「ゆめ風ネットきくがわ」からの手紙

ゆめ風ネットきくがわ バザー1
こんにちは、ご無沙汰しています。
今年の夏は、何かと厳しい夏!ですね。
先日行なったバザーの写真を送らせていただきます。「ゆめ風ネットきくがわ」として参加しました。
寄せ書きも多くの子供たちが描いてくれました。
本当に微力ですが、継続支援を心がけていきたいと思っています。
そちらもお忙しい事と思いますが、くれぐれもご自愛ください。
皆様によろしく・・・。
ゆめ風ネットきくがわ  溝口千津子
ゆめ風ネットきくがわ バザー2
ゆめ風ネットきくがわ バザー3

「共生型の社会を探る」(~被災地の未来と、支え合う地域つくりを共に考える~)

 7月2日、大阪市立浪速区民センターで、NPO法人共生型経済推進フォーラム主催の「共生型の社会を探る」(~被災地の未来と、支え合う地域つくりを共に考える~)というシンポジウムが開かれました。
 湯浅誠さん(内閣府参与で震災ボランティア連携室長、元「派遣村」村長)が基調講演で被災地の復興はこれからの日本社会のあり方と結びついていること、「半福祉、半就労」という働き方を積極的に進めることで被災地をふくめた日本社会の就労問題への新しいアプローチの可能性を提案されました。その後のパネルディカッションでは法橋聡さん(近畿ろうきん地域共生推進室室長)さんをコーディネーターとして、「被災地の未来と、支え合う地域づくりを考える」をテーマに、勝部麗子さん(豊中市社会福祉協議会地域福祉課長、コミュニティソーシャルワーカー)、有井安仁さん(わかやまNPOセンター理事長)、斎藤縣三さん(共同連事務局長)に湯浅誠さんが加わり、それぞれのハネラーの方々の日常の活動のお話から被災地支援活動とのかかわりについて話され、議論されました。
 
 貧困問題が示す日本社会のありようをえぐり、その解決にむけた取り組みから新しい日本社会のすがたを提案してきた湯浅さんは、被災地ではいま2つの貧困があると言います。
 ひとつは家が壊れ、仕事をなくし、蓄えもない状態で生まれる新たな貧困ですが、もうひとつの貧困はもともとあった貧困、ワーキングプア、非正規雇用、請負、ホームレスなど、格差社会の底辺で少しずつ顕在化してきた貧困が、震災をきっかけに凝縮してあぶりだされると言います。
震災から4カ月になろうとする今、避難所に残されているひとびとはもともとの貧困をかかえている人が多く、幸か不幸か、震災前には見つからなかった人が、避難所にあつまったことでサポートの入り口になるチャンスも生まれています。
 そして、貧困から脱出するには地域で就労していく道筋を制度的につくりだしながら、それぞれの貧困に寄りそい、復興のプロセスで誰一人取り残されないよう(「社会的包摂」・ソーシャル・インクルージョン)きめ細かいサポートが求められます。
阪神淡路大震災ではそれをせず、多くの震災関連死(孤独死など)がありました。今回でもすでに起きていますが、これ以上犠牲者を生まないようにするのが、残されたわたしたちの役割なのだと思います。
 わたしたちの社会ではいままで、働くことと社会保障が併存しませんでした。ですから、日本の社会保障は年金に偏っています。働くか失業かの2つしかない労働観にもとづいた就労政策では被災地の地域雇用がまかなえるはずはなく、生活保護の受給を求めるひとが多くなります。日本全体の生活保護受給者の数は1952年と同じになっているそうです。
 わたし(湯浅さん)は一般就労と失業の間に、中間的就労とよべる就労を制度的に位置づけることを提案しています。そうすることで、働くことと社会保障が併存する仕組みが生まれ、失業を減らし、生活保護に頼らない生活が保障されるのです。
 たとえば障害者の就労について学ぶことで、その仕組みを考えることができます。
 障害者の場合、福祉、つまり社会保障と就労が併存しています。就労継続支援事業B型は福祉の方に重点があり、就労継続支援事業A型は就労の方に重点があります。このような柔軟な働き方がマイノリティの分野でなく、マジョリティになっていくことで「中間的就労」を制度化し、失業者を減らし、そんなに多くの給料でなくても助け合いながら暮していける共生型社会への一つのアプローチになるでしょうし、「無縁社会」をつくらない社会的包摂の取り組みを進める大切なものになると思います。
 湯浅さんのお話は、大きくみればまったくそのとおりだと思います。ただ、「中間的就労」のモデルとして障害者支援事業のA型、B型で説明されていましたが、ここはもしかすると湯浅さんの勘違いがあったのかも知れません。というのも、障害者自立支援法にもとづく就労継続支援事業はB型はもとより、A型でも福祉政策であって労働政策ではないと思います。もともとB型は生きがい対策だけで給料をともなわない授産施設や作業所に適用できるものですし、A型は福祉工場に適用されたものです。A型は雇用保険の適用や最低賃金の保障など労働行政と思われるかも知れませんが、あくまでもそこで「働く」障害者は福祉サービス利用者であり、事業所側はサービスの提供者になります。そのため、大きな問題になったのが利用者の一割負担の問題でした。当時は負担そのものが大きな問題となって目立ちませんでしたが、就労継続支援事業A型の場合、労働にかぎりなく近い形でありながら福祉サービスの受益者として位置づけられ、一割負担をせまられることになりました。
 もうひとつ、湯浅さんは障害者ひとりひとりにあわせたサービスとして個別支援計画を肯定的にとらえられていましたが、ひとりひとりの支援ニーズにあわせたサービスと言えば聞こえはいいですが、実は障害者を国の福祉サービスの枠内に閉じ込めてしまうとても危険なものであることは障害者運動がかねてより指摘するところです。わたしたちは障害のある人もない人も共に働き、給料を分け合う就労の場を求めているのであって、障害者を福祉サービスの対象とする福祉的就労の場を求めているのではないのです。
 それでも、湯浅さんのお話はとても大切な提案で、一般企業への就労が困難なひとの中間就労を制度化していく中で、障害者就労も福祉サービスの枠内に閉じ込めるのではなく、福祉と労働の複合政策による第三の道をめざすチャンスになるのではないかと期待します。
 パネルディスカッションでは障害者運動の立場から、斎藤縣三さんがそのあたりをわかりやすく例を用いてお話しされ、参加者の理解を深めました。斎藤さんは近年障害者の就労問題から一歩踏み出し、湯浅さんとまったく逆の立場から社会的事業所の制度化とその推進を一貫して提案されてきました。社会的事業所とは障害者に限らず働きにくい立場におかれるひとびとが生き生きと働ける事業所で、そこでは障害のあるひともないひとも共に働き、ともに給料を分け合います。そんな働き方は湯浅さんの中間就労と同じで、被災地での就労をすすめる力となるだけでなく、被災地をいままでとはちがう、新しい日本社会のあり方を示す再生へと導くことを、力強く発言されました。
 勝部麗子さんは豊中市社会福祉協議会の活動として、しのびよる「無縁社会」とたたかい、小規模な福祉の大切さを形にした活動を報告されました。
 豊中市は阪神淡路大震災の被災地として、貴重な体験と課題を持っていました。避難所での公平平等の論理では今困っている人を助けられないと、必要なひとに必要な支援をとNPO活動やボランティア活動が生まれた16年前の経験がある一方で、復興の過程でコミニュニティがずたずたに分断され壊れていた姿も目の当たりにしてきました。
 その経験が今回の災害に充分には生かされていないと思いながらも、被災地とつながる支援のあり方はさまざまにあり、目的がはっきりしている学用品を救援物資として届けたり、被災地の地酒を飲む会を開きその収益を被災地におくったりと、ユニークな支援活動を企画実行されてきました。
 そして、被災地から疎開してきた11家族28人の被災者を訪問し、必要なものを届けたり池田、箕面の社会福祉協議会と共同で箕面温泉での被災者交流会を開いたりされました。その中で印象的なお話として、農業しかしてこなかった被災者から農産物をつくるために毎日触ってきた土をさわれない悲しみを聞き、地元の障害者団体などがしている園芸教室の講師になってもらったということでした。
勝部さんは、大阪府が進めるコミュニケーションソーシャルワーカー事業の担い手として、個別のニーズに寄り添うことでいろいなサービスの隙間を埋めることの大切さをうったえられましたが、この考え方は湯浅さんが提唱され、国がモデル事業としてはじめているパーソナルワーカーとほぼ同じ活動で、連携することでより効果的な活動になることが期待されます。
 わかやまNPOセンター理事長の有井安仁さんのお話では、まずわかやまNPOセンターは多様な価値観や文化が尊重され共生できる社会をつくることをめざして10年になる民設民営のNPO活動を支援する組織で、和歌山県全域を対象としているとのことです。今回の災害では和歌山県下のNPO団体がわかやまNPOセンターに結集し、相互連携しながら被災地支援活動をするためのコーデイネートをしているとのことでした。被災地支援活動に携わる人は現在150人が登録していて、毎週水曜日に定例ミーティングを開いている他、毎月11日に現地報告会を開いています。
 とりわけ画期的なのは、一般の義援金ではなく、被災地の支援をするNPO団体の活動を支援する「支える基金」募金活動を展開し、200個の募金箱を一ヶ月単位で設置、回収し、累計2,374,295円の基金が寄せられたそうです。すでに第一回助成が終了し、4団体に各25万円の助成をし、現在第二回助成の選考中です。被災地支援とは言え地域を越えた支援活動を支援するこの活動は、息長く被災地とつながる支援活動として注目されています。
 今回のシンポジウムは、被災地の復興プロジェクトの中でともすれば忘れられ、取り残されてしまう人々の存在が排除されることのない、共に生きるセーフティネットを市民の手でつくり、それを行政施策へとつなげていくことを課題として提起しました。そして新しい日本社会への再生は、「共に生きる」ためのさまざまな冒険から実現できることを確信し、今後の活動に有意義な集まりとなりました。
 この会を企画され、準備されたNPO法人共生型経済推進フォーラムに敬意を表します。
                                        報告・文責 細谷常彦

村上春樹さんがスペインのカタルーニャ国際賞授賞式でスピーチした全文1

村上春樹さんが2011年6月9日(現地時間)、スペインのカタルーニャ国際賞授賞式でスピーチした全文
「非現実的な夢想家として」1
 僕がこの前バルセロナを訪れたのは二年前の春のことです。サイン会を開いたとき、驚くほどたくさんの読者が集まってくれました。長い列ができて、一時間半かけてもサインしきれないくらいでした。どうしてそんなに時間がかかったかというと、たくさんの女性の読者たちが僕にキスを求めたからです。それで手間取ってしまった。
 僕はこれまで世界のいろんな都市でサイン会を開きましたが、女性読者にキスを求められたのは、世界でこのバルセロナだけです。それひとつをとっても、バルセロナがどれほど素晴らしい都市であるかがわかります。この長い歴史と高い文化を持つ美しい街に、もう一度戻ってくることができて、とても幸福に思います。
 でも残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、もう少し深刻な話をしなくてはなりません。
 ご存じのように、去る3月11日午後2時46分に日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。地球の自転が僅かに速まり、一日が百万分の1.8秒短くなるほどの規模の地震でした。
 地震そのものの被害も甚大でしたが、その後襲ってきた津波はすさまじい爪痕を残しました。場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても助からないことになります。海岸近くにいた人々は逃げ切れず、二万四千人近くが犠牲になり、そのうちの九千人近くが行方不明のままです。堤防を乗り越えて襲ってきた大波にさらわれ、未だに遺体も見つかっていません。
 おそらく多くの方々は冷たい海の底に沈んでいるのでしょう。そのことを思うと、もし自分がその立場になっていたらと想像すると、胸が締めつけられます。生き残った人々も、その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、生活の基盤を失いました。根こそぎ消え失せた集落もあります。生きる希望そのものをむしり取られた人々も数多くおられたはずです。
 日本人であるということは、どうやら多くの自然災害とともに生きていくことを意味しているようです。日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になっています。毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。各地で活発な火山活動があります。そしてもちろん地震があります。日本列島はアジア大陸の東の隅に、四つの巨大なプレートの上に乗っかるような、危なっかしいかっこうで位置しています。我々は言うなれば、地震の巣の上で生活を営んでいるようなものです。
 台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、地震については予測がつきません。ただひとつわかっているのは、これで終りではなく、別の大地震が近い将来、間違いなくやってくるということです。おそらくこの20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、マグニチュード8クラスの大型地震が襲うだろうと、多くの学者が予測しています。それは十年後かもしれないし、あるいは明日の午後かもしれません。もし東京のような密集した巨大都市を、直下型の地震が襲ったら、それがどれほどの被害をもたらすことになるのか、正確なところは誰にもわかりません。
 にもかかわらず、東京都内だけで千三百万人の人々が今も「普通の」日々の生活を送っています。人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで働いています。今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。
 なぜか?あなたはそう尋ねるかもしれません。どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に生活していられるのか?恐怖で頭がおかしくなってしまわないのか、と。
 日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。
 「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。
 自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のことであるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。
どうしてか?
 桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。
 そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、ある意味では「仕方ないもの」として受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。あるいはその体験は、我々の美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。

村上春樹さんがスペインのカタルーニャ国際賞授賞式でスピーチした全文2

村上春樹さんが2011年6月9日(現地時間)、スペインのカタルーニャ国際賞授賞式でスピーチした全文
「非現実的な夢想家として」2
 今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。
 でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。
 結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。少し揺れたからといって、文句を言うこともできません。ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。好むと好まざるとにかかわらず、そのような自然と共存していくしかありません。
 ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。それらはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、というものではないからです。
 僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。
 みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった六基の原子炉のうち、少なくとも三基は、修復されないまま、いまだに周辺に放射能を撒き散らしています。メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、近海に流されています。風がそれを広範囲に運びます。
 十万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされました。畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。そこに住んでいた人々はもう二度と、その地に戻れないかもしれません。その被害は日本ばかりではなく、まことに申し訳ないのですが、近隣諸国に及ぶことにもなりそうです。
 なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因はほぼ明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、安全基準の見直しを求めていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。
 また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられます。
 我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなりません。その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです。
 日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させるのはそれほど得意ではない。そういうところはあるいは、バルセロナ市民とは少し違っているかもしれません。でも今回は、さすがの日本国民も真剣に腹を立てることでしょう。
 しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。
 ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という二つの都市に、米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、合わせて20万を超す人命が失われました。死者のほとんどが非武装の一般市民でした。しかしここでは、その是非を問うことはしません。
 僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていったということです。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。

村上春樹さんがスペインのカタルーニャ国際賞授賞式でスピーチした全文3

村上春樹さんが2011年6月9日(現地時間)、スペインのカタルーニャ国際賞授賞式でスピーチした全文
「非現実的な夢想家として」3
 戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。どのようなことがあっても二度と武力を行使することはしない、経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、その二つが日本という国家の新しい指針となりました。
 広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。
 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
 素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。
 そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。
 何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?
理由は簡単です。「効率」です。
 原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。
 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。
 そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。
 そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。
 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。
 それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。 そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。
 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
 我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。
 ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。
 「大統領、私の両手は血にまみれています」
 トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。「これで拭きたまえ」
しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界のどこを探してもありません。
我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。

村上春樹さんがスペインのカタルーニャ国際賞授賞式でスピーチした全文4

村上春樹さんが2011年6月9日(現地時間)、スペインのカタルーニャ国際賞授賞式でスピーチした全文
「非現実的な夢想家として」4
 我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。
 それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。
 前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、我々は自然災害の被害を乗り越えていくことができます。またそれを克服することによって、人の精神がより強く、深いものになる場合もあります。我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。
 壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。
 その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。
 最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。
 僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけたことを、誇りに思います。我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られることにもなるのです。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。
 カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、豊かな文化を護ってきたことを僕は知っています。我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。
 日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。
 最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人々に、義援金として寄付させていただきたいと思います。そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。そして先日のロルカの地震の犠牲になられたみなさんにも、深い哀悼の意を表したいと思います。(バルセロナ共同)

=復興支援 特別シンポジウム= 共生型の社会を探る

=復興支援 特別シンポジウム=共生型の社会を探る
     ~被災地の未来と、支え合う地域づくりを共に考える~
 グローバリズムの暴風雨が吹きすさび格差と貧困がますます拡大する社会にあって、生きにくさを抱える人たちを 包摂する「切らない・分けない地域」を創っていくために、多くの制度・施策を動員していくことが必要となっています。
とりわけ、未曽有の被害をもたらした今回の東日本大震災によって、私たちの社会が長年紡いできたセーフティネット網が容赦なく寸断されるなか、痛む人々の暮らしを支え地域の復興をめざす取組みの中から、被災地と、そしてこの社会の未来の希望を見出していく営みが待ったなしで求められています。
 震災から3ケ月を経過し、多くのNPOによって被災地支援の活動が関西からも多彩に取り組まれ、さまざまな経験が市民の手に蓄積されてきています。こうした新たな経験とセーフティネット網をつなぐため、これまでの市民の活動をつなぎ合わせながら、具体的な地域づくりに活かしていくことが求められています。
 今回、復興支援のための特別シンポジウムとして、元「派遣村」村長であり、現在は、内閣府・震災ボランティア連携室の室長として被災地復興や地域再生の取組みの中心に立つ湯浅誠さんをお招きし、最前線の現状・課題・展望などをお話しいただきます。
 さらに、この間、関西でさまざまな経験を積み重ねてきた皆さんと、これまでの蓄積を私たちの未来にどう活かしていくのか、共に探っていきたいと考えています。 多くの皆さんのご参加をお待ちしています。
<日にち>   2011年7月2日(土) 13時半~17時 (※13時開場)
<開 場>   大阪市立浪速区民センター 
          ※最寄駅:地下鉄千日前線「桜川駅」
           (7番出口からなにわ筋を南へ約300メートル西側)
          ※地図等:http://www.osakacommunity.jp/naniwa/index.html)
<参加費>   1,000円(資料代)  
<タイムテーブル>
●13:30~13:45  開会あいさつ
●13:45~14:45  基調講演  湯浅 誠 さん
           (内閣府参与 社会的包摂推進室長/震災ボランティア連携室長、
               元「派遣村」村長)
●14:45~15:00  休憩
●15:00~16:45  パネルディスカッション 「被災地の未来と、支え合う地域づくりを考える」
 ・ パネラー     湯浅   誠 さん
             勝部 麗子 さん(CSW。豊中市社協 地域福祉課長)
            齋藤 縣三 さん(NPO法人共同連 事務局長)
            有井 安仁 さん(わかやまNPOセンター 副理事長)
 ・ コーディネータ  法橋 聡(近畿ろうきん地域共生推進室 室長)
●16:45~17:00  閉会
<主 催>   NPO法人 共生型経済推進フォーラム
          ※電話・FAX:0727-25-0244(ちまちま工房内)
<協 力>   近畿ろうきん地域共生推進室 (予定)
<申し込み>  メール・FAXにて、氏名・所属(職業)・連絡先(電話番号他)を沿えてお申し込みください。
          e-mail : kiranaiwakenai@yahoo.co.jp FAX:上記番号
          ※お申し込みいただいた個人情報は、本シンポジウムの運営についてのみ使用します。

おわびと訂正

おわびと訂正
震災以後寄せていただいた救援金の合計がまちがっていました。
申しわけありません。おわびとともに訂正します。
震災以後寄せていただいた救援金は 6月15日現在152,530,242円 です。

大盛況でした。「映画で共に生きる社会を~被災地を取材した記録から」

 6月12日(日)、箕面文化・交流センターで開かれた「映画で共に生きる社会を~被災地を取材した記録から」はあいにくの雨模様にもかかわらず、約150人の方々が参加され、大盛況でした。主催された(「障害者とともに」を考える企画グループ)ちまちま工房」のみなさんをはじめ、スタッフのみなさん、ご苦労様でした。
 第一部では映像作家・今村彩子さんが「目で聴くテレビ」のスタッフとともに被災地を取材したドキュメンタリー映画「架け橋~東日本大震災 宮城の被災ろう者は今~」が上映されました。
「目で聴くテレビ」は、聴覚に障害のある方のための放送局で、1995年の阪神大震災の教訓をふまえ、全日本ろうあ連盟、全日本難聴者中途失聴者団体連合会などが中心となり、98年からはじまった放送局です。聴覚障害者自身がキャスターやカメラマンとして番組制作に参加し、ニュースや地域の話題からスポーツ、手話学習、災害時の情報まで、手話と字幕をつけてさまざまな情報を提供しています。
 今村さんは聴覚障害者で、「目で聴くテレビ」のディレクターとして活躍されています。 今回の震災で被災地の聴覚障害者がどうしているのか、いまどんな問題をかかえているのかを直接自分でたしかめ、多くのひとにつたえようとこの映画を製作されました。
 3月22日、まず宮城ろうあ協会の会長の話では、避難所のろう者は手話で話をできるひとはいなくて食料や毛布などの情報がつかめず、常にまわりのようすを見ていなければならず、ストレスがたまるというものでした。テレビ放送でも手話通訳がつかず、それはNHKに要望して手話通訳がつくようになりましたが、テレビによっては手話通訳者の映像が切れてしまう。会長さんをはじめ、取材したすべての当事者が、基本的に、聴覚障害者にも、そしてどんなひとにでも情報が届く社会にしなければ、災害が起きるとたちまちいのちにかかわる困難な状況においこまれてしまうことを、切実に訴えておられました。
 避難所にいるろう高齢者夫婦は、地震直後、近くにあるものにしがみつき、ゆれが収まるのを待っていたら、近所のひとが避難するよう伝えてくれて、すぐに家を出たら直後に津波で家が流されてしまったそうです。その家を一緒に見に行くと、家はまったくありませんでした。
 もうひとりのろう高齢者夫婦は床屋をしていて、震災前まで開いていたお店に案内してくれました。お店のドアを開けると泥水でぐちゃぐちゃの椅子やタオル、はさみや櫛、壁や床が目に飛び込んできました。壁にかかった時計は地震のあった2:48で止まっていました。
 映画は惨状を映しながらも、聴覚障害者が当事者同士で安否の確認や問題の解決にむけて助け合っていこうとする姿や、この映画を通じて被災地の聴覚障害者にメッセージを伝える全国の聴覚障害者を映し出し、映画のタイトルどおり被災地の聴覚障害者との「心の架け橋」がつくられていくことを期待して終わりました。
 この映画の魅力は、なんといっても聴覚障害当事者の監督が自ら取材し、インタビューすることで、被災地の聴覚障害者の心をやわらげることができるだけでなく、聞こえるものにはわからないコミュニケーションの現場が映し出されることにあります。
 通常でもそのことに感動しますが、震災というとてつもなく悲しい現実に直面する中での出会いは、取材する者と取材される者という関係だけでない「友情」がこの映画を通してどんどん生まれていくことにより深い感動を呼び起こすのでした。
 第2部のシンポジウムでは、今村彩子さんが生まれつきのろう者で、家族とテレビを見て楽しむことができませんでしたが、お父さんがレンタルビデオ店で「E.T」や「ロッキー」などの洋画を借りてきてくれて、映像と一緒に内容がわかることが、とてもうれしかったというお話をされました。そして、自分も映画監督になって、聴覚障害者に限らず、多くのひとに元気や勇気を分けてあげられるような映画を作りたいと思ったということでした。
もうひとりのシンポジストの古井正代さんは古くから主に関西の障害者運動を牽引してきた方で、今回福島県の被災地障がい者支援センターを応援するために福島県に行かれ、そこで感じられたことをお話されました。
 被災地では、地域であたりまえに障害者が暮らすことが危機に瀕しています。そのなかでも福島の場合は、原発被災が与える人災で、のっぴきならない方向へ進んでいます。
 2回目の訪問で郡山の避難所に行った時、ひとりの医師から話を聞きました。この医師はもともと原発に隣接する町で開業医をしていたそうです。震災後、彼は酸素ボンベを命綱として暮らす人々を何人も看取ったとのことでした。医療機器が不足する状況において、ただ死を待つことしかできない人々と時間を過したそうです。彼はもう医療機器の不足から人々が命を落とすことがないようにしたいと、現在担当する福祉避難所では、要介護者を全て医療機関の整っている近隣市町村の施設に送る取り組みを始めました。そのような状況で、現在避難所には介助の必要な障害者・高齢者がほとんどいない状態です。
 この医師の思いがわからないでもありません。しかし、あえて指摘させてもらうならば、避難所に来てから施設に移送される過程において、現状では障害者の決定権が入り込む余地はないと予想されます。わたしたち障害者は、30年以上障害者の運動をしてきて、脱施設化に向けて運動してきました。
今日被災地では障害者の置かれている状況はどうでしょうか。このような災害が起こるたびに人権も何もない状況に置かれることになってしまいます。
 今、とくに福島ということで、差別がいっぱい起こっています。障害者に限らず、福島ということで避難してきたひとに「放射能がうつる」とか、「来るな」とかあからさまに言われるそうです。
わたしたちは福島県を差別するようなことにしてはいけません。
 福島の問題はわたしたちの問題であり、障害者運動にとってきわめて大切な問題を示していることを知ってほしいと思います。
 今後どうあるべきか、課題についての論議では福祉避難所として聴覚障害者だけの避難所が必要であると今村さんも、映画の中で被災地の聴覚障害者も、箕面の聴覚障害者も口をそろえて話されました。
一方で古井さんは日頃の町をバリアフリーにし、聴覚障害者も視覚障害者も、だれもが当たり前に暮らせる街づくりをすれば、いざというときもバリアフリーとなると話されました。
 福祉避難所をつくるべきか否か、福祉避難所はどんな避難所なのか、これはわたしたちの中でも論議がわかれるところでしょう。
 阪神淡路大震災以後いくつかの災害を経験したにもかかわらず、避難所が劣悪な環境しか用意できないだけでなく、非常時だからがまんすることを被災者に求めることが多々ある現実があります。その劣悪な環境を変えるプロセスで、避難所のバリアフリー他、手話通訳者の配置、さまざまな障害者に対応できる避難所にしていく基本的な考え方があれば、特別に福祉避難所を用意するのではなく、どこでもさまざまなニーズに対応できる福祉対応の避難所が実現することになります。
 ただ、それを目標としつつもそこにいたるまでまだまだ長い年月を必要とするなら、そしてもしかするとその目標自体が幻想と化してしまうほど、差別のない社会の実現が困難なら、特別なニーズを持つ人々のための福祉避難所が必要になり、その整備を強く呼び掛けることになるのでしょう。
 この論議は、わたしたちがどんな社会を望むのかという、被災地にかかわらず日本社会全体の課題から浮かび上がる論議だと思いました。
 わたしたちの活動の中でも、なかなか情報が入りにくい聴覚障害者の被災情報など貴重な記録を映像化した今村彩子さんに敬意を表すとともに、古井さんの基本的な人権を視点にしたするどい報告と提案に賛同しました。
 この企画をされ、準備をされた方々の努力が報われた、とてもいい集まりになったことを報告させていただきました。
                                             細谷常彦

復興支援 特別シンポジウム

=復興支援 特別シンポジウム=
        共生型の社会を探る
     ~被災地の未来と、支え合う地域づくりを共に考える~
 グローバリズムの暴風雨が吹きすさび格差と貧困がますます拡大する社会にあって、生きにくさを抱える人たちを包摂する「切らない・分けない地域」を創っていくために、多くの制度・施策を動員していくことが必要となっています。
とりわけ、未曽有の被害をもたらした今回の東日本大震災によって、私たちの社会が長年紡いできたセーフティネット網が容赦なく寸断されるなか、痛む人々の暮らしを支え地域の復興をめざす取組みの中から、被災地と、そしてこの社会の未来の希望を見出していく営みが待ったなしで求められています。
 震災から3ケ月を経過し、多くのNPOによって被災地支援の活動が関西からも多彩に取り組まれ、さまざまな経験が市民の手に蓄積されてきています。こうした新たな経験とセーフティネット網をつなぐため、これまでの市民の活動をつなぎ合わせながら、具体的な地域づくりに活かしていくことが求められています。
 今回、復興支援のための特別シンポジウムとして、元「派遣村」村長であり、現在は、内閣府・震災ボランティア連携室の室長として被災地復興や地域再生の取組みの中心に立つ湯浅誠さんをお招きし、最前線の現状・課題・展望などをお話しいただきます。
 さらに、この間、関西でさまざまな経験を積み重ねてきた皆さんと、これまでの蓄積を私たちの未来にどう活かしていくのか、共に探っていきたいと考えています。 多くの皆さんのご参加をお待ちしています。
<日にち>   2011年7月2日(土) 13時半~17時 (※13時開場)
<開 場>   大阪市立浪速区民センター 
          ※最寄駅:地下鉄千日前線「桜川駅」
           (7番出口からなにわ筋を南へ約300メートル西側)
          ※地図等:http://www.osakacommunity.jp/naniwa/index.html
<資料代>   1,000円
<タイムテーブル>
●13:30~13:45  開会あいさつ
●13:45~14:45  基調講演  湯浅 誠 さん
(内閣府参与 社会的包摂推進室長/震災ボランティア連携室長、元「派遣村」村長)
●14:45~15:00  休憩
●15:00~16:45  パネルディスカッション 「被災地の未来と、支え合う地域づくりを考える」
 パネラー   湯浅誠 さん                                    
勝部 麗子 さん(CSW。豊中市社協 地域福祉課長)
        齋藤 縣三 さん(NPO法人共同連 事務局長)
        有井 安仁 さん(わかやまNPOセンター 副理事長)
コーディネータ  法橋 聡(近畿ろうきん地域共生推進室 室長)
●16:45~17:00  閉会
<主 催>   NPO法人 共生型経済推進フォーラム
<協 力>   近畿ろうきん地域共生推進室 (予定)
<申し込み>  メールにて、氏名・所属(職業)・連絡先(電話番号他)を沿えてお申し込みください。
          e-mail : kiranaiwakenai@yahoo.co.jp
          ※お申し込みいただいた個人情報は、本シンポジウムの運営についてのみ使用します。