被災地障がい者センターみやぎ・石巻支部Vol・1より

被災地障がい者センターみやぎ・石巻支部(被災地障がい者センター石巻)が冊子を発行しました。個々を拠点に活動するひとたちの震災発生時の状況や思いをつづった切実な報告と、その後の活動、現在と今後の支援活動について、言葉を寄せ合った貴重な資料となっています。
 その内容をひとつずつ紹介したいと思います。
被災地障がい者センターみやぎ・石巻支部Vol・1より
大震災とこれから
                     
 あの千年に一度と言われる東日本大震災から早七ヶ月が経過し、段々と肌寒くなってきました。今思うと、ただの悪い夢として現実逃避したくなる時もありましたが、津波や原発問題によってもたらされた被害の様子を見聞きする度に、あの日の光景が鮮明に蘇ってきます。
 三月の大震災の時、私の家にも大津波と瓦礫などが突然押し寄せ、一階の電化製品は全て使用不能になり、自家用車や使用していた電動車椅子も全て流されました。その際、私は母や祖母と共に家の二階に避難しました。
 ラジオから、数百人単位で遺体が見つかった話や、ある集落が水没した話といった絶望的な情報が流れ続ける中、私は猛吹雪と津波で水に浸かった家の周囲を呆然と眺めながら、次々に来る余震に、ただ怯えるしかありませんでした。
 やがて吹雪が止み、辺り一面が暗闇に包まれた中、夜空を見上げると星空が見えました。今思うと、それはまるでこの震災で亡くなられた方々の魂が、夜空に舞い上がったかのようでした。震災直後の大停電の中、星空は残酷なくらい美しかった事を今でも鮮明に覚えています。
 そして翌日以降、私は約二ヵ月程、自宅には戻れませんでした。その間、私と両親は市役所に二日程宿泊していましたが、大勢の人の中にいるストレスにどうしても耐えられなかった為、地元の東松島市の母方の祖母の家に避難しました。
 ただ改めて考えると家族や親戚、そして近しい友人達が皆無事で自宅に戻ってこれた事だけでも感謝しなければなりません。自分を含め私の周囲の人間が皆助かったからこそ、これから新しい事を始めようと考える余裕があるのですから。
 しかし親戚や友人の中でも家が津波で消失し、大切な人を亡くしてしまった方々など、震災の被災者でしか本質的に分かち合えない大きな悲しみを味わった方が多くいる事もまた重い現実です。また震災の影響でPTSD等により心が傷付き、疲れ切ってしまった人も多くいます。
震災以降祖母の家に避難してしばらく、私も連日発生する余震と友人との安否確認が出来なかった事による不安感により精神的にきつくなり、気が滅入ることがままありました。しかし当時を振り返ると私達親子を受け入れてくれた祖母の方が過度のストレスによって気が滅入っていたと思います。そして電化製品を買い直し、元の家での生活に戻れた事を改めて嬉しく思います。
 そして私は今、隣街の石巻市にて新しい活動を始めました。今年の八月の中旬に地元の障がいを持った当事者の先輩と数年ぶりに再開し、彼が県内外の様々な福祉関係のボランティアや支援団体の力を借りて、石巻の地域に住む障がいを持った当事者のサポートをして、自分達が主体的に行動が出来るように、住み易い環境を創り直していく為の団体を設立しようとしていることを知り、私もその活動に参加する事を決めました。
 まだ右も左も分からない中での活動ですが、その活動を通して、私達が住む石巻地域の地域福祉における多くの問題点が少しずつ見えてきました。それは石巻周辺も被災した事によるものもありましたが、それ以上に震災前から地元の障がい者福祉に対する閉鎖的な環境によるものもかなりあったと考えています。
 前々から薄々感じていましたが、地元地域には特に身体障害を持った当事者が定期的に通い、語り合える様な場所が殆ど見当たりません。また知的障害や精神の障害を持った当事者についても、施設や家の中に閉じこもりがちな方も未だに多くいます。そこで、「社会と繋がれる場所が無いのなら自分達で創ってしまおう。」という考えで活動を始めました。
 私自身、まだまだ勉強不足で障がい者福祉について知らない事も沢山あり、これからも精進していかなければなりませんが、少しでも声を上げて、制度やサービスを改正したり、利用しながら、より私達にとって住み心地の良い街に変えていければと考えています。そして何より、自宅以外で私が安心して身を置ける場所が出来た事も、大変嬉しく思います。(I)

被災地障がい者宮古・事務所お披露目交流パーティー

被災地障がい者宮古・事務所お披露目交流パーティー
 12月20日(火)午後1時から被災地障がい者センターいわての宮古拠点のお披露
目をかねたパーティーを開催しました。
 当日は地元の方8名(障害者3名)とCIL盛岡のメンバー6名(障害者3名)、
県外からの応援隊15名(障害者3名)、計29名の参加がありました。
 車いすを利用する方9名を含む29名が集うと広く思えた事務所も狭く感じまし
た。こちらのスタッフも大阪、埼玉、千葉、沖縄と各地からのメンバーで、いろ
いろな地域の人が集まり、今後の拠点活動の夢などを話し合いました。
 気軽に集まり、話をするだけでなく、カラオケをしてほしい、パソコン教室を
開いてほしい、自立体験の場所に使えるなど様々な意見が出ました。
 冬休みの間、障がい児の児童デイサービスをする場所として貸してほしいとい
う話が田野畑村のハックの家からきていて、私たちスタッフも協力する形で26日
からスタートすることになっています。
 途中商店街の方が扮したサンタクロースからプレゼントをもらうというサプラ
イズもあり、夕方まで楽しく過ごしました。
(この事務所は地元の障害者支援相談員の方に紹介していただきました。この場
を借り、お礼を申し上げます。)
 事務所改装については年が明けたら第二弾を行う必要があるのですが、沿岸部
に拠点ができたことで、支援スタッフの負担は大幅に減ります。
 なんと言っても東北の冬は寒いです。山越えの道路はすでに一部凍結している
こともあり、そういった危険を避けることも目的のひとつです。

被災地障がい者センターみやぎ・石巻支部Vol・1より

 被災地障がい者センターみやぎ・石巻支部(被災地障がい者センター石巻)が冊子を発行しました。個々を拠点に活動するひとたちの震災発生時の状況や思いをつづった切実な報告と、その後の活動、現在と今後の支援活動について、言葉を寄せ合った貴重な資料となっています。
 その内容をひとつずつ紹介したいと思います。
被災地障がい者センターみやぎ・石巻支部Vol・1より
東日本大震災時の状況と、7か月後の現状
                    被災地障がい者センターみやぎ・石巻支部スタッフ・A 
◇被災の時の状況
 3月11日は、石巻市の隣町にある東松島市のデイサービスへ行っており、いつもは施設に送迎をしてもらっていたのですが、当日は私用があったので、自分の車でデイサービスに行きました。今思えば、自分の車で行ったのが本当に良かったと心から思いました。デイサービスの予定は「卓球バレー」でした。「卓球バレー」とは、卓球台の周辺を6対6のチームに分かれ、ネットの下をボールが通過するように打ち合って、21点先取したチームが勝利というゲームです。
 午後からの活動は1時45分からで、卓球バレーをしていました。そして、私はふと時計を見ると2時35分でした。午後の活動は3時で終わりなので、もう少しで終わりだなと思い、気を抜いていたら2時45分くらいにあの悪夢の時間がやってきました。
 最初は地鳴りが聞こえてきました。次の瞬間、今まで体験した事のない強い揺れがきて、他の利用者やスタッフはたちまちパニックになりました。スタッフがバタバタと転倒する姿がみえ、車椅子の方も、後ろに引っ繰り返っていました。私も、後ろに引っ繰り返りそうになったのですが、偶然、足が卓球台に挟まり痛烈な痛みを感じましたが、転倒すること無く、事なきを得ました。
 揺れはだいたい一分以上揺れていたと思いますが、正確な時間はわかりません。ようやく揺れが止まり、落ち着いて周囲を見ると、窓のガラスは割れているし、停電になったので非常灯が付いていました。そのような状況でふと実家に居る母のことを思い出しました。確か一人でいるはずだから不安になっているだろうと思い、すぐに母の携帯に電話をしましたが繋がりませんでした。恐らく回線は混線していたのでしょう。
 すると、外から今までに聞いたことのないサイレンが鳴り響きました。放送では大津波警報が宮城県に発令されたと聞いて、さすがに焦りました。内心、こんな場所まで津波なんか来ないだろうと思っていました。何故なら、今まで津波警報は発令されるけど、陸地までの被害など無かったからです。
 ほどなくして、デイサービスに一台の車が来ました。すぐに父の車だとわかりました。車から父と母が降りてきました。たまたま父は自宅で仕事をしていて、私の所まで来たそうで、一緒に親戚の家まで行くぞ、と言われましたが、私は正直、仲間を置いて行くのが嫌で、最初は一緒に行くのを断りました。
 しかし施設の所長が帰れるうちに一緒に帰りなさいと言われたので、渋々帰ることにしました。仲間に謝りながら挨拶をして帰りました。自分の車があったので父の後ろに着いて行くことにしました。そして、親戚の家に行く途中、道路は避難する車で渋滞しており、道も陥没している場所があったり、停電で信号機は動いてないし、倒れていたりもしていて、外を走ってみてようやく今回の地震の凄さに気づかされました。
 親戚の家に行くと、家中のガラスや食器が割れていて、入れる状況ではありませんでした。取りあえずみんなで家の片づけをしていたら、私の兄が来ました。地震がおさまってから、母が心配で一度実家に戻り、最小限の物を車に積んでいたら、近所の人達が慌てて逃げる姿を見て不安を感じ、海を見に行きました。その時の海は穏やかで、なんともなかったのですが、取りあえず逃げたそうです。
 そして、自宅からだいぶ離れた場所で休憩をしていたら、後ろから瓦礫や車が凄い勢いで押し寄せてきて、津波に追われながら逃げ、親戚の家まで来ました。兄も家の片づけを手伝い、家の中にようやく入れる状態にしましたが、茶の間にはガラスの破片が散らばっており、廊下にカーペットを敷いてようやく落ち着きました。
◇半年間に及ぶ親戚での避難所生活
 親戚の家では、3家族全員で、のべ12人の共同生活が半年間にも及びました。震災当日の夜はみんなで布団にくるまりながら寝ることになったのですが、なかなか寝ることが出来ずにいました。私は一人で外の空気を吸いたくて、廊下にある窓を開けて外を眺めていました。
 その日の夜のことは今でも忘れられません。なぜかと言うと、空を見たら町の明かりが無いためか、こんな震災があったにも関わらず星がいつも以上に輝いていました。それを見ながら少しホッとしたのですが、ふと私の住んでいた場所の方角を見ると、空が明るくなっていて、黒い煙がもくもくと立ち昇っていました。その時はなにが燃えているのかわかりませんでした。その日は取りあえず寝ることにしましたが、私はデイサービスに居た利用者がどうなったのか心配で、なかなか眠れませんでした。
 そして、次の日の朝を迎えました。次の日の朝は、とりあえず食料や物資の確保をすることに決めました。しかし、確保しに行くにも店はどこもやっておらず、手に入れることが困難でしたが、近くに身内が多いので、お互いに物々交換し合いながら、共同生活をしていました。
 けれど、水や燃料が手に入らず大変でしたが、一番大切なのはライフラインで、特に水と電気がないのは本当に不便でした。水は自衛隊の方々が給水車で来てくれたので助かりました。私も、車椅子で水を貰いに並んだりしました。水はなんとかなりましたが、やはり電気がないのが本当に不便で仕方ありませんでした。夜になると暗くて周囲が見えず、障がい者である私には不安で仕方がありませんでした。夜は私だけじゃなくて、子供達も怖がっていて、余震が来るたびに泣いたりしていました。子供達は、ちょっとしたことにも怯えるようになり「PTSD」になっているんだと思いました。
 今でもその症状は治らず困っています。電気が通ったのは、震災から約一か月くらいたってからでした。あの日のことは今でも忘れられません。ブレーカーを上げて電球を付けた瞬間、部屋中が明るくなり、みんなで拍手をして喜びました。28年間生きてきて、これほど電気のありがたみを感じたことはありませんでした。
◇「被災地障がい者センターみやぎ」と「CIL たすけっと」との出会い
 私が、「被災地障がい者センターみやぎ(以下「センターみやぎ」)」と関わるきっかけになったのは、障がい者の仲間の方で、福祉用具や物資を支援しているボランティア団体があると言う話を聞いたからです。
仲間の方から、何か必要な物はないのと言われたので、自宅で使う杖が津波で流されてしまったので、それを頼みました。「センターみやぎ」については、全くわからなかったので、FAXで、私の家に届けてもらえるように頼みました。そして、頼んでから五日後くらいに「センターみやぎ」に来ているボランティアさんがすぐに持ってきてくれました。持ってきて頂いて、凄く助かりました。
 それからしばらくして、近所の人に簡易ベットをもらったのですが、マットレスが無く、寝ていても体が痛くて眠れなかったので、「センターみやぎ」にマットレスをお願いしました。ついでに浴槽に使う取り外しが出来る手すりもお願いしたら、こちらも用意が出来ると言われ、数日後、三人のボランティアさんが持ってきてくれました。
 その時の一人が、大阪から来ている方で、もしよかったら、「センターみやぎ」の本部がある仙台市内の「たすけっと」に遊びに来ないかと誘われました。震災でバタバタしていたので落ち着ける時間がなく、気晴らしをしたい気持ちと、物資を届けてくれた感謝の気持ちを伝えたくて、泊りがけで行くことに決めました。
 私は「たすけっと」がどのような団体なのか解らなかったのですが、行ってみてようやく理解しました。障がい者の方々が中心になり、地域で自立的な活動をしている団体でした。初めて代表の及川さんにお会いしたのですが、正直、第一印象は、重度の障がい者の方が一体何が出来るのか、理解が出来ませんでした。
 しかし、関わって行くうちに徐々にですが、及川さんがしようとしていることが、私がしたいと思っていることと同じだと気付きました。同じ障がい者の方々に、生活や悩みなどの相談を受けたり、アドバイスをすることです。私が障がい者になってからやりたいと思っていたことなんですが、どうしてやったらいいか解らなかったので、実現出来ずにいました。
 石巻市では「センターみやぎ」のボランティアに誘われて、仮設住宅に行き、障がい者の方々の生活の実態を調査する活動をしました。障がい者用の仮設住宅と言っても、入り口までスロープが付いているだけで、入り口も車椅子のままでは入るのが困難であり、住宅の中は、バリアフリーなど全然なっておらず段差だらけでした。
 一番ガッカリしたのは、駐車場から仮設住宅に行くまでが、全く舗装もされておらず砂利道であり、車椅子では移動が困難でした。もう少し真剣に障がい者の不便さを市や国が対応してくれればと思いました。
 そのような活動が続いていたのですが、石巻にも、「たすけっと」のような拠点が欲しいと考えるようになりました。ようやく、10月1日に石巻の蛇田に拠点をもつことが出来まして、現在は、そこで活動をしています。
◇被災地障がい者センターみやぎ石巻支部の活動内容
 私達の活動を石巻地域の方々に知って頂く為に、私ともう一人の障がい者の仲間とボランティアさんで、事務所の周辺の蛇田地域に、一軒一軒チラシのポスティングをしています。ただポスティングをするのではなくて、お話を聞いて頂ける方には活動の内容を説明したりしています。毎週土曜日には、定例会議と言って、障がい当事者や関係者、震災以前から地域で福祉活動をされている団体などと、意見交換や地域での問題を解決するための会議をしております。
 これからの活動では、石巻で様々な方々と力を合わせ、震災以前より、障がい者が住みやすい街作りが出来るように頑張って行こうと、考えております。

被災地障がい者センター石巻のブログより

被災地障がい者センター石巻のブログより転載
石巻支部では、来年から、地元のいろいろな情報を発信する冊子の発行を計画中。
その取材活動が今週から始まりました。
1日目は、石巻駅前の「立町復興ふれあい商店街」からスタート。
地元のパン屋さん、床屋さん、海産物屋さん等々、21の店舗が軒を並べています。
少しずつではありますが、石巻の街も動き始めています。
2日目は、石巻市の中心部、大町(通称「アイトピア」)通りや寿町通りを回りました。
アイトピアにある「かめ七呉服店」さんは、津波の被害が大きかったそうですが、
10月に営業を再開されました。
かめ七のご主人がデザインされたかわいいタオルが大人気。
赤、ピンク、黄、青、緑、グレー、紫の全7色。
事務所の壁にディスプレイしてみました。
・・・と、予告編は、ここまで。
詳しくは、来年発行の冊子をご覧ください。
石巻の皆様には、取材等々でお世話になることと思います。
ご協力の程、よろしくお願い致します。

被災地障がい者センターみやぎ活動報告

被災地障がい者センターみやぎは、活動開始から9月30日までの活動報告書NO.2を作成しました。
半年間の支援活動を網羅した内容になっていますので、ぜひご覧ください。
被災地障がい者センターみやぎ活動報告 №2
(活動開始~2011年9月30日まで)

■内容
1.活動の概要と実施スケジュール
  ・実施スケジュールと主な活動内容 など
2.団体への支援
  ・支援した団体(施設・避難所)について
  ・支援内容について など
3.個人への支援
  ・支援した個人(389名)の年齢、性別)
  ・支援した障がい者の障害種別と居住地
  ・障害種別にみた支援内容
  ・身体、知的、精神障がい者への合計支援回数(障がい種別にみた支援回数)
  ・支援内容の変遷(3月から9月末まで)  など

これからの活動について 被災地障がい者センターみやぎ代表 及川 智

被災地障がい者センターみやぎブログより転載
これからの活動について
被災地障がい者センターみやぎ代表 及川 智
これから宮城県で何をしていくのか、ということを話していきたいとおもいます。
提言活動と当事者による地域活動
 まず、提言活動としては、センターで支援したケースからわかる課題。
 もう一つは、県内の障がい者関連NPOやそのユーザーなどに対してのアンケート調査です。
 この二つから読み取れる課題をもとに、要望書や意見書にまとめ、宮城県・市町村に示していきたいと考えています。
 来年1月17日には、宮城県内の障がい者団体、支援者、親などで作っているネットワーク(みやぎアピール大行動実行委員会)で、仙台市長と面談することになっています。
その時に事例を含めて直接現状を訴えて提言したいと考えています。追って宮城県知事とも面談をします。 
 次に、ニーズを掘り起こして支援をつなぐ、作っていくということですが、これは、センター宮城を立ち上げてからずっとやってきたことですが、東北、宮城県は、関西と比べ、障がい者がヘルパーや送迎サービスを利用して街を歩く、という事が一部をのぞき、あまり無いのが現状です。
 地域サービスが乏しい為であって、そうしたニーズは多くの障がい者が持っているはずです。そうしたニーズを掘り起こしていく活動です。これはイベントをきっかけにして当事者とつながっていきたいと思っています。
 今年の12月23日には、市内中心部の大通りでサンタの格好をしてパレードをする企画も立てています。その様なイベントを活用していきたいと思います。
個人的にはクリスマスイブイブに街中に出るのは有り得なかったのですが、みんなと出るようになって楽しくって仕方ありません。
 今お話したように、2つの方向性を持って活動を進めています。
 そして、当事者同士がつながっていく取り組みとして、是非皆様に紹介したい活動があります。それは、被災地障がい者センター石巻でおこなわれている活動です。
 この活動は、まさに障がい者による地域活動です。これは当然、全県的に広げなければならないものですが、CILたすけっとが16年活動していて、ほとんど浸透していない。
 そして、現在は仙台市部の活動が停滞気味でもあります。石巻での活動に刺激を受けつつ、活動を続けたいと思います。
被災地障がい者センターみやぎブログ

ヒデの救援レポート、12月19日

ヒデの救援レポート、12月19日:51
読売新聞12月6日朝刊記事より
被災地の障害者支えるNPO法人ゆめ風基金(大阪市)
 3月の東日本大震災が発生した直後から被災地にスタッフを派遣した。生活に困っている障害者から情報収集をしたうえで、岩手、宮城、福島3県に支援拠点被災地障害者センターを開設した。ここではボランティアが常駐し、救援物資の輸送、介助ほか、県外に避難する費用や全半壊したグループホーム、作業所の再建援助などさまざまなニーズにこたえている。
 ゆめ風基金は阪神大震災が起きた1995年、行政の支援が行き届かない被災障害者を手助けしようと代表理事の牧口一二さん(74)らが設立。タレントの永六輔さんら著名人の協力も得て約3億円を集め、東日本大震災のほか新潟県中越沖地震やトルコ西部地震など国内外の被災地に計1億5600万円10月末現在の義援金を贈った。行政などに参考にしてもらおうと、災害前に備えておくべきこと、避難・支援方法などを冊子にまとめ、障害者の立場から提言したこともある。
 牧口代表理事は災害が起きた時、障害者は置き去りにされ、孤立してしまう。行政は支援のスピードが遅くなりがちだが、NPOは素早い判断のもと、支援が必要な被災者に重点的に資金などを投入できる。普段からのつながりを生かし、息の長い支援をしていきたいと話している。以上
被災地3県の被災地障害者センターでは、沿岸部に救援拠点を、次々と設置し、医療的ケア研修などが検討されて、活動が広がっています。それに連れ、人手が不足しています。そこで、改めて、救援ボランティアを募集します。条件は、最低1週間以上、被災地にいることが出来る人、自動車を運転出来る人、ゆめ風基金を通すこと。
電話06-6324-7702。
これから、現地は、雪の季節に入り、ますます人手が足りなくなります。志しのある方のご連絡をお待ちしております!
ゆめ風基金事務所に届いたFAX
 ゆめ風基金事務局様(元気なチャリティーができました!)はじめてFAXいたします。私は、ゆめ風基金の賛助会員?になっていると思います。Tと申します。栃木県佐野市(有限)萬屋・風の庵)例年、小室等さんにコンサートに来ていただいていることからゆめ風のことを知り、わずかですが送金させていただいています。
 今年も当ギャラリーにて震災義援金を御協力いただいた方の義援金を送らせていただきました。KとOとして・・
その後、7名の作家さんと震災チャリティーを計画し、先日、11月26-27日、大盛況に終わることができました。当ギャラリー(風の庵)がまとめ役となって、109907円を送金させていただきます。つきましては、以下7名の作家さんの住所等を記しますのでゆめ風だより等、1回だけでけっこうですので、送っていただければ幸いです。
被災障害者支援ゆめ風基金に寄せられた救援金、金額は、12月14日までに、200025849円です。これまでに支援した団体、個人への金額は12月9日までに、117342372円です。
このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌そよ風のように街に出よう編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。広く知ってもらいたいので、転送自由。自由にお使いください。
息の長い救援が求められています。長期戦です。救援金の送り先は、郵便振替口座00980-7-40043ゆめ風基金です。;とうほく;と書いてください。
東日本大震災救援活動の中のボクの風景。
被災地障害者センターみやぎのしおり第3期9月1日版・その3
これまでの活動第1期・物質提供、センターみやぎ設立、避難所回りを体当たりで・・
 被災者が避難所や自宅で避難生活を送っていた第1期の活動は、物資提供が中心でした。3月中にたすけっとが独自で行った救援物資の配布数は仙台市内を中心に100件を超えました。
 3月31日付けで被災地障害者センターみやぎが設立され、ひとり、2人と県外からボランティアさんが到着、4月第2週目位からは、常時10名程の県外ボランティアの方々が活動に参加するようになりました。
たすけっとのメンバーと専従者スタッフとゆめ風基金の八幡さんが事務局体制を整える中、県外ボランティアは被災地へ車を走らせ、避難所や、通りすがりの人に声をかけて知り合いに障害者がいないかどうかを尋ねたり、とにかく体当たりで障害者を探しました。
 障害を持っている方に出逢えばお話しを聞き、困っていることを尋ね、必要な物資を提供したり入浴介助などを行いました。余震が続く中、車が届き、携帯電話が増え、ホワイトボードが届き、固定電話が設置され、時折、予想外の救援物資が届くといったカオスの中、とにかく困っている障害者を探し出しては助けることに全力を注いで活動しました。
第2期・チーム活動、拠点の設立、あすと長町でのコンサート・・
 5月の中旬くらいから、徐々に仮設への入居がはじまりました。これに伴って、被災地の空気は一変しました。困っていることを尋ねても、とりあえず困っていることはありませんという返事が返ってくることが増え、ボランティア団体に対して警戒の眼差しが向けられるようになってきました。
 緊急的な支援の要請も少なくなり、仮設住宅を回っても障害者に出逢うことが少ない中、粘り強く仮設を回り、見守り体制を把握することや、地域の社会資源を把握することに活動の主軸が移りました。このような状況下にあって、設立以降1日も休まず稼働してきた被災地障害者センターみやぎも、被災地のペースに合わせるべく、6月の中旬から日曜日のボランティア活動を休止することにしました。
 2期には、活動をより円滑に進めるため、6月の2週目からチーム形式を導入しました。北に2チームAチーム・南三陸町、気仙沼市、Bチーム・石巻市など・中央に1チームCチーム・仙台市、多賀城市、七ケ浜町、塩釜市南に1チームdチーム・名取市、岩沼市を配置して、チームごとに詳細を引き継ぎ、入れ替わるボランティア間で情報伝達ができるようなしくみを作りました。
 この時期、一ヶ月以上の長期ボランティアの方が増え、チームの主軸を担ってくれるようになり、スタッフがお膳立てをするのではなく、ボランティアとスタッフが共に活動を作るような形態が整えられていきました。これら、北、中央、南といった地域別のチームの他に、一定期間、福祉避難所を集中的に調査するチームや聴覚障害者を集中的に調査するチームを作って調査活動もしてきました。
 第2期には、日々の調査活動や個別対応の他に、いくつかの大きな動きがありました。まず、山元町で被災した住民互助福祉団体ささえ愛山元が中心になって、県南支部が発足し、6月1日付で活動が開始しました。
 6月4日はとっておきの音楽祭の前夜祭としてゆめ風コンサートが開催され、ボランティアとスタッフはその準備に携わりました。
 7月2日付で、南三陸町で被災された方を中心とした登米支部がスタートしました。
 8月23日にはCILたすけっとに最も近い仮設住宅であるあすと長町で、永六輔さんと小室等さんのコンサートを開きました。
 そして現在、チーム形式導入当初は3つの地域に分けていましたが、仙台市近郊では仮設への入居も一段落し調査活動もほぼ一区切りしたことや北に拠点が出来たこと等から、現在は、北は石巻市に絞った活動となり、南地域名取市と岩沼市は中央エリアに合体させて2つの地域区分北と中央で活動しています。
 被災地の状況には地域差があるものの、第1期の救援活動と第2期の調査活動は終焉を迎えている状況です。今後の活動は、それぞれの地域において、長期的障害者支援の具体化にむけて、仕組みづくりやしかけづくりが主軸となっていくことになります。後略以上。
 hideの最悪というか、世界史的にも、想像を超えてしまった、2011年が去って行きます。と、その前に、ひととしての、自然災害への反撃の2つのものがたり。大阪北部のゆめ風ネットの中心的団体、豊能障害者労働センターから、三度目の被災障害者支援金、70万円が届けられました。息の長い救援バザーの売り上げと、会場に設置された、募金箱を集約されたものです。小銭の混じった、ずっしりと重い、紙袋入りでした。感謝!
 以前にも紹介した、hideの畏友のおひとり、大阪吹田市にある、千里寺住職、武田達城さんが、過日行われた、箕面市民人権フォーラムの講師料の中から、3万円を救援金として、届けていただきました。これもまた感謝です。今年が最悪の年であることは、人それぞれに、想いの違いはあっても、同感できる事柄ではありますまいか。
 hideにとっての最悪のとどめは、12月初旬に届きました。
 1970年の始め頃に設立した、障害者問題資料センター・りぼん社の初代ふたり代表、ひとりは、hide。もうひとりの堺史男が、12月の始めに急逝したとの訃報がそれに当たる。届けてくれたのは、同じく、設立メンバーのひとりで、現在は、長野県白馬村で、ペンションを営む、Mだった。
 堺は、神戸大学医学部に在籍する間、りぼん社代表を務め、卒業後は、高知、札幌の病院で研修医をし、その後、大阪市福島区で、麻酔科と眼科医を開業していた。りぼん社の代表を引いてからは、ずいぶん疎遠になっていたが、時折、障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」に広告を出してくれてもいた。体に悪いからと、タバコも止めてしまい、体調には、ずいぶん気を使っていたのになぁと、ガッカリ、気持ちが沈む。
 まだ、60代半ばなのになぁと。知らせによれば、糖尿病を患っていたらしい。hideが腰痛に悩まされていた時、ペインクリニック医として、金の無いhideに無料で治療もしてくれた。
 関西での障害者市民解放運動の勃興時代を、貧乏所帯をやりくりして歩き続けた相棒だった。hideたちは、本当に、本当に、貧しかった。だけど、自由な自在と、楽しい空気に溢れた時代でもあった。そんな時代の空気を共に呼吸した奴が、また、ひとり、hideを置き去りにして、伝説の門をくぐって、逝ってしまった。ただ、ただ、寂しい。涙が零れ落ちる。本当に最悪の、悲しみが溢れる年だ。宗教は、持たないが、合掌する。以上。

ヒデの救援レポート、12月12日

ヒデの救援レポート、12月12日:50
 11月21日、牧口代表が、読売新聞の取材を受けるために、ゆめ風事務所にいたところ、連絡があり、以前からの知り合いである、部落解放同盟の山中さん、大賀さんのお二人が、自転車に乗っておいでになりました。
 そして、過日行われた市民文化祭で集められた被災障害者支援救援金50万円を、ノーマライゼーションクラブの代表、事務局長として手渡されました。解放運動で名高いお二人の自転車に乗られている姿が、素敵でした。感謝です。
 名古屋市のNさんは、牧口代表の東京での講演会に駆けつけ、ゆめ風基金の救援募金を最後まで完遂され、過日行われた障害児を普通学級へ全国連絡会;の大阪集会にも参加されて、集められた救援金を届けていただきました。普段からの合力に、感謝、感謝です。
映画「普通に生きるー自立をめざしてー」のご紹介!
 静岡県富士市にある生活介護事業所「でら~と」は、どんなに重い障害を持っていても、本人もその家族も普通に生きていける社会をめざすという理念のもとに親たちの努力で、ゼロから立ち上げた重症心身障害者・児のための通所施設である。
 ここには医療的ケアを必要とする利用者も多く、生活支援員の他に看護師も常勤し、毎日、それぞれの障害や個性に合わせたプログラムで日中活動を支援している。利用者は、多くの人や地域との関わりの中で社会性を身につけ、誰からも介護が受けられるように成長してゆく。
 そして親たちも法制度の改革の波に揉まれつつも行政に働きかけ、自分たちのニーズにあった制度や施設づくりを行い続けてきた。いずれは、親も子もそれぞれの人生を明るく送れる地域社会づくりを目指して、福祉の受け手から担い手となる発想が親たちの新しい未来を切り拓いてきた。
 映画は、2つ目の施設建設計画が持ち上がった頃からの5年間を追う。東日本大震災被災障害者救援・支援活動を続ける中で、ヒデたちが出合った、常日頃からの地域でのつながりの大切さの想いと重なる部分のある映画ではないのか?地域の絆のひとつの形、モデルかも知れない。
2012年1月7日より東京・ポレポレ東中野
問い合わせ先TEL03-6913-5591
東京都中野区東中野4-4-1-B1
2012年1月21日より横浜・横浜ニューテアトル
横浜市中区伊勢佐木町2の8-1
2012年1月28日より大阪・シネ・ヌーヴォ
大阪市西区九条1-20-24
 被災障害者支援ゆめ風基金に寄せられた救援金、金額は、12月5日までに、197364152円です。これまでに支援した団体、個人への金額は10月31日現在、112342372円です。
 このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。広く知ってもらいたいので、転送自由。自由にお使いください。
息の長い救援が求められています。長期戦です。救援金の送り先は、郵便振替口座:00980-7-40043:ゆめ風基金です。;とうほく;と書いてください。
東日本大震災救援活動の中のボクの風景
被災地障害者センターみやぎのしおり第3期9月1日版その2
 CILたすけっと・被災地障害者センターみやぎは、ゆめ風基金の全面的なバックアップを受けて発足しました。
 ゆめ風基金は、阪神淡路大震災を教訓に、必要な時に必要な物、人、お金を届ける;をモットーとして、災害時にとかく置き去りにされがちな障害者に対し独自に支援できるしくみを作り、日頃から備えをすることを目的に作られた団体です。
 2001年にNPO法人格を取得し、これまでに数多くの被災地で、障害者の救援・支援を行ってきています。ゆめ風基金の活動資金は、全国の賛同者からの寄付で成り立っています。現在も、被災した障害者のために使ってほしいと、東日本大震災の被災地の障害者支援のために、たくさんの寄付が届けられています。ゆめ風基金は、いざ!という時の基金の有効な活用窓口として「ゆめ風ネット」を全国に確立してきました。
 ゆめ風ネットの参加団体には、災害時に、思想、信条、宗教などの違いを超えて、最も困難に遭遇している障害者・個人を最優先にできる考え方で、被災地の被災状況の把握をし、救援活動を展開することが期待されています。
 CILたすけっとは、設立当初から、「ゆめ風ネットみやぎ」としてゆめ風運動に参加していました。そして、日頃から、CILたすけっとの活動の基本である、障害者が地域の人たちと混じり合い当たり前に地域生活を送れる街づくりをしていくことが、災害時に障害者が置き去りにされない環境をつくることや、それが誰にとっても安心な街づくりにつながること、つまり防災につながることを意識して活動してきていました。
 このような背景があって、この度、CILたすけっとが被災地障害者センターみやぎの事務局を担うことになったのです。
被災地障害者センターみやぎは、アピール大行動で活動を共にしてきた県内の14の団体で構成されています。
CILたすけっと
きょうされん宮城支部
NPO法人麦の会コッペ
NPO法人ワーカーズコープ・ピアサポートセンターそら
NPO法人 みんなの輪 わはわ宮城野
宮城精神しょうがい者団体連絡会議
NPO法人 ぐる~ぷゆう
NPO法人 アフタースクール・ぱるけ
BNETCLUB
宮城県社会保障推進協議会
ゆにふりみやぎ
共育を考える会
NPO法人 フルハウス フリースペースソレイユ
NPO法人 ドリーム・ゲート
被災地障害者センターみやぎの復興支援とは
 被災地障害者センターみやぎは、被災した障害者を対象に、顔が見える関係とつながりを大切にしながら活動しています。私たちは、障害を持った者が、地域の中で、助け合いの輪につながり、これまでよりも元気に生き生きと地域生活を送れることを目指して活動しています。私たちの目標は、被災地を震災前の状態に戻す復旧ではなく、災害を経て、今後、より災害に強い街-人と人がつながり、障害者が当たり前に安心して地域で暮らせる街-を作っていく復興です
 災害に強い街づくりをするには、地元中心の活動であることが不可欠です。そのため、一ボランティア団体である私たちが、独断でニーズを見極め被災地に乗り込むのではなく、地元の人の中から障害者支援活動をしたいという人を探し、地元の人を中心にした拠点を作ってきました。
 hideの住まいする大阪府箕面市の民間団体・人権啓発推進協議会;の事務局長を、hideは、務めおりまする。市内で最大の構成団体、個人構成員を擁する団体でもあります。啓発課題ごとに課題研究部会があり、その中に女性問題研究部会があります。
 11月の下旬に、仙台市で女性差別を論議する女性シェルター,シンポジウムが開催されました。女性問題に関心を持つ人たちが1000名以上参加する大きな集会です。先に記した女性部会の会員も数名参加されました。
 その中のお一人、Nさんのお話しです。1日目は全体会で、記念シンポジウム。2日目は分科会に分かれましたが、全体テーマは東日本大震災支援です。障害者の分科会もありましたが、会場が狭くて入れませんでした。3日目は、他の部会員の方たちは地元の方の案内で被災沿岸部の見学に行かれましたが、私は箕面市内の障害者作業所のスタッフなもので、ひとりで被災地障害者センターみやぎの事務所に向かいました。
 事務所では、たった1日しか時間がないのでロクなお手伝いは出来ないからと、パソコンのデータ入力をさせていただきました。入力作業をしながら、1日でもやれることがあると分かりましたし、合間、合間に、いろんな人とお話しが出来て、直接の会話の大切さを痛感しました。
 びっくりしたのは、人権に関する認識の違いでしたね。関西では部落差別のことや解放運動のことが当然のこととして語られるのに、東北ではほとんど意識されていない様子でした。少し知っておられる方でも、昔学校の教科書で見たことがあるとのことでした。ある人は、東北にも被差別部落はあるけれど地域全体で隠されていると、小声で話されました。文化の違いを肌で知りましたね。
 夕方、仙台空港で見学に行った人たちと落ち合い、飛行機に搭乗して帰路に着きましたが、上空から東北の沿岸部が見えて、いろいろな違いはあっても、被災地の人びとと私たちは絆でつながっていることを実感しました。とても、大切な元気をもらった1日になりましたねぇ。談 以上。
ゆめ風基金に届いたFAXお知らせです。
大阪府柏原市障害者自立支援協議会主催
障害のある人もない人も、共に暮らせる街づくりのために~みんなの防災講座
12月17日(土)午前10時より、午後2時
会場・健康福祉センターオアシス
災害が起きた時、障害者や、こども、お年よりといった弱い立場の人たちを守る為には、地域住民の力は欠かすことができません。今回は、防災を通して市民の皆さんに障害の特性や支援方法を知っていただき、災害時だけではなく日常生活でも誰もが暮らしやすい街づくりを推進することを目的に「みんなの防災講座」を開催します。
講演・障害のある人と防災・NPO法人ぴーす理事長、小田多佳子さん、中学生による、リサイクル・食べ物・演奏・演劇などもあります。
問合わせ・ビアセンターかしわら
電話971-2039 FAX971-6801 以上

被災地障がい者センターみやぎ_県北のブログより

被災地障がい者センターみやぎ_県北のブログより
 私たちは、阪神淡路大震災を教訓に生まれた「NPO法人ゆめ風基金」のバックアップを受けて、主に宮城県登米市と南三陸町で、障がい者の方々の支援をしています。困っている障害者の方、一緒に活動をしてくれる方、連絡お待ちしています!
2011年11月15日の記事
被災地障がい者センターみやぎ_県北です。
少し体裁が整ってきたので、
日々の出来事やスタッフの思いなどを綴っていきたいと思います。
よろしくお願いします。。
私たちは、
被災地、主に南三陸町と登米市で、障害者の方々の支援をしています。
今は、送迎や家族支援をしながら、
何を必要とされているのか、私たちに何ができるのか、考える毎日です。
事務所は登米市中田支所の目の前にあります。
以前はお蕎麦屋さんだった建物を借りています。
そして!!
もうすぐお風呂ができるんですよー
スロープもつけ、車椅子の方でも利用できるようなお風呂。
たくさんの方に使っていただけるよう、コーディネートしたいです。
まずは、純和風でシブい部屋を、
明るく落ち着ける憩いの場に!!
さぁ、センス、センスの見せ所ですよ、スタッフー!
きよ
被災地障がい者センターみやぎ県北
■被災地障がい者センターみやぎ県北 事務局
〔住所〕宮城県登米市中田町上沼字西桜場32-1 [地図]
〔電話〕0220-44-4171 (9:00~17:00) 〔FAX〕0220-44-4171
〔Mail〕hisaitikouen@yahoo.c​o.jp
〔Twitter〕@miyagi_kenhoku (http://twitter.com/#!/miyagi_kenhoku)
被災地障がい者センターみやぎ県北ブログ

被災地障がい者センター石巻ブログより

被災地障がい者センター石巻ブログより
2011年10月1日より発足しました。
 障がい当事者を中心に、地域の中で自立した生活が営めるよう様々な活動を通じて支援していく団体です。
私たちの団体に興味があったり、障がい者やご家族の方々でご相談などがありましたらご連絡ください。
また、ボランティアも募集しております。
障がい者支援に興味のある方も気軽にご連絡ください。
被災地障がい者センター石巻 事務所
被災地障がい者センター石巻 事務所
〔住所〕〒986-0861 宮城県石巻市蛇田字中埣37
〔電話〕 0225-25-5388(月~金 10:00~17:00)
〔FAX〕 0225-25-5388
〔Mail〕 hsc_ishinomaki★yahoo.co.jp(★⇒@)
〔Twitter〕 @hsc_ishinomaki (http://twitter.com/#!/hsc_ishinomaki)
被災地障がい者センター石巻ブログ