みやぎ登米支部・「そうそうの杜」活動日誌 NO.28

みやぎ登米支部・「そうそうの杜」活動日誌 NO.28
 社会福祉法人「そうそうの杜」は、被災地障がい者センターみやぎ登米支部を拠点にして、地元グループ「ハグハウス」とともに登米市や南三陸町の仮設住宅での移動カフェをしながら個別支援活動をしています。
「そうそうの杜」・東日本大震災派遣報告書 NO.28
日時:2011年9月30日(金) 天気:雨
報告者:N、K
9:00~12:00 荒砥第一仮設にてカフェ、Wさん送迎
12:00~17:00 荒砥第二仮設調査
活動した上で感じたこと
 荒砥第一仮設にてカフェを行う。この仮設ではカフェをすることが初めてのようらしく暖かく歓迎してくれる。天気が悪く談話室でカフェを行う。ビラを皆さんに配ると談話室の隅っこの方に紙コップで遊んでいる障がいをもった方を見かける。
 カフェに集まっている地域の方にお話を聞いてみると、名前はTさん、29歳 女性の方、四人姉妹の長女、療育手帳B2で自閉傾向で今回は近所の付き合いで普段は家にいることが多いがたまたま出てこられたとのこと。
本人さんに話しをすると初めての人ということで警戒があり話はしてくれない、周りが盛り上がると一緒に笑われている。周りの人とは良い関係が続いているようで心を許しているように見える。その後お母さんが来られたようで詳しくお話を聞かせてもらう。障害の程度がボーダーの為作業所に行けばいいのか、外で働かせていいのか分からない状態で自分の家を民宿にすることで家の手伝い(掃除、配膳)をされていた。
 震災があり民宿が流れてしまい今では仮設にて家事の手伝いをされている。日中の活動の場が必要だと感じる。小さい頃から障がいがあることが分かり周りに相談することもできず母一人で動かれていたようで養護学校へ行くことで手帳の取り方や手続き等教えてもらいそれまでは何もわからなかったとのこと。
 周りは子どもが障害があることを隠す家庭もいるようであり、その地域では誰にも相談できないことから隠していかないといけない風習があるみたいである。お母さんは障害をもっていても困ったことはないと話される。母親がいなくても地域の中で場所を作られてきているように見える。地域が団結しており時折会いに行く程度でいいかと感じた。月1回最終金曜日に荒砥第一仮設にてカフェを行う。
Wさん送迎するも鬱病が悪化し通院する。薬を減薬していたようで本人は入院したい様子である。精神的な付加がかかっていたようであるが、昼食時は表情明るく食べられている。
 荒砥第二仮設にハグの恵さんと一緒に今後のカフェの開催を行っていいか第二仮設の自治会長さん訪問するが不在。
 仮設にいた人に声をかけ家の中へ招かれる。食べ物の振る舞いでお腹いっぱいになる。津波の話をたんたんと話されていた。
感じたことを改善・向上させるのに必要なこと
 ハグハウスと登米との連携を強化していく。
備考
 Kさん会議にてJDF11月でKさん送迎終了。

みやぎ登米支部・「そうそうの杜」活動日誌 NO.27

 社会福祉法人「そうそうの杜」は、被災地障がい者センターみやぎ登米支部を拠点にして、地元グループ「ハグハウス」とともに登米市や南三陸町の仮設住宅での移動カフェをしながら個別支援活動をしています。
「そうそうの杜」・東日本大震災派遣報告書 NO.27
日時:2011年9月29日(木) 天気:晴れ
報告者:N、K
9:00~12:00 S君送迎、事務処理
12:00~17:00 S君送迎、中瀬仮設にてイベント参加
活動した上で感じたこと
 登米拠点にあるパソコン3台を共有する為ハードディスクを購入する為家電屋に向かう。2万円以上掛かるようで今回は諦める。今後見積もりを出し新しいPCを買う予定。そんなにPCが必要だとは感じないが・・・。
加島と育成会でS君送迎。車中はよく喋られている、女性がいることで反応されているのかも知れない。来週の火曜日はS君通院の為お休み。送迎の道順を引き継いでもらう。
 自治会長がボランティアに対して厳しい、中瀬仮設のイベントに参加。今回はミュージシャンが来られ談話室にてライブを行い、住人の方たちが見に来られる。
 最初は少なかったが、除々に増え楽しんでいた。避難所にてさんしんを自衛隊の人が教えていたようで、そこで練習していた女の子がソウルと夢の競演を果たしており、感動的であった。少しの間だが知り合いもでき、会えば会話を交わして楽しい雰囲気になってきた。みなさんとても気さくに会話され嬉しく思う。
 自治会長の方との関わりを持ち今後に繋げるよう挨拶するが、あまり会話進まず終わる。そこに入っているボラに話を聞くが、障害者の方はいないとの事。ボラは、カフェやマッサージ、炊き出しなどしていろいろと住民の方と関わっている。
 なかなか関係をとるのは、土地柄もあり難しいと感じる。
感じたことを改善・向上させるのに必要なこと
 地域の人の声を大事にし、まずは関わることから始めたほうがスムーズ。

「社会福祉法人ゆうのゆう」の被災地支援ニュース

被災地障がい者センターいわての活動を継続的に支援する「社会福祉法人ゆうのゆう」の支援ニュースNO.94より
報告者 S
 支援最終日。今日は遠野にある事務所のお掃除に行った。とってもいい天気。日差しが痛いくらいだ。蜘蛛の巣が張り巡らされた元事務所は、以前ここで寝泊まりして支援活動していたであろう人たちの姿を彷彿とさせた。
気持ちのいい汗をたくさんかきました。
 センターは、新しい宮古市の新拠点のこと、これから来る冬の準備に取り掛かり、これからも多忙な毎日を送ることになる。まだ予想仕切れない冬の支援…新しいニーズも出てくるだろうし、これを機にまた新しいケースが舞い込んで来るかもしれない。固定スタッフ主力の元、ボランティアスタッフがフォロー的な役割で進めていくというスタイルが、今後もよりはっきりとなっていくだろう。このスタイルをお互い深め合い、スムーズに連携していくことが大事になってくるのかなと思いました。
日 付 スタッフ
9月9日(金)~9月15日(木) S
9月16日(金)~9月22日(木) N
9月23日(金)~9月29日(木) K
9月30日(金)~10月6日(木)  K
10月7日(金)~10月13日(木) T
10月14日(金)~10月20日(木) K
10月21日(金)~10月27日(木) I
10月28日(金)~11月3日(木) K
11月4日(金)~11月10日(木) K
11月11日(金)~11月17日(木) O
“いつもの業務にプラスαを”―
 例えば、被災地の人たちとの会話の中で、ただ支援の必要性や支援物資の要望だけを聞くのではなく、相手と一緒に楽しもうと思ったり、少しでも、ただの一瞬でも自分と話することで楽になれたら…などの目的を持ってアプローチすること。これが1週間しかいれない私たちボランティアにとって、すぐにできる唯一の直接的な支援ではないか。
 大阪に住む私たちだからこそ今被災地にできることを考える。ボランティアスタッフに求められるものを考え、意識すれば、主となるスタッフと共に、より良い働き方ができるのではないかなぁと個人的に思いました。
 1週間被災地支援に来て、たくさんのことを学び、気付かされました。被災地の現状をニュースなどで見ることしかできなかったのが、ここに来て“被災地の今”を肌で感じることができて良かった。
 まだ瓦礫等の残る被災地の何とも言えない姿、前を向いて頑張って生きていこうとされている仮設に住む人々の強さ、津波で何もかも流されてしまったけど、海を許し、海を憎まないと言い切ったご老人の決意、自分も大変な状況なのに、それでも他人のことを心配するおばぁちゃんの優しさ、車椅子を押され、元気に今日も外に遊びに行く障がいをもつ人のいっぱいの笑顔…本当に本当にたくさんの勇気と元気を頂きました。
 支援しに行ったのに、私の方がたくさん学ばせて頂き、背中をたくさん押して頂きました。そして、私以外の大勢の人もきっと背中を押されたと思う。
この震災がもたらしたもの―
 被災地には日々、色んな場所からボランティアが来て、どんどん繋がっている。大阪に帰れば、被災地の方への直接的な支援は難しいですが、全ての物事は必ず何らかの形で絶対につながっていると思うので、大阪で支援を頑張ることは間接的に被災地の方の支援につながっていると思い、日々頑張りたいと思います。
 一つの物事から得たものを、全体につなげることができた時、それは個人の“力”となっていく。この経験で得たものをここだけでとどめることなく、全体に繋げていければいいなぁと思います。

「社会福祉法人ゆうのゆう」の被災地支援ニュース

被災地障がい者センターいわての活動を継続的に支援する「社会福祉法人ゆうのゆう」の支援ニュースNO.85より
 3日。台風が西日本に上陸するというニュースを聞き、岩泉町へ出発。岩手県では雨が降ったりやんだりの落ち着かない天気ですが、強い雨はありません。
 岩泉町の仮設住宅へ。まずは4歳の発達障害の子どものお宅に物資を届けました。4歳の子どもがおもちゃで遊ぶ姿が可愛すぎて、まさに癒しの時間でした。その後、様子を伺いにお二人訪問。一人は不在でしたが、もう一人の方は笑顔で迎えてくれました。母親や父親はいないというジェスチャーをしながら玄関に。元気に施設に通われているそうです。
 その後は宮古市の田老の仮設住宅へ。ここでも様子を伺いにお二人を訪問。一人目の方はダウン症の方で、本人、父親と話をしました。父親はやることがないという話を繰り返されており、確かに5月に比べれば落ち着きましたが、今度は時間が有り余ってきているようです。もう一人の方は知的障害があり聾でもある女性と話しました。私も下手な手話で会話。気持ちは通じたようで楽しい時間でした。今度、地元の方から紹介された宮古市の施設の見学に行かれるそうです。
 どなたも訪問を笑顔で迎えてくれました。前回の派遣よりも、仮設住宅を回り聞き込みをすることは少なく、巡回しながら話を聞くことが多くなってきた印象です。落ち着いて話せる時間が増え、「顔と顔がつながっている関係」も実感できてきました。顔を合わせることでの安心感は大きいものがあると個人的には考えています。現地の方はどのように感じているのか気になるところですが…
 今日は西日本での台風が気になります…大阪や実家は大丈夫かなと思いつつ寝床に入りました。
 5日。とうとうボランティアは私と神戸からの同い年の人の二人になりました。今日は沿岸部への支援はなく、全員事務の日。午前中、台風のニュースにくぎ付けになることもありましたが、たまった事務の仕事を皆で片付けました。
 昼からは専従者会議です。私はというと…会議に参加できなかったので、部屋で待機。何を話し合っているのか気になりながらも、ひたすらボランティア二人で話しまくってました。
 会議後に合流し、事務仕事。仕事終わりには皆でお好み焼きを食べて談笑。今日はゆったりとした一日でした。岩手は涼しい空気でそこまでは寒くないです。冷房をつけると寒く感じることはありますが、まだまだ半袖で活動しています。ただ夜になると少し冷え、秋の空気も漂っています。

ヒデの救援レポート、10月3日

ヒデの救援レポート、10月3日:40
 宣言!このヒデのレポートには、毎回、1万文字を使っていますが、読者の方々、特に、携帯電話でお読みになる方たちから、大切な情報ではあるけれど、長文に過ぎる、読みづらいと、クレームが来ています。
という事で、それらのご意見に応えて、毎回5千文字をメドに、発信しょうと、ヒデは結論したのであります!(笑)
 まぁ、各種の救援活動をなるべく目こぼししないようには、しますけれどもね。正直なところ、ヒデもその方が、気持ちもからだも楽なんですよね。そこんところをよろしくご理解くださいませ。ヒデ拝
 被災障害者支援ゆめ風基金に寄せられた救援金、金額は、9月29日までに、183479076円です。これまでに支援した団体、個人への金額。支援総額は、9月26日までに、98912600円になります。まだ、未発表のものもあります。
 このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌そよ風のように街に出よう編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。広く知ってもらいたいので、転送自由。自由にお使いください。
 息の長い救援が求められています。長期戦です。救援金の送り先は、郵便振替口座00980-7-40043ゆめ風基金です。;とうほく;と書いてください。
東日本大震災救援活動の中のボクの風景
 吾亦紅と名付けられた植物は、小さな赤い花をつけます。大輪の紅薔薇のようにではなく、ひっそりと。
大きな声、叫び。大勢の群集の権利要求、強い権力ではなく、小さく、ひっそりと。しかし、その大勢の人たちと同じように、わたしにも、赤い血潮がしっかと流れているんだぞと、われも、また、赤い吾亦紅と咲くのです。
前にも書いたことがありますが、人権ヤクザと陰口を叩かれるヒデではありますが、柄にもあるまじく、花が好きなんですよね。(にが笑い)
 ゆめ風基金事務所の前の並木の根元は、周りのコンクリートの海に浮かぶ小島のように、そこだけが土の地図なのです。その場所、2ケ所なのですが、周りのビルに住んでいるのであろう、誰かが、花苗を植え、種を育てられているみたいなのです。
 ヒデは、実際に、その作業をしている姿を見てはいませんが、道路を行き交う、ビジネスや働き人の姿をしている人びとが、時折、立ち止まって、あれこれの花に、見入っている姿を散見することがあります。
夏の終わり、秋風がそよ吹く中で、ヒデの名前も知らない、小さな花々が、ピンク、オレンジ、ホワイト、レッドの色を精一杯、小さな花弁を使って、今を盛りと、咲き誇っています。無理をせずに、自然に、なんとなくです。むろん、土の中では、それぞれが根を張り合って、種の未来のために、自己主張しているのだけれども、そんなことは、おくびにも出さず、あくまで、自然に、花色を競い合い、可憐に、綺麗に咲くばかりです。
 大震災被災地から、台風被害地から届く、あれこれの、胸突かれる情報に接すると、ともすれば、無理をしているヒデの顔が鏡に映ってしまうのです。オッサン顔のヒデですから、あの可憐な花々のように、見栄えがするはずはありません。それは保証します。(笑)
 でも、今回の大震災からの、ひとびと的復活には、どう考えても、膨大な時間とお金、人智が要求されます。折れることなく、挫けることなく、笑いながら、自然な態度で、永くなるであろう道程を、情報を集め、発信しながら、お金を集め、支援のために使い続けねばなりますまい。そんなことを、秋風に揺れる花々から教えてもらう、ヒデの今です。とかなんとかいいながら、またまた花々を前にして、タバコをふかすばかりのヒデでもあります。
●サテライト自立生活センター長期避難拠点設立計画ー福島県内の自立生活センター共同連携にてー
被災地障害者センターふくしま代表・白石清春その第2回目
●2・具体的準備
1・先発隊の者が、神奈川県内の各市に行き、各市の情報を集める。市役所などに出向いて人口、予算規模、福祉関係予算、福祉サービスの程度と種類、交通の便利さなどを調査していく。
2・調査結果をみて、神奈川県の障害者団体と協議したうえ、中心拠点となる市を確定していく。
3・中心拠点となる市に事務所と住居一軒家等の場を確保する。そこに代表者が各自立生活センターの職員と一緒に常駐して交代で障害者・ボランティアなどを発掘していく。行政職員、社協職員との関係をいち早く作っていく。その地域の障害者団体、障害者関係事業所、養護学校、障害者入所施設、介護保険関係事業所を回り、生活保護利用者や自立生活センター関係者などを探していく。または、大学や高校を回って、ボランティアを探していく。
4・中核拠点となる市の障害者が何名か集まった段階で、福島県内から若い障害者と若い職員を移住させ、まずは生活介護事業所を立ち上げ、障害者や職員の生活を確保していく。
●3・本格的な計画移住
1・生活介護事業所を拠点としてさらにサービスが必要な障害者を探し出して、自立生活センターを立ち上げる。福祉サービスの提供と、相談支援ピアカウンセリング、自立生活プログラム等を行っていく。うまくいけば、若い障害者を見つけ出して、ILの運営を担える者や、障害者運動を行える者などを育成していく。
2・中心拠点の自立生活センターと生活介護事業所が軌道にのった段階で、さらに周辺の市に第二拠点をつくっていく。第二拠点に残りの福島県の自立生活センター関係者を移住させて、第一拠点と同様の方法で、第二拠点に生活介護事業所を立ち上げ、自立生活センターを並行して開設していく。神奈川県内各地に、第三、第四、第五の自立生活センターを作っていきたい。そして神奈川県内の障害者団体と連携してしていき、神奈川県内の障害者運動の活性化に協力していきたい。
3・福島県内の自立生活センターと関係のある障害者関係事業所関係者らと連絡を取り合って、事業所単位ごとに神奈川県内やその周辺候補地を探して集団避難させていく。
●4・長期的計画の利点
1・福島県民はなかなか自分の土地を離れようとしないので、障害者自らが先頭にたって福島県を出ていこうというアクションを起こせば、みんなも同調して避難するようになるだろう。その口火を切るために、私たちは動いていく。
2・今まで神奈川県内には自立生活センターは、少ない数しか存在しなかったが、私たちが神奈川県に行って活動することによって、何ヶ所かの自立生活センターがつくられていくことになるので、全国自立生活センター協議会にとっても朗報になるだろう。
3・私たちが神奈川県内の各市に自立生活センター等の拠点を作っていくことにより、その地域の障害者を発掘していくことができ、障害者運動を行う後輩たちを育てていくこともできるのではないだろうか。そして、神奈川県内の障害者団体と連携していくことによって、神奈川県内の障害者運動を活性化していくことができるのではないだろうか。
4・長期的視点に立てば、神奈川県から別な地方千葉県、長野県等にも移動していって、自立生活センターを広めることができるだろう。
5・30年間ぐらいたてば、福島に住民が戻ってこられるようになるのかも知れない。そのときに各地に分断して後輩たちを福島県に戻して、新たな自立生活センターを立ち上げていくこともできるだろう。
●全国各地に福島県の障害者ネットワークをつくっていこう。以上

10月10日 みやぎアピール大行動2011開催

被災地障がい者センターみやぎのブログより
みやぎアピール大行動2011開催
被災地は訴える!今こそ確かな障がい者制度改革を!
私たち抜きに私たちのことを決めるな!

2011年10/10(月・祝) in せんだいメディアテーク(オ-プンスクエア)
・アピール大集会 12:30~
・アピール大行進 16:00~
※大行進コース
市民の広場集合(グリーンハウス前) ~ 一番町買物公園アーケード
~ ぶらんどーむ ~ 青葉通~仙都会館流れ解散
《内容》
・制度改革について基調講演:尾上浩二 氏
・福島からの特別報告
・当事者アピール
・アピール文採択
【アピール文(一次案)】
3月11日を私たちは忘れません。
あの日、大地は揺れ、津波が襲い、放射能はすべてのものにふりそそぎました。
私たちの生活は大きく変わり、障害があるが故の困難さにも直面しました。
あれから7か月。再生へ向け模索する日々はまだまだつづいています。
その困難な状況の中でも、障害者制度改革へ向けた議論は続けられました。改正障害者基本法の制定をはじめ、総合福祉部会でまとめられた新法への骨格提言案が、障がい者制度改革推進会議へ報告され、障害者総合福祉法(仮称)制定へ向けた動きが進んでいます。
「私たち抜きに私たちのことを決めないで!」障害者自立支援法廃止を求め、粘り強く続けてきた私たちの運動は今、最終コーナーを迎えようとしています。
震災時、私たちは日ごろのつながりのありがたさ、そしてそれを支える制度・仕組みの大切さを痛感しました。新しい制度は、非常時における障害者の生活をも支えるものであって欲しいと思います。
私たちは、今日この場に集まった仲間、集えずとも同じ思いを強くもっている仲間たちとともに、国・政府に対し、障がい者制度改革推進会議の意見を尊重した、真に障害者のための制度改革の早期実現を強く求め、ここにアピールします。

1、国に対しては、次のことを要望します。
● 原則1割の「応益負担」を即刻中止すること
● 障害者権利条約の理念及び推進会議の意見を尊重した新制度を、早急に審議・確立するとともに、それに向けた法制度を整備すること
● 精神障害者の社会的入院・長期入院を解消するために、精神科病床を大幅に削減し、地域生活への移行を推進するとともに、精神医療における法的手続きの適正化を図ること
● 難病、高次脳機能障害、発達障害等、あらゆる障害を対象にすること
● 就労、年金を含め、所得保障制度を整備すること
● すべての事業に対する十分な運営費を保障し、事業所報酬を原則月額払いに戻すこと
2、宮城県及び各市町村に対しては、次のことを要望します。
● 障害者権利条約の理念に基づいた障害者差別禁止条例を早期に制定すること
● 地域生活支援事業の拡充をはかること
● 市町村の格差を生じさせないため、県は市町村への強い指導及び支援施策を行うこと
● 障害当事者の意向を反映させた福祉施策の充実に努めること
● 障害当事者のニーズにそった形で、災害時障害者支援体制を充実すること
※上記のアピール文(案)の内容を次回9/21(水)実行委員会で検討します。
発行/みやぎアピール大行動実行委員会
仙台市宮城野区松岡町17-1-102(コッペ内)
メール:appeal318★hotmail.co.jp  ★→@

大船渡市の作業所「かたつむり」より

ゆめ風基金様
 初めまして、大船渡市の作業所「かたつむり」の吉田と申します。
 この度の東日本大震災での復興支援心より厚く感謝申し上げます。
 私共は大船渡市において10年前より知的障がい児を持つ親20家族で結成した団体です。お茶会から始まり、それぞれの障害理解や悩みの共有、情報交換を経て子供達の成長に合わせた活動やイベントを行いながらやっと4年前に古いアパートを借り拠点を設け運営できるまでになっていましたが、不幸にも3月11日の震災で跡形もなく流され全てを失ってしまいました。
 私の自宅前にあったその作業所は築40年程のアパートは、お化け屋敷のように足を踏み入れるにはかなりの勇気が必要なほど朽ちかけ、蜘蛛の巣をはらい足場を確認しながらの片付け作業、和式トイレ(昔の小学校のような)を工務店から中古洋式便座をもらい会員のおじいさんに改修工事、仲間の電気工事屋さんに電気をつけてもらう、もらった畳を敷くなど何年もかけ手入れをしながらようやく作業所と言えるまでになったものでした。
 津波の翌朝、高台からみた無残な光景に悔しさと絶望で泣くことも動くこともできなかったことを覚えています。津波警報の解除の放送が終わらぬうちに神社の階段を駆け下り瓦礫を乗り越え向かったものの繰り返す余震で近づけず、3日目ようやく現場に行ってみると瓦礫すらうちの物ではなく思い出の品一つ見つけることができませんでした。
「かたつむり」、かたつむりのようにゆっくりでいいから確実に前に進もう、危ない時は殻で身を守り、進んだ後にはキラキラしたものを残せたらと皆でつけた名前です。
 活動拠点ができるまでは学校、地域、年齢、障害などの枠を持たずお茶会や行事、イベントを主におこない、拠点を構えてからは革細工、畑作業、資源回収、販売等を増やし地域交流を積極的に行い障害理解に努めました。特にも資源回収は、高齢者には分別(ラベル取りやダンボールの紐結び)が難しいので助かると喜ばれ、自分達が誰かの役に立っていると思える良い作業だったと思います。
 作業所と自宅があった場所は地域ごと更地となり、地区の人々もばらばらになってしまい今はどこに誰がいるのかさえわかりません。住む場所もなく避難所生活や仮設住宅で暮らさなければならない厳しい現実に作業所の再開など無理と解ってはいたのですがどうしても諦めきれず、市役所に行き何かしらの支援に該当しないか確認したところ、作業所に居住していなければならないということで行政からの支援はすべて対象外、せめて仮設の建物を・・の望みも絶たれ、もう「解散」するしかないと腹をくくったのですが、震災から3か月が過ぎた頃、高齢協「すずらん」の武田さんから連絡があり「作業所流されたでしょう・・一緒にやりましょう」と言われ、「解散」しか考えていなかった私にはあまりにも突然すぎて頭の整理が追い付かず直ぐにお返事することができませんでしたが、以前武田さんが話されていた障害者施設の現状への不安やこれからの施設の在り方、目指す作業所とは、などが私達の考えと一致していたことを思い出し、もしその作業所を作ることができればこの地域になかった新しいスタイルの作業所で「かたつむり」の思いと活動も継続できる、何より選ぶ施設が一つ増えることは被災で行き場を失くした障害者やその家族には大きな助けとなるはずと考え「すずらんとかたつむり」として頑張っていくことといたしました。
 6月から片付けと改修をスタートしたのですが、トイレが無い、水が出ない、ガスない、店がない、のないないづくしで作業は難航し、やっと付いた応急トイレは狭く車椅子や介助が困難でトイレの数も足りません。食事提供しているのですが台所も狭くシンク前に二人立つことが出来ない為、作業が効率良く出来ず利用者が多い時は定時に出せきれないことがあります。
 また 作業と休憩と食事を同じ部屋で行うため、ばたばたといった感じで気ぜわしく利用者が落ち着けない不十分な環境にもかかわらず9月10日の開所以降、利用者の数は増え、重心の方の希望やディサービスをおこなってほしいなどのニーズもあります。早い対応を考えると入浴設備も必要になるのですが、ただ高齢協(すずらん)さんには障害についてより詳しい方(専門)が少ない為 都度 説明と理解に時間を要す、といった部分も一部ありなかなか思うようには進みません。
 「すずらんとかたつむり」のスタッフさんは保護者さんや利用者さんにとても評判が良く、保護者さんや地域のボランティアさんが遊びに来るような感じで出入りしてくれていて、誰が誰だか、「利用者」「職員」という言葉もあまり耳にしないやわらかい、やさしい雰囲気はとても良く、親としてもうれしく思っています。
 同じように感じて、安心してお子さんを預けてもらえるように環境を整えたくお手紙書かせていただきました。
 何卒 よろしくお願い申し上げます。
 私達の10年の活動の記録と想いは流されませんでした。
 少しですが 残っていた資料を送ります。
                              岩手県大船渡市大船渡町字赤沢81
                              太平洋セメント赤沢社宅55-5
                              かたつむり  吉田 富美子

3.11 あの日あのとき 被災地障がい者センターみやぎ県北(登米)支部より

≪3.11 あの日あのとき≫
被災地障がい者センターみやぎ
県北(登米)支部 小野寺ふさ江
 私が住んでいる南三陸町は人口1万5千人の小さな田舎町でしたが、何より海が自慢で海の幸の宝庫でした。その海が、あの日 あのとき・・・。
 3月11日金曜日14時46分 地面から突き上げられるように建物がジャンプしたと思ったら尋常でない揺れが始まった。私の職場(シャディギフトショップ)は店内の商品や什器が倒れポスレジが飛び恐怖を感じ店外に出たもののマンホールの蓋は3、40㎝ほどジャンプし、揺れはますます激しく私は地面に伏したまま揺れが収まるのをひたすら祈っていた。4、5分ほど続いただろうか。
 揺れが収まると店内の事はさて置き、自転車を借り自宅まで直行。我が家の被害はスノーマンのミニ火鉢が落ちただけで、父が大被害だと笑いながら火鉢を元に戻していた。両親の安否と我が家の無事を確認し職場に戻ると目の前の国道は指定避難場所の1つであるベイサイドアリーナに向かう車で渋滞していた。町の防災無線でも津波の襲来を伝えていた。程なく社長が自宅よりご両親と弟を連れ避難してきた。
 店の中は社長一家6人と私の7人でワイワイ賑やかにお喋りしていたが、何となく外の様子が気になり店外に出てみると、防災無線は6mの津波から10mの津波が・・・と言ったまま途絶え、遥か海側の街は黄色い煙が広がっていた。店の奥さんと黄色い煙は何?10mの・・・って?と疑問に思っていたが寒さで店内に戻ってしまった。店内で二言三言会話し、やはり外が気になり店外に出て社長の息子と街の方角を眺めていたら突然「来たぞー!逃げろ!!津波だ!!!」と社長の弟が走って来た。
 その声の方向を見ると、既に川から波が押し寄せ、波の音、建物が壊れる音、プロパンガスが漏れてる音が一気に襲ってきた。思わず社長の息子に「走れ!!」と二人で波と逆方向に走り、走りながら社長の弟が店内に入るのを確認し、これで社長達は大丈夫と思い、必死に走った。社長の息子は遥か前方、このままでは波にのまれてしまう・・・目の前の建物の裏側に階段があることを思い出し上ってみた。ここは大丈夫かもと思い立ち止まり店の方角に振り返ると店が津波と流されてきた建物に倒され、一瞬にして消えてしまった。社長、奥さん・・・呆然としながら我が身にも波が押し寄せてきた。高いところ高いところと、とにかく高いところを目指し駆け上り、気付けば杉山に登っていた。もう大丈夫??と思った途端腰が抜けた。
 何とか気持ちを落ち着かせ下におりると目の前は建物、車、船等のガレキの山・・・あっ!社長達は?店の方に近い場所に移動してみるとどこからともなく「たすけて~!!」と声だけが響く。耳を澄ますと「翔太~翔太~!!!」と社長が息子の名前を叫んでいる声が聞こえた。あっ!社長生きていたんだ!!と思ったが程なくその声は途切れ、別な方が助けを求める声だけが続いていた。助けたくても助けられないもどかしさ。心の中でどれだけゴメンなさいと言っただろうか・・・。
 どれぐらい時間が経っただろうか。ようやく消防の救助が来た。自分の目の前に起きた出来事しか知らなかったが、街は全滅したとのこと。意味が分からなかった私は家に帰ろうと思っていたが、ガレキで断念し、近くにあるベイサイドアリーナへ向かう。
 ベイサイドアリーナにはかなりの人が避難していた。知っている人の顔を見て大丈夫だった!?と皆涙を流していた。私はまだ、どうやったら家に帰れるか考えていると目の前に母がご近所さんと現れた。「なんで来たの」の問いに母は「家流された」ショックだった・・・。
 あれ?父は? 母の実家に足の悪い姉がいるので、母の兄と供に向かったようだ。私は、母の実家に行く道のりは高台が多いし、山伝いでアリーナまで来れると思っていたので、ここで父の帰りを待つことにした。ベイサイドアリーナの体育館や小ホールは余震に備え立ち入り禁止。避難民はアリーナの通路で夜を過ごす事になる。独りぼっちになった社長の息子、翔太君と夜が明けるのを待った。翔太君は、自閉とアスペルガーを持っているので、人の空気を読むのが苦手な為、大勢の中では浮いている。が、懸命に生きようとしている姿はとても痛々しい。
 翌日、諦めたとぽつり話してくれた。諦めたとは両親、祖父母、叔父がもう生きていないと。かたや私はまだ父が帰って来ると思っている。この日は母と私は母の一番上の姉の所に避難しようと思っていた。が、各方面から救助に来た方々の話から伯母の所まで津波が行った事を知った。
 3日目、叔父が私達を探しに来てくれた。私達の姿を確認するとお互い号泣した。叔父も津波にのまれたが生き延びた事、伯父と父、伯母二人が行方不明を確認し他は皆無事だった事を知る。そして、始めて気付いたことがある。震災当日持っていた鞄(現金8万と通帳カード印鑑等)一式と車が店ごとながされた事。悔しい・・。でも、人の命が何より大事。皆が元気でいればそれでいい。
 私たちの町は津波により道路、電気、水道等ライフラインが全て無くなった為お手上げ状態に。幸い、全国、各国からのご支援により、何とか今日まで生きてこられたと思っています。
 ありがとう!の言葉をどれほど使ったでしょうか。本当に感謝感謝の日々でもありました。津波は辛く悲しい出来事で、思い出したくないことですが皆様からの暖かい善意は決して忘れる事は出来ないし、忘れてはいけない事だと思っています。
 家族や友達、仲間が、平凡な日常がどれほど大切な事かが、今さらながら実感しています。震災から半年経ちますが、未だ父は帰ってきません。父だけでなく、伯父、伯母、社長一家、友人知人が行方不明のままです。生きていなくても必ず帰ってくると信じ、待ち続けるつもりです。私たちのような災害は今後起きないように、起きても被害が最小限に抑えられますように。と念じてやみません。
                     (そうそうの杜機関紙「想 創 奏」29号より転載)

高松の「ピコットの会」より贈られたひざかけ、ざぶとん

ピコットの会ひざかけ
ピコットの会ざぶとん
高松のボランティアグループ「ピコットの会」より、「ひざかけ」「ざぶとん」をいただきました。ありがとうございました。さっそく被災地に届けます。
「ピコットの会」よりのお手紙です。
愛のモチーフ運動
~みんなにやさしい世の中をねがって~
 私たち「ピコットの会」「いつでも どこでも だれでも」できるボランティアとして1979年に発足し、昨年30年をおえ、今年心新たに毎週水曜日、会員が集まり「ひざかけ」「ざぶとん」作りに精出しています。
 この活動に賛同して下さった方々から毛糸を頂いたり、モチーフ(10cm角)を編んで送って下さったりと、県内はもちろん全国から協力を得ています。
 出来上がった物は、毎年、全国のお年寄りや、福祉施設、障害のある方、被災地の皆さまにお贈りしています。
 この一枚一枚にこめられた物の命を愛しむ優しさ、温かさが一緒に届きますよう願っております。
〒760-0055
高松市観光通2丁目8-20 高松市総合福祉会館4階
高松ボランティア協会 ピコットの会会長 米澤 寿
TEL/FAX 087-831-7960
*被災地に物資のご協力をいただく場合はゆめ風基金(tel/fax06-6324-7702)にご連絡ください。品物と時期によってご協力にお応えできない場合はご容赦ください。