被災地障がい者支援センターふくしまから

被災地障がい者支援センターふくしまから
20110626日誌2011年06月27日 18:55
カレーパンマンさんの報告
10時前に支援センターへ。
Wさん、Sさん、和歌山からのKさん、Kさんが南相馬に出かけていく。
10時にヘルパーのW君と待ち合わせ。
日記つけをしていると、ボランティアのIさんが無線ルーターは?というので、みんな(私、S、W、I)で買い物へ。ケーズデンキへ。無線ルーターとサーバーに使うハードディスクを買う。イトーヨーカド―へ。傘立てを探すが、売っていない。変わりに可愛い緑の扇風機があったので、桃ちゃん用に買う。ビバホームへ。感電死させる電気虫取り機、噴霧器、傘立てを買う。ビバホームの駐車場0.74μ?。かなり高い。
支援センターに戻ると12時近くなっている。
昼食後、W君に手伝ってもらって、EM菌の培養。家から持ってきた1.5リットルのペットボトルに作る。大きいペットボトルで作ると失敗するかも知れないと、Uのたじまさんが言っていたが、35℃に盥の水を温めているので大丈夫ではないかな。
2時過ぎにきょうされんの京都グループのNさん、Kさんが南相馬から帰ってきて、3時に京都に向う。
4時ごろにMちゃんのお父さんがみえて、Mちゃん帰っていく。雨がひどく降っている。雨の日だけでもMちゃんの送迎ができる状況ができるといいな。ボランティアの体制を整えて。
相談支援のS君がみえて、ここの線量計を借りて家の中や外を測ったのだが、部屋の中が0.6μ?。玄関が0.8μ?。1μ?以上あるという。大分危険。愛情込めたEM菌の培養を急がなければ。
Uさんのお知り合いのSさんがみえる。知的障がい者のようだ。Uさんのお知り合いには知的障がい者が多い。宇田さん関係から知的障がい者など、いろいろな方が支援センターを訪ねてくる。良いことである。どんどん関係を深めていこう。
6時過ぎになるが、雨がやまない。Uさんが私の運転で良ければ送っていくというので、お言葉に甘えて、ボランティアさんたちとリフト車に乗り込んで、Sのセブンイレブンまで送っていただく。
20110625日誌 2011年06月27日 18:52
カレーパンマン
9時前に支援センターへ。裏からはいると、線量計の警告音が鳴る。0.64μ?。
EM菌の培養は順調にいっている。ポリ盥の水が少なくなっているので、ボランティアのIさんにお湯を継ぎ足してほしいと頼む。
日誌付け。
10時半過ぎにWさんとリフト車で福島に向う。
福島県社会福祉協議会の入っている建物の3階へ。Aさんや親の会のTさんなど多くの人が会場準備をしている。Y君の兄さんも来ている。親の会の人たちを始めたくさんの障がい者団体の方たちが集まって来る。身障福祉協会のHさん、聴障会のKさんと会長のYさん、施設協会のHさん、Mさん、ALS協会さんらが集まる。参議院議員の衛藤晟一さん(自民党)、衆議院議員の高木美智代さん(公明党)、衆議院議員の初鹿明博さん(民主党)、厚生労働省の地域移行・障害児支援室長の内山さん、支援センターに一度おみえになったMさんがみえる。1時過ぎに国会議員との意見交換会が始まる。私が開会挨拶をして、Wさんが支援センターの活動報告をする。そのご、3人の国会議員の挨拶。そして、各団体の発言に移る。29名のエントリーがあり、1人2分ぐらいの持ち時間で話していく。原発問題関係と事業所や施設の施策等に分けてそれぞれ話していく。放射能の問題で、それぞれの学者の発言ややインターネットでの情報には開きがあって、どれを信じていいかという質問に、自民党の衛藤さんが、政府のいうことが一番正しいという。困ったものだ。福島県民は見殺しなのか。みんなからの障がい者施策に対する質問に、国会議員が「県の方では大丈夫できるだろう」と言われて、県の障がい福祉課長は答えに窮していたようだ。予定時間を20分ぐらいオーバーして報告会を終える。自民党の衛藤議員のパフォーマンスというものであったのかな?衛藤議員は障害者自立支援法をつくる時に活躍した議員であるとのこと。きょうされんのことは目の敵にしていると、和田さんが言っている。
4時過ぎに福島市を離れて、二本松の道の駅でおにぎりを買って、車中で食べて、支援センターへ。Wさんに携帯電話を取ってもらって、家まで送ってもらう
20110624日誌 2011年06月27日 18:34
カレーパンマン
11時半にあいえるの会事務所を出て、郡山駅に向かう。外は晴れていてとても暑い。しかし、マスクはかけていく。緑の窓口でチケットを買って、改札口に行き、これから新幹線に乗って福島まで行くのだがというと、「お名前は」と聞く。いつもなら介助者と行くのだが、介助者が私の名前を言ってしまう。きょうは私一人なので、電動車いすの者は私一人なので分かるでしょうと、名前は言わなかった。
12時23分発の新幹線で福島駅へ。西口に降りる。線量計で測ると0.22μ?。福島駅はそれほどでもないが、通常の5倍程度。
1時になり、ILセンター福島のS君とS君が車でみえる。私も同乗して、飯館村の役場が来ている福島市の飯野出張所へ。飯館村には何回も行ったので、顔なじみになったIさんに会う。飯館村の重度の身体障がい者の消息をざっと聞く。大震災前に入所していた身体障がい者は10名程度。今度の大震災で3名が入所したとのこと。残りの障がい者は家族と共に避難しているという。これから仮設住宅の生活になるので、障がい者の家族から相談があったら、支援センターへ連絡して下さいとお願いする。Iさん、「支援センターにはお世話になっているので、何かあったら必ず連絡します」とのこと。Iさんとは信頼関係ができたようだ。
次に、二本松市の男女共生センターに入っている浪江の役場出張所へ。支援センターに電話をかけて、Uさんに浪江の障がい福祉の担当者の名前を聞く。飯野から二本松に抜けていく山道(針道)を通っていくと、山頂から下り始める場所で0.7以上のμ?ある。車中でだから、降りたら3倍ぐらいになるのか。山は多い。
二本松市の男女共生センターの浪江出張所に行き、担当者はと聞けば、きょうは休みとのこと。上司に出てきてもらうが、私たちの質問に答えられない。いったい今まで何をしていたのだ、この人は。これではらちが明かないので、後からファックスに質問事項を書いて送るからよろしくと、帰ってくる。
帰りの車中で、設楽君とこれからの予定を決める。S君が会津にも行きたいと言っていたので来週の火曜日はどうかといえば、設楽君も良いとのこと。会津坂下町と美里町に行くことになる。それから、埼玉まで避難している双葉町の役場にはいつ行くかいう話になり、7/12に郡山で福島県自立生活センター協議会の総会があるので、それが終わってから埼玉に向かい、13日の午前中に双葉町の役場に寄り、午後から東京の参議院議員会館で行うJDFの大震災報告会に参加して、その日は東京に泊って、14日に福島に帰って来るかという予定を立てる。
20110622日誌 2011年06月27日 18:18
カレーパンマン
WさんとS君と待ち合わせる。10時過ぎの新幹線で東京へ。
東京駅から丸ノ内線で霞が関へ。エレベーターが少なく、新霞が関ビルから遠いほうの出口から出るようになる。和田さんが地図を調べておいたので、すぐに新霞が関ビルを見つけことができた。ビルの中で食事を摂ることにする。1階に蕎麦屋があったが、石の2段の階段が立ちふさがっている。全国社会福祉協議会が入っているのに、障がい者を締め出すような食事処があってもいいのか?隣の弁当屋で弁当を買って、狭いテーブルで食事を摂る。
ビルの1階で休んでいると立命館のAさんから電話がある。赤い羽根の助成金で支援センターのサロン作りの助成を申請するのに、申請書を書いても良いかというので、こちらではあまり時間が無いので、よろしく頼むと伝える。
1時近くなったので、5階の会議室へ。JDFの意見交換会。Hさん、Mさん、内閣府の東さんはじめ、宮城と福島の支援センターの面々。南相馬の報告にNさんも参加。会議の内容は、自己紹介を行い、宮城、福島の活動の報告と、今後の方針を話してから質疑応答、今後のJDFの活動の在り方について話し合う。
7月以降の支援センターの活動の在り方については良く考えていなかったので、戸惑ってしまう。JDFとしては、3か月に一度意見交換会を持って、今後どうしていくのかを討議していくらしい。JDFとしては、支援活動で何らかの成果をあげたいらしい。訪問活動での聞き取り調査のデータの整理や福島、宮城のデータ共有化を図りたいとのこと。組織としてはそうだろうけれど、こちらとしては現場での個別支援等をどうしていくのか気を揉んでいるのに…。どうしても温度差を感じてしまう。Wさんが、JDFからの支援は長いスパンでは考えていないのか。福島の場合、原発問題でまのたまだ支援活動は続いていくだろう。長い目で見てのJDFからの支援をお願いしたいと述べる。宮城の支援センターのKさんも同じような発言を行なう。その発言に対して、Hさんが、3か月たったからそれで支援を終わるわけではない。3か月が過ぎれば、支援の仕方も変わってくるので、その点検の意味で報告会を開催していく。という答え。JDFの集めた義援金は2100万円あまり。これは少ないなとWさん。
20110621日誌 2011年06月27日 18:03
カレーパンマン
ミクシーの日記を三日分アップする。
10時にILセンター福島のS君とS君がみえる。3人でリフト車に乗ってビックパレットへ。まずは川内村の災害対策本部へ。U田さんから教えてもらったOさんと会う。支援センターのニュースとお願い文を手渡し、話を聞く。川内村は人口3000人。脳性まひ者は6人か。大震災前から8名の重度障がい者が施設に入所していたとのこと。数的には合う。重複の障がい者が避難先から仮設住宅に移ってくるとのこと。宇田さんの担当。知的障がい者は施設ごと他県に移っているという。震災後に入所施設に避難した方はいないらしい。
次に富岡町へ。健康福祉課のSさんが担当。富岡町は人口16000人。脳性まひ者は32人か。震災前から施設に入所している重度障がい者は10人程度だったという。残りは、脳性まひ者を含めても在宅の重度障がい者は40人程度か。震災後に入所施設に避難した方はいないという。二次避難場所のホテルや旅館を教えてほしいと言えば、ビックパレットに行ってホテルなどの住所録をコピーしてくる。
川内村も富岡町も職員さんの対応は良い。帰りにビックパレットの脇にできあがっている仮設住宅を見ていこうと思ったが、S君が午後から福島県自立生活センター協議会の常任委員会があるので、時間が無いというのでそのまま支援センターに戻る。
帰りの車中で考えたのだが、川内と富岡を見る限り、在宅から施設へと移った重度障がい者はいても少数にとどまることが分かった。飯館村の頚損のSさんが「施設に入るとお金を取られるので」と言った言葉が忘れられない。大人の重度の身体障がい者がいると障害基礎年金と特別障害者手当で月に10万円を超える金額が支給される。ところが重度障がい者が施設に入所すれば、特別障害者手当は支給されなくなり、施設のホテルコストを4万円弱払わなければならないし、重度障がい者のいる一般的な家族の意識として、「多少手がかかっても月に10万円のお金が入ってくるので、施設に入れないで家においておこう」という気になるのではないのか。あまり良くない状況ではあるが…。
今後、二次避難所から仮設住宅に移るようになると、障がい者のいる家族も仮設に入るようになるだろう。その時が勝負所かも知れない。
12時に支援センターに戻る。
午後から日誌付け。
S君とボランティアのSさんが小原田の被災障がい者の訪問へ。
H君の給料を払おうと思って、センターの近くの東邦銀行に行くが、暗証番号が分からずに降ろせず。O君に暗証番号を聞いてWさんに銀行に行ってもらうが、O君の暗証番号も間違っている。
3時前から明日のJDF意見交換会の資料の作成を始める。長くかかるだろうと思っていたが、やはり時間がかかる。完成したのは夜の7時過ぎ。
明日は朝の9時にWさんとS君と待ち合わせ。
20110620日誌 2011年06月21日 09:48
カレーパンマン
10時近くに支援センターへ。 みんなが来ていて、「白石さんがなかなか来ないので、どこかでビールでも飲んでいるのかな」と。毎日毎日飲んでいるわけではないよ。
Wさんが、医療関係者と東京電力の「損害賠償に関する会議」に参加するために出かけていく。
Mちゃん、ボランティアのSさん、S君が、Mちゃんでも使える電話機を買いに行く。
Hさん、障害連やDPIのホームページを見て、障がい者制度改革推進会議・障がい者差別禁止部会の開催日程を調べるが、なかなか分からない。障害連のOさん、DPIのOさんにメールを打つ。東京で近いうちに会いましょうという内容で。
昼食後、インターネットで情報散策。
1時近くにMちゃんたちが帰ってくる。電話機は7000円とのこと。
支援センターの物件でお世話になった不動産屋さんが、神明町の虎丸郵便局の隣の土地が空いているという。この前にOさんが見つけていた土地であった。75坪で2100万円とのこと。内部で話し合ってみると答えておく。
MちゃんとボランティアのSさんの名刺を作ろうとしたが、名刺用紙がない。何処に行ったのだろう?Uさんが、なごみの佐藤さんが名刺のことを言っていたので、もしかしたら南相馬に持っていったのか?と。
Sさん(自転車で)とケーズデンキに行って、名刺用紙を買ってくる。
支援センターへ戻り、Mちゃん、Sさん、私、S君の名刺を20枚ずつ印刷する。
Mちゃんは出かけていて、近くの道なりの放射線量を測って来たとのこと。でも、マスクをかけないで、帽子をかぶらずに出かけていたので、「これからはマスクをして帽子をかぶって出かけること」と注意する。Mちゃんは20歳なので、本当に注意しなければ…。
ボランティアのS藤さんに机の上に溜まっている書類をファイルに整理していただく。
Mちゃん、4時ごろに帰っていく。Uさんに、Mちゃんにマスクをかけてくださいと伝える。Mちゃんが帰った後、Uさんが、「桃ちゃんは障がいで体温調節ができないので、早めにエアコンを設置しないと」という。うっかりしていた。早めにエアコンを設置してもらおう。今週の初めに工事をすると言っていたが。
1歳の聴覚障がいのお子さんのいるお母さん(外国人か)が来て、放射線が心配なので、どこか非難する所はないかとのこと。急いでいるのですぐに帰る。
5時前にNさんがみえたので、虎丸郵便局の土地の話をすると、少し待っていれば良いという。様子を見よう。
夕方、Hさんがみえる。Hさんは知的障がい者当事者として頑張っている。私の息子と同じ施設団体で働いている。元気のよい女の子。
あす、ILセンター福島の設楽君と、避難区域となった各町村の職員あての「原発等で非難区域から非難した重度の身体障がい者の所在確認をしていますが」という文章を完成させると夜の7時になってしまう。

6月25日の街頭募金は111,845円

6月25日 第7回大阪救援本部街頭募金レポート
                  ゆめ風基金 橘高千秋
街頭募金6月25日(土)
朝からギラギラと照りつける太陽。
真夏並みの猛暑の中、街頭募金活動が、在阪11障害者団体、45人が参加して貫徹されました。
1時から5時まで4時間の長丁場。
パーティの柿久保さん、障大連の細井さんはタオルを頭に巻き付けべドウィンさながらの勇姿。マッサクの松場さんは車いすを背に座り込み、肩は黒光りしていました。ほかにも一人一人ご紹介したいほど魅力的な面々がずらりと顔を並べ、過酷な環境の中、笑みさえ浮かべ、通りすぎる人々に声を枯らして支援の訴えを続けていました。
総じて、道行く人は関心なさそうな表情ではありましたが、立ち止まって財布を開けてくださる方もちらほら。
ストリート系の3人の若者が、「俺も・・」とポケットからカンパしてくれたのが新鮮でした。
炎天下 あまり休憩もとらずに支援を訴え続けた障害者、支援者のみなさん、その後大丈夫でしょうか(休憩と水分補給はしっかりと)。
阪神淡路大震災のときもそうでしたが、
大阪の障害者団体のみなさんは、被災障害者支援に懸命に取り組んでいます。
本当に魅力的な仲間たちをごらんください。
街頭募金6月25日(土)
次回は7月9日(土)1時から なんば高島屋前です。

被災地障がい者センターみやぎ・及川より

被災地障がい者センターみやぎの及川智さんからの報告です。
ゆめ風基金 御中
 いつも大変お世話になっております。
被災地障がい者センターみやぎ・及川です
先日福島県田村市「福祉のまちづくりの会」から「自立生活体験室の整備」ということで支援要請があった、722,855円について、八幡さんとも協議の上支援を決定し、6月30日に東北本部口座より振り込みました。
事後報告となり、失礼いたしました。
及川 智

神戸から愛をこめて 加納浩美

加納浩美さん
豊能障害者労働センター機関紙「積木」225号より
 五月一四日、豊能障害者労働センターさんのバザーに、参加させてもらいました。かれこれ一〇回以上の参加になる恒例の春のバザー。今年は「被災障害者救援バザー」というタイトルがつけられました。
売上金の全額を、東日本大震災で被災した障害者の方々のために、ゆめ風基金さんに寄付するということを聞き、「なんて無謀!なんて素敵!」と、私の心は躍ったのでした。
 今回ばかりでなく、いくつもの災害に寄付をし続けるとよのさん。その度私は、「いったい自分たちの生活は大丈夫なのか!?」と心配になってしまいます。そんな心配をよそに、やりきってしまうとよのさん。ほんとに大好きです!
 自分がたいへんな時でさえ、誰かのために何かをする。
 久しぶりに、一九九五年一月一八日の朝を思い出しました。私は、阪神淡路大震災の被災者です。私の住むマンションと隣のガソリンスタンドを残し、町内はすべて地震のあとの火事で燃えてしまいました。部屋のベランダに降りかかる火の粉を見ながら、なすすべもなく近くの小学校に避難しました。
 翌朝、五時半頃だったと思います。なんと小学校で、おにぎりと毛布が配られたのです。茫然自失だった私は、「こんな時におにぎりにぎってくれる人がいるんだ!誰だろう?すごい。」と、ほんとに驚きました。そして、その人の存在がうれしくて、とても力づけられました。
 
 東日本大震災。何の資格も特技ない私に何ができるのだろうか、まして短い日程でと悩みましたが、ゴールデンウイークに、被災地障がい者センターいわてとみやぎに行ってきました。現地スタッフさんやボランティアさんのサポートであれば私にもできるかなと思い、思いきって行きました。
 一日だけ、ボランティアの方々と、津波の被災地である大船渡市へ同行させてもらいました。避難所などで聞き取りをしたり、経過を確認したりしました。
被災と障害だけではなく、地域や家族、社会構造そのものの問題を突きつけられたようでもありました。神戸に戻ってからも、お話を伺った方々のその後が気になります。
 
 今回は全国から、被災地からも、あたたかいメッセージとともにたくさんのバザー用品が届いたと聞きました。だれかの思いが、まただれかをつないで、愛のバトンリレーのようですね。そんな関係をこれからもみなさんとともにつくっていきたいと思っています。また、震災の長い支援も心に決めています。
 
                                 神戸から愛をこめて 加納浩美


加納浩美
1961年、秋田県天王町に生まれる。神戸市在住。シンガーソングライター。24歳、初めてバンドを組み、各種オーデションを荒らしまくる。平行してソロ活動もしていたが、1995年の震災以後、ギターの弾き語りでオリジナルの他、ジャンルを問わず自らの感性で選んだ数々の名曲を歌いつづけている。
現在も震災関連イベントや障害者団体の催し等、請われるままに年間40回程のライブを継続している。
*作品に、トルコ・台湾地震救援活動支援CD「ラブパラシュート」がある。

豊能障害者労働センター 平田和也さんの手紙

豊能障害者労働センター機関紙「積木」225号より
全国からバザーのための品物おくってくれました。
倉庫に、宅配がきました。
スタッフがはこからあけておくりじょうをファイルしてメッセージを、書きました。
はこの中からいろいろなものがありました。
手紙もはいっています。よんでいくとあたたかい言葉がありました。
服も本やタオルはいっていました。食べものもおくってくれてたりします。
いっぷくして下さい、ってメッセージです。
いろんな言葉を、おもって僕達に、メッセージがとどきます。
そして東北からもありました。だいじょうぶかな、どきどきしました。
倉庫が品物でふえていました。
一日でたくさんふえていくと、足ふみができないこともありました。
1枚ずつ読んでいきました。手紙は、お宝ものです。
被災障害者救援バザーを、ひらきました。
スタッフも汗をかきながらたくさんお客さんに、かってもらいたいと思いました。
被災障害者救援バザーを、やれてよかった。
いろいろな人の気持あつまってひろがりました。
皆で楽しくやりました。お客さんは、楽しくバザー品物を、もって帰っていかれました。
本当に、五月一四日土ようびありがとうございました。
しんぱいを、もらってありがとう。
天気がよかった。ステージで笑顔を、いっぱいでした。
この笑顔を、東北に、おくります。

箕面の新居良さん、石原礼さんの現地報告

新居良さん、石原礼さん
 6月28日、箕面の豊能障害者労働センターの新居良さん、石原礼さんの宮城での支援活動の報告会がありました。
 石原さんは6月7日から6月12日まで、新居さんは6月13日から6月17日まで仙台の被災地障がい者センターみやぎ(CILたすけっと)の支援活動に参加されました。
 報告では、震災から3ヶ月がたち、よくも悪くも一定の時間の経過が落ち着きをもたらし、ボランティアの役割がかわってきたりすることで一部で混乱もあったそうです。阪神淡路大震災の時もそれ以後のいくつもの災害の時でも、発生直後の支援活動はみんなが必死で、そのことでかえって結束力もおのずと高まるのですが、一定の時間がたつと被災状況も、まだ安否確認をしている場合から、すで仮設住宅での生活をサポートする場合まで、より支援の幅が広がっていきます。さらに、今回の場合は被災地があまりにも広く、その上、福島ではいつおさまるか検討もつかない原発をかかえ、一部には全県避難もいわれるほどの困難な状況にあります。
 そのため、より幅のある支援活動をボランティアに求めざるを得ない現地の苦しい事情がうかがえました。
 そのなかでも、前任者からひきついだ障害者のお宅を訪ねると、すでにかなり思い病気にかかっておられて、玄関に出てくるのもやっとの状態でしたが、それでも一度目は遠く大阪から来たボランティアを気づかってくれながら、話を聞くことができたのですが、2度目のときは「もう帰ってくれ」と会ってくれなかったそうです。あのひとがいまどうなっているのか心配です。(石原)
 
「情報が集まる仮設住宅とそうでない仮設住宅の差が大きい。」
「今はボランティアが来てくれるが、あと一ヶ月もすれば仮設のことは忘れられると思う。」
 名取市のみのり園をたずねると「ゆめ風さんには、話を聞いてほしい」と、窮状を話してくださいました。
「ここは、90名ほどの障害者の生活支援、就労支援の場ですが、被災後、同建物で活動中の障害当事者が日中活動の場を失い、緊急の活動場所確保が必要となり、宮城農業共済会の旧家畜診療所を無償で借り受けました。ところが4月7日の余震により、この建物がまた被害にあい、その修復と障害者対応の改築の費用に困っています。さまざまな助成団体に支援要請を出したのですが、本来の場所の復旧ではなく緊急の活動の場所であることや、そこが借り受けたもので返却する見込みであることなどで、ことごとく断られてしまいました。ゆめ風さんが頼みの綱です」。
 この依頼をうけて、支援センターで話したところ、ゆめ風基金から支援金が出る見込みだと聞きました。(新居)
(注*本日6月29日、みのり園に375万円をおとどけしました。)
 また、新居さんはその後共同連とともに、共同連宮城大会を支えた各障害者団体の被害の様子を見て回りました。個別の障害者の支援活動と平行して、障害者の生活拠点や生産拠点の復興もまた、とても時間がかかることだと思いました。
 けれども、これを機会に東北の障害者団体とも新しいネットワークを結んでいくように活動したいという話でした。
 新しいプロジェクトとして、障害者当事者によるボランティア活動がはじまります。被災障害者の心の奥の奥を受け止めるのは、障害者自身ではないのかと、被災地の障害者の発案で、すでに被災地に先遣チームが入り込んでいます。
 今後はこの活動の中から新しいニーズが掘り起こされるように、全国の障害者団体のより強いネッワークを必要とすることを、あらためて確認しました。

「南相馬は、わが街」: 和合亮一「詩の礫」

norio suzukiさんからの情報です。
 人間、目一杯、感傷的になりたい時があるものの、年を取ると、その後が恥ずかしくなって、いけません。
 若いときには、感傷的になるのに、理由は要らないのが、年を取るとは厄介なもので、それ相応の理由がないと、恥ずかしくていけません。 それで(笑)、先般お届けした、和合亮一氏の、「詩の礫」の中で、割と私は、南相馬市について述べられているところが好きで、ところが、この、詩の礫は、延々と続けて書かれていて、切れ目のようなところはあるのですが、なかなか取り止めがありません。
それで、今回紹介するのは、偶然見つけて、割とまとまりもよく、それも、南相馬に特化して書いてありますので、しかも、目一杯感傷的で、感傷が許されるのは、大震災ゆえと知れば、忸怩たる思いになるも、この際勘弁してもらって、次の、詩の礫を、鑑賞してください。 ついでに、私が、警察小説、堂場瞬一を読むのも、感傷的になりたいからでしょう(笑)。
(鈴木)
「南相馬は、わが街」: 和合亮一、「詩の礫」2011・3・31
  南相馬は、わが街。
  あなたは知っていますか、 南相馬の若馬の誇りを、 かなたに砕け散る波頭に似た、誇りを。
  あなたは知っていますか、 南相馬の春の恋しさを、 かなたに砕け散る波頭に似た、恋しさを。
  あなたは知っていますか、 南相馬の星空の高さを、 かなたに砕け散る波頭に似た、高さを。
  あなたは知っていますか、 南相馬の夏の激しさを、 かなたに砕け散る波頭に似た、激しさを。
  あなたは知っていますか、 南相馬の秋祭りの楽しさを、 かなたに砕け散る波頭に似た、楽しさを。
  あなたは知っていますか、 南相馬の秋の切なさを、 かなたに砕け散る波頭に似た、切なさを。 
  あなたは知っていますか、 南相馬の雪の静けさを、 かなたに砕け散る波頭に似た、静けさを。
  あなたは知っていますか、 南相馬の冬の祈りを、 かなたに砕け散る波頭に似た、祈りを。

6月25日の街頭募金に45人の参加者

6月25日(土)の街頭募金は45人の参加を得ました。炎天下の下、ほんとうにごくろうさまでした。
募金をしていただいた方、ありがとうございました。
くわしい報告は後日に
させていただきます。

今日、街頭募金をします。

今日(6月25日)、第7回目の街頭募金活動を行います。
午後明日1時から午後5時まで、場所は大阪なんば高島屋前です。
みなさんのご参加をよろしくお願いします。