東北の冒険、わたしたちの冒険 障害者救援本部大阪の会議

 12月21日、障害者救援本部大阪の会議がありました。今年最後の会議となりましたが、30人の参加があり、地震発生後9ヶ月がたち、現在の支援活動の報告とともに今後の支援活動のあり方について熱心に話し合われました。
現在の支援活動
 大阪ではたくさんの団体、個人のみなさんのご協力で、11月23日の「東北⇔関西ポジティブ生活文化交流会」を成功させることができました。ありがとうございました。
 今後も定期的な街頭募金、救援本部会議、そして「東北⇔関西ポジティブ生活文化交流会」の第2弾として2月24日、25日に応典院で11月23日の山西福祉記念会館の被災地報告会のDVD上映会、3月25日に扇町公園と山西福祉記念会館でイベントを開催する予定です。
現在の支援拠点
岩手県盛岡市 「被災地障がい者センターいわて」(「CILもりおか」と連携)
   田野原村 「ハックの家」と連携
   宮古市 「被災地障がい者センター宮古」(当事者プロジェクトと連動)
   釜石市 「AJU自立の家」と連携
   大船渡市 「被災地障がい者センター大船渡」
   陸前高田市・気仙沼市 「すずらんとかたつむり」と連携
宮城県仙台市 「被災池障がい者センターみやぎ」(「CILたすけっと」と連携)
   登米市 被災池障がい者センターみやぎ県北(登米)支部(南三陸町をふくむ)
   石巻市 被災地障がい者センター石巻
   亘理町 被災地障がい者センターみやぎ県南支部(「ささえあい山元」と3月まで連携、山元町をふくむ)
福島県郡山市 「被災地障がい者支援センターふくしま」(JDF)
支援の主な内容
1.通院、買い物、作業所への通所などの移送サービス
2.支援を必要とする障害者への戸別訪問
3.仮設住宅での交流のためサロン活動
4.家の改造、周辺整備の協力
5.行政制度の活用の支援や政策提起
各地の動き
岩手
1.障害当事者が主体となって現地に障害当事者を派遣する「いわて当事者派遣プロジェクト」が全国自立センター協議会(JIL)を中心にとり組まれてきています。一時中断していましたが、11月半ばから再開されています。
2.田野畑村の「ハックの家」との連携で、戸別訪問と移送サービスをお願いしていますが、地域の人々とのつながりも増え、送迎の途中などでも「ここに障害者がいるよ」と紹介され、「ハックの家」や「すずらんとかたつむり」の仲間になった障害者が数名いるとのことでした。
3.被災地障がい者センター宮古が始動し、「いわて当事者派遣プロジェクト」や、「ハックの家」の児童デイサービスにも利用する予定になっています。今後地元雇用による専従体制を整え、将来的にはCILもりおかと連携することを視野に入れて、活動を多様かつ本格化しようと思います。
宮城
 10月1日に被災地障がい者センター石巻が活動を始めました。
 地元雇用による専従体制を確立しながらボランティアの方々の力をお借りし、送迎、見守り、役所や社会福祉協議会への調査、仮設障がい者グループホームへの調査、バリアフリーガイドブック作成のための調査などを進めていきます。
福島
 原発については予断を許さない状況が続いています。長期的に避難することを希望する障害者もいます。
1.個別で県外に移住することを希望するひとたちの支援
現状は各人から地域の団体に直接連絡し、個別で調整している形です。何人かの移住がすでに実行され、また移住を計画しています。
2.移転のための県外拠点として、神奈川県相模原市に「サテライトCIL」が設置されました。一時的な受け入れとしての「一時避難所」と自立生活に向けた「体験室」と、支援センターの役割を担うことになります。
 この秋に閉鎖の予定だったケア付住宅「シャローム」借り上げました。定員4名。
 12月から「体験ツアー」を実施しています。「体験ツアー」のうえだで、移住のための自立支援に結びつけていきたいと思います。移住のための仕組みについては「FIL・福島自立生活センター協議会が担います。
今後の活動
 報告の中で明らかになったように、支援拠点がようやく沿岸部にでき、今後は沿岸部の支援活動の強化が急務になります。これら新しい支援拠点はまだ専従体制も確立されておらず、一方でいままで隠れていたニーズが一挙に現れています。持続可能な支援に向けて地元の状況と要望をていねいに把握し、あくまでも現地優先で無理をせず、少しずつ現地雇用による専従体制のもと、可能なものは「障害福祉サービス事業」に転化していくように支援を継続していく。また、公的助成や各種基金も最大活用していくことと、地道な街頭募金やイベントもふくめて、支援のよびかけを進めていくことなどが話し合われました。
 次回の会議は来年の2月8日(水)、午後6時半より、パーティパーティで開きます。

はり灸レンジャー ~鍼灸震災ボランティア~

 3月11日の東日本大震災を受け、鍼灸師のボランティア・グループが被災地での支援活動をされていると、以前このブログでも紹介しましたが、現在7名の方がメーリングリストで連絡を取り合い、情報を共有し、支援活動を継続されています。
 5月の第一次訪問は、被災地障がい者センターみやぎの支援活動として、障がい者の安否確認や介護、障がい者のいる家庭の生活支援、津波の被害にあった家屋のゴミだし、行政などに情報をつなぐソーシャルワークなどに従事されました。
9月の第2弾ボランティア活動は、
 1.鍼灸の業界団体とは別ルートで、現地の組織・人々と連携し、主に障がい者・高齢者の施設・団体・仮設住宅を回る。
2.可能な限り継続性をもって、顔と顔、名前と名前のなじむ関係作りを企図する。
3.一過性の治療のみでなく、ローラー鍼やせんねん灸など簡易灸を配布し、ツボの処方を行ない、被災された方々が自己ケアできるよう提案する。
4.鍼灸治療が第一義であるが、治療を通じて聞き取った被災者の声を受け止め、福祉機関などと連携し、一種のソーシャルワーク的な活動も視野に入れる。
などを念頭に、仮設住宅を中心に苦しみの声を挙げきれない被災者と出会い、少しでも心身の苦痛を取り除く活動をされました。
 2012年3月に第3回目の訪問を計画中とのことです。
「前回訪れた被災者や現地スタッフのその後の様子をうかがう(継続支援)。大震災から1年経過した現地での生活ぶり、健康状態を確認し、鍼灸支援の方法の練り直しも行なう。
 訪問先が、宮城県の北東部(三陸町)から、福島県の郡山市まで広域であるため、チーム編成を行ない、地域ごとに鍼灸師グループで担当者を決めるのも一案。たとえ頻繁に訪問できなくとも、顔なじみのAさんが季節ごとに鍼灸治療に来てくれる、と受け止めていただけると嬉しい。細くとも長く支援が続くことが、被災者の方々を「いつまでも忘れずに見守っている」というメッセージを送ることにもなるだろう。」(ブログより)
 くわしいレポートは、ブログを開かれましたので、ぜひごらんになってください。
はり灸レンジャー ~鍼灸震災ボランティア~

街頭募金を行います。

本日24日(土)午後1時より午後5時まで、大阪なんば高島屋前で街頭募金を行います。
今日は特別に寒くて、参加されるみなさんはほんとうに大変だと思います。
どうか暖かい服装でご参加ください。午後1時より午後5時までの時間帯のどの時間に参加していただいても結構です。
よろしくお願いします。

被災地障がい者センターみやぎ・石巻支部Vol・1より

被災地障がい者センターみやぎ・石巻支部(被災地障がい者センター石巻)が冊子を発行しました。個々を拠点に活動するひとたちの震災発生時の状況や思いをつづった切実な報告と、その後の活動、現在と今後の支援活動について、言葉を寄せ合った貴重な資料となっています。
 その内容をひとつずつ紹介したいと思います。
被災地障がい者センターみやぎ・石巻支部Vol・1より
大震災とこれから
                     
 あの千年に一度と言われる東日本大震災から早七ヶ月が経過し、段々と肌寒くなってきました。今思うと、ただの悪い夢として現実逃避したくなる時もありましたが、津波や原発問題によってもたらされた被害の様子を見聞きする度に、あの日の光景が鮮明に蘇ってきます。
 三月の大震災の時、私の家にも大津波と瓦礫などが突然押し寄せ、一階の電化製品は全て使用不能になり、自家用車や使用していた電動車椅子も全て流されました。その際、私は母や祖母と共に家の二階に避難しました。
 ラジオから、数百人単位で遺体が見つかった話や、ある集落が水没した話といった絶望的な情報が流れ続ける中、私は猛吹雪と津波で水に浸かった家の周囲を呆然と眺めながら、次々に来る余震に、ただ怯えるしかありませんでした。
 やがて吹雪が止み、辺り一面が暗闇に包まれた中、夜空を見上げると星空が見えました。今思うと、それはまるでこの震災で亡くなられた方々の魂が、夜空に舞い上がったかのようでした。震災直後の大停電の中、星空は残酷なくらい美しかった事を今でも鮮明に覚えています。
 そして翌日以降、私は約二ヵ月程、自宅には戻れませんでした。その間、私と両親は市役所に二日程宿泊していましたが、大勢の人の中にいるストレスにどうしても耐えられなかった為、地元の東松島市の母方の祖母の家に避難しました。
 ただ改めて考えると家族や親戚、そして近しい友人達が皆無事で自宅に戻ってこれた事だけでも感謝しなければなりません。自分を含め私の周囲の人間が皆助かったからこそ、これから新しい事を始めようと考える余裕があるのですから。
 しかし親戚や友人の中でも家が津波で消失し、大切な人を亡くしてしまった方々など、震災の被災者でしか本質的に分かち合えない大きな悲しみを味わった方が多くいる事もまた重い現実です。また震災の影響でPTSD等により心が傷付き、疲れ切ってしまった人も多くいます。
震災以降祖母の家に避難してしばらく、私も連日発生する余震と友人との安否確認が出来なかった事による不安感により精神的にきつくなり、気が滅入ることがままありました。しかし当時を振り返ると私達親子を受け入れてくれた祖母の方が過度のストレスによって気が滅入っていたと思います。そして電化製品を買い直し、元の家での生活に戻れた事を改めて嬉しく思います。
 そして私は今、隣街の石巻市にて新しい活動を始めました。今年の八月の中旬に地元の障がいを持った当事者の先輩と数年ぶりに再開し、彼が県内外の様々な福祉関係のボランティアや支援団体の力を借りて、石巻の地域に住む障がいを持った当事者のサポートをして、自分達が主体的に行動が出来るように、住み易い環境を創り直していく為の団体を設立しようとしていることを知り、私もその活動に参加する事を決めました。
 まだ右も左も分からない中での活動ですが、その活動を通して、私達が住む石巻地域の地域福祉における多くの問題点が少しずつ見えてきました。それは石巻周辺も被災した事によるものもありましたが、それ以上に震災前から地元の障がい者福祉に対する閉鎖的な環境によるものもかなりあったと考えています。
 前々から薄々感じていましたが、地元地域には特に身体障害を持った当事者が定期的に通い、語り合える様な場所が殆ど見当たりません。また知的障害や精神の障害を持った当事者についても、施設や家の中に閉じこもりがちな方も未だに多くいます。そこで、「社会と繋がれる場所が無いのなら自分達で創ってしまおう。」という考えで活動を始めました。
 私自身、まだまだ勉強不足で障がい者福祉について知らない事も沢山あり、これからも精進していかなければなりませんが、少しでも声を上げて、制度やサービスを改正したり、利用しながら、より私達にとって住み心地の良い街に変えていければと考えています。そして何より、自宅以外で私が安心して身を置ける場所が出来た事も、大変嬉しく思います。(I)

被災地障がい者宮古・事務所お披露目交流パーティー

被災地障がい者宮古・事務所お披露目交流パーティー
 12月20日(火)午後1時から被災地障がい者センターいわての宮古拠点のお披露
目をかねたパーティーを開催しました。
 当日は地元の方8名(障害者3名)とCIL盛岡のメンバー6名(障害者3名)、
県外からの応援隊15名(障害者3名)、計29名の参加がありました。
 車いすを利用する方9名を含む29名が集うと広く思えた事務所も狭く感じまし
た。こちらのスタッフも大阪、埼玉、千葉、沖縄と各地からのメンバーで、いろ
いろな地域の人が集まり、今後の拠点活動の夢などを話し合いました。
 気軽に集まり、話をするだけでなく、カラオケをしてほしい、パソコン教室を
開いてほしい、自立体験の場所に使えるなど様々な意見が出ました。
 冬休みの間、障がい児の児童デイサービスをする場所として貸してほしいとい
う話が田野畑村のハックの家からきていて、私たちスタッフも協力する形で26日
からスタートすることになっています。
 途中商店街の方が扮したサンタクロースからプレゼントをもらうというサプラ
イズもあり、夕方まで楽しく過ごしました。
(この事務所は地元の障害者支援相談員の方に紹介していただきました。この場
を借り、お礼を申し上げます。)
 事務所改装については年が明けたら第二弾を行う必要があるのですが、沿岸部
に拠点ができたことで、支援スタッフの負担は大幅に減ります。
 なんと言っても東北の冬は寒いです。山越えの道路はすでに一部凍結している
こともあり、そういった危険を避けることも目的のひとつです。

被災地障がい者センターみやぎ・石巻支部Vol・1より

 被災地障がい者センターみやぎ・石巻支部(被災地障がい者センター石巻)が冊子を発行しました。個々を拠点に活動するひとたちの震災発生時の状況や思いをつづった切実な報告と、その後の活動、現在と今後の支援活動について、言葉を寄せ合った貴重な資料となっています。
 その内容をひとつずつ紹介したいと思います。
被災地障がい者センターみやぎ・石巻支部Vol・1より
東日本大震災時の状況と、7か月後の現状
                    被災地障がい者センターみやぎ・石巻支部スタッフ・A 
◇被災の時の状況
 3月11日は、石巻市の隣町にある東松島市のデイサービスへ行っており、いつもは施設に送迎をしてもらっていたのですが、当日は私用があったので、自分の車でデイサービスに行きました。今思えば、自分の車で行ったのが本当に良かったと心から思いました。デイサービスの予定は「卓球バレー」でした。「卓球バレー」とは、卓球台の周辺を6対6のチームに分かれ、ネットの下をボールが通過するように打ち合って、21点先取したチームが勝利というゲームです。
 午後からの活動は1時45分からで、卓球バレーをしていました。そして、私はふと時計を見ると2時35分でした。午後の活動は3時で終わりなので、もう少しで終わりだなと思い、気を抜いていたら2時45分くらいにあの悪夢の時間がやってきました。
 最初は地鳴りが聞こえてきました。次の瞬間、今まで体験した事のない強い揺れがきて、他の利用者やスタッフはたちまちパニックになりました。スタッフがバタバタと転倒する姿がみえ、車椅子の方も、後ろに引っ繰り返っていました。私も、後ろに引っ繰り返りそうになったのですが、偶然、足が卓球台に挟まり痛烈な痛みを感じましたが、転倒すること無く、事なきを得ました。
 揺れはだいたい一分以上揺れていたと思いますが、正確な時間はわかりません。ようやく揺れが止まり、落ち着いて周囲を見ると、窓のガラスは割れているし、停電になったので非常灯が付いていました。そのような状況でふと実家に居る母のことを思い出しました。確か一人でいるはずだから不安になっているだろうと思い、すぐに母の携帯に電話をしましたが繋がりませんでした。恐らく回線は混線していたのでしょう。
 すると、外から今までに聞いたことのないサイレンが鳴り響きました。放送では大津波警報が宮城県に発令されたと聞いて、さすがに焦りました。内心、こんな場所まで津波なんか来ないだろうと思っていました。何故なら、今まで津波警報は発令されるけど、陸地までの被害など無かったからです。
 ほどなくして、デイサービスに一台の車が来ました。すぐに父の車だとわかりました。車から父と母が降りてきました。たまたま父は自宅で仕事をしていて、私の所まで来たそうで、一緒に親戚の家まで行くぞ、と言われましたが、私は正直、仲間を置いて行くのが嫌で、最初は一緒に行くのを断りました。
 しかし施設の所長が帰れるうちに一緒に帰りなさいと言われたので、渋々帰ることにしました。仲間に謝りながら挨拶をして帰りました。自分の車があったので父の後ろに着いて行くことにしました。そして、親戚の家に行く途中、道路は避難する車で渋滞しており、道も陥没している場所があったり、停電で信号機は動いてないし、倒れていたりもしていて、外を走ってみてようやく今回の地震の凄さに気づかされました。
 親戚の家に行くと、家中のガラスや食器が割れていて、入れる状況ではありませんでした。取りあえずみんなで家の片づけをしていたら、私の兄が来ました。地震がおさまってから、母が心配で一度実家に戻り、最小限の物を車に積んでいたら、近所の人達が慌てて逃げる姿を見て不安を感じ、海を見に行きました。その時の海は穏やかで、なんともなかったのですが、取りあえず逃げたそうです。
 そして、自宅からだいぶ離れた場所で休憩をしていたら、後ろから瓦礫や車が凄い勢いで押し寄せてきて、津波に追われながら逃げ、親戚の家まで来ました。兄も家の片づけを手伝い、家の中にようやく入れる状態にしましたが、茶の間にはガラスの破片が散らばっており、廊下にカーペットを敷いてようやく落ち着きました。
◇半年間に及ぶ親戚での避難所生活
 親戚の家では、3家族全員で、のべ12人の共同生活が半年間にも及びました。震災当日の夜はみんなで布団にくるまりながら寝ることになったのですが、なかなか寝ることが出来ずにいました。私は一人で外の空気を吸いたくて、廊下にある窓を開けて外を眺めていました。
 その日の夜のことは今でも忘れられません。なぜかと言うと、空を見たら町の明かりが無いためか、こんな震災があったにも関わらず星がいつも以上に輝いていました。それを見ながら少しホッとしたのですが、ふと私の住んでいた場所の方角を見ると、空が明るくなっていて、黒い煙がもくもくと立ち昇っていました。その時はなにが燃えているのかわかりませんでした。その日は取りあえず寝ることにしましたが、私はデイサービスに居た利用者がどうなったのか心配で、なかなか眠れませんでした。
 そして、次の日の朝を迎えました。次の日の朝は、とりあえず食料や物資の確保をすることに決めました。しかし、確保しに行くにも店はどこもやっておらず、手に入れることが困難でしたが、近くに身内が多いので、お互いに物々交換し合いながら、共同生活をしていました。
 けれど、水や燃料が手に入らず大変でしたが、一番大切なのはライフラインで、特に水と電気がないのは本当に不便でした。水は自衛隊の方々が給水車で来てくれたので助かりました。私も、車椅子で水を貰いに並んだりしました。水はなんとかなりましたが、やはり電気がないのが本当に不便で仕方ありませんでした。夜になると暗くて周囲が見えず、障がい者である私には不安で仕方がありませんでした。夜は私だけじゃなくて、子供達も怖がっていて、余震が来るたびに泣いたりしていました。子供達は、ちょっとしたことにも怯えるようになり「PTSD」になっているんだと思いました。
 今でもその症状は治らず困っています。電気が通ったのは、震災から約一か月くらいたってからでした。あの日のことは今でも忘れられません。ブレーカーを上げて電球を付けた瞬間、部屋中が明るくなり、みんなで拍手をして喜びました。28年間生きてきて、これほど電気のありがたみを感じたことはありませんでした。
◇「被災地障がい者センターみやぎ」と「CIL たすけっと」との出会い
 私が、「被災地障がい者センターみやぎ(以下「センターみやぎ」)」と関わるきっかけになったのは、障がい者の仲間の方で、福祉用具や物資を支援しているボランティア団体があると言う話を聞いたからです。
仲間の方から、何か必要な物はないのと言われたので、自宅で使う杖が津波で流されてしまったので、それを頼みました。「センターみやぎ」については、全くわからなかったので、FAXで、私の家に届けてもらえるように頼みました。そして、頼んでから五日後くらいに「センターみやぎ」に来ているボランティアさんがすぐに持ってきてくれました。持ってきて頂いて、凄く助かりました。
 それからしばらくして、近所の人に簡易ベットをもらったのですが、マットレスが無く、寝ていても体が痛くて眠れなかったので、「センターみやぎ」にマットレスをお願いしました。ついでに浴槽に使う取り外しが出来る手すりもお願いしたら、こちらも用意が出来ると言われ、数日後、三人のボランティアさんが持ってきてくれました。
 その時の一人が、大阪から来ている方で、もしよかったら、「センターみやぎ」の本部がある仙台市内の「たすけっと」に遊びに来ないかと誘われました。震災でバタバタしていたので落ち着ける時間がなく、気晴らしをしたい気持ちと、物資を届けてくれた感謝の気持ちを伝えたくて、泊りがけで行くことに決めました。
 私は「たすけっと」がどのような団体なのか解らなかったのですが、行ってみてようやく理解しました。障がい者の方々が中心になり、地域で自立的な活動をしている団体でした。初めて代表の及川さんにお会いしたのですが、正直、第一印象は、重度の障がい者の方が一体何が出来るのか、理解が出来ませんでした。
 しかし、関わって行くうちに徐々にですが、及川さんがしようとしていることが、私がしたいと思っていることと同じだと気付きました。同じ障がい者の方々に、生活や悩みなどの相談を受けたり、アドバイスをすることです。私が障がい者になってからやりたいと思っていたことなんですが、どうしてやったらいいか解らなかったので、実現出来ずにいました。
 石巻市では「センターみやぎ」のボランティアに誘われて、仮設住宅に行き、障がい者の方々の生活の実態を調査する活動をしました。障がい者用の仮設住宅と言っても、入り口までスロープが付いているだけで、入り口も車椅子のままでは入るのが困難であり、住宅の中は、バリアフリーなど全然なっておらず段差だらけでした。
 一番ガッカリしたのは、駐車場から仮設住宅に行くまでが、全く舗装もされておらず砂利道であり、車椅子では移動が困難でした。もう少し真剣に障がい者の不便さを市や国が対応してくれればと思いました。
 そのような活動が続いていたのですが、石巻にも、「たすけっと」のような拠点が欲しいと考えるようになりました。ようやく、10月1日に石巻の蛇田に拠点をもつことが出来まして、現在は、そこで活動をしています。
◇被災地障がい者センターみやぎ石巻支部の活動内容
 私達の活動を石巻地域の方々に知って頂く為に、私ともう一人の障がい者の仲間とボランティアさんで、事務所の周辺の蛇田地域に、一軒一軒チラシのポスティングをしています。ただポスティングをするのではなくて、お話を聞いて頂ける方には活動の内容を説明したりしています。毎週土曜日には、定例会議と言って、障がい当事者や関係者、震災以前から地域で福祉活動をされている団体などと、意見交換や地域での問題を解決するための会議をしております。
 これからの活動では、石巻で様々な方々と力を合わせ、震災以前より、障がい者が住みやすい街作りが出来るように頑張って行こうと、考えております。

被災地障がい者センター石巻のブログより

被災地障がい者センター石巻のブログより転載
石巻支部では、来年から、地元のいろいろな情報を発信する冊子の発行を計画中。
その取材活動が今週から始まりました。
1日目は、石巻駅前の「立町復興ふれあい商店街」からスタート。
地元のパン屋さん、床屋さん、海産物屋さん等々、21の店舗が軒を並べています。
少しずつではありますが、石巻の街も動き始めています。
2日目は、石巻市の中心部、大町(通称「アイトピア」)通りや寿町通りを回りました。
アイトピアにある「かめ七呉服店」さんは、津波の被害が大きかったそうですが、
10月に営業を再開されました。
かめ七のご主人がデザインされたかわいいタオルが大人気。
赤、ピンク、黄、青、緑、グレー、紫の全7色。
事務所の壁にディスプレイしてみました。
・・・と、予告編は、ここまで。
詳しくは、来年発行の冊子をご覧ください。
石巻の皆様には、取材等々でお世話になることと思います。
ご協力の程、よろしくお願い致します。

被災地障がい者センターみやぎ活動報告

被災地障がい者センターみやぎは、活動開始から9月30日までの活動報告書NO.2を作成しました。
半年間の支援活動を網羅した内容になっていますので、ぜひご覧ください。
被災地障がい者センターみやぎ活動報告 №2
(活動開始~2011年9月30日まで)

■内容
1.活動の概要と実施スケジュール
  ・実施スケジュールと主な活動内容 など
2.団体への支援
  ・支援した団体(施設・避難所)について
  ・支援内容について など
3.個人への支援
  ・支援した個人(389名)の年齢、性別)
  ・支援した障がい者の障害種別と居住地
  ・障害種別にみた支援内容
  ・身体、知的、精神障がい者への合計支援回数(障がい種別にみた支援回数)
  ・支援内容の変遷(3月から9月末まで)  など

これからの活動について 被災地障がい者センターみやぎ代表 及川 智

被災地障がい者センターみやぎブログより転載
これからの活動について
被災地障がい者センターみやぎ代表 及川 智
これから宮城県で何をしていくのか、ということを話していきたいとおもいます。
提言活動と当事者による地域活動
 まず、提言活動としては、センターで支援したケースからわかる課題。
 もう一つは、県内の障がい者関連NPOやそのユーザーなどに対してのアンケート調査です。
 この二つから読み取れる課題をもとに、要望書や意見書にまとめ、宮城県・市町村に示していきたいと考えています。
 来年1月17日には、宮城県内の障がい者団体、支援者、親などで作っているネットワーク(みやぎアピール大行動実行委員会)で、仙台市長と面談することになっています。
その時に事例を含めて直接現状を訴えて提言したいと考えています。追って宮城県知事とも面談をします。 
 次に、ニーズを掘り起こして支援をつなぐ、作っていくということですが、これは、センター宮城を立ち上げてからずっとやってきたことですが、東北、宮城県は、関西と比べ、障がい者がヘルパーや送迎サービスを利用して街を歩く、という事が一部をのぞき、あまり無いのが現状です。
 地域サービスが乏しい為であって、そうしたニーズは多くの障がい者が持っているはずです。そうしたニーズを掘り起こしていく活動です。これはイベントをきっかけにして当事者とつながっていきたいと思っています。
 今年の12月23日には、市内中心部の大通りでサンタの格好をしてパレードをする企画も立てています。その様なイベントを活用していきたいと思います。
個人的にはクリスマスイブイブに街中に出るのは有り得なかったのですが、みんなと出るようになって楽しくって仕方ありません。
 今お話したように、2つの方向性を持って活動を進めています。
 そして、当事者同士がつながっていく取り組みとして、是非皆様に紹介したい活動があります。それは、被災地障がい者センター石巻でおこなわれている活動です。
 この活動は、まさに障がい者による地域活動です。これは当然、全県的に広げなければならないものですが、CILたすけっとが16年活動していて、ほとんど浸透していない。
 そして、現在は仙台市部の活動が停滞気味でもあります。石巻での活動に刺激を受けつつ、活動を続けたいと思います。
被災地障がい者センターみやぎブログ