豊能障害者労働センターからの手紙

ハワイアンチーム ガッツくんTシャツおそろい2
 豊能障害者労働センターが救援バザーと同時に企画しました被災障害者支援Tシャツは7月25日現在、3000枚を製作、販売することができました。
 販売を開始した4月以来、豊能障害者労働センター機関紙「積木」をはじめ、豊能障害者労働センターホームページでの案内にくわえて、ゆめ風金の協力によりゆめ風基金の機関紙とブログで紹介されたことで、全国から注文が寄せられました。
 また読売新聞など、マスコミでとりあげられたことでより広く被災障害者支援Tシャツと豊能障害者労働センターの活動を伝えることができました。
 とくにガッツくんTシャツは個人の方はもとより、保育所や学校、福祉施設、時には一般企業から、「おそろいで着たいので」と、セットで注文して下さるケースも多く、そのおかげで1800枚をこえる人気となっています。
 最初の企画では、16年前の阪神淡路大震災の時に製作されたものが現在に通用するのか、不安もありました。 しかしながら、販売をはじめると反対に「なつかしい」、「どの被災地でも<上を向いて歩こう>が歌われるように、障害者の救援Tシャツはガッツくんです」と言って下さり、ほんとうにガッツくんを復刻させてよかったと思います。
 また今回は若い人が応援してくれました。前にも書きましたが、たまたまゆめ風基金のボランティアに来てくれた若い女性がガッツくんTシャツのことを知り、ご自身の知り合い、友だちにすすめてくれた他、インターネットを通じても呼びかけてくれたのでした。
 彼女のネットワークだけで100枚近くを販売してくれたのですが、そのうちのひとつ、ハワイアンのグループがハワイにたつ直前にガッツくんTシャツを購入し、おそろいで着てくれたうれしい写真がハワイから届きました。
 Nさんと、Nさんのよびかけに応えてくださったみなさん、ほんとうにありがとうございました。
 そして、ご協力いただいたゆめ風基金に感謝します。
ハワイアンチーム ガッツくんTシャツおそろい1
 
 
豊能障害者労働センター

11月23日のイベントについて 片岡次雄

片岡です。
ゆめ風、パーティ・パーティ、障大連教育、tumonimanabuに出しています。
「こんなところに出している」ことが分かるように、宛名は連名にしました。
以下は、ゆめ風ブログからの貼り付けです。
東北-関西 障害者支援 ポジティブ生活文化交流祭
2011年11月23日(水祝)10:00~18:00
扇町公園メインステージ 音楽、踊り、メッセージ、トークショー
作業所ブース・障害者支援ブースなど、楽しいイベント満載です。
山西福祉記念会館では、被災地の障害者の報告とシンポジウムがあります。
う~ん、よく分かりません。
実は、11月23日、扇町公園で大イベントをやろう。
大阪に避難してきている人たちも集めたい。
もちろん、現地からの出演も。
テント(ブース)は30ぐらい。
ステージも展示も…。
そして、3月に第2回開催を追求する。
という企画です。
と言いつつ、日と場所だけ決まり、そこから先は何も決まっていません。
8月12日(金)18:30~第3回実行委員会が開かれます。
いっちょかんだろか、何かおもろそうやな、イベント大好き、しっかりと展示をしたい
、訴えたい…、人・団体は、お気軽にどうぞ。
連絡先はパーティ・パーティがいいでしょう。
近いうちにチラシによる宣伝ができると思いますので、続報をお楽しみに。
パーティパーティの連絡先
特定非営利活動法人 日常生活支援ネットワーク  
「パーティ・パーティ」

〒556-0012  大阪市浪速区敷津東3-6-10
TEL・FAX  06-6649-0455
メール    party2@e-sora.net

東北の冒険、わたしたちの冒険 障害者救援本部大阪の会議報告 

東北の冒険、わたしたちの冒険
 2011年7月22日夜、パーティパ―ティで障害者救援本部大阪の会議があり、40人の参加をいただきました。
 地震発生から4ヶ月が過ぎ、被災地では仮設住宅の建設が進み、仮説住宅に入居する障害者への支援が本格化する一方で、福祉避難所、自宅、親戚の家での避難生活を余儀なくされている人への個別継続支援、さらに被災障害者の存在と実態を掘り起こす調査活動も続き、より支援の幅が広がっています。
 その中でも、中長期的な視点に立ち、現地のひとたち自身が中心となった復興、再生をめざし、現地の支援拠点の拡大と整理、現地での雇用、現地の障害者グループへの事業委託などを進めていくことなどを模索しています。
 毎回のことですが障大連の細井さんの丁寧な資料を基に、被災地の現状をゆめ風基金の八幡さん、現地でのボランティア活動を体験されたひとたち、障害当事者として福島の支援活動に参加された古井さんの報告がありました。
 
 仙台では現地のボランティアの人たちの活動を組織して、調査活動の継続や個別支援のとりくみをしていますが、現地のCILたすけっとのスタッフは、通常の業務と被災地支援が重なり、疲労が蓄積していると思われます。長期的な安定した支援が必要となっています。
沿岸地域の南部にある亘理町に「駆け込み寺」を設置し、津波で職を失った介護保険施設「たすけあい山元」の職員の方たちの協力で運営しています。
 沿岸地域の北部にある登米市にも「駆け込み寺」を設置し、現地での雇用とあわせて大阪市従業員労働組合、大阪市交通労働組合、そうそう杜から派遣しているボランティアのひとびとによる支援活動が続けられています。
現地の報告として、仮設住宅は建て終わったところがある一方で、まだ建っていないところもあります。仮設住宅の問題として、砂利が敷き詰められていて、車いすでは移動ができません。要望から舗装することになっていますが、少なくとも8月中はむりということです。仮設住宅は改修できないことになっていましたが話し合いの結果、県では改修してもいいという回答をもらいましたが、市町村の担当者にはまだ伝わっていないケースが多いようです。また避難所では救援物資が届いたものが仮設住宅では自力で調達しなければならず、ケースバイケースで支援しています。生活保護や年金の手続きなどもする場合があります。
 福島の報告では、介護を必要とする障害者が集められ、県外の施設に定員を無視して移動させられたそうです。迎え入れた施設では「迷惑だ、帰ってくれ」と言われたりしたとも聞きます。長い年月をかけて障害者運動が作りあげてきた地域での自立生活がこわれ、施設に逆戻りしてしまっているということでした。
また、福島もふくめてスロープつきの仮設住宅が一割程度あるそうですが、障害者が優先入居できるわけではなく、また内部がバリアフリーでもなく、意味がないのでスロープをはずしてほしいという要望さえあるそうです。
 岩手では、障害当事者による支援活動として各方面から注目され、わたしたちの熱い期待を背に、試験的に西宮のメインストリーム協会の障害当事者の派遣が始まっていて、すでに4組目が現地に派遣されています。
 この活動は障害者救援本部東京の会議でも決済されていて、8月末にメインストリーム協会の佐藤さんが岩手の今川さんと協議し、秋からの本格的な派遣にむけて全国の障害者に募集をはかることになる予定です。
制度が進んでいるといわれる地域では、制度を要求し、たたかってきた多くのひとたちの血と涙でつかみとった歴史を持っています。だからこそ、今からその制度を勝ち取っていく運動は、被災地の障害者にとっても派遣された障害者にとっても苦難の歴史の重みを受け止めることでもあります。そして、どの地域にも自分らしく生きたいと願う障害者の心の炎は消えずにあることを、わたしたちはそのレポートから知ることになるでしょう。
それらの報告の後、今後の活動としてはあらためて現地雇用をふくめ現地のひとたち自身による復興、再生をサポートすることを大原則とすることを確認しました。
具体的には、
1.今後移送サービスの要望が増えることが予想されるため、各拠点の拡大、機能充実をすすめる。現在、登米市の拠点では大阪市従業員労働組合が移送サービスをしています。
2.継続できる事業の設立と運営のサポート。現在、陸前高田では障害者家族会「かたつむり」と高齢者居宅介護事業所「すずらん」が一体となり、就労継続支援事業B型を設立しようしていて、ゆめ風基金から支援金を送ろうとしている。
3.バリアフリーの町づくり。復興計画ができましたが、社会福祉施設の充実が盛り込まれ、障害者が地域で自立生活するということはまったく考えられていません。仮設住宅のバリアフリーを要望することとともに、復興していく町がバリアフリーであることを強く要望すること。
 などを話し合い、現地の要望にそった息の長い支援をつづけることを確認しました。
 そして、最後に11月23日、大阪市の扇町公園と山西福祉記念会館で、この4ヶ月間の支援活動を通したネットワークを生かし、若い人たちが中心になった実行委員会によるイベント「東北-関西 ポジティブ生活文化交流祭」を開くことを話し合いました。
 その後このイベントの実行委員会(準備会)を開き、具体的な準備を話し合いました。
 イベントのことについては、またあらためて掲載します。

ヒデの救援レポート、7月18日

ヒデの救援レポート、7月18日:29
 7月11日・12日は、東京。15日から17日までは、徳島行きと、何が何やらのテンテコ舞いのへろへろ1週間をなんとかやり過ごして、今日やっと、このメール通信を発信します。
 トウキョウ物語、阿波の徳島物語については、救援風景として、後日に報告します。ところで、タバコを吸うひとが、東京に行くときの必需品は、携帯灰皿ですね。路上喫煙が禁止ですし、場所によっては、全面禁煙になっていますから。それ以上に、タバコを吸う姿に、眉をひそめて、嫌悪感を露骨に示すひとが実に多い。タバコを吸う人間は、悪党だみたいなね。クソっ!
 ところで、ホテルでの新聞、テレビの情報で、妙なことに気づきました。それは、関西では、震災情報は、全体情報の三割程度で、被災地三県の情報が割と平等にありますが、東京では、震災情報が全体の七割位。それも、福島の原発事故関連が圧倒的でした。この違いは、なんでしょうかね?
 被災障害者支援ゆめ風基金に寄せられた救援金、金額は、7月9日までに、163071957円。7月11日までに、163841948円です。
 このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌そよ風のように街に出よう編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。広く知ってもらいたいので、転送自由。自由にお使いください。
 息の長い救援が求められています。長期戦です。救援金の送り先は、郵便振替口座00980-7-40043ゆめ風基金です。;とうほく;と書いてください。
東日本大震災救援活動の中のボクの風景。
 ロボット掃除機顛末記!3月11日から、始まったヒデ的大震災救援動乱の結果、日常生活がてんやわんや。自宅の掃除などがほったらかし。さすがに、これはいかんと反省しきりのおり、ふとテレビに目をやると、ルンバというロボット掃除機のコマーシャルが目に留まった。
 こりゃあ便利なものがあると、早速飛びつき、量販店で買い込んだ。4万5千円うんぬん。高いねー!これで安心して救援活動に専念と、すぐに動かした。しかしながら思い込みは、アカンなぁ。テレビに映し出されたロボット掃除機は、広い室内の動きです。ボクの自宅は、自慢じゃあないけれど、とても狭く、ゴタゴタといろんな物が置いてあるのです。それを失念しておりましたねぇ。
 ロボットを動かしたのはいいけれど、ロボットがお行きになる場所ごとに、ロボットの鼻先にあるゴタゴタ物を片付けて、ロボットのお通りを願うことになった。これが結構疲れる。これだったら、自分で掃除機をかけていた以前のスタイルの方が、はるかに楽なのだ。救援にかまけて、手を抜いていた日常生活のツケが、こんな形で現れるとは、なんともかんとも、間の抜けた話ですよね~。現在、只今、愛しのロボット掃除機は、次なる出番を待ちつつ、充電されつつ、台所の片隅で、おねむりになっておられます。
 テレビからは、福島原発事故の余波による、関西電力からの15%節電の呼びかけが垂れ流され続けている。それにしても、まだ7月半ばなのに、なんという暑さなのか。夜眠れなく、からだがついて行かない。今夜もエアコンをつけて眠るぞぉ~。節電なんか絶対しないぞぉと、ほざき続けるヒデですよ。
全国移動ネット災害支援の会災害支援だより2号巻頭言より
電話03-3706-0626
 震災から2ケ月たっても避難者の過酷な生活状況が大きく改善されたように思えないが、阪神大震災や新潟地震などで被災者と一緒に考え、もがいた人たちが現地に入っている。これからどうすれば良いのか見えないものを少しでも見えるように、少しでも状況が変わるようにと考える人たちがいることに元気づけられる。
 東日本大震災・宮城、石巻地方沿岸部の記録と題されたDVDが発売されています。この売り上げの一部は、石巻地方沿岸部に、義援金として寄付されるとのこと。この映像は、ふるさと石巻の被災状況を知りたいという声に応えて製作したものです。変わり果てた故郷、消えた故郷、M9、0の巨大地震、そして大津波の襲来。多くの尊い命と日常が奪われた。誰もが想像しなかった受け入れがたい現実。その時、、、明と暗生と死を分けたものはいったい何か。記録映像と証言は次世代に何を問いかけているのか。
撮影地・石巻沿岸部、新北上川周辺、河北町、北上町、雄勝町、牡鹿半島周辺、東松島市、女川町
監修・三陸河北新報社、製作・ビデオプラザ神奈川・本社石巻市。
電話090-2987-3036
本編30分・2800円。
ゆめ風基金は、自身の基金活動もしますが、他の基金への補助金申請も行います。これからの長期支援活動と、膨大な支援金消費を考えれば、どのような形のお金であれ、集めねばなりませんから。みなさんも、補助金申請は、救援活動活性化のために、どんどん取り組まれてはどうでしょうか。今回、ゆめ風基金は、2件の申請を行います。
申請先日本財団。
東北地方太平洋沖・災害にかかる支援活動助成対象事業障害者・高齢者に対するもの・被災された方の心のケア。補助金100万円・補助率100%。
具体的な補助内容、2011年11月3日、於、大阪において被災障害者を迎えて、みんなで元気になるイベント。被災地の授産施設の作品の物品販売、被災障害者との交流イベント。補助金100万円・補助率100%費用対象事業障害者・高齢者に対するもの・被災された方の心のケア会場費、宿泊費、交通費、印刷代チラシ、ポスターなど
赤い羽根災害ボランティア・NPO活動サポート基金対象事業
被災した方を支援するボランティア活動全般。復興支援と新たなコミュニティーづくり。補助金一週間以内、10万円、1ヶ月以内、50万円、中長期300万円補助率10
0%会場費、宿泊費、印刷代チラシ、ポスターなど。
ヒデのちっぽけな友人こぼれ話。
 ボクの住まいする、大阪府北部のちっぽけな街、箕面市の男性の友人の話です。Hさんは、丸々30年、箕面市役所の職員として、働き続けてきたひとです。ボクも障害児教育、障害者施策、人権行政に、古くから、箕面市行政には、コミットしてきましたから、小さな街の小さな役所です。たいていの職員とは顔見知りの関係性にありますし、ある時は味方。ある時は、敵として、行政と市民として、いろんな仕事を共有してきました。しかしながら、Hさんとは、なぜか一緒に仕事をしたことがありません。それは、Hさんが現業畑の職員で、ボクが関わってきたのが、ソフト面の施策関係であったことが、大きく関係していたと思われます。
 そんな、あまり関係ないふたりが友人になれたのは、ふたりが行く、安物の呑み屋が偶然にも一緒だったからにほかなりません。ざっと15年ほど、呑み友達です。このHさんは、ボクの目から見ても、少し変わった人物です。別な役所の友人に聞いても、あのひとは、変人で、職場には友人がいないよとのことだった。
 先日も、同じ呑み屋で顔を合わせると、ヘンに気負って、話しかけてきました。あのな、河野はん(Hさんは、いつもボクのことをそう呼ぶ)、ワシもな、長い間役所で働いてきたけど、役所の人間は、どいつもこいつも、役所の中では、上ばっかりみてる。市民に対しては、上から目線のクセにな。ワシも含めて、役所人間は、サラリーマンじゃなくて、ヒラメーマンやね。上ばっかりみてる。今回の東日本大震災の救援にしても、役所から派遣されて行くのは、あれは仕事で行ってるだけや。月給もろうて行ってるんや。個人として、悔しかったら、自腹切って行かんかいや。河野はんがやってる救援活動とは、質的に違うねん。その事を職場で話したら、職場で大ゲンカになってしもうた。ようやってられんわ。ここまで一気にしゃべると、泡の消えたビールをグイッとあおった。ボクは、Hさんのその妙な正義感のあるところが好きなんだけど。
 そして数日後、また呑み屋でゴッツンこ。今度は、少し神妙な語り口で、やっぱり、今の職場で働き続けるのは、無理やと、長い時間がかかったけど、それに気づいたんや。しやから、6月一杯で、役所を退職する事にした。退職届けも出したしな。と。またまた、ビールをグイッと。
 ボクは、正直なところ驚いた。あまりに急な話しだったから。そして、その後、話は、急展開した。ほんでな、河野はん。ワシを河野はんがやってる被災障害者救援活動に加えてくれへんかな?退職したら、7月からヒマになるから、被災地で、救援ボランティアをさせてくれへんかな。本当のことが知りたいねん。少しくらいなら、長期でもエエで。と。なにがなにやらワケ分からないけれど、とりあえず、三県統合本部総合ボランティア窓口につないだ結果、7月11日から、仙台の障害者センターに行くことになってしまった。
 ひとの出会いと運命は分からない。Hさんが被災地から、帰って来たとき、どのような変貌を遂げているのか。ボクは、どのような顔つきで出迎えるのか?さっぱり分からない展開に、ボク、口あんぐり。ちなみに、Hさんは、織田信長に反旗を翻した、明智光秀の所領地、京都の奥、兵庫県丹波地方の出身ではあります。どうなるんでしょうね。
立命館大学の立岩真也さんのブログに掲載されている文章に、凄い文章がありました。
 筆者は、63才の男性で、成人の子どもさんひとりには、障害があります。あまりの長編なので、転載は出来ません。内容は、福島原子力発電所の近くに住み、自身も原発で働いた経験がある人が、原発事故が起きた、次の日の3月12日から、18日までの一週間の逃避行、五回の避難所移転の記録です。
 防災スピーカーから流れる震災による福島原子力発電所の事故で、放射能漏れの危険があるので、町民のかたは全員、大至急避難せよの告知に急かされて、家族、一族が、着の身着のままで3台の車に分乗して避難、少しも動かない渋滞している道路から始まっています。文章は、決して上手いとは、言えませんし、急いで書いたようで、誤字脱字があり、言い回しのおかしいところもあるのですが、言葉で伝わる範囲を凌駕しています。
 文章は、上手い、下手ではなくて、真実の経験や、人間の苦悩、想いが伝える原動力なのだと痛感致せられました。逃避行の原因への怒り、家族への想い、人間の関係性、社会的場の雰囲気などなどが、経験したものでなければ書けないこととして、刻み込まれ、展開されています。ボクは、読み進むつれ、気分が悪くなると同時に、人間の持っている、不思議と、絆の有り様を、深く、深く、考えさせられました。みなさんにも、立岩さんのブログを開いての御一読をお薦めします。以上!

障害者派遣プロジェクト3

障害者派遣プロジェクト3
2011年7月20日
当事者派遣プロジェクト報告(7月9日~16日)
藤原勝也
 メインストリーム協会から三組目として、私と桐間で7月9日から16日で盛岡へ行ってきた。夜は涼しかったが、日中は関西と変わらないぐらい暑い日が続いた。
 被災地センターの活動は、支援物資やサービス(移送、介助等)の提供が主だったが、障害当事者による当事者支援を特にピアサポート活動として位置づけられることになった。私たちは後者の活動を中心に行った。被災地センターのスタッフの多くはCILにあまり関わったことがない人で、当事者の活動の大切さを実際の活動を通して感じてもらう必要があった。
 7月11日の被災地センターの事務局会議(毎週月曜開催)で今後の活動について話し合われたときに、支援活動を徐々に縮小させていって遅くとも8月末には終わらせて、自立に向けたピアサポート活動を中心に行っていくことが決まった。そんな流れもあって私はピアサポート活動の中で自立生活を伝えることに重点を置いた。
 私が訪問した被災地は宮古市、大船渡市、陸前高田市であった。そこで自立に興味を持っている障害当事者に会った。そのうちの一人はまだ10代で将来のことを色々考えているみたいだった。障害の感じが私と似ていて、自立生活の話を真剣な姿で聴いていた。重度障害者の自立のイメージが少しつかめた感じだった。
今回出会った人の何人かは、実際に自立している人に会うのは今回のIPTが初であるが、インターネット等を通して情報を得ていた。沿岸部においても活動を続けておくと障害者の情報が入り、自立に興味がある人を発掘することも可能ではないかと感じた。
 しかし、課題もある。今のところ被災地センターとCIL盛岡の活動は一つになっていなくて、実際に自立生活をやりたい人が出てきたときに十分な支援が出来ない状況である。被災地センターは被災した障害者全般の課題に取り組んでいて、自立に特化しているわけではない。やはり自立を支援していくには自立生活センターは欠かせない存在である。今後、両者が協力して支援していける体制づくりが必要であると感じた。宮古市に拠点を作るという話があるが、岩手県で自立生活する障害者が増えていかないとCILの活動が広がっていくことは難しいと思った。CILは障害者がリーダーとなって主体的に作っていくものである。
 難しい課題が横たわっているが、被災地センターの中は段々明るくなっていって、皆で協力してやっていくという雰囲気が出てきた。最初自立生活のことを知らなかったスタッフにも少しずつ私たちが伝えていくことで理解が広まっていった。自立の重要性が認識されるようになってきたことは良かったと思う。

障害者派遣プロジェクト2

障害者派遣プロジェクト2
障害者ボランティア派遣プロジェクトは、6月末に西宮市のメインストリーム協会の障害者がはじめて現地に入りました。障害当事者による被災障害者への働きかけによるニーズ発掘をすすめることで被災地の障害者とつながり、自立生活をすすめていくための課題を共に担うこのプロジェクトは、当面来年の3月まで、障害者が介護者とともにボランテアとして一週間交代で現地に入り込み、支援活動をする計画です。
 すでに2回目のレポートを掲載させていただきましたが、今回2回目の報告を掲載させていただきます。
2011年7月15日
被災地障がい者支援センターいわての活動報告書
メインストリーム協会
太田雅之
林 龍司
期間:2011年7月2日~7月9日
被災地の訪問先:釜石市、山田町、大槌町、宮古市
○主な内容
 被災にあった障害者の人または家族に会い、物資の調達や見守り・通院の介助、買い物などをおこないました。
 盛岡市から被災地の沿岸部地域へ行くには片道3時間くらい係るため、正味の現地活動は長くて5時間程度でした。そして太田が行った所には、視覚障害者や知的障害者の支援が大半で介助者を使っての自立生活を話す機会がなく、瞬く間に一週間が過ぎてしまいました。
○引き継ぎ
 6月26日から被災地センターに来て活動していた二人(畑と松島)と、大まかな引き継ぎをしました。事前に松島より活動記録を毎日のメールが送られてきていましたので、特に詳細に引き継ぐことはありませんでしたが、宮古市に住む重複の男の子と、山田町に住むリウマチを持った女性については、より賢明なサポートを引き続きしてほしいと言われました。またセンターの代表を交えての引き継ぎでは、太田から施設も回ってみたい案を出しましたが、「施設は被災していないから、センターとしては回れない」という回答で、少し出鼻をくじかれた感じでした。
○おおむね一日の流れ
 5:30~起床、トイレや洗面などを済ませて6:40ぐらいにアパートを出る
 7:00~センターに到着、朝食
 7:30~センターを出発
10:00~被災地に到着
救援活動の開始(家の片付け、依頼物資の調達、病院の通院、買い物の付き添い、見守りなど)
16:00前後~被災地を出発
19:00前後~センターに到着、夕食
20:00~報告会議
23:00~終了
23:30~アパート到着、入浴
25:30~就寝
○各地域の被災状況
・釜石市:建物の形はまだ残っていましたが、人が住めるところはなくてがれきが多く積まれた状態のままでした。津波でぶち抜かれた玄関には、勇ましい祭り姿の男性の写真がおいてあったり、またはサッカーボールが二つ、もう誰にも駆られることもなく転がっている光景などを目の当たりにした時、衝撃のあまり言葉を発することさえも出来なかったです。
・宮古市:宮古市は海岸沿いにある市役所付近が1階辺りまで浸かったようでしたが、その他の被害は少なくて、生活するには大丈夫でした。
・山田町:海岸沿いは、ほぼ全滅状態で家の基礎部分がかすかに残っていました。少し高台のところは、床下浸水があったものの大きな被害は見受けられませんでした。
・大槌町:同じ町内であっても地域によって被害状況が全く違っていました。酷いところは本当にここに家があったのかと疑うくらい跡形もなく、少しのがれきが落ち居ているだけでした。そして高台へ行けば、のどかな家並みが立ち並んでおり、何も津波が来た形跡すらなかったです。
○障害者の状況
 津波で住めなくなった障害者の方々は、随時避難所から仮設住宅へ移りつつある状況の中で、仮設住宅での改造費用が自己負担でしてくれという自治体もあり、いくら国レベルでは復興支援費用に含まれているといっても、まだまだ地方自治体まで下りてくれば話が通らないケースが住宅改造に限らず、多くの制度が滞っていました。
 実際に宮古市の市役所へ行って障害者の生活状況を聞いてみたところ、一人暮らしをしている重度障害者の人は居なく、家族や施設に入所されている人ばかりでした。太田が福祉課の担当者へ生活手段を尋ねたら、入所や通所の施設が載っている冊子を見せられて紹介して下さりましたので、「重度訪問を使って生活がしたいんですが」と切り返したら、重度訪問を扱っている事業所がないという答えで、会話が途切れてしまいました。
 この現状は僕たちが回った市町村では、みな同じような状況でした。
○救援依頼の内容
 衣服・電化製品から始まって、視覚障害者やリウマチの人からの救援依頼は、外出介助(主に買い物・通院が多い)と津波で泥まみれにたった家財道具の片付けでした。あとはお母さんが買い物などで家を空けるために障害児を観てほしいと言った見守り介助も多くありました。
 これらの依頼について、震災前は海岸沿いにあったヘルパーステーションがおこなっていた業務でしたが、聞くところによれば事務所自体が津波で流されて、機能が停止していたために当初の被災センターがポスティングしたチラシを見て依頼してきたケースが大半だったようです。
○障害当事者の役割と今後の展望について
 現時点で障害当事者の役割は「ない」に等しく、センターのスタッフと一緒に行き、支援している横での声かけをするぐらいなものですから、方向性としては支援のチームとピアサポートのチームに分かれた上で行動しつつも情報提供は取りながら、1人ないし2人の障害者が長期にわたりセンターのスタッフと活動していけるような体制が取れたら望ましいと思いました。
 これから続けていく障害当事者スタッフには、上記の方向性を現地で提案し続けるように引き継ぎをしました。
○終わりに
 一週間と言う短い期間の中で、自分たちに何が出来るのか模索し続けて大きな事は何も出来ないままに終わってしまいました。しかしながら、終盤にかけて林君からセンターの代表と話す中でメインストリーム協会のスタッフには遠慮せず、どんどんと何でも言ってほしいことが伝えられ、有効にコミュニケーションを取ることが出来たので、今後の支援には、大きな流れが作れたと思います。
障害者派遣プロジェクト

証言/気仙沼の精神科病院/薬不足4日目、発作次々

2011.7.9河北新報
証言/気仙沼の精神科病院/薬不足4日目、発作次々
 気仙沼湾を望む気仙沼市浪板地区に、統合失調症の患者ら約250人が入院する精神科病院「光ケ丘保養園」がある。東日本大震災による津波は病棟の2階まで押し寄せ、患者全員が一時、屋上に避難した。4日後には、湾周辺で発生した火災により、約5キロ離れた小学校への避難を余儀なくされた。移動や病院外での生活は困難を極め、患者は医薬品の不足で次々と発作を起こした。窮地に追い込まれた医療スタッフと患者は、どう行動したのか。(菊池春子)
◎「あちこちで倒れる患者。注射、息つく間もなく」
<避難>
 午前からの外来診療が終わり、ひと息ついたとき、激しい揺れに襲われた。午後2時46分。1階の薬局にいた看護課副主任水戸幸弘さん(46)は、急いで病院周辺の状況を確認し、担当する2階の閉鎖病棟へと向かった。入院している大半は重い統合失調症やてんかんの患者だが、思いの外、落ち着いていた。
 患者らを指定避難場所となっている病院の外のグラウンドに連れていくか、それとも、津波に備え、屋上に避難させるべきか。水戸さんが他のスタッフと話し合っていたその時―。
 「津波だ、津波が来る」。堤防付近まで様子を見に行った職員が、叫びながら戻ってきた。
 考える余裕はない。黒くて泥臭い水が、既に階段の下に迫っていた。
<上へ>
 「早く逃げっぺし」。看護師らが呼び掛ける。状況を理解しきれず、ベッドに入ったまま「やんだ、やんだ」と嫌がる患者もいた。看護師らはシーツを剥がして患者をそのまま包むようにして担ぎ、階段を上った。「死なせるわけにはいかない、との一心だった」。看護師中村好江さん(30)は振り返る。
 閉鎖病棟、開放病棟合わせて249人の入院患者全員と職員約50人の屋上への避難は約10分間で終了した。眼下の駐車場に止めてあった職員の車が、まるで映画のセットのように流されていく。患者らは寒さの中で、ひたすら身を寄せ合った。3階建ての病棟のうち、津波は2階の床上1メートルほどまで達していた。
<痛手>
 午後5時すぎ。浸水を免れた3階に全員で移動し、ベッド1台を2人で使って夜を明かした。
 長い闘いが始まった。
 停電、断水、食料の枯渇…。翌日から裏山の沢水を汲み、がれきを燃やした鍋で煮沸し、院内に残っていた食料を分け合った。
 最大の痛手は医薬品の不足だった。1階の薬局に保存していた在庫は引き波で全て流され、病棟に1週間分ほどを残すのみ。新たな入荷は見込めない。処方量を減らし、持たせるしかない。
 発生4日目、15日ごろだった。薬が減った影響で、患者が次々と発作を起こし始める。「あっちでもこっちでも、患者さんが泡を吹いて倒れている状態。息つく間もなかった」。新階敏恭医師(45)は患者の元を駆け回り、症状を抑えるための注射を打った。
◎迫る火の手 緊急避難/環境激変、混乱する患者/医師ら奔走、危機脱す
 医薬品の不足で患者が次々と発作を起こし始めていた気仙沼市浪板の精神科病院「光ケ丘保養園」に、追い打ちをかけるように火の手が迫った。
 気仙沼湾周辺では、11日夜から火災が発生。重油タンクが津波で流され、漏れた油からがれきに引火したことが一因とみられている。近くの鹿折地区は火の海となり、浪板地区周辺では林野火災が起こった。
 延焼は続き、市の災害対策本部に15日午後、「光ケ丘保養園の近くに煙が見える」との情報が入った。患者の緊急避難が決まる。
 午後3時すぎ、約5キロ離れた唐桑小体育館への移動が始まった。応援に来た東京消防庁のマイクロバス10台で、15人ずつを移送。午後10時近くまでかかった。
 病院以上に冷え込む体育館。慣れない環境に混乱し、一晩中、医師の名を叫び続ける患者もいた。隣接する校舎には、地元住民らも身を寄せている。同行した森きえ子看護長(58)は「まったく眠れなかった。あまりに厳しい状況だった」。
 「避難所生活」は一晩で限界だった。火災は鎮圧状態となり、翌16日午前、患者はバスで病院に戻った。
 病院に支援物資は少しずつ届き始めていたが、試練はなお続く。てんかんの発作に加え、体育館での寒さが災いし、肺炎を起こす患者が続出した。20日すぎまでに、肺炎で7人、低体温症で2人の患者が死亡した。
 医療スタッフも疲弊していた。精神科病棟の医師数は、国の基準で一般病棟よりも少なく定められている上、光ケ丘保養園の常勤医5人のうち、2人は80歳前後の高齢。ほか2人も自宅が被災するなどし、昼夜を問わず患者のケアに当たれるのは新階敏恭医師(45)だけになっていた。
 新階医師を支えたのは、経験とクリスチャンとしての信仰だった。光ケ丘保養園への赴任前は、医師不足が深刻な岩手県西和賀町の沢内病院の院長を務め、国際協力機構(JICA)の事業で、ネパールの医療支援に赴いたこともあった。「すべての経験を、今に生かさなければならない」。食事も睡眠もそこそこに、治療に奔走した。
 被災地から離れた病院への患者の移送も検討したが、事務職員の努力で25日ごろまでに発電機の調達、井戸水の活用などでライフラインを応急復旧した。全国からの医療チームの支援も始まり、最悪の状態を脱した。
 新階医師は振り返る。「精神科病棟の患者は、この病院で暮らすしかない人たちも少なくない。見ず知らずの場所に移し、一生を終えさせていいのか、という思いもあった」
 震災からまもなく4カ月。震災のショックからか、部屋からほとんど出ず、食欲も落ちてしまった患者もいる。
 外来診療は3月末に一部再開し、定期的に通院していた700人ほどの患者の半数近くが再び来院。震災後、精神的ストレスでうつ状態になり、来院する新患も増えた。
 激闘の日々を超え、地域の精神科医療の拠点は残った。その意味が今、重みを増している。
2011年07月09日土曜日
河北新報2011791
津波に襲われた光ケ丘保養園。8月中の終了を予定し、復旧工事が進んでいる=6月下旬、気仙沼市浪板
河北新報2011792
危機的な状況から脱し患者が入院生活を送る病棟=7日、気仙沼市浪板の光ケ丘保養園
河北新報2011793

現地ボランティアのナマナマ情報5

ボランティアのつぶやき

私のボランティア活動はいよいよ残り数日となりました。先月6月5日に仙台に入り、全国各地からあつい想いを持って集まった老若男女のボランティアの皆さんと、日中はチームとして夜は共同生活者として過ごしてきた1か月半でした。

九州地方から参加されたベテラン介護士さんに元短距離選手のヘルパーさん、四国からの来られた1級建築士さん、中国地方から参加の元宮大工のヘルパーさん、東海地方からの福祉住環境コーディネーターさん、関東から来られた訪問看護師さん、北海道から参加のラガーマン兼ヘルパーさん、そして大阪を中心に全国各地の福祉関連団体に従事されている皆さんとともに、それぞれの方言で多種多様な意見を交換しあった1か月半でした。ここ被災地障がい者センターみやぎに来なければ一生お会いすることが無かったであろうボランティアの皆さんに出会えたことは、私にとって大きな宝だと思っています。

そして、主に私の被災地障がい者センターみやぎでのボランティア活動は、市役所等の公共機関から情報収集したり、仮設住宅のスロープ付き住宅や避難所・自宅等で生活されている障がいをお持ちの被災者の方々を1軒1軒訪問し生活状況などをお聞きすることでした。

「こういう身体になったからこそ見えて感じる視点があるはず」と、福祉住環境コーディネーターに挑戦し続けている、親戚宅に3世帯十数人で避難生活中の若い男性。

震災後に自宅に入ることができなくなった障がいを持つ子どものために、日中は自家用車を中心に子どもと生活するお母さん。

自らの障がいと家庭の問題を抱え、その解決のために越してきた転居先で震災に会い、ほとんどの家電製品が壊れたアパートでこの先の生活に戸惑う女性。

障がいを持つ次男と震災で仕事が減少した長男を抱え、自らは関節の痛みをこらえて家事を営み、車いすにのりタクシーとJRを乗り継いで次男の通院に付き添うお母さん。

家族4人2間で生活する仮設住宅から就労支援先に通いながら、両松葉づえの移動では困難な仮設住宅内の諸々のバリアの改善を単独で町役場に訴え続けている男性。

ショートステイを利用中の100歳の旦那さんの夏服の不足を気遣いながら、自らは4つの病院に通院し、ボタン操作が複雑な家電製品が並ぶ仮設住宅に暮らすご高齢の奥様。

奥様を震災で亡くされ、寝たきりのお母さんを近所に住む兄弟と共に介護しながら、車を流されたため片道1時間かけて自転車で通勤する状況を「健康のため」と気高く答えられた男性。

津波の爪痕残る地域で、身重の娘を気遣いながら末期がんの夫を自宅で介護する奥様。

「避難所から何とか仮設住宅に入れたけれど、これで生活が終りじゃない。生活はこれからが始まり。寝たきりの母には出来る限り心地よい生活環境を整えたい。」と、市役所に仮設住宅の改修を相談したが思うような返答はもらえず、自ら業者に依頼し自費で住宅改修し、そして炎天下の日中にお母さんの車いすを押して通院介助する娘さん。

こうした皆さんの生活のしづらさに、ボランティアとして即答できる立場はなくただただ聞いてくるだけの自分に自問自答した1カ月半でもあったように思います。それでも、この国難の中、目の前の課題や生活に前を向いて立ち向かおうとされている被災地の皆さんの声と姿は、私のこれからの人生に筆舌しがたい貴重な学びの機会となりました。

5月末に日本に帰国し仙台で1カ月半を過ごした私自身は、この後日本を離れ再びアセアンの途上国を生活の拠点とすることになります。日本を経済成長の模範と尊ぶアセアン諸国にとって、東北含めた日本のゆるぎない復興は“祈り”であり“必然”でもあります。祖国日本の力強い復興をアセアンの皆さんと共に信じております。

平成23年7月18日
被災地障がい者センターみやぎ ボランティアH

現地ボランティアのナマナマ情報4

6月15日から22日まで東北に行ってきました。報告が大変遅くなりました。

滞在中は、「被災地障がい者センターみやぎ」のボランティアとして「CILたすけっと」で大変お世話になりました。

多くは、被災地センターのある仙台市に隣接する名取市・岩沼市の仮設、役所や事業所を回りました。避難所から仮設に生活が変わり、不満や先行き不安の中で、とにかく話したいという人たちと出会ったことが印象的でした。砂利道の歩きづらい仮設をウロウロしていたら、向こうから声をかけてこられます。僕の歩き方が目立つのかもしれませんが。

仮設の生活は、通院や買い物の不便さが多く聞こえてきました。早くに奥さんを亡くし一人暮らしのお父さん、3.11後より障害が重く生活がしんどくなったにもかかわらず、こちらのサポートに「こんなことされたら、いつまで続くのか気になるから止めて」と照れ臭そうに言いました。また、精神面で障害になり、物理面、経済面でも負担が大きくなってきている人もいました。慣れない生活環境の上、コミュニティが保たれているのか、神戸の震災後の状況と重なってしまいました。

逆にコミュニティがあり、活気づいている仮設もありました。そこは、障害をもちながら仮設の世話役をやっている人がいて、何回か行きました。その人を支援するというよりも、そこの仮設の他の人のニーズを聞きながら、その人のことを気にし続けていこうというセンターの目論見でした。自分のことを顧みず、仮設の他の人のために走り回っているという感じの人ですが、いつ気持ちが折れるか心配です。こちらが訪問して僕の体を見ると実は他にも障害があると言い、来訪を喜んでくださり、涙を流しながら手を握ってくれたことが強く心に残りました。後でセンターとして、そこの仮設の集会所の集まりに参加するなど、いい関係を作りつつあるということを聞いて嬉しく思いました。

家を失い、ご家族が障害や高齢で他の施設で離ればなれになり、その施設利用で経済的負担が大きいという話もいくつか聞きました。一緒に暮らすか施設に預けるか、新しい生活をどうやり繰りしていくか、続けていけるかということで考え、悩んでいます。地元での相談を含め解決していける事業所など社会資源としっかり結びつくことが大きな課題になってきています。

名取の事業所では、関係者が被災しヘルパーなども少ない状況が続いています。仙台などと違い、自立している障害者が限られ、高齢者の事業所がほとんどです。障害者のヘルパー時間数も少なく、役所は原則論ばかりで個別事例までもっていけない状況だそうです。ある意味、仙台市と名取市が阪神間と淡路が重なるように感じました。ですが、震災を機に、どこでも厳しい状況ですが、繋がり連携が、少しずつでも必要です。知的障害の外出支援などをしている事業所からは、3.11後施設入所者が多くなったこと、自閉の人が生活パターンに変化があり落ち着かないことなどが挙げられました。精神障害者のグループホームでは、3.11は無事だったのに4日後にパニックを起こし、今でも行方不明な人がいます。

倒壊した事業所も見に行きました。社会福祉法人で多くの事業をやっており、その一つの通所の施設を失いました。日中活動として利用する障害者も多く緊急の活動の場が必要となり、別の場所で建物を無償で借り受けたものの、その建物の改造と、おまけにその後の余震で修復を余儀なくされ大きな債務を抱えています。なお、後日、ゆめ風からそこへ支援金を送ったということを聞きました。

今回は名取が中心でしたが、1日ずつ、石巻と岩手県の沿岸部の方にも行ってきました。町中が強烈な臭いとハエ、この世のものとは思われない街の姿に体の震えが止まりませんでした。しばらく言葉も失ってました。

岩手の方は仙台と違い、大きな施設が多く、街で障害者の姿が見えてこないということです。これから、障害当事者がどんどん岩手に行って、障害者が表に出るような活動(注:障害者派遣プロジェクト)が展開されると聞き、期待しています。また、今回は通過しただけでしたが、福島には原発というとてつもなく大きなもう一つの問題を抱えています。

今回は本当に短かったです。色んなことを僕なりに感じることができましたが、何もかもが中途半端な気がして、けど実はもっともっと隠れていることがあるんやって考えてしまうだけの日々が続いています。

が、たすけっとの当事者やスタッフのみなさんは若い人が多く、とてもパワーがあり、頼もしく思います。どうか、長い活動になりますが、ご無理だけはせぬよう願いつつ、僕も何らかの形でつながっていたいと思っています。

淡路島  凪 裕之

永六輔さん登場!

小室等50周年ライブ・永六輔
永六輔さん登場!
7/11(月)の小室等さん50周年ライブ。小室さん縁の団体として、日本チェルノブイリ連帯基金さんと共にゆめ風のブースもライブ会場に出しました。共同の募金箱や、小室さん作曲のゆめ風応援歌・ゆめ風関連書籍の物販にゆめ風の活動紹介の展示などをしてきました。
ライブ終演後、ブースの片づけを始めていたところ、「ゆめ風の募金箱はこれ?」と、永六輔さん!どのお客さんよりも早く客席から出てきて、ゆめ風のブースに駆けつけてくれました。こっちは面食らって「え、あっはい」としか答えられず…。
永さんはそそくさと募金箱を持って、出てくるお客さんへ率先して声掛け。「チャリンでいいんで募金お願いします!」
そのフットワークの軽さと“チャリン”ていう謙虚さ。募金箱前は募金してくれる方々で黒山の人だかりになりました。なんだか最後の方は撮影会みたいになってましたが。
永六輔さん、募金してくださったお客さん、そして小室等さん、ほんとうにありがとうございました。おかげさまでたくさんの募金が集まりました。
小室等50周年ライブ・牧口一二、河野秀忠
お祝いの花の前で(ゆめ風基金も花を贈らせていただきました)。ゆめ風基金代表理事・牧口一二、副代表理事・河野秀忠