむシーンなのに、周り360°が同じように荒れはてて暮らしの残骸しか残っていない真ん中に立てば、ボクはどんな言葉を発するか、いや何の言葉も出てこなくて、ただ頭が真っ白になってしまうにちがいない。
だけど日が経つにつれ、あの残骸のいまはどんな風になっているのだろう、知りたくて知りたくて……という想いがつよくなってきた。3度にわたって津波が襲った、という。2度目が最も大きかったと聞いたが、実際はあくる日まで何度も何度も寄せては返す津波だったらしい。そのリアス式海岸沿いは450キロにおよぶという。あの地域は、いまどうなっているのだろうか?
1,000キロ以上離れた大阪から被災地のいまを感じたい、そこで思いついたのが毎日の新聞に乗っている警察庁調べの「今日までの(前日の)死者と行方不明そして避難所で暮らす人々」の数字を拾い出してみることだった。きのうからきょうへの何かが掴めるかもしれない。もちろん、人々の暮らしぶりは数字の推移だけで分かるものではない。もっと多面的で複雑で、数字ごときで簡単に推し量れないが、何か、臨場感がほしかった。
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3か月経ってもなお、2桁の生存者が日々確認できることはとてもうれしい意外であった(その対象軸に日々確認される死者の数が増える事実がある)。阪神大震災の最終的な行方不明者が3人で、伊勢湾台風の最終行方不明者が401人だった、と新聞記事にある。大海にさらわれてしまったこと、被災地が広い範囲にわたっていることが、まことに捜索を困難な状況にしている。そのうち、障害者はどれぐらい死んでしまったのだろうか。
5月に入って、隣り近所の知り合いなどから「障害者の人たちの状況がいっこうに聞こえてこないけど、どうしているんですか」と尋ねられることが多くなった。確かに一般の大災害関連ニュースで、障害者の状況はあまり出てこない。マスコミが取材しなかったのか、そうでもない。例えば、NHK教育テレビは3/17から福祉ネットワークで災害関連情報を毎日ナマ番組で流し始めた(3/29にボクも東京で出演した)。だが、障害者はいま、どこで、どうしているのか、なかなか見えてこなかった。
「ゆめ風基金」の成り立ちなどは後で書こうと思うが、16年間の活動で全国に51か所のネットワークができ、その1つ「ゆめ風ネットみやぎ」(じつは仙台の「CILたすけっと自立生活センター」)にゆめ風・理事の八幡隆司が3/18に入り、当地の活動を手伝うことになった。「たすけっと」は当初、自分たちと仲間の避難所になったそうだが、八幡が加わった頃には障害者支援の拠点として活動を始めた。最初の仕事は各避難所を回って、「困っている人はいませんか、障害のある人を教えてください」というビラまきだった。だけど、反応は鈍かったらしい。車いすや白杖など目立つものがあれば分かりやすいが、ほとんどの障害者は付き合いを始めないと分からない。孤立して困っている障害者を見つけ出すのは大変な作業になったようだ。
5/24朝刊の新聞報道によると、東北3県の津波で被害を受けた沿岸37市町村に住む障害者は約15万人で、内閣府が障害者団体などに聞き取り調査した結果、9,000人のうち2.5%にあたる約230人が死亡または行方不明になっていた、とある。住民全体に占める死者・行方不明の比率は1%弱というから、障害者の死亡・行方不明は2~3倍ということになる。だが、少し疑問を抱く。ボクもそうだが複数の団体に顔を出している。ダブルやトリプル・カウントされていないだろうか。この疑問を、東京のこうした道に詳しい仲間に問い合わせたところ「大きな誤差はないだろう」とのこと。ならば、想像したくなかったことだが、相当数の障害者が大津波に呑み込まれてしまったのではないか。1度目の津波から逃れて、やれやれとひと息ついたところに2度目の大津波がきて呑み込まれてしまった障害者も多かったのではないか、その無念を想った。
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16年前の阪神淡路大震災、世の中全体が大混乱になったときの障害者の置かれた立場は、やはり危ういものだった。伝言や伝達が取りにくい視覚・聴覚障害者たちが避難所のリーダー格に、「何の列ですか?」と尋ねると「いま、それどころではありません」と後回しにされてしまったケースがあちこちで起きていた。今回の東北の避難所でも「あなたたちの来るところではありません」と言われた障害者がいた、と聞く。
阪神淡路大震災のとき、大阪もそこそこ揺れたが、ひと息ついたところで神戸の障害者のことを想った。長田あたりで火の手が出て、炎がぐんぐん広がり、脳性まひの友が柱に足を挟まれ、必死に逃げだそうとしているところに火の手が回って、意識がはっきりしているのに焼け死んだなら……と勝手に想像し、さぞ怖かっただろうな、と思ったり。
その次の日、障害者運動の仲間の女性が崩れ落ちた屋根の下敷きになって亡くなった、とのファクスが神戸からの第1報だった。まるで,イヤな予感が当たってしまったようなファクス、ところが第2報に驚いた。ふだんからの助け合いネットワークが機能し、他の救援物資が交通停滞の中、いち早く届いた食料で炊き出しを始め、寒さに震える地域の人々に「日頃お世話になってるお礼です」と豚汁を配って回った、というではないか。
このファクスにどれだけ励まされたことか。30年ほどやってきた障害者による市民運動が1つの実りを示してくれた感動だった。ボクの体内からふつふつとエネルギーが湧いてくる不思議な体験をした。それが「ゆめ風基金」運動に発展するとは……
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神戸や西宮の障害者たちが地域の人々に豚汁をふるまったことにエネルギーを得て、被災地神戸のようすを知りたかったが、テレビ画面からは不通になっている鉄道レールの上をリックを背負って神戸に向かって歩く人々の列が映しだされていた。当時、松葉杖をついていたボクにはマネのできないことだった。
そんな折、我らが『そよ風』編集長、河野秀忠が「とりあえず、オレが行ってくる」と神戸に向かう。着くや「えらいことになってるでぇ。金や金、お金を集めなあかん。10億円は要るなぁ」と受話器の向こうで叫んだ。そのとき、ボクは「5億円ぐらいにしないか」と募金目標を値切っていたのだ(笑)。河野の10億もボクの5億も大した根拠もない直観の出まかせだった。ただ、河野は全国を、ボクは近畿を念頭にしていただけのこと。
こうして、被災した障害者を支援する「ゆめ風基金」運動がスタートした。永六輔さんは「10年計画なのが、とてもいい」と快く呼びかけ人代表を引き受けてくださり、10年間を本気で大きな仕事をしてくださって、小室等さんにバトンタッチされ、いまもラジオなどで大いに呼びかけてくださっている。そのとき電話は鳴りっぱなし、事務局は大わらわ。
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今回は津波の恐ろしさを痛感させられたが、それにも増して原発による放射能のしつこさには驚きと怖さを思い知らされた。ボクはあまりにも原発のことを知らなさすぎた。だが、専門家や当事者たちがあんなにアタフタするなんて想定外。ボクでも、原発危うしとなった当初のヘリコプターから建屋に水をかけるシーンを眺めていて(多くは的ハズレ)、なんとチャチな、と思ったものだ。これが、放射能漏れの危険性を社会が2分するほど騒いだ後に出てきた安全宣言のなれの果てだったのか、背筋がゾクッとした。
原発推進派といえど、したり顔で解説していた政治家や大学教授が、後から次々と出てくる失態をすでに知っていて、のうのうと顔色も変えずにウソを宣っていたなら、ボクは放射能よりそのほうがはるかに恐ろしい。
危ない、安全、が取り沙汰されていた40年ほど前、ボクは廃棄処分できないものを後世の人たちに残すのは現代人の傲慢だと考えて原発反対の側にいた。故・松下竜一さん(じつは広瀬隆さんと思い込んでいた)が書かれた『暗闇の思想』を読んで、夜の暗闇は静かに語らったり物事をじいっと考えるとき、と教わり、深い感銘を受けたことを思い出していた。いま、電動車いすがなければ一歩も外に出られない身になっているが、節電なんて言わずに夜は暗闇で静かに過ごそうと思う(歳をとったせいかな)。
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もう1つ、気になることがある。今回の東北の避難所でも「福祉避難所」の必要性が大合唱される。つまり、障害者にはそれぞれ特別なニーズがあるから、その設備が整った避難所が絶対に必要だ、というのである。
そのように言いつつ、地域社会から山深い施設に障害者を追いやったのではなかったか。また、専門家がいる、仲間がいる、設備が整っている、と地域の学校から遠い支援学校(なんか、これもウソっぽいなぁ)へのバス通学を強いてきたのではないか。
それぞれのニーズに応える設備は当然必要だが、それは一般の避難所から障害者を分けることではない。そうではなくて、一般の避難所とそれらのニーズに応え得る備えが繋がっていてほしいのだ。必要のないところまで設備を整えろ、と言っているのではない。まずは、どのような人も拒まない、というのが避難所の(社会の、学校の)原則で、特別な手立てのルートをつねに準備をしておく、ということだ。そういた社会では、急に障害者と同じニーズが必要になった人も救うことができるし、同じ避難所でさまざまな人が生き合っていることを実感できる場にもなる。そこに現れる諸問題をどのようにこなしていくかが、「生きる」ということだと、ボクは考えている。
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いま理事の八幡は、長期間にわたって東北に入り込み、当地の障害者たちを側面から支える難しい立場で活動している。もちろん主目的は、ゆめ風基金を本当に必要としている人(ところ)に手渡すごとく届けるためである。だが、さまざまな市民から託された大切なお金を確実に届けるのは簡単なことではなかった。そのためには、拠点を創り出すお膳立てから関わることなのだ。現在、福島の郡山市、宮城の仙台市、岩手の盛岡市に被災地障害者支援センターを立ち上げ、続いて緊急避難の駆け込み寺的な拠点を福島の亘理町、宮城の登米市、岩手の遠野市に設けたところである。でも、復興に向けてお金を必要とするのはこれからだ。ぜひ、ご支援をお願いします。ゆめ風基金・事務局のTEL:06-6324-7702/FAX:06-6321-5662/E-mail:yumekaze@nifty.comへご連絡のほどを。
(編集部だより「そよかぜ」139号/「そよ風のように街に出よう」より)