おわびと訂正

おわびと訂正
震災以後寄せていただいた救援金の合計がまちがっていました。
申しわけありません。おわびとともに訂正します。
震災以後寄せていただいた救援金は 6月15日現在152,530,242円 です。

被災地の女性に思い届け

2011年6月13日の福祉新聞(2531号)に、被災地の女性の支援を女性の視点ですすめるみやぎジョネット(みやぎ女性支援ネットワークの活動と、被災地障がい者センターの井上朝子さんが紹介されています。
被災地の女性に思い届け  宮城のVr団体が復興支援
女性の視点を生かそう 避難諸の改善や復興計画に
「災害時は、老若男女が厳しい環境下にある。一方、避難所で女性に対する配慮が欠けていることや、女性としての困難と障害者としての困難が絡み合うことがある。女性や子どもに向かう暴力が災害時はより深刻な形で現れることも、かねて指摘されてきた。「非常時だから」と後回しにされがちな課題が、改めて問われる。宮城の女性たちを女性記者が訪ねた。」
福祉新聞 2011年6月13日(2531号)

ヒデの救援レポート、6月14日

ヒデの救援レポート、6月14日:24
被災障害者支援ゆめ風基金に寄せられた救援金、金額は、6月8日までに、159275291円。6月9日までに、159813682円。6月11日までに、160311097円です。これまでに支援した団体、個人への金額は6月10日までに、東北3県障害者センター統括本部に、救援活動資金として、52314600円を支援しました。
このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌:そよ風のように街に出よう:編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。広く知ってもらいたいので、転送自由。自由にお使いください。
息の長い救援が求められています。長期戦です。救援金の送り先は、郵便振替口座:00980-7-40043:ゆめ風基金です。;とうほく;と書いてください。
東日本大震災救援活動の中のボクの風景。
 海鮮物と砂丘と救援のある風景。ボクがその立ち上げから、無能にも30年に渡って代表を務め、数年前に退任した、大阪府箕面市にある事業所、豊能障害者労働センター(先日お知らせした被災障害者支援大バザーを行い、引き続き救援バザーを断続的に行っています。)の、毎年恒例の一泊二日間の研修交流旅行が6月4日と5日にありました。ボクも、腐れ縁で、毎年参加させてもらっています。今回は大震災被災障害者支援バザー活動で、へろへろになっているメンバーの息抜きの意味もあり、ボクも、震災以後のまとまった休息の意味を込めて参加しました。
 総勢30名の障害あり無しごちゃ混ぜの御一行様でした。バスで鳥取方面にデッパツ!ボクにとっては、新人、旧人との文字通り交流の旅です。1日目は、まず鳥取砂丘の見学。砂丘用の車いすというものがあるのを、初めて実物を見、みんなで使って、疲れました。
 お土産屋にも、お昼の食事をしたレストランにも、ガンバレ日本・ガンバレ東北のポスターが目に付き、義援金箱がどこにもあり、なんだか気分が浮かない。
 バスの中で配られたビールも、呑むほどに想いが被災地に赴く。御一行様の気持ちも同じようで、話題もついつい被災障害者のことに傾く。何か、なんとなく後ろめたい匂いが立ちのぼるようでした。
夜の宿泊場所は、鳥取市郊外にある国民年金保養施設、ホテルもどきでした。さぁ、夜は、交流大宴会だぁ。と意気込み、温泉に入った後、宴会場に結集。わいのわいのと海鮮料理を平らげて、酒飲み放題。でも、気分は、半分盛り上がりのままです。次々と飲みつぶれ、各自の部屋に撤退する者が出始めた、夜半。被災地と同じ闇が、鳥取の空を覆います。
  2日目・朝から、鳥取県が図書館を改造して作った:わらべ館を見学。ひとつの街起こしなんでしょうね。そこにも、ガンバレ日本・ガンバレ東北のポスター、義援金箱。入館料は、タダ。ぞろぞろと、おもちゃを楽しんだり、鳥取県出身の童謡作家の歌を聴いたりの御一行様でしたね。お昼ご飯は、鳥取港の海鮮市場で海鮮料理。多少、海鮮料理には、飽きつつ。その料理屋の店頭には、大きな張り紙があり、私たちの店は、被災地に炊き出しをしました。その時のメニューがこれですと、料理の写真があり、美味しくて、安い。どうぞご注文くださいのフレーズ。車いすに乗っている仲間が、それがどうしたんやと、ボソッとボヤく。
 食事も、お土産買い込みも済ませてバスに乗り込むと、バスは帰路を発車オーライ。途中、何度かのトイレ休憩があったものの、全員、ただただ眠り込む。なぜそんなに疲れたのか不明なまま、箕面市に帰着。御一行様は、無言のまま解散。夕闇の中を、明日からの、日常の救援活動に向かったのでした。余談・次の日、総勢30名の内、半数が、気分が出ないと、お休みされたそうです。(笑)
ゆめ風基金に届いたお便りから
 日本ダウン症協会よりそちらを知りましたジャズボーカルをしておりますS・と申します。5月末に鳥取米子市へツアーへ行きました。シィディリリースライブや、重度障碍をお持ちの方がいらっしゃる療育センターでのコンサートもしてきました。
 私は茨城県に住んでおります。震災のときも茨城におりました。今回のツアーでは、鳥取の皆さんがいろいろとサポートしてくださいました。ツアーで頂いた募金とシィディの収益金の全てをそちらを通じて東日本大震災で被災された障碍をお持ちの方々に役立てていただけたらと思っております。
 私の息子はダウン症で生まれました。昨年発売した私の初めてのアルバムは、ジャズがお好きな方はもちろんですが、障碍、病気、介護などご本人、ご家族の方にも聞いていただけたら・・・頑張り過ぎた時に聞いていただいて、少しでも元気になるようなアルバムにしたいと思い作りました。そしてボーナストラックには息子が作詞した「とびら」という曲も収録しました。
 このシィディの収益金の一部は、知的障碍を持ち音楽を楽しんでいる方のために役に立ったらと思い作ったアルバムです。そのシィディのリリースライブで米子へ行きましたら地元の皆さんがサポートしてくださり、今回のお金が集まりました。郵便で募金14832円、シィディの収益金35500円、計50332円を振り込ませていただきますので皆さんの思いをゆめ風基金さんを通じて被災された障碍をお持ちの方々のお役に立てていただけたらと思っています。
被災障害者救援本部とうきょうの:被災地センターいわて
 障害者ボランティア派遣企画案:経過・5月16日に被災地センターいわてを訪問し今川代表と懇談したときに、当事者を派遣して欲しいという話が出た。岩手県はもともと自立している障害者が少なく、街を歩いていても障害者を見かけることがない。CILが活動していても自立する障害者はなかなか増えない。被災地センターの活動も当事者は今川さん一人しかいない。健常者ボランティアが被災地をまわり、障害者に会って困っていることがないか聞いても、みんな困ってないという。実際には困っているのだが、我慢強い風土で誰も本当のことを言わない。
 このような状況なので、健常者ボランティアだけではなく、障害当事者にボランティアに来て欲しい。当事者が一緒に被災地の障害者を訪ねたら、当事者は本当のことを言ってくれるのではないか。障害者自身が救援に来たら驚くだろうし、まわりにもインパクトがある。そこからいろんなことが生まれていくのではないか。これをきっかけに障害者を見つけ出し、自立する人、活動に加わってくれる人を増やしたい。そのために、ぜひ、当事者をボランティアとして派遣して欲しい、ということだった。
具体的な取り組みのイメージ取り組みのイメージと課題
2つのプランプラン1・一週間程度障害者を派遣し、救援活動に加わる。・健常者ボランティアとセットで沿岸部をまわり、救援活動を行う。・交代で派遣。・多数派遣は可能だが、終わった後に何も残らない可能性あり。
プラン2・複数名同時2、3ケ月程度派遣し、自立生活プログラムを実施し、自立する障害者を発掘する。・自立までもって行くので、関係づくりやILP開催など障害者の手腕が必要。・さらに2、3ケ月滞在可能な障害者を見つけることが出来るのか?・プログラムをやるので、複数名が同時に必要。・実現すれば、岩手で自立する障害者を増やすことができ、今後も活動が活性化する。対象者・自立生活を実践しており、当事者支援をしている当事者。介助者・介助者一人は自分で連れて来る。・現地に来るボランティアにも介助を教えて、交代で入れるようにする。費用・盛岡までの交通費:介助者分も:・朝日新聞厚生文化事業団に助成申請:予定:必要なもの・障害者が生活出来るアパート。バリアフリーに改修必要。・被災地で訪問できるようにリフトワゴン車:被災地センターいわてに一台あり:募集方法・J1Lの加盟団体に呼びかける。・メイン、夢宙からは派遣可能。イルカとAJUも?
以上以上!

大盛況でした。「映画で共に生きる社会を~被災地を取材した記録から」

 6月12日(日)、箕面文化・交流センターで開かれた「映画で共に生きる社会を~被災地を取材した記録から」はあいにくの雨模様にもかかわらず、約150人の方々が参加され、大盛況でした。主催された(「障害者とともに」を考える企画グループ)ちまちま工房」のみなさんをはじめ、スタッフのみなさん、ご苦労様でした。
 第一部では映像作家・今村彩子さんが「目で聴くテレビ」のスタッフとともに被災地を取材したドキュメンタリー映画「架け橋~東日本大震災 宮城の被災ろう者は今~」が上映されました。
「目で聴くテレビ」は、聴覚に障害のある方のための放送局で、1995年の阪神大震災の教訓をふまえ、全日本ろうあ連盟、全日本難聴者中途失聴者団体連合会などが中心となり、98年からはじまった放送局です。聴覚障害者自身がキャスターやカメラマンとして番組制作に参加し、ニュースや地域の話題からスポーツ、手話学習、災害時の情報まで、手話と字幕をつけてさまざまな情報を提供しています。
 今村さんは聴覚障害者で、「目で聴くテレビ」のディレクターとして活躍されています。 今回の震災で被災地の聴覚障害者がどうしているのか、いまどんな問題をかかえているのかを直接自分でたしかめ、多くのひとにつたえようとこの映画を製作されました。
 3月22日、まず宮城ろうあ協会の会長の話では、避難所のろう者は手話で話をできるひとはいなくて食料や毛布などの情報がつかめず、常にまわりのようすを見ていなければならず、ストレスがたまるというものでした。テレビ放送でも手話通訳がつかず、それはNHKに要望して手話通訳がつくようになりましたが、テレビによっては手話通訳者の映像が切れてしまう。会長さんをはじめ、取材したすべての当事者が、基本的に、聴覚障害者にも、そしてどんなひとにでも情報が届く社会にしなければ、災害が起きるとたちまちいのちにかかわる困難な状況においこまれてしまうことを、切実に訴えておられました。
 避難所にいるろう高齢者夫婦は、地震直後、近くにあるものにしがみつき、ゆれが収まるのを待っていたら、近所のひとが避難するよう伝えてくれて、すぐに家を出たら直後に津波で家が流されてしまったそうです。その家を一緒に見に行くと、家はまったくありませんでした。
 もうひとりのろう高齢者夫婦は床屋をしていて、震災前まで開いていたお店に案内してくれました。お店のドアを開けると泥水でぐちゃぐちゃの椅子やタオル、はさみや櫛、壁や床が目に飛び込んできました。壁にかかった時計は地震のあった2:48で止まっていました。
 映画は惨状を映しながらも、聴覚障害者が当事者同士で安否の確認や問題の解決にむけて助け合っていこうとする姿や、この映画を通じて被災地の聴覚障害者にメッセージを伝える全国の聴覚障害者を映し出し、映画のタイトルどおり被災地の聴覚障害者との「心の架け橋」がつくられていくことを期待して終わりました。
 この映画の魅力は、なんといっても聴覚障害当事者の監督が自ら取材し、インタビューすることで、被災地の聴覚障害者の心をやわらげることができるだけでなく、聞こえるものにはわからないコミュニケーションの現場が映し出されることにあります。
 通常でもそのことに感動しますが、震災というとてつもなく悲しい現実に直面する中での出会いは、取材する者と取材される者という関係だけでない「友情」がこの映画を通してどんどん生まれていくことにより深い感動を呼び起こすのでした。
 第2部のシンポジウムでは、今村彩子さんが生まれつきのろう者で、家族とテレビを見て楽しむことができませんでしたが、お父さんがレンタルビデオ店で「E.T」や「ロッキー」などの洋画を借りてきてくれて、映像と一緒に内容がわかることが、とてもうれしかったというお話をされました。そして、自分も映画監督になって、聴覚障害者に限らず、多くのひとに元気や勇気を分けてあげられるような映画を作りたいと思ったということでした。
もうひとりのシンポジストの古井正代さんは古くから主に関西の障害者運動を牽引してきた方で、今回福島県の被災地障がい者支援センターを応援するために福島県に行かれ、そこで感じられたことをお話されました。
 被災地では、地域であたりまえに障害者が暮らすことが危機に瀕しています。そのなかでも福島の場合は、原発被災が与える人災で、のっぴきならない方向へ進んでいます。
 2回目の訪問で郡山の避難所に行った時、ひとりの医師から話を聞きました。この医師はもともと原発に隣接する町で開業医をしていたそうです。震災後、彼は酸素ボンベを命綱として暮らす人々を何人も看取ったとのことでした。医療機器が不足する状況において、ただ死を待つことしかできない人々と時間を過したそうです。彼はもう医療機器の不足から人々が命を落とすことがないようにしたいと、現在担当する福祉避難所では、要介護者を全て医療機関の整っている近隣市町村の施設に送る取り組みを始めました。そのような状況で、現在避難所には介助の必要な障害者・高齢者がほとんどいない状態です。
 この医師の思いがわからないでもありません。しかし、あえて指摘させてもらうならば、避難所に来てから施設に移送される過程において、現状では障害者の決定権が入り込む余地はないと予想されます。わたしたち障害者は、30年以上障害者の運動をしてきて、脱施設化に向けて運動してきました。
今日被災地では障害者の置かれている状況はどうでしょうか。このような災害が起こるたびに人権も何もない状況に置かれることになってしまいます。
 今、とくに福島ということで、差別がいっぱい起こっています。障害者に限らず、福島ということで避難してきたひとに「放射能がうつる」とか、「来るな」とかあからさまに言われるそうです。
わたしたちは福島県を差別するようなことにしてはいけません。
 福島の問題はわたしたちの問題であり、障害者運動にとってきわめて大切な問題を示していることを知ってほしいと思います。
 今後どうあるべきか、課題についての論議では福祉避難所として聴覚障害者だけの避難所が必要であると今村さんも、映画の中で被災地の聴覚障害者も、箕面の聴覚障害者も口をそろえて話されました。
一方で古井さんは日頃の町をバリアフリーにし、聴覚障害者も視覚障害者も、だれもが当たり前に暮らせる街づくりをすれば、いざというときもバリアフリーとなると話されました。
 福祉避難所をつくるべきか否か、福祉避難所はどんな避難所なのか、これはわたしたちの中でも論議がわかれるところでしょう。
 阪神淡路大震災以後いくつかの災害を経験したにもかかわらず、避難所が劣悪な環境しか用意できないだけでなく、非常時だからがまんすることを被災者に求めることが多々ある現実があります。その劣悪な環境を変えるプロセスで、避難所のバリアフリー他、手話通訳者の配置、さまざまな障害者に対応できる避難所にしていく基本的な考え方があれば、特別に福祉避難所を用意するのではなく、どこでもさまざまなニーズに対応できる福祉対応の避難所が実現することになります。
 ただ、それを目標としつつもそこにいたるまでまだまだ長い年月を必要とするなら、そしてもしかするとその目標自体が幻想と化してしまうほど、差別のない社会の実現が困難なら、特別なニーズを持つ人々のための福祉避難所が必要になり、その整備を強く呼び掛けることになるのでしょう。
 この論議は、わたしたちがどんな社会を望むのかという、被災地にかかわらず日本社会全体の課題から浮かび上がる論議だと思いました。
 わたしたちの活動の中でも、なかなか情報が入りにくい聴覚障害者の被災情報など貴重な記録を映像化した今村彩子さんに敬意を表すとともに、古井さんの基本的な人権を視点にしたするどい報告と提案に賛同しました。
 この企画をされ、準備をされた方々の努力が報われた、とてもいい集まりになったことを報告させていただきました。
                                             細谷常彦

近畿ろうきんゆめ風募金プロジェクト

近畿ろうきんゆめ風募金プロジェクトの5月の募金合計は、575,566円でした。
募金をしてくださったみなさん、近畿ろうきんのみなさん、ありがとうございました。
募金活動ははじまったばかりです。今後ともよろしくお願いします。
ろうきんプロジェクト記者発表
 かねてから障害者拠点への融資などで提携してきた近畿ろうきんが、ゆめ風基金を資金的に支援する「募金プロジェクト」を立ち上げられました。
 近畿ろうきんは、2006年にゆめ風基金と提携して、NPO法人や社会福祉法人が障がいのある人たちのために行う事業を支援する障害者市民活動支援融資制度「ゆめのたね」を創るなど、団体の活動を幅広く支援していただいています。
 ろうきんは労働組合や生活協同組合(生協)などが会員となる非営利組織(協同組織)であり、株式会社である銀行とは組織形態が異なるとはいえ、ひとつの金融機関が大きな後ろ盾もないNPO法人のゆめ風基金の障害者救援活動に支援していただくことは、前例のない画期的なことで、並々ならぬ思いで企画された担当者の方々のご熱意と、それを受け止め、決済された近畿ろうきんに深く感謝します。
プロジェクトの内容は次の3点です。
1.近畿ろうきん営業店に募金箱を設置
2.近畿ろうきんの会員(労働組合、生協)に募金の呼びかけ
3.近畿ろうきん窓口からゆめ風基金(ろうきん)口座への振込手数料の無料化
くわしくは以下のアドレスのPDFをごらんください。
(ちょっと重めのPDFデータです)
http://yumekaze.in.coocan.jp/2011sinsai/roukin/roukintirasiuraomote.pdf

現地ボランティアのナマナマ情報2 2011/6/10

 明日でパーティーパーティーのIさん、わたし、ISさんのチームが解散です。たまたま大阪人ばっかりになって友達グループのようになったけど、それなりにそれぞれの個性が調和していい感じにきていたので、ひとり残る私はとっても寂しいです。明日飲み会で泣くかもしれません。ははは。
 今回のボランティアはまるで勉強会です。ふだんほとんど行ったことのない市役所や保健センター、あんまり行きたくないような気がする法務省にも行きました。登録ヘルパーを5年やっていても制度については無知な私が行政窓口で分かったような振りをしてあれこれ尋ねるのは勇気がいるし、「私って本当に何も知らずに生きてきたんやなぁ」という実感の連続で恥ずかしく情けなくもなります。だけどこんなに良い勉強の機会に恵まれて本当に有難いし、これから生きていくうえで必ず役に立つ知識なので本当に大きな収穫になっています。
 今は主に仮設住宅の入居状況の把握に努めています。はじめは地図を見ながら仮設住宅を訪れ、行き当たりばったりで聞き取り調査をしていましたが、だんだん要領がつかめてきて、まず始めに行政に情報を取りに行くようになり、自治会長に話を聞き、住民の個別調査をするという流れが分かってきました。それさえも、本当に手探りだったのです。「調べるって、何を?どこで?どうやって???」というところからスタートして、今はやっと「まずここに行ってこれを聞いてこの人に会う」というところまできました。活動開始から5日目になります。慣れたころに帰るというのがなるほどこういうことかと納得です。
 ちなみに、私がこれを書いているのは午後八時過ぎ。前回報告を書いていたのは夜の10時半でした。事務所の明かりは煌々と点いていて及川代表を始めとするスタッフが残って仕事をしています。私は1カ月の期間限定だけど、震災のあの日以来毎日こんな生活が続いているんだなぁと思うと・・・人ごと極まりなくて申し訳ないですが、正直「すごいなぁ~、でも私には無理やな~」とか思ってしまうのです。八幡さんのあのエネルギーもどこから湧いてくるのかが不思議で仕方ありません。あの人なんであんなにエネルギッシュなんでしょう。
活動内容としては、主に仮設住宅での聞き取り調査です。
 目と耳が悪くて震災前に大きな大手術を経験し、糖尿も持っておられるご老人が仮設住宅に招き入れてくださったのでお話を伺っていました。
 始めは生活について困っていることなどを話していたのですが、しばらくすると地震直後や避難生活での本当に心細かった思いを話してくれて、「避難所は床が痛くて寝られなかった。インシュリンもないし寒くて体がこんなにガタガタ震えて・・・」と言いながら泣いておられました。
 そのような人を目の前にしてどうすることもできない私を助けてくれたのが、当時同じメンバーだったターミナルケアをされている看護師の方でした。「あぁ、そう、うん、うん。」と親身になって話を聞くプロフェッショナルさに比べ、私はそのおじいさんと一緒に泣きそうになっているという始末です。本当にど素人がこんなことやっているのだから、不思議ですよね。
 おじいさんは出さないといけない葉書を代わりに出しますよという提案に大変喜んで、「本当にいいの?いやぁ助かるよ、ありがとう」と感謝してくれました。そんなことでお礼を言ってもらって、なんかこっちが申し訳ないような気持ちになります。
 「お喋りするの好きだから仮設で一人でいるのが寂しいんだよ。また来てね」と言って頂き「はい、ぜひまたお顔を見せてくださいね」と言っている私はあと2週間で帰るのだから切ないですよね。
 だからこそ、「みやぎ」もしくは「みやぎ」を通してどこかの団体や人がそのおじいちゃんのような人達に繋がっていけるように、”記録を埋もれさせてはいけない!”と資料の整理についても試行錯誤しながら頑張っています。
 パーティーパーティーのIさんはパソコンが得意なので本当に助かっています。今日は入居状況の把握のための表作りで、来週はIさんがいなくなるし頑張って勉強してみようかなと思って「エクセル教えて!」と頼みました。ところがせっかくのレクチャーにも関わらず2分くらいであっさり諦めて、5分後には「大丈夫、きっと誰か得意な人が新メンバーで入ってくるはず!!」と根拠のないポジティブ思考で自分を励ましていました。
こういう時に真剣に習って習得したらいいのになぁ~と人ごとのように思いながら。
 とにかく、まだまだビビりまくり、失敗の連続、それに加えて仲良しチーム(?)の解散、かなり心細いですが、自分がやっている地味な事の積み重ねが誰かの生活を楽にしたり楽しくしたりすることを思い出してがんばっていきたいと思います。
 明日は午後からは原発反対デモにチームのみんなで参加します。夜はスタッフの豊川さんが用意してくれている美味しい日本酒をごちそうになる気満々。あぁ楽しみ。
 ゆめ風の南さんは今日帰られました。宿舎でおしゃべりするのが楽しかったので本当に寂しかったです。「いざ帰るとなると寂しいもんやねぇ」と言いながら顔はかなり嬉しそうにニヤニヤしていました。「嬉しそうですやん!」と突っ込むと笑っていましたが、きっと少しは本当に寂しいのだと思います。私も帰り際には「もっといたい!」とか言っているかもしれません。あ、いや、ちゃんと帰りますよ。(笑)
それにしても仙台はご飯がおいしいです。みんな仙台へおいで。

ヒデの救援レポート6月10日

ヒデの救援レポート、6月10日:23
被災障害者支援ゆめ風基金に寄せられた救援金、金額は、6月2日までに、154107078円。6月3日までに、154921085円。6月4日までに、154963605円です。これまでに支援した団体、個人への金額。このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌:そよ風のように街に出よう:編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。広く知ってもらいたいので、転送自由。自由にお使いください。
息の長い救援が求められています。長期戦です。救援金の送り先は、郵便振替口座:00980-7-40043:ゆめ風基金です。;とうほく;と書いてください。
東日本大震災救援活動の中のボクの風景。
 6月1日に開かれた被災障害者救援本部とうきょうの会合に出された文章です。自分で見つける風景もあれば、他のひとに教えてもらう風景もあります。この文章の中に見える風景を前に、ボクは、ため息を深く吐くしかありませんでした。
 まだまだ、足りない想いがあります。被災地の一人として、お礼や情報が少なくて申し訳ありません。みなさんががんばってカンパをしてくれているお金でたくさん助かっています。しかし、被災地の現場は、メールを読んでいる時間もありません。もちろん、返事を出すこともできません。
 他のセンターはわかりませんが、福島のセンターは代表自ら出張って災害対策や支援をしなくてはならない状況になっています。つまり、代表が倒れたら後は後ろの人材がいません。元々、人材の少ない、後継者が育っていない地域にこの災害です。どこのセンターも今、倒れかけている状況ですが、気力で倒れられないと踏ん張っています。しかし、その体力や気力はもうすぐ限界がくるでしょう。
 何が必要かといえば、長期に支援できる人材、被災地に来てくれる人材が必要です。もう少し、被災地の情報がほしいなら、被災地に来て私たちのやっていることを、聞いて回りそれをJILのメーリングリストで流してくれませんか?
 私たちは、災害対策と放射能の研修を全県挙げて取り組みたいと考えていますが、それを企画運営できる人材を確保することができませんか。企画して段取りしてくれませんか。福島県にも、ピアカウンセラーがおりますが、自分の恐怖を吐き出すこともできずにいます。他の人の手助けができる、ピアカウンセラーの支援が必要です。行政に行き、3月の災害時に増えてしまった介助時間を、変更申請に行くときの支援者がほしい。県に行き、復興事業や仮設住宅を作る際に、障害者用の住宅を作ってと、県やマスコミに働きかけたい。あれもこれもしなくてはならないことが、たくさんありますが、それをみんなに説明する時間もないのです。被災地の支援は、被災地を見に来るだけのツアーにはしないでください。申し訳ありませんが、とても接待に費やす時間と体力は在りません。もし、被災地に来ていただけるなら、少し長期に2、3日でも一週間でも現地の支援をできる体制で、きていただけませんか?私たちは、現在進行形の地震と原発は、正しい知識が必要と伝えることさえはばかれる、困難な土地柄にいます。
 目に見えない放射能被害に、「放射能、みんなで浴びれば怖くない」の標語になるような、そんな環境です。電車でも、町の人々も10人に1人の割合でも、マスクをかけていません。特に学生は、半袖でソフトクリームを食べながら町を歩いている姿が、あちこちで見られます。その反面、小さな子供を持つ親は、必死で20ミリシーベルトを撤回させようと動いています。放射能をなかったことにして生活するか、どうやって放射能被害から逃れるかの両極端を私たちは生きています。家の中をあけて掃除はできない。洗濯物も外に干せない。戸を締め切った息苦しい部屋の中で、震災前と同じ景色を眺めながら、何をそんなに気にしているのかと、なぜ私はここにいるのかの狭間の中で、毎日生活しているのです。
 どこかに避難すればふるさとを思い、ふるさとに居ればなぜ避難して自分の命を大切にしないのかと責める自分との葛藤の中にいるのです。東電の社長の前で、この思いを吐き出したいです。国を挙げて進めた管総理にも吐き出したいです。私をそこにつれていってください。東電の社長や管総理に会わせてください。被災地からの情報が少なくなったのではなく、情報も思いもやらなければならないことも在りすぎて、でもできないんです。
 自分のよって立つ生活基盤を、根こそぎもぎ取られた悲しみと苦しみは、どうしたら皆さんに伝えられだろうかと、言葉にならない思いで居ます。
 皆さんの支援があるからこそ、がんばれることや支援をできることがあります。それは、本当に助かっています。ありがとうございます。報告や情報が遅れて申し訳ありません。
                             福島県田村市・K、S
被災地の救援組織の連絡先です。繰り返しになりますが、情報のほしい方は、直接お問い合わせください。
被災地障害者センターみやぎ:CILたすけっと内・住所、982-0011・仙台市太白区長町1の6の1。
電話022-248-6054FAX022-248-6054
被災地障害者センターふくしま・JDF被災地障害者支援センターふくしま内・住所、963-8025-郡山市桑野1の5の17・深谷ビルB棟101号2・電話FAX024-925-2428
被災地障害者センターいわて・住所、020-0866-盛岡市本宮1の3の20・光立ビル一階・電話FAX019-635-6226
生る在る会からのメッセージの抜粋です。
 この世に生まれたこと・・・生きること・・・、そして、今、ここに存在していること・・・在ること・・・の尊さは、すべての人、皆同じである。障害の有無に関係なく、すべてのひとが平等に尊ばれ、幸せな暮らしがなされなければならない。という思いをいだきながら、私たち生る在る会は、30年近く活動を続けています。:障害:の有無に関わらず、地域で:普通学校・普通学級:で共に学び、生活する活動を支援・協力してとりくんでいます。中略・
今回の東北関東大震災に見舞われた障害児・者の支援活動、ご苦労様です。先日、お電話しましたように去年の講演会の資料と共に、講師の依頼です。今年の講演会は、差別禁止条例関係か、障害者基本法などの制度改革の関連で考えています。講演会の日程は、11月を予定しています。講師については、ゆめ風基金理事の楠敏雄さんか、副代表理事の河野秀忠さんのお二人の中でお願いできたらと考えています。出来るだけ早く、こちらの2団体で詳しい内容を協議して、再度、ご連絡いたします。今後ともよろしくお願いいたします。                            宮崎県都城市・T
ゆめ風基金に届いたお便りから!
 ゆめごよみ、有り難うございました。新しい報告を読み進むうち涙が溢れました。現地に出向いて一体何が出来ると云うのか・・・。自分の年齢:71歳:や体力を考え、不安は募りますが、とにかく何とか私もがんばってみょうと思っています。橘高事務局長さんも御無理が過ぎませんように!皆さまのご健康をお祈りしています。J・M
7月2日に東京で行われるダウン症の方の芸術祭ザ・ギフトには、私の息子がトランペットで出演します。そしてこの「とびら」は女優の戸田恵子さんが歌ってくださることになっています。障碍を持つ子どもの家族として、ゆめ風基金さんのような団体には感謝しております。これからも応援しております。また、私で役に立つことがありましたらご連絡をいただけたらと思います。よろしくお願いします。
S近畿労働金庫:近畿ろうきん:のゆめ風基金・募金プロジェクトのパンフレットより!
 ゆめ風基金は阪神淡路大震災が起きた1995年、被災障害者の救援や復興支援などを目的に、永六輔さんや小室等さんらが呼びかけ人となり設立されたNPO法人です。災害時の障害者緊急救援のための基金を積み上げながら、:災害に強い、共に生きる社会への諸活動を全国ネットワークで展開し、これまで国内外の災害で6016万円の救援金を届けてきました。東日本大震災ではいち早く現地に入り救援活動を展開しています。みなさまのご支援は、重度障害者の方々の住まいや介助者の確保、医薬品の手当てなどの緊急支援や、福祉共同作業所などを通した息の長い復興支援活動のために使われます。以上!

いよいよ明日、街頭募金を行います。

 いよいよ明日、街頭募金を行います。
 震災から3ヶ月、テレビなどの報道も少しずつ変化してきていますが、震災直後も現在も、障害者の情報はとても少ないことも事実としてあります。被災障害者の支援活動に参加された方々のお話を聞くと、まだまだ初期の救援活動が必要な他、これからの復興に入る過程で、たとえば仮説住宅がバリアフリーになっていないなど障害を持つがゆえにより困難になってしまう現実があります。
 息の長い支援と共に、共に生きる社会をつくりだすことが求められていると思います。
 わたしたちみんなの問題として小さなことを積み重ね、被災地の障害者の心に届く活動を続けて行きたいと思います。
 そんなわたしたちの思いを形にかえる大切なひとつの方法として、街頭募金があります。
 どうかみなさん、今週の土曜日の街頭募金活動にご参加いただきますよう、よろしくお願いします。
6月11日(土)午後1時~午後5時 大阪なんば高島屋前

現地ボランティアナマナマ情報2

障害者救援本部の活動に参加しているパーティパーティでヘルパーをしているNさんの現地ナマナマ情報です。
 活動一日目は事務所での情報整理でした。第一期から第二期支援に移るにあたって活動形態が変わりました。今まではたすけっとスタッフが地域担当のボランティアに仕事を割り振ってきたけれどその仕事自体が大変すぎてもうだめ、ということでチーム編成をしてあらゆる事を基本的にチームで判断し進めて引き継いでいき担当者は監修するようなスタイルです。
 初の試みなので反省点がたくさん出るのは当たり前ですが、私のチームはパーティーバーティの穴沢くん、西本願寺ボランティアから来られている看護師の女性の方、私の3人で全員が全くの新人で何をどうしたらいいのか見当もつかず、資料を整理しろと言われても何をどうしたらいいのかさっぱりで、ほとんど手つかずで3時間ほどが過ぎました。たまたまその場を通った八幡さんに「八幡さん!!!はっきり言って、何をしたらいいかまーーーーーーーったくわからへん!!何したらいいの?!」と訴えると、「明日の聞き取り調査に備えて必要な情報を抜き出したらいいんや」と言われ、そこでなんとなくやるべきことが見えてきて、ファイルの情報が暗号ではなく情報に見えてきました。
 西本願寺ボランティアの女性が「わたし自信がないです」とかなり落ち込んでおられたので、「大丈夫ですよ。私たちには私たちにできることしかできない。できないことはできないんだから、困っている障害者を見つけて力になりたいんですっていう思いが伝われば何とかなりますよ!!!」と、穴沢君と一緒に必死に説得しました。西本願寺のボランティア先でたまたま知った情報だけをもとにひとりでたすけっとに飛び込んで来てくれるだけの度胸の持ち主なので、最後には「でも、あと4日はいるって決めてたので、何の役にも立てないとは思いますがその日まではいます。」と腹をくくられました。私は彼女の勇敢さにとても感動したし、心強く思いました。
 そして今日、いよいよ調査一日目。たすけっとスタッフのはからいで、東京の広域協会から来られているYさんがフォローに入ってくれることになりました。まずは名取市役所の福祉課に仮設の建設、入居状況を聞きに行きましたが対応してくれた福祉課のおじさんはいわゆるお役所仕事でこれといった情報は得られず。私たちがしどろもどろしている間に吉田さんは2階にある建築課で一般車両通行禁止になっている地域の通行許可証を取ってきてきれました。Aくんは仙台に到着してすぐ音楽祭だったので津波の被害の大きかった沿岸部をまったく見ていなかったので、車で被害状況を見に行けるようにとのはからいでした。「どういうことが起こって、どういう被害を受けた人達に支援をしていくかってことは知っておいた方がいいと思うから」と自然にさらっと言える吉田さんのような人がチームに入ってくれて本当に良かった!
 沿岸部を見た後は宮城県立精神障害者センター近くにある仮設を訪問しました。ファイルを見てパーティパーテイのDくんが何度か聞き取りにいってくれたところだということが分かったので是非引き継ぎたいという気持ちで訪問を希望して、仮設訪問の第一か所目になりました。個人情報になるのであまり詳しいことは書けませんが、まさにビギナーズラックで「キーパーソン」のような存在にいきなり出会いました!!前日のミーティングで八幡さんが「第二期では被災障害者をいかに社会資源につなげるか!!!!キーパーソンになりうる人をいかに発掘するか!!!」と熱く語っていましたので…。
 聞き取りの時に西本願寺のボランティアさんが私には思いつかないことを自然に聞きだしたり、事務所に帰ってきてミーティングしている時も素晴らしいインスピレーションを与えてくださったりと、この人がとどまってくれて本当に良かったと思いました。実は彼女はホスピスでターミナルケアをされていて、何百人もの人の死に出会っています。尊厳死というものを考えて日々緩和ケアにあたられてきた彼女の感覚というのは他の誰も持っていない独特で素晴らしいものがあると感じます。
 そんな彼女が一時は頭を混乱させて自信をなくし、もしかしたらそこでやめてしまったかもしれないと思うと、ボランティアのコーディネートってほんとうにむずかしいなと思いました。みなさんがぎりぎりのところで精一杯やっておられることはわかるので言いにくいけれど、このことは八幡さんに提案しようと思っています。 
 だって、被災者もそうだけど、ボランティアに第一期も第二期もないですよ。素人は素人でしかないんだから、「大丈夫だよ。あなたにしかできないこと、あなたがいるからできることが必ずあるんだよ。」と言って自信を持ってもらう方が良い仕事が出来る気がします。
実を言うとそれってまさに私自身への慰めでもあるんです。私は実は繊細なので(ははは)、内心びびりまくってるんですよ。こんな私に何ができるんやろう、やっぱり泥の掻き出し掃除のボランティアにでも行ってた方がよっぽど人の為になれたんじゃないかって。
 だけど、今日ラッキーなことに素敵な人に出会いました。地域の人の為にすごく頑張っている障害者です。自分が限界に近いことを感じながらも今は必死に動くしか方法がないのかもしれません。しかもそれはパーティーパーティのDくんがいたから繋がったご縁です。
 私が居る間にできることは限りがあるけれど、きっとその人をこの「みやぎ」に繋げていきたいと思っています。そういう人と出会っただけでも仙台に来た甲斐がありました。明日からもスローダウンを念頭に置いてゆったりがんばります。今日は突っ走って根掘り葉掘り聞いてデリカシーがなかったと自己反省しましたので・・・。はぁ、難しいなぁ。

現地ボランティアナマナマ情報1

障害者救援本部の活動に参加しているパーティパーティでヘルパーをしているNさんの現地ナマナマ情報です。
 4日(土)とっておきのコンサート前夜祭ゆめ風コンサート、5(日)とっておきのコンサート、最高でしたよ!!!
 前夜祭は仙台メディアテークという大きなホールの1階エントランスで行われました。震災の被害状況などを展示するパネルもあり、メディアテークもガラスの窓が割れたり天井が損傷したり被害はあったようですが今では1階はすっかりきれいになっています。日本人って本当に仕事が早い。
 大阪の和太鼓クルーで避難所を回っているグループや、視覚障害の有名バイオリニスト、我らが加納浩美さん、そして仙台の“みのもんた”さとう宗幸(ムネさん)さんの出演でした。3時半からの開演にも関わらず2時から整理券を手にするために行列ができていました。ムネさん何時から出るの?と聞かれて「え、ムネさんて誰ですか?」と聞いたらとたんによそ者ということがバレるほどの人気者です。
 音楽祭当日は目から鱗でした。まず規模の大きさ。仙台市民広場をメイン会場にして、その周辺一帯が音楽フェス。大阪でいえば御堂筋商店街のようなメイン通りが頭からお尻まで音楽祭をやっていて、障がい者団体が決して上手とは言えない大合唱をしているのを観客が何重にもなって見ているというのは見ものでした。三越デパートの真ん前でロックバンドが大爆音で演奏しているのも、大阪ではありえないなぁと。ところどころにエコブースというゴミ捨て専用テントが設置され、待機するボランティアがゴミ分別を手伝いますが、そもそも捨てる人達が自らペットボトルのラベルとふたとボトルを分けて捨てるお行儀の良さに感銘。大阪人にもこれができたらとっておきの音楽祭みたいなことできるかもしれへんけどな~・・・ちょっと無理かも。
 とっておきの音楽祭実行委員の人に「すごく素敵な音楽祭ですね!感動しています!」とラブコールを送って色々教えてもらいました。仙台市民広場というのは日本一の稼働率、つまりいつも何かのイベントがその広場で行われているとこのこと。もともとお祭り好きな仙台で「仙台ストリートジャズフェスティバル」というお祭りが開催されて地域に根付いており、行政からジャズフェス実行委員会に「障害者も一緒に楽しめる音楽祭をしてくれないか」と委託されて補助金を受けて1回のつもりでとっておきの音楽祭を行ったのがきっかけだそうです。音楽祭は好評で「ぜひ続けて欲しい」という多くの要望があり、補助金なしで出演団体の参加費や募金などで運営を続けているそうです。
  福祉は大阪が進んでる」なんて嘘やん!!!!!!!大阪に、こんなにたくさんの障害がある人とない人が街いっぱいにごちゃ混ぜのお祭りなんてないよ!!!と衝撃を受けました。後日たすけっとの及川代表に伺うと「イベントではああいう感じだけど、普段は通所施設に通っている人達なのであれは日常とは程遠い」との説明がありました。それでも、ああやって街中が大勢の障害者が存在するお祭りを受け入れサポートしていること自体にはとても魅力を感じました。ゆめ風基金の橘高さんに「やりましょうよ、大阪でも!!!」と言うと「やろう、やろう!!!」と大賛成してくれました。
 もうひとつ感動したのは、いつでもどこでも必ず手話通訳が何人かのチームを組んで存在していたことです。かなり若い人も多くいましたが、おそらく福祉大学からのボランティアなども参加しているようです。宮城県の手話サークルや手話通訳問題研究会なども積極的にボランティアを出していると予想されますが、10代後半のような青年がぺらぺらと手話通訳するのを見て感動しました。
 フィナーレでは数千人?とにかく人で埋め尽くされました。最後のあいさつでは自身も被災し家や家族を失いながらも今だからこそ参加したかったというような方もたくさんおられました。
 私は一応ゆめ風メンバーとして被災地障害者センターみやぎのチラシを配り歩いていたのですが、個人の感触は厳しいものもありました。「今さらねぇ。もっと早くこういうことしてほしかったよ。震災直後病院に行っても透析患者以外は受け入れませんなんて言われて、私役所と喧嘩したんだから。まぁでもね、こうやって今は何とか生きているけど」と障害児の母は言っていました。ゆめ風やみやぎのメンバーとして動くということはこうやってお叱りを受けて「そうですが、それは申し訳ありませんでした」と頭を下げることでもあるんだと、ボランティアといえどそう甘くない現実を知りました。
 とにかく音楽祭は最高に良くて興奮冷めやらぬという感じでした。在日韓国人のイ・ジョンミさんの「みんなちがって、みんないい」という歌は最高でしたよ。ぜひ検索して聴いてみてください。