「事実は議事堂の中で捻じ曲げられ 真実は交番の中に逃げ込む」
「寒い冬」(1980年小室等作詞・作曲)
2011年7月11日、新宿・全労災ホールスペースZEROで開かれた「小室等音楽活動50周年ライブ~復興~」は、李政美(イ・ジョンミ)、梅津和時、及川恒平、太田恵資、鬼怒無月、こむろゆい、坂田明、さがゆき、佐久間順平、佐藤允彦、鈴木大介、竹田裕美子、田代耕一郎、田中邦和、谷川俊太郎、谷川賢作、渡嘉敷祐一、林英哲、八木のぶお、吉野弘志、四住佳子、そしてサプライズで井上陽水という超豪華な出演者が集まり、谷川賢作さんのプロデュースのもと、次から次へとすばらしいセッションをくりひろげました。
1曲目の「寒い冬」は、田中邦和さんのサックスと小室さんの弾き語りのシンプルな編成で、30年も前の歌とは思えないライブ感でシャウトする小室さんは、最近の風貌からはうかがい知れない激しい人であることを、あらためて思わされました。
2曲目の「おはようの朝」は、谷川俊太郎さんの作詞で、「いま生きているということ」におさめられているのですが、同時にゆめ風基金の呼び掛け人である山田太一さんの名作ドラマ「高原にいらっしゃい」のテーマソングでもありました。
3月11日にこのライブの打ち合わせを終えた直後に地震が発生。報道によれば小室さんはしばらくは、「自分のことで浮かれている場合じゃない」と思い悩み、その後はライブを行っても、「心ここにあらずだった」といいます。「愛だの恋だの、プロテスト(異議申し立て)だのメッセージだのっていうものが通用しないって気分。自分のやってきた音楽、表現が震災の前に力を失った。舞台に立ち、人に向かって何かを発信する根拠が、波にさらわれたんです」
そこから自分はどう立ち直っているか。被災地の復旧に役立ちたいという思いと同時に、ミュージシャンとしての「復興」が大きなテーマになったそうです。
当日のパンフレットにはこう書かれていました。チャリティコンサートにはしない。あくまでも50周年を貫く。ただし、これまで手伝って来たゆめ風基金と日本チェルノブイリ連帯基金のPRを、このライブの広報活動と連動させ、側面からのバックアップに関しては積極的に行う。
小室さんは自分を妥協なしのごまかしのできないところに追い込み、そこから立ち上がる音楽を友人たちと分かち合おうと願い、かけつけた友人たちもまたゲストとして小室さんの50年を祝うだけではなく、小室さんの呼びかけに応えて新しい冒険を試みたこのライブは、まさしく「波にさらわれた」後の音楽の誕生をわたしたちにプレゼントしてくれました。音響にしても残響をほとんどつかわず、音量もすごく計算されていて、ボーカルも楽器も対等でくっきりとした音が溶け合うのではなくひびきあい、そのためにわたしたちは手をのばせば届くようにその音楽が聴こえるのでした。
小室等さんは1961年、17歳のときにギターを弾き始め、「自分の歌は自分で作る」フォークソングの黎明期を1971年の「出発の歌」(上條恒彦と六文銭)の大ヒットで確立し、Jポップへとつながるミュージックシーンをけん引してきました。
その50年の活動が見事に再現されたステージの最初から終わりまで、出演者の方々のさまざまな組み合わせで時にはスリリングに、時にはやさしく、時にははげしく、超満員のお客さんの心をふるわせたこれらの歌たちは3月11日の震災の前に作られた歌なのですが、どの歌も震災を経験したからこそあらためて心に響く歌たちでした。
梅津和時さんが作曲した「Vietnamese Gospel」、「老人と海」、「雨のベラルーシ」、「翼」、「鉄腕アトム」、井上陽水さんと歌った互いの曲「雨が空から降れば」と「結詞」、さらに谷川俊太郎さんの詩朗読…、 そして、最後の2曲、谷川俊太郎作詞・武満徹作曲「死んだ男の残したものは」、谷川俊太郎作詞・小室等作曲「いま生きているということ」でエネルギーは最高に達し、大きな悲しみを希望へと変えてくれる約束の場所へとわたしたちを連れて行ってくれました。
そこにつらぬかれていたものは、とてつもなく大きな「祈り」だったのだと思います。最後の最後に全員で演奏された、おそらくこのライブが初公開の小室さんの新しい曲「何度でも」は、その祈りそのものでした。
何度でも、生まれ変わる。何度でも、生まれ変わる。何度でも、生まれ変わる。何度でも、生まれ変わる。
ステージの間で小室さんは日本チェルノブイリ連帯基金とともに、ゆめ風基金の活動を何度も紹介してくださったのですが、会場にはゆめ風基金の呼びかけ人初代代表の永六輔さんが来られていました。「ぼくはいまリハビリ中で、まっすぐ歩く練習をしているんだけど、その先生(外国人の先生)にね、日本では<上を向いて歩こう>という歌があるんだけれど、あなたはその歌を知ってるかと聞かれた」と、うそのようなほんとうの話をされて、会場が爆笑につつまれました。
こうして特別なライブが終わり、後片付けをして近くの中華料理店に入った時はすでに11時前でした。すぐ隣のテーブルに佐高信さんがおられたのですが、帰り際に「今日は小室のために来てくださってありがとうございました」と声をかけられました。
こちらがあわてて「大阪から来ましたゆめ風基金です」と言いましたが、佐高信さんはきっと隣にいたわたしたちが小室さんのライブを聴きにきた一般のお客さんと思ってあいさつされたのだと思います。ささいなことですが、「小室のために」といった佐高さんの短い言葉に小室さんへの友情がこめられていて、とてもうれしく印象的でした。
今回のライブの模様を収録した記念のアルバムが10月頃リリースされる予定で、この感動を「何度でも」再現できると思うと、今からわくわくします。そして、この会場にお見えになれなかった方々にCDでこの感動をお伝えできることを、とてもうれしく思います。
ロサンゼルスからの手紙
ゆめ風基金の皆さんへ
私たちはロサンジェルス南部の郊外に住む、障がいを持つ子供の親たちの有志グループです。
ご連絡するのが遅くなりましたが、去る5月21日にトーランスという所で、ゆめ風基金の東日本復興支援募金プロジェクトに寄付したいとのみんなの想いから、ヤードセールをしました。
金額は米ドルで$1,295.07(日本円10,4071円)と少ないのですが、先日近畿労金へ送金させて頂きました。
数週間前から準備をはじめ、当日は朝6時から午後1時過ぎまで頑張りました。
地元の新聞にもお知らせを出した所、何人もの方が品物を寄付してくださり、又当日お手伝いに駆けつけて下さいました。
以下がそのときの写真です。View Albumという所をクリックしてください。
そして、以下のリンクが地元のテレビ局が放送してくれたものですが、残念ながら日にちが経っているので映像は見ることができませんが、音声は聞いていただけます。5月29日放送分をクリックしてください。4分30秒位のところからです。
http://www.soto-ntb.com/2011/05/
ゆめ風基金の皆さんの大変なご努力と行動力には本当に敬意と驚きの連続です。本当にお疲れさまです。
私たちは海外で何の力にもなれませんが、応援しています。
どうぞ皆さんお体お大切にこれからもご活躍ください。
ありがとうございました。
ロサンジェルス・障がいを持つ子供の親たち有志より
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Yard Sale
May 20, 2011
by heekochan1@yahoo.com shekaus1
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サポートグループ 風(鎌倉市)からの手紙
サポートグループ 風(鎌倉市)からの手紙
サポートグループ風 フェルト作品・コサージュ
みんなに届け わたしたちの風
2011年6月
売上をすべて被災地の障がいを持つ方々へ
障がいが重く、外に出て活動することがあまりできない方々と、自宅や病院のベッドサイドで、小さなフェルト作品を作り始めて、3年半が経ちました。この間、たくさんの方々のご支援とご協力で、いろんな方のお手元に作品を届けることができ、自宅や病院から、社会参加への大切な歩みとなりました。
みなさん本当にありがとうございます。
この3年半の間に、メンバーの中には天国へ引っ越しした方、新たに人口呼吸器をつけたり、濃密な医療ケアが必要になったりと、身体状況的には少しずつ厳しくなっている方もおります。
それでも気持ちは、元気いっぱい!
「生きることにとても前向きです」
「どんな状況でも生きていきたい。生きていってほしい」
そう願い、これまでは売上の4割を、海外(アジア)の厳しい状況にある障がいを持つ方々の支援にあててきました。
そして今回の大震災…想像を絶する被害、3か月経った今も、まだまだ大変な状況にいる大勢の方たち。そして障がいを持つ方たちは、避難所で生活することも厳しく、必要なサポートや物資を手に入れることが健常の方より難しく、生命の危機的状況(実際、避難生活中に亡くなった方もいます)の中にいます。現地に飛んで行って何かお手伝いしたい…私たちみんな、そういう思いでいます。しかし、実際に動くことが難しい中、その思いをフェルト作品にこめ、売上のすべてを、被災地の障がいを持つ方を支援する団体「ゆめ風基金(被災障害者支援)」に寄付することにしました。
*「ゆめ風基金」は阪神淡路大震災の際に発足し、これまでさまざまな自然災害に対し、日本だけでなく海外の障がいを持つ方々へも基金を届けてきました。そして今回の大震災に対し、基金のすべてを投入することにしています。詳しくは別紙リーフレットをご覧ください。
これからもどうぞよろしくお願いします。
フェルト作品を買ってくださった方に、このパンフレットとゆめ風基金のリーフレットをお渡ししています。
フェルト作品を常時置いて下さっている鎌倉のお店
アジアンCafe「ソンベ カフェ」
フェアートレードの店「かまくら富士商会」
岩盤浴の店「ハマム」
「歌にできることは少ないけれど、歌だけにできることもある」 小室等50周年ライブ
7月11日、ゆめ風基金呼びかけ人代表・小室等さんの音楽活動50周年記念ライブがあります。そのライブ会場で、お客さんにゆめ風基金のリーフレットを配布していただくことになりました。また、会場ロビーではゆめ風基金の紹介コーナーを用意していただけることになり、ゆめ風基金では代表理事の牧口一二さん、副代表理事の河野秀忠さんの他、事務局スタッフ全員が参加し、被災障害者支援活動の紹介パネルを展示する他、永六輔・谷川俊太郎作詞、小室等作曲のゆめ風基金応援歌CD「風と夢・伝えてください」や防災提言集などの物品販売と募金箱の設置をさせていただきます。
今回の震災では小室等さんはゆめ風基金への募金をよびかけてくださったり、新しい呼び掛け人のご紹介もいただきました。
また、6月5日の仙台の「とっておきの音楽祭」では、無理を承知でお願いしたにもかかわらずストリートライブを引き受けてくださっただけでなく、被災地障がい者センターみやぎにも来てくださり、被災地の障害者を勇気づけてくださいました。
ひとはパンのみで生きることもできるが、夢なくしては生きていけないと言われますが、歌もまた、わたしたちの悲しみをなぐさめてくれたり、勇気をくれたりするものであることは確かなことだと思います。小室さんの歌を聴くとこの大震災で被災されたすべてのひとに、そしてどんなに遠く離れていても被災地とつながるわたしたちの心に沁みます。
「歌にできることは少ないけれど、歌だけにできることもある」
このメッセージはとても奥が深い言葉です。
よく「歌には力がある」といわれますし、それはそうなのかも知れません。しかしながら、時としてその言葉がとてもむなしく遠い言葉に思えることがあります。50年という長い間、全国各地の小さな町や小さな村の小さな会場にもギター一本で訪れ、それぞれの大地のぬくもりや風のおしゃべりや森の吐息や海の記憶をいとおしくだきとめ、静かに歌いだす小室さんの歌は決して歌の力をふりまわさず、それでいて歌を必要とするひとの心に届けられてきました。
今回のライブの企画準備中に震災が発生し、急遽「復興」という祈りをこめたライブとなったそうです。理不尽な災害のさなかにあって、ひとがひととつながることでしかこの困難を乗り越えることかできないことを知ったとき、わたしたちにとっての復興とはごくシンプルに障害のあるひともないひとも、すべてのひとの希望をともにたがやす社会をつくりだすことに他ならないと思っています。共に生きることも助け合うことも決して心やさしいだけではないこともまたほんとうのことで、わたしたちは、わたしたちひとりひとりが他者の存在を認め、他者の夢を想像し、他者のために何ができるのかを問うことからはじめたいと思います。
今回のライブでは、小室さんならではの特別なゲストの方々が小室さんの音楽活動50周年を祝い、スーパーセッションを繰り広げてくださることでしょう。そして、小室さんの静かな歌がゆっくりと立ち上がり、ふたたび全国各地の愛を必要とする心へと歩きはじめるのを、わたしたちは聴くことでしょう。
「共に生きる勇気」を復興の鍬として、すべてのひとの希望をたがやすために。
「特定非営利活動法人地域生活ネットゆっくりっくかわちながの」様から
「特定非営利活動法人地域生活ネットゆっくりっくかわちながの」様からのお手紙です。
牧口 様
6月11日(土)にはお忙しい中をはるばる「第3回チャリティのつどい みんな輝いて」にお出かけ下さってほんとうにありがとうございました。
当日は、チャリティの目録だけで、すみませんでした。
6月30日に「チャリティのつどい実行委員会」があり、遅くなりましたがイベントの収支と、チャリティ募金金額を確定致しました。
特定非営利活動法人ゆめ風基金あてに110,045円を寄付させて頂くことになりました。
一人500円のチケットを672人の方が買ってくださり、募金もたくさん頂戴しました。
他の団体にも寄付させて頂きましたので、1団体当たりが少なくなりましたが、たくさんの皆さんのお気持ちです。
私たちは被災地に行くことはできませんが、せめてこのお金が、ゆめ風のネットワークのちからによって被災地の障がいを持つ方のために有効に使っていただけますよう願っております。
明日、ゆめ風基金の口座にお振り込み致します。
当日、同時にロビーで行いました「東北応援フェア」の売上も72,200円になりました。
5月以来、私どもが取り組んできた宮城県の13の施設・作業所の授産品を販売する「東北応援フェア」は6月23日のイベント出店で完売!となり、総額27万近い売上を各施設あてにお返しすることができました。
第2弾応援フェアは、地域のあちこちの夏祭りで展開しようと思っています。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
アメリカから届いた心
先日、豊能障害者労働センターが開いた被災障害者救援バザーでゆめ風基金のことを知り、一人の女性が救援金を持ってきてくださいました。
お話をうかがうと、その救援金はアメリカの支援学校からのものでした。
息子さんが障害をお持ちで23年前にアメリカに行かれ、9年間アメリカに在住されていて、息子さんはその間カトリック教会系の支援学校に行かれていたそうです。そして14年前に日本に帰ってこられ、箕面市に住んでおられるということでした。息子さんは現在箕面市の老人保健施設で働いておられるそうです。
今回の震災で、息子さんが学んだ学校や当時の友人たちから「大丈夫?」と心配するメールがたくさん来たそうです。
自分たちのことをおぼえていてくれたことのうれしさやなつかしさから、ご一家が久しぶりにアメリカに行き、息子さんが学んだ学校に行くと、写真のような大きな募金箱が置かれていたのでした。
今回の震災で世界中が日本のことを心配し、支援の輪が広がっていることはテレビ、新聞などの報道で知っていましたが、まさか自分たちのことを紹介しながらこの学校で募金活動をしていたことと、そしてなによりも自分たちのことを隣人として友人として覚えていてくれて、思いを馳せてくれていたことに涙がでるほどうれしかったそうです。
そして日本に帰国し、このお金をどこに届けたらいいのかと思っていたところに箕面の豊能障害者労働センターのバザーでゆめ風基金のことを知り、アメリカの友人たちの思いに応えるのはここしかないと思われたそうです。
わたしたちはこのお話を聞いて、グローバルな経済や巨大なインターネットによるのではなく世界のいたるところで、時には銃声がひびく地であっても、時には乾ききった大地で飢えに耐える地であっても、この世界の大地に生きるひとりひとりのこどもたちやおとなたちの小さな声と小さな手がつみかさなり、つながっていくことによって、世界がつながっていることを強く感じました。
わたしたちの活動もまた被災地へとつながりながら、世界の大地と海と空へとつながる心を大切にする活動であることを、あらためて自覚しました。
たしかに、この地球はこの大地はこの海は、今回のような理不尽な暴力でわたしたちを痛めつけ、たくさんの命をうばい、たくさんの幸せをふみにじりました。
けれども、わたしたちがこの地球で生きていかなければならないとしたら、この地球の無数の小さないのちがつながり、助け合い、共に生きることでしか幸せに近づけないこともまた、たしかなことではないかと思うのです。
そのことを教えてくださったみなさんに、心から感謝します。
学校がよびかけたメッセージを日本語に訳してもらいましたので、いっしょに掲載します。
細谷常彦
日本へ義援金を送ろう!
以前、本校に在籍していた北出谷浩多は、現在は家族と共に日本に住んでいます。
北出谷ファミリーは、地震・津波が襲った地域から離れた地域に住んでいるので無事でしたが、非常に多くの人達が被災し、今でも膨大な援助を必要としています。
5月末に浩多が両親と共に訪米し、本校を訪問します。
5月いっぱい本校で義援金を集め、浩多を通して、緊急な援助を必要としている人達の為に寄付することに決定しました。
学校の事務室に大きな広口ビンが置いてあるので、1セント玉(5セント玉、10セント玉、25セント玉でもOK)を子供たちに渡して下さい。
たとえ1セント玉でも、沢山集まれば、まとまった金額になります。
子供たちが持参した義援金を広口ビンに一度にざっと入れられるように、コインを封筒、ビニール袋、又は容器に入れて渡して下さい。
勿論、期間中に何度でも寄付して下さって結構です。
ご協力、よろしくお願いします。
フェリシアン特別支援学校 スタッフ一同
青梅で行ったチャリティー展&ライブが、終了し、本日送金しました。
青梅で行ったチャリティー展&ライブが、終了し、本日送金しました。
総額で498,150円になりました。展示、ライブともに好評のうちに終わることが出
来、ホッとしました。少しでもお役にたてば嬉しいです。
本当に皆さんのおかげで予想以上に支援することが出来ました。
ありがとうございました。
個展のご案内などございましたらお送り下さい。
また、お近くにお越しの際はお寄り下さい。
井上様から~
ジャズボーカリスト Solaris Eiko(ソラリスエイコ)様からの手紙
日本ダウン症協会よりそちらを知りました。
ジャズボーカルをしておりますSolaris Eiko(ソラリスエイコ)と申します。
http://eikojazz.com/
5月末日に鳥取米子市へツアーへ行きました。
CDリリースライブや、重度障碍をお持ちの方がいらっしゃる療育センターでのコンサートもしてきました。
私は茨城県に住んでおります。
震災のときも茨城におりました。。。
お陰さまで家族はみな無事で家も大丈夫でしたが、
家の中は大変でした。
ライフラインも止まり、すごいショックでしばらくは。。。
今回のツアーでは、鳥取の皆さんがたくさんとサポートしてくださいました。
ツアーで頂いた募金とCDの収益全てを、そちらを通じて東日本大震災で被災された障碍をお持ちの方々に役 立てていただけたらと思っております。
http://ameblo.jp/eikojazz/archive-201105.html
私の息子はダウン症で生まれました。
昨年発売した私の初めてのアルバムは、
ジャズがお好きな方はもちろんですが、障碍、病気、介護などご本人、ご家族の方にも聞いていただけた ら。。。頑張りすぎた時に聞いていただいて、少しでも元気になるようなアルバムにしたいと思い作りました。
そしてボーナストラックには息子が作詞した「とびら」という曲も収録しました。
このCDの収益の一部は知的障碍を持ち音楽を楽しんでいる方のために役に立てたらと思い作ったアルバムで す。
「とびら」は息子が生死をさまよったあとに、紙にメモみたいに書いたものが「ふれあい囲碁」を推進している日本棋士院の安田泰敏九段の目にとまり、米子在住の全盲のシンガーソングライターの方に繋がって生まれた歌です。
一万年かかってお母さんとお父さんを見つけてこの素晴らしい世の中に生まれてきたという詩です。
息子は今はペースメーカーを入れて暮らしております。
「とびら」の詩はHPのチャリティー&ボランティアのページから読めます。
http://eikojazz.com/charity_volunteer.html
この“Life is Beautiful – とびら-”というCDのリリースライブで米子へ行きました。
地元の皆さんがサポートしてくださり、今回のお金が集まり ました。
今回のメンバーも紹介させてください。
ピアノ:川島茂 ベース:Jeff Curry ドラムス:金井塚秀洋
郵便局から
募金 14832円
CDの収益 35500円
計 50332円を振込ませていただきますので皆さんの思いをゆめ風基金さんと通じて被災された障碍をお 持ちの方々のお役に立てていただけたらと思っています。
参考までに、
7月2日に東京で行われますダウン症の方の芸術祭「The Gift」には息子がトランペットで出演します。そしてこの「とびら」は女優の戸田恵子さんが歌ってくださることになっています。
http://eikojazz.com/shop.html (とびらの試聴ができます)
The Gift
http://sera-group.sakura.ne.jp/toybox2/gift/index.html
障碍を持っている子どもの家族として、ゆめ風基金さんのような団体には感謝しております。これからも応援 しております。
また、
私で役に立つことがありましたらご連絡いただけたらと思います。
私のアルバムを贈らせていただきます。
ブレイクタイムなどに皆さまで聞いていただけたら嬉しいです♪
大変なおり
お身体ご自愛ください。。。
Solaris Eiko
中山千夏さんからのメッセージです
被災地のゆめ風基金会員様からNO.23
被災地のゆめ風基金会員様からの手紙です。
【5月11日付 山形県山形市】
☆近況をお知らせください。何かお困りのことがありましたらお知らせください。
せっかく見舞いのお便りをいただきながら返事が遅れすみません。当方は揺れたものの地震の被害は、殆どありませんでした。
あれから2ヵ月が過ぎ、当時混乱した経済状態も、1ヵ月過ぎ頃からじょじょに平常に戻って来ました。
当時一番不足したのは、ガソリン、灯油。80歳の小生は、ガソリンがぜひとも必要な現役の方々の邪魔にならないよう、車の使用をする外出はさけ、厚着をして家に閉じ籠っておりました。