11月23日のイベントについて 片岡次雄

片岡です。
ゆめ風、パーティ・パーティ、障大連教育、tumonimanabuに出しています。
「こんなところに出している」ことが分かるように、宛名は連名にしました。
以下は、ゆめ風ブログからの貼り付けです。
東北-関西 障害者支援 ポジティブ生活文化交流祭
2011年11月23日(水祝)10:00~18:00
扇町公園メインステージ 音楽、踊り、メッセージ、トークショー
作業所ブース・障害者支援ブースなど、楽しいイベント満載です。
山西福祉記念会館では、被災地の障害者の報告とシンポジウムがあります。
う~ん、よく分かりません。
実は、11月23日、扇町公園で大イベントをやろう。
大阪に避難してきている人たちも集めたい。
もちろん、現地からの出演も。
テント(ブース)は30ぐらい。
ステージも展示も…。
そして、3月に第2回開催を追求する。
という企画です。
と言いつつ、日と場所だけ決まり、そこから先は何も決まっていません。
8月12日(金)18:30~第3回実行委員会が開かれます。
いっちょかんだろか、何かおもろそうやな、イベント大好き、しっかりと展示をしたい
、訴えたい…、人・団体は、お気軽にどうぞ。
連絡先はパーティ・パーティがいいでしょう。
近いうちにチラシによる宣伝ができると思いますので、続報をお楽しみに。
パーティパーティの連絡先
特定非営利活動法人 日常生活支援ネットワーク  
「パーティ・パーティ」

〒556-0012  大阪市浪速区敷津東3-6-10
TEL・FAX  06-6649-0455
メール    party2@e-sora.net

東北の冒険、わたしたちの冒険 障害者救援本部大阪の会議報告 

東北の冒険、わたしたちの冒険
 2011年7月22日夜、パーティパ―ティで障害者救援本部大阪の会議があり、40人の参加をいただきました。
 地震発生から4ヶ月が過ぎ、被災地では仮設住宅の建設が進み、仮説住宅に入居する障害者への支援が本格化する一方で、福祉避難所、自宅、親戚の家での避難生活を余儀なくされている人への個別継続支援、さらに被災障害者の存在と実態を掘り起こす調査活動も続き、より支援の幅が広がっています。
 その中でも、中長期的な視点に立ち、現地のひとたち自身が中心となった復興、再生をめざし、現地の支援拠点の拡大と整理、現地での雇用、現地の障害者グループへの事業委託などを進めていくことなどを模索しています。
 毎回のことですが障大連の細井さんの丁寧な資料を基に、被災地の現状をゆめ風基金の八幡さん、現地でのボランティア活動を体験されたひとたち、障害当事者として福島の支援活動に参加された古井さんの報告がありました。
 
 仙台では現地のボランティアの人たちの活動を組織して、調査活動の継続や個別支援のとりくみをしていますが、現地のCILたすけっとのスタッフは、通常の業務と被災地支援が重なり、疲労が蓄積していると思われます。長期的な安定した支援が必要となっています。
沿岸地域の南部にある亘理町に「駆け込み寺」を設置し、津波で職を失った介護保険施設「たすけあい山元」の職員の方たちの協力で運営しています。
 沿岸地域の北部にある登米市にも「駆け込み寺」を設置し、現地での雇用とあわせて大阪市従業員労働組合、大阪市交通労働組合、そうそう杜から派遣しているボランティアのひとびとによる支援活動が続けられています。
現地の報告として、仮設住宅は建て終わったところがある一方で、まだ建っていないところもあります。仮設住宅の問題として、砂利が敷き詰められていて、車いすでは移動ができません。要望から舗装することになっていますが、少なくとも8月中はむりということです。仮設住宅は改修できないことになっていましたが話し合いの結果、県では改修してもいいという回答をもらいましたが、市町村の担当者にはまだ伝わっていないケースが多いようです。また避難所では救援物資が届いたものが仮設住宅では自力で調達しなければならず、ケースバイケースで支援しています。生活保護や年金の手続きなどもする場合があります。
 福島の報告では、介護を必要とする障害者が集められ、県外の施設に定員を無視して移動させられたそうです。迎え入れた施設では「迷惑だ、帰ってくれ」と言われたりしたとも聞きます。長い年月をかけて障害者運動が作りあげてきた地域での自立生活がこわれ、施設に逆戻りしてしまっているということでした。
また、福島もふくめてスロープつきの仮設住宅が一割程度あるそうですが、障害者が優先入居できるわけではなく、また内部がバリアフリーでもなく、意味がないのでスロープをはずしてほしいという要望さえあるそうです。
 岩手では、障害当事者による支援活動として各方面から注目され、わたしたちの熱い期待を背に、試験的に西宮のメインストリーム協会の障害当事者の派遣が始まっていて、すでに4組目が現地に派遣されています。
 この活動は障害者救援本部東京の会議でも決済されていて、8月末にメインストリーム協会の佐藤さんが岩手の今川さんと協議し、秋からの本格的な派遣にむけて全国の障害者に募集をはかることになる予定です。
制度が進んでいるといわれる地域では、制度を要求し、たたかってきた多くのひとたちの血と涙でつかみとった歴史を持っています。だからこそ、今からその制度を勝ち取っていく運動は、被災地の障害者にとっても派遣された障害者にとっても苦難の歴史の重みを受け止めることでもあります。そして、どの地域にも自分らしく生きたいと願う障害者の心の炎は消えずにあることを、わたしたちはそのレポートから知ることになるでしょう。
それらの報告の後、今後の活動としてはあらためて現地雇用をふくめ現地のひとたち自身による復興、再生をサポートすることを大原則とすることを確認しました。
具体的には、
1.今後移送サービスの要望が増えることが予想されるため、各拠点の拡大、機能充実をすすめる。現在、登米市の拠点では大阪市従業員労働組合が移送サービスをしています。
2.継続できる事業の設立と運営のサポート。現在、陸前高田では障害者家族会「かたつむり」と高齢者居宅介護事業所「すずらん」が一体となり、就労継続支援事業B型を設立しようしていて、ゆめ風基金から支援金を送ろうとしている。
3.バリアフリーの町づくり。復興計画ができましたが、社会福祉施設の充実が盛り込まれ、障害者が地域で自立生活するということはまったく考えられていません。仮設住宅のバリアフリーを要望することとともに、復興していく町がバリアフリーであることを強く要望すること。
 などを話し合い、現地の要望にそった息の長い支援をつづけることを確認しました。
 そして、最後に11月23日、大阪市の扇町公園と山西福祉記念会館で、この4ヶ月間の支援活動を通したネットワークを生かし、若い人たちが中心になった実行委員会によるイベント「東北-関西 ポジティブ生活文化交流祭」を開くことを話し合いました。
 その後このイベントの実行委員会(準備会)を開き、具体的な準備を話し合いました。
 イベントのことについては、またあらためて掲載します。

障害者派遣プロジェクト3

障害者派遣プロジェクト3
2011年7月20日
当事者派遣プロジェクト報告(7月9日~16日)
藤原勝也
 メインストリーム協会から三組目として、私と桐間で7月9日から16日で盛岡へ行ってきた。夜は涼しかったが、日中は関西と変わらないぐらい暑い日が続いた。
 被災地センターの活動は、支援物資やサービス(移送、介助等)の提供が主だったが、障害当事者による当事者支援を特にピアサポート活動として位置づけられることになった。私たちは後者の活動を中心に行った。被災地センターのスタッフの多くはCILにあまり関わったことがない人で、当事者の活動の大切さを実際の活動を通して感じてもらう必要があった。
 7月11日の被災地センターの事務局会議(毎週月曜開催)で今後の活動について話し合われたときに、支援活動を徐々に縮小させていって遅くとも8月末には終わらせて、自立に向けたピアサポート活動を中心に行っていくことが決まった。そんな流れもあって私はピアサポート活動の中で自立生活を伝えることに重点を置いた。
 私が訪問した被災地は宮古市、大船渡市、陸前高田市であった。そこで自立に興味を持っている障害当事者に会った。そのうちの一人はまだ10代で将来のことを色々考えているみたいだった。障害の感じが私と似ていて、自立生活の話を真剣な姿で聴いていた。重度障害者の自立のイメージが少しつかめた感じだった。
今回出会った人の何人かは、実際に自立している人に会うのは今回のIPTが初であるが、インターネット等を通して情報を得ていた。沿岸部においても活動を続けておくと障害者の情報が入り、自立に興味がある人を発掘することも可能ではないかと感じた。
 しかし、課題もある。今のところ被災地センターとCIL盛岡の活動は一つになっていなくて、実際に自立生活をやりたい人が出てきたときに十分な支援が出来ない状況である。被災地センターは被災した障害者全般の課題に取り組んでいて、自立に特化しているわけではない。やはり自立を支援していくには自立生活センターは欠かせない存在である。今後、両者が協力して支援していける体制づくりが必要であると感じた。宮古市に拠点を作るという話があるが、岩手県で自立生活する障害者が増えていかないとCILの活動が広がっていくことは難しいと思った。CILは障害者がリーダーとなって主体的に作っていくものである。
 難しい課題が横たわっているが、被災地センターの中は段々明るくなっていって、皆で協力してやっていくという雰囲気が出てきた。最初自立生活のことを知らなかったスタッフにも少しずつ私たちが伝えていくことで理解が広まっていった。自立の重要性が認識されるようになってきたことは良かったと思う。

障害者派遣プロジェクト2

障害者派遣プロジェクト2
障害者ボランティア派遣プロジェクトは、6月末に西宮市のメインストリーム協会の障害者がはじめて現地に入りました。障害当事者による被災障害者への働きかけによるニーズ発掘をすすめることで被災地の障害者とつながり、自立生活をすすめていくための課題を共に担うこのプロジェクトは、当面来年の3月まで、障害者が介護者とともにボランテアとして一週間交代で現地に入り込み、支援活動をする計画です。
 すでに2回目のレポートを掲載させていただきましたが、今回2回目の報告を掲載させていただきます。
2011年7月15日
被災地障がい者支援センターいわての活動報告書
メインストリーム協会
太田雅之
林 龍司
期間:2011年7月2日~7月9日
被災地の訪問先:釜石市、山田町、大槌町、宮古市
○主な内容
 被災にあった障害者の人または家族に会い、物資の調達や見守り・通院の介助、買い物などをおこないました。
 盛岡市から被災地の沿岸部地域へ行くには片道3時間くらい係るため、正味の現地活動は長くて5時間程度でした。そして太田が行った所には、視覚障害者や知的障害者の支援が大半で介助者を使っての自立生活を話す機会がなく、瞬く間に一週間が過ぎてしまいました。
○引き継ぎ
 6月26日から被災地センターに来て活動していた二人(畑と松島)と、大まかな引き継ぎをしました。事前に松島より活動記録を毎日のメールが送られてきていましたので、特に詳細に引き継ぐことはありませんでしたが、宮古市に住む重複の男の子と、山田町に住むリウマチを持った女性については、より賢明なサポートを引き続きしてほしいと言われました。またセンターの代表を交えての引き継ぎでは、太田から施設も回ってみたい案を出しましたが、「施設は被災していないから、センターとしては回れない」という回答で、少し出鼻をくじかれた感じでした。
○おおむね一日の流れ
 5:30~起床、トイレや洗面などを済ませて6:40ぐらいにアパートを出る
 7:00~センターに到着、朝食
 7:30~センターを出発
10:00~被災地に到着
救援活動の開始(家の片付け、依頼物資の調達、病院の通院、買い物の付き添い、見守りなど)
16:00前後~被災地を出発
19:00前後~センターに到着、夕食
20:00~報告会議
23:00~終了
23:30~アパート到着、入浴
25:30~就寝
○各地域の被災状況
・釜石市:建物の形はまだ残っていましたが、人が住めるところはなくてがれきが多く積まれた状態のままでした。津波でぶち抜かれた玄関には、勇ましい祭り姿の男性の写真がおいてあったり、またはサッカーボールが二つ、もう誰にも駆られることもなく転がっている光景などを目の当たりにした時、衝撃のあまり言葉を発することさえも出来なかったです。
・宮古市:宮古市は海岸沿いにある市役所付近が1階辺りまで浸かったようでしたが、その他の被害は少なくて、生活するには大丈夫でした。
・山田町:海岸沿いは、ほぼ全滅状態で家の基礎部分がかすかに残っていました。少し高台のところは、床下浸水があったものの大きな被害は見受けられませんでした。
・大槌町:同じ町内であっても地域によって被害状況が全く違っていました。酷いところは本当にここに家があったのかと疑うくらい跡形もなく、少しのがれきが落ち居ているだけでした。そして高台へ行けば、のどかな家並みが立ち並んでおり、何も津波が来た形跡すらなかったです。
○障害者の状況
 津波で住めなくなった障害者の方々は、随時避難所から仮設住宅へ移りつつある状況の中で、仮設住宅での改造費用が自己負担でしてくれという自治体もあり、いくら国レベルでは復興支援費用に含まれているといっても、まだまだ地方自治体まで下りてくれば話が通らないケースが住宅改造に限らず、多くの制度が滞っていました。
 実際に宮古市の市役所へ行って障害者の生活状況を聞いてみたところ、一人暮らしをしている重度障害者の人は居なく、家族や施設に入所されている人ばかりでした。太田が福祉課の担当者へ生活手段を尋ねたら、入所や通所の施設が載っている冊子を見せられて紹介して下さりましたので、「重度訪問を使って生活がしたいんですが」と切り返したら、重度訪問を扱っている事業所がないという答えで、会話が途切れてしまいました。
 この現状は僕たちが回った市町村では、みな同じような状況でした。
○救援依頼の内容
 衣服・電化製品から始まって、視覚障害者やリウマチの人からの救援依頼は、外出介助(主に買い物・通院が多い)と津波で泥まみれにたった家財道具の片付けでした。あとはお母さんが買い物などで家を空けるために障害児を観てほしいと言った見守り介助も多くありました。
 これらの依頼について、震災前は海岸沿いにあったヘルパーステーションがおこなっていた業務でしたが、聞くところによれば事務所自体が津波で流されて、機能が停止していたために当初の被災センターがポスティングしたチラシを見て依頼してきたケースが大半だったようです。
○障害当事者の役割と今後の展望について
 現時点で障害当事者の役割は「ない」に等しく、センターのスタッフと一緒に行き、支援している横での声かけをするぐらいなものですから、方向性としては支援のチームとピアサポートのチームに分かれた上で行動しつつも情報提供は取りながら、1人ないし2人の障害者が長期にわたりセンターのスタッフと活動していけるような体制が取れたら望ましいと思いました。
 これから続けていく障害当事者スタッフには、上記の方向性を現地で提案し続けるように引き継ぎをしました。
○終わりに
 一週間と言う短い期間の中で、自分たちに何が出来るのか模索し続けて大きな事は何も出来ないままに終わってしまいました。しかしながら、終盤にかけて林君からセンターの代表と話す中でメインストリーム協会のスタッフには遠慮せず、どんどんと何でも言ってほしいことが伝えられ、有効にコミュニケーションを取ることが出来たので、今後の支援には、大きな流れが作れたと思います。
障害者派遣プロジェクト

証言/気仙沼の精神科病院/薬不足4日目、発作次々

2011.7.9河北新報
証言/気仙沼の精神科病院/薬不足4日目、発作次々
 気仙沼湾を望む気仙沼市浪板地区に、統合失調症の患者ら約250人が入院する精神科病院「光ケ丘保養園」がある。東日本大震災による津波は病棟の2階まで押し寄せ、患者全員が一時、屋上に避難した。4日後には、湾周辺で発生した火災により、約5キロ離れた小学校への避難を余儀なくされた。移動や病院外での生活は困難を極め、患者は医薬品の不足で次々と発作を起こした。窮地に追い込まれた医療スタッフと患者は、どう行動したのか。(菊池春子)
◎「あちこちで倒れる患者。注射、息つく間もなく」
<避難>
 午前からの外来診療が終わり、ひと息ついたとき、激しい揺れに襲われた。午後2時46分。1階の薬局にいた看護課副主任水戸幸弘さん(46)は、急いで病院周辺の状況を確認し、担当する2階の閉鎖病棟へと向かった。入院している大半は重い統合失調症やてんかんの患者だが、思いの外、落ち着いていた。
 患者らを指定避難場所となっている病院の外のグラウンドに連れていくか、それとも、津波に備え、屋上に避難させるべきか。水戸さんが他のスタッフと話し合っていたその時―。
 「津波だ、津波が来る」。堤防付近まで様子を見に行った職員が、叫びながら戻ってきた。
 考える余裕はない。黒くて泥臭い水が、既に階段の下に迫っていた。
<上へ>
 「早く逃げっぺし」。看護師らが呼び掛ける。状況を理解しきれず、ベッドに入ったまま「やんだ、やんだ」と嫌がる患者もいた。看護師らはシーツを剥がして患者をそのまま包むようにして担ぎ、階段を上った。「死なせるわけにはいかない、との一心だった」。看護師中村好江さん(30)は振り返る。
 閉鎖病棟、開放病棟合わせて249人の入院患者全員と職員約50人の屋上への避難は約10分間で終了した。眼下の駐車場に止めてあった職員の車が、まるで映画のセットのように流されていく。患者らは寒さの中で、ひたすら身を寄せ合った。3階建ての病棟のうち、津波は2階の床上1メートルほどまで達していた。
<痛手>
 午後5時すぎ。浸水を免れた3階に全員で移動し、ベッド1台を2人で使って夜を明かした。
 長い闘いが始まった。
 停電、断水、食料の枯渇…。翌日から裏山の沢水を汲み、がれきを燃やした鍋で煮沸し、院内に残っていた食料を分け合った。
 最大の痛手は医薬品の不足だった。1階の薬局に保存していた在庫は引き波で全て流され、病棟に1週間分ほどを残すのみ。新たな入荷は見込めない。処方量を減らし、持たせるしかない。
 発生4日目、15日ごろだった。薬が減った影響で、患者が次々と発作を起こし始める。「あっちでもこっちでも、患者さんが泡を吹いて倒れている状態。息つく間もなかった」。新階敏恭医師(45)は患者の元を駆け回り、症状を抑えるための注射を打った。
◎迫る火の手 緊急避難/環境激変、混乱する患者/医師ら奔走、危機脱す
 医薬品の不足で患者が次々と発作を起こし始めていた気仙沼市浪板の精神科病院「光ケ丘保養園」に、追い打ちをかけるように火の手が迫った。
 気仙沼湾周辺では、11日夜から火災が発生。重油タンクが津波で流され、漏れた油からがれきに引火したことが一因とみられている。近くの鹿折地区は火の海となり、浪板地区周辺では林野火災が起こった。
 延焼は続き、市の災害対策本部に15日午後、「光ケ丘保養園の近くに煙が見える」との情報が入った。患者の緊急避難が決まる。
 午後3時すぎ、約5キロ離れた唐桑小体育館への移動が始まった。応援に来た東京消防庁のマイクロバス10台で、15人ずつを移送。午後10時近くまでかかった。
 病院以上に冷え込む体育館。慣れない環境に混乱し、一晩中、医師の名を叫び続ける患者もいた。隣接する校舎には、地元住民らも身を寄せている。同行した森きえ子看護長(58)は「まったく眠れなかった。あまりに厳しい状況だった」。
 「避難所生活」は一晩で限界だった。火災は鎮圧状態となり、翌16日午前、患者はバスで病院に戻った。
 病院に支援物資は少しずつ届き始めていたが、試練はなお続く。てんかんの発作に加え、体育館での寒さが災いし、肺炎を起こす患者が続出した。20日すぎまでに、肺炎で7人、低体温症で2人の患者が死亡した。
 医療スタッフも疲弊していた。精神科病棟の医師数は、国の基準で一般病棟よりも少なく定められている上、光ケ丘保養園の常勤医5人のうち、2人は80歳前後の高齢。ほか2人も自宅が被災するなどし、昼夜を問わず患者のケアに当たれるのは新階敏恭医師(45)だけになっていた。
 新階医師を支えたのは、経験とクリスチャンとしての信仰だった。光ケ丘保養園への赴任前は、医師不足が深刻な岩手県西和賀町の沢内病院の院長を務め、国際協力機構(JICA)の事業で、ネパールの医療支援に赴いたこともあった。「すべての経験を、今に生かさなければならない」。食事も睡眠もそこそこに、治療に奔走した。
 被災地から離れた病院への患者の移送も検討したが、事務職員の努力で25日ごろまでに発電機の調達、井戸水の活用などでライフラインを応急復旧した。全国からの医療チームの支援も始まり、最悪の状態を脱した。
 新階医師は振り返る。「精神科病棟の患者は、この病院で暮らすしかない人たちも少なくない。見ず知らずの場所に移し、一生を終えさせていいのか、という思いもあった」
 震災からまもなく4カ月。震災のショックからか、部屋からほとんど出ず、食欲も落ちてしまった患者もいる。
 外来診療は3月末に一部再開し、定期的に通院していた700人ほどの患者の半数近くが再び来院。震災後、精神的ストレスでうつ状態になり、来院する新患も増えた。
 激闘の日々を超え、地域の精神科医療の拠点は残った。その意味が今、重みを増している。
2011年07月09日土曜日
河北新報2011791
津波に襲われた光ケ丘保養園。8月中の終了を予定し、復旧工事が進んでいる=6月下旬、気仙沼市浪板
河北新報2011792
危機的な状況から脱し患者が入院生活を送る病棟=7日、気仙沼市浪板の光ケ丘保養園
河北新報2011793

現地ボランティアのナマナマ情報5

ボランティアのつぶやき

私のボランティア活動はいよいよ残り数日となりました。先月6月5日に仙台に入り、全国各地からあつい想いを持って集まった老若男女のボランティアの皆さんと、日中はチームとして夜は共同生活者として過ごしてきた1か月半でした。

九州地方から参加されたベテラン介護士さんに元短距離選手のヘルパーさん、四国からの来られた1級建築士さん、中国地方から参加の元宮大工のヘルパーさん、東海地方からの福祉住環境コーディネーターさん、関東から来られた訪問看護師さん、北海道から参加のラガーマン兼ヘルパーさん、そして大阪を中心に全国各地の福祉関連団体に従事されている皆さんとともに、それぞれの方言で多種多様な意見を交換しあった1か月半でした。ここ被災地障がい者センターみやぎに来なければ一生お会いすることが無かったであろうボランティアの皆さんに出会えたことは、私にとって大きな宝だと思っています。

そして、主に私の被災地障がい者センターみやぎでのボランティア活動は、市役所等の公共機関から情報収集したり、仮設住宅のスロープ付き住宅や避難所・自宅等で生活されている障がいをお持ちの被災者の方々を1軒1軒訪問し生活状況などをお聞きすることでした。

「こういう身体になったからこそ見えて感じる視点があるはず」と、福祉住環境コーディネーターに挑戦し続けている、親戚宅に3世帯十数人で避難生活中の若い男性。

震災後に自宅に入ることができなくなった障がいを持つ子どものために、日中は自家用車を中心に子どもと生活するお母さん。

自らの障がいと家庭の問題を抱え、その解決のために越してきた転居先で震災に会い、ほとんどの家電製品が壊れたアパートでこの先の生活に戸惑う女性。

障がいを持つ次男と震災で仕事が減少した長男を抱え、自らは関節の痛みをこらえて家事を営み、車いすにのりタクシーとJRを乗り継いで次男の通院に付き添うお母さん。

家族4人2間で生活する仮設住宅から就労支援先に通いながら、両松葉づえの移動では困難な仮設住宅内の諸々のバリアの改善を単独で町役場に訴え続けている男性。

ショートステイを利用中の100歳の旦那さんの夏服の不足を気遣いながら、自らは4つの病院に通院し、ボタン操作が複雑な家電製品が並ぶ仮設住宅に暮らすご高齢の奥様。

奥様を震災で亡くされ、寝たきりのお母さんを近所に住む兄弟と共に介護しながら、車を流されたため片道1時間かけて自転車で通勤する状況を「健康のため」と気高く答えられた男性。

津波の爪痕残る地域で、身重の娘を気遣いながら末期がんの夫を自宅で介護する奥様。

「避難所から何とか仮設住宅に入れたけれど、これで生活が終りじゃない。生活はこれからが始まり。寝たきりの母には出来る限り心地よい生活環境を整えたい。」と、市役所に仮設住宅の改修を相談したが思うような返答はもらえず、自ら業者に依頼し自費で住宅改修し、そして炎天下の日中にお母さんの車いすを押して通院介助する娘さん。

こうした皆さんの生活のしづらさに、ボランティアとして即答できる立場はなくただただ聞いてくるだけの自分に自問自答した1カ月半でもあったように思います。それでも、この国難の中、目の前の課題や生活に前を向いて立ち向かおうとされている被災地の皆さんの声と姿は、私のこれからの人生に筆舌しがたい貴重な学びの機会となりました。

5月末に日本に帰国し仙台で1カ月半を過ごした私自身は、この後日本を離れ再びアセアンの途上国を生活の拠点とすることになります。日本を経済成長の模範と尊ぶアセアン諸国にとって、東北含めた日本のゆるぎない復興は“祈り”であり“必然”でもあります。祖国日本の力強い復興をアセアンの皆さんと共に信じております。

平成23年7月18日
被災地障がい者センターみやぎ ボランティアH

現地ボランティアのナマナマ情報4

6月15日から22日まで東北に行ってきました。報告が大変遅くなりました。

滞在中は、「被災地障がい者センターみやぎ」のボランティアとして「CILたすけっと」で大変お世話になりました。

多くは、被災地センターのある仙台市に隣接する名取市・岩沼市の仮設、役所や事業所を回りました。避難所から仮設に生活が変わり、不満や先行き不安の中で、とにかく話したいという人たちと出会ったことが印象的でした。砂利道の歩きづらい仮設をウロウロしていたら、向こうから声をかけてこられます。僕の歩き方が目立つのかもしれませんが。

仮設の生活は、通院や買い物の不便さが多く聞こえてきました。早くに奥さんを亡くし一人暮らしのお父さん、3.11後より障害が重く生活がしんどくなったにもかかわらず、こちらのサポートに「こんなことされたら、いつまで続くのか気になるから止めて」と照れ臭そうに言いました。また、精神面で障害になり、物理面、経済面でも負担が大きくなってきている人もいました。慣れない生活環境の上、コミュニティが保たれているのか、神戸の震災後の状況と重なってしまいました。

逆にコミュニティがあり、活気づいている仮設もありました。そこは、障害をもちながら仮設の世話役をやっている人がいて、何回か行きました。その人を支援するというよりも、そこの仮設の他の人のニーズを聞きながら、その人のことを気にし続けていこうというセンターの目論見でした。自分のことを顧みず、仮設の他の人のために走り回っているという感じの人ですが、いつ気持ちが折れるか心配です。こちらが訪問して僕の体を見ると実は他にも障害があると言い、来訪を喜んでくださり、涙を流しながら手を握ってくれたことが強く心に残りました。後でセンターとして、そこの仮設の集会所の集まりに参加するなど、いい関係を作りつつあるということを聞いて嬉しく思いました。

家を失い、ご家族が障害や高齢で他の施設で離ればなれになり、その施設利用で経済的負担が大きいという話もいくつか聞きました。一緒に暮らすか施設に預けるか、新しい生活をどうやり繰りしていくか、続けていけるかということで考え、悩んでいます。地元での相談を含め解決していける事業所など社会資源としっかり結びつくことが大きな課題になってきています。

名取の事業所では、関係者が被災しヘルパーなども少ない状況が続いています。仙台などと違い、自立している障害者が限られ、高齢者の事業所がほとんどです。障害者のヘルパー時間数も少なく、役所は原則論ばかりで個別事例までもっていけない状況だそうです。ある意味、仙台市と名取市が阪神間と淡路が重なるように感じました。ですが、震災を機に、どこでも厳しい状況ですが、繋がり連携が、少しずつでも必要です。知的障害の外出支援などをしている事業所からは、3.11後施設入所者が多くなったこと、自閉の人が生活パターンに変化があり落ち着かないことなどが挙げられました。精神障害者のグループホームでは、3.11は無事だったのに4日後にパニックを起こし、今でも行方不明な人がいます。

倒壊した事業所も見に行きました。社会福祉法人で多くの事業をやっており、その一つの通所の施設を失いました。日中活動として利用する障害者も多く緊急の活動の場が必要となり、別の場所で建物を無償で借り受けたものの、その建物の改造と、おまけにその後の余震で修復を余儀なくされ大きな債務を抱えています。なお、後日、ゆめ風からそこへ支援金を送ったということを聞きました。

今回は名取が中心でしたが、1日ずつ、石巻と岩手県の沿岸部の方にも行ってきました。町中が強烈な臭いとハエ、この世のものとは思われない街の姿に体の震えが止まりませんでした。しばらく言葉も失ってました。

岩手の方は仙台と違い、大きな施設が多く、街で障害者の姿が見えてこないということです。これから、障害当事者がどんどん岩手に行って、障害者が表に出るような活動(注:障害者派遣プロジェクト)が展開されると聞き、期待しています。また、今回は通過しただけでしたが、福島には原発というとてつもなく大きなもう一つの問題を抱えています。

今回は本当に短かったです。色んなことを僕なりに感じることができましたが、何もかもが中途半端な気がして、けど実はもっともっと隠れていることがあるんやって考えてしまうだけの日々が続いています。

が、たすけっとの当事者やスタッフのみなさんは若い人が多く、とてもパワーがあり、頼もしく思います。どうか、長い活動になりますが、ご無理だけはせぬよう願いつつ、僕も何らかの形でつながっていたいと思っています。

淡路島  凪 裕之

障害者派遣プロジェクト1

障害者派遣プロジェクト1
 障害者ボランティアを派遣し、障害当事者による被災障害者へのピアカウンセリング的な聞き取り、働きかけによるニーズ発掘をすすめようという画期的なプロジェクトがいよいよはじまりました。
 被災障がい者センターいわての代表・今川幸子さんの要請から具体化したこのプロジェクトによって被災地の障害者と各地の障害者がつながっていくことで、これからの被災地の障害者の自立生活をすすめていくエネルギーが高まることが期待できるだけではなく、日本全体の障害者の自立生活運動にも大きな足跡を残す予感を感じます。ゆめ風基金としてもこのプロジェクトを共に推進しようとと300万円の予算を計画しています。
 このプロジェクトでは当面来年の3月まで、障害者が介護者とともにボランテアとして一週間交代で現地に入り込み、支援活動をする計画です。
 ゆめ風基金では、障害者ボランティア派遣プロジェクトに参加された方の体験レポートをお願いしています。
 その一回目の現地報告です。
2011年7月4日(月)
「被災地障がい者支援センターいわて」での活動報告
<活動にあたって>
 5月に盛岡を訪問したときに話し合った結果、障害者の存在をアピールすることが大事だという話になりました。そのためにはJILの加盟団体が障害当事者を被災地に派遣して、被災者のお宅を回って障害があるからって他人に迷惑をかけるからとかいうような無用な遠慮をすることはない、震災前と変わりない当たり前の生活ができるということ、更にはもっと当たり前に地域で暮らしていける社会ということを障害当事者自身が伝えていく必要があります。
岩手の障害者はただでさえ引きこもりがちだそうです。今回の震災後ますますその傾向が強くなるおそれがあり、そういった状況を変えていくためにも日本全国から障害を持っている人に来てもらって、肩身の狭い思いをする必要がないと言うことを伝えて欲しいと被災地障がい者支援センターの今川さんは言っていました。
 そこで、メインストリーム協会として障害当事者スタッフ1名と健常者スタッフ1名が岩手に行き、被災された障害当事者に直接会いに行くことになりました。
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【写真①】「被災地障がい者支援センターいわて」にて会議の様子
みなさん、マジメな表情。
<岩手県沿岸部の状況>
 沿岸部の状況は5月に訪問した際に比べて整地が進み、新しく家を建てているところ、住居の補修作業なども至るところで見るところができました。しかし、場所によって道路の交通事情もあるのか、整地作業が重機を使って行われているところもまだ残っています。
 避難所や親戚等へ避難していた人たちが、やっと出来はじめた仮設住宅へ入居申請をしたり、入居を始めているという状況です。
 物資はある程度行きわたっているように感じました。大船渡市の役所でも救援物資の支給活動は6月末で終了し、残った物資等はボランティア活動を行っているところなどに委託となっていました。
 町の中では津波によって海水が浸水し、それによって打ち上げられた魚や海藻が腐っているのかかなりの異臭が漂い、大量のハエが発生していました。今後気温が高くなってくるにつれてそれに伴う被害が増えるのか心配です。節電の中、ハエによって窓が開けられずそれに伴う室温の上昇による熱中症が心配されています。
 たくさんの不安要素がありますが、それでも地元の健常者の人たちは復興ムードが出てきていると感じました。
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【写真②】津波に遭った沿岸部地域
5月に訪問した時よりガレキが撤去されていた。
<岩手県沿岸部の障害者と接して>
 沿岸部の障害者は健常者の復興ムードとは違いまだまだ悲惨な状況を強いられているように感じました。地元近所の社会資源、医療が完全に津波で流され、今まで送ってきた日常は全くおくれていない状況でした。
 人工透析をしている方は通院が不可欠ですが、通院するための病院が流されたため遠くの病院までタクシーを使わなくてはいけません。それにかかる費用が莫大になり生活していくうえで多大な負担になっていました。家族も付き添う必要があるため、仕事探し、日常の生活を送るのにも大きな負担がかかっていました。
 公共の交通手段がなくなり、町にあった買い物をする市場、髪を切る理髪店、薬などを買う薬局等、すべてが津波によって流され、物資を調達するにも役所などに取りにいったり、連絡をしてしばらく待たなくてはいけない状況もあるそうです。(物資は本人が来ないともらえないという対応の悪さもあるとか)
 保守的な傾向のある岩手ではまだまだ障害者の権利という考え方が浸透していないため、なかなか近所との関わりがもてない人が多く、数少ない知人との交流も、デイサービス等での活動も外に出ていけない状況によってもんもんと家の中で暮らしている人が多くいました。
介助制度も乏しいうえに、非常時ということもあってか役所の対応もかなり悪く、人によっては家族と生活をしている人には派遣しないということもありました。このままでは障害のある人のいる家は一家共倒れになってしまうということは目に見えているのに、その状況を把握するだけの余裕は行政にはない状況でした。それに緊急事態だから自分は我慢しなければというような傾向も少なからずあり、困っていることを強く言えない状況にもあるように思います。
 仮設住宅もいたるところで建設が進んでいますが、私たちが訪問したところすべて仮設住宅の周りは砂利が敷き詰められて、スロープはついていませんでした。
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写真③】仮設住宅バリアフリー化が進んでなく砂利道&スロープがついていない
障害者はもちろん、高齢者やベビーカーの家庭は住みにくい!
 残念ながら内装は見ることができませんでしたが、支援者の中には入浴ができない、家の中が車いすを利用できないくらい狭いため這って生活をしなくてはいけない、洗面台にいけない、トイレに入れないため簡易トイレが必要な人もいました。
 非常時であることは仕方がないことかもしれませんが、こういった避難生活を送らなくてはいけない障害者たちはなかなか情報も得られず、どこに伝えればそれが解決できるのかということも知らない人が多く、また今は無理だろうとあきらめている人も相当いるという状況でした。
 そんな状況下被災地に当事者が行くことは本当に意味があることだと思いました。
 支援や情報提供だけでなく、ちゃんと要望していこうということを伝え、悲惨な生活状況を一人や家族が抱え込むのではなく、一緒に解決していこうということが訪問するというだけで伝えられます。被災している障害者の共通することは孤立化していることだと思います。外出もままならず、地域の交流もできず、普段もんもんとしてる生活状況を解決する原動力になるのは障害当事者が訪問し一緒に解決をしていくネットワークを作っていくことだと強く感じました。
 
<被災地障がい者支援センター>
 CILもりおかの事務局長である今川さんを代表として、責任者八幡さん、専従スタッフ5名と全国からのボランティアが集まり、被災沿岸部を中心に被災障害者を支援しています。
主に、避難所や仮設住宅、自宅で生活している障害者への物資提供や人的支援などを行っています。(物資提供のみの支援は7月末で終了し、人的支援や移送サービス、社会資源への引き継ぎに移行していく)。その他では仮設住宅の調査(スロープの設置状況、集会所の有無、障害者の入居状況、住宅改修の相談等)を行っています。
開設当初は被災されている障害者がどこにいるか町の人に聞いたり、ポスティングを行ったりしていました。6月半ばくらいから何人かの支援がはじまり、そこから口コミで支援センターの事が伝わり、支援が本格化していきました。
 現在は見守り支援、移送、自宅へ介助者を派遣、引き続き聞き込み、ポスティングを行っています。
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【写真④】被災地障がい者支援センターいわて
夜7時10分頃の事務所の外から撮影
<現在の一日の流れ>
8:00 センター出発、
10:00 現地活動 (見守り、介助支援、ヒアリング、ポスティング、避難所・仮設住宅訪問、物資の手渡し、役所へ訪問)
15:00 帰還開始 
18:00 センター帰還
18:30 夕食
20:00 全体報告会議
 *現地の活動が早朝になる場合は遠野の支部で宿泊し朝から活動を行うこともあります。
 報告会議は内容によって深夜になることもしばしばあります。
<感想>
 今回訪問することになってまず感じたことは、こういった災害時になると置き去りにされてしまうのはやはり社会的弱者であり、その方々へのサービスが行きわたるには健常者が復興にとりかかるよりずっと後になってしまうことだと感じました。
 世間的にみると、まるで復興ムードだなと思う昨今ですが、障害当事者たちの生活状況を目の当たりにして、本当に震災当初と一体何が変わったのか、ただ支援を必要としている人が浮き彫りになっただけだという印象をうけました。
 支援を行うにしても、支援を必要としている人の情報開示も少なく、支援センターがどういうところなのか場合によっては不審に思われる方もあったり、支援をされていることが近隣の住民にわからないようにしてほしいという話もありました。
 支援先の遠さも大きな問題で、盛岡から車で2時間半かかる今の状況化で、本当に必要な支援を行っていくのは今後難しくなってくるでしょう。早朝から遅くまで活動をしている支援センターの方々も心身ともに負担が大きくなってくることは目に見えています。 今後拠点を沿岸部に作り、それにともなって支援の内容も変わってくると思われますが、このような状況で続けていくのには無理があると感じました。
 そんな激務の中、支援センターの皆さんは本当に毎日を明るくすごしてらっしゃったことには頼もしさを感じました。なかなか状況的に難しいこともたくさんありますが、そんな彼らのおかげで少しづつセンターへの信頼が得られるようになってきているということも感じました。
 被災者のところでは本当にたくさんの被災地障害者のおかれている状況、地震・津波があった時の状況を話していただきました。近所では「みんなが被災者だから・・・」ということでなかなかそういった話をする場所もなく家の中でもんもんとされているということも感じました。そんな中障害当事者である私が被災者のところに訪問することは彼らのもんもんとする生活の一部を語ることのできる貴重な時間だったのかもしれません。
 西宮での生活の話をこちらからもする中で、「やはり当事者が声をだしていかなくては」というような話も聞くことができました。
 復興をするのは現地の方々なしにはありえない中、障害当事者たちこそが今後の復興に声をだし、今後の町づくり、本当の意味での『災害に強い街』の実現ができると心から感じました。
 不謹慎かもしれませんが、津波によってできた大きな被害を今後新しいまちづくりへの大きな起点、障害者たちがまちづくりに参画していくという大きなチャンスに変えていってほしいと切に感じます。
 そのためには今後障害当事者たちが被災地にどんどんと行き、被災者をエンパワメントしていくことが本当に今求められていると感じました。

現地ボランティアのナマナマ情報3

6月24日木曜日
今日は仮設住宅の集会所で行われているお茶飲み会に参加した。
「傾聴の会」という普段は高齢者デイサービスなどに赴きお話ボランティアをしている団体が、宮城県名取市内の仮設住宅で週一回住民の方に呼びかけて集会所に集まってもらい、お茶やお菓子を出してお話をするという取り組みにお邪魔した。
その住宅(仮設住宅に名称が付けられたが「○○住宅」「○○団地」というように「仮設」という言葉は使われていない)に住む障害当事者と関わりを持つようになり、障害を持ちながらもその住宅の要となり様々な活動をされているその人(Aさん)を「被災地センターみやぎ」がさりげなく支えていける関係を持ちたい、という野望のもとお茶会にお邪魔する作戦を実行。
当初は自治会長に受け入れてもらえず交渉に苦戦した。被災前からの町内ごとに仮設に入居している為、おそらくこの住宅の自治会長は震災以前もその地区で自治会長もしくはその町内で影響力のあった人物と考えられる。Aさんに直接交渉しても「自治会長を通してください」と返される。何とか自治会長にお許しを頂き、お茶飲み会作戦を思い描いて2週間後にようやく実現した。
集会所には60代くらいのボランティア6名ほどと、主に高齢者の住民がテーブルを囲ってお茶を飲みながら話していた。すでに話し込んでおり、突然やって来た若者が話に入れる雰囲気ではなく、床に座ってお茶汲みをしているボランティアさんの横で色々話を聞きながら観察することにする。住民2人とボランティア1人で話しているグループは、住民の1人がハンカチで涙をぬぐっている。そうかと思うとみんなで笑ったりして、お茶飲み会の役割の大きさを目の当たりにする。ぜひ他の仮設でも開催してほしいと思ったが、傾聴の会仙台の名取支部はボランティアが10名ほどしかおらず、震災以前から行っている高齢者デイでの取り組みも続いており、なかなか他の仮設住宅にまでは手が回らないとのこと。傾聴の会代表の60歳くらいの女性はバリバリのキャリアウーマンのような雰囲気で、この人なら手広く広げていくかもしれないと思った。
自治会長は話してみると気さくなおじさんだった。いわゆる「地域ボス」の風格漂うものの、帰り際には「また来なさい」と声をかけていただく。聞くと以前は小学校の校長をしていたそうで、なるほど自治会の運営にもその経験が生かされ集会所の活用やボランティアの受け入れ態勢ができていると感じた。その住宅は入居が第一次であったことに加え、そのような自治会長の存在や住宅の要として動いてくれるAさんのような住民の存在があるお陰で他の仮設住宅にはない活気がある。まだまだこれから自治会を組織しようとしている段階の他の仮設に比べ、この住宅の集会所の活用度は飛びぬけている。
Aさんは相変わらず忙しく走り回っている。業者との相談、訪問者への対応、ボランティアの調整、自治会長との打ち合わせなどなど、やること山盛りで大忙しのご様子。とてもこちらから世間話ができる雰囲気ではなく、今日は話せないなと諦める。本人が「被災地センターみやぎ」に対して支援を必要としているのは主に住宅に住む住人への物資提供(オムツ、杖、踏み台など)であり、Aさん本人への支援ではないので、こちらから見れば限界間際で頑張っているその人を何とか支えたいという思いを持たずにはいられないが、ゆっくり時間をかけて関係性を作っていく必要がある。センターの人間も、Aさんをキーパーソンのような位置づけでつかず離れず繋がっていきたいと考えている。
昨夜はボランティア10数名で飲んだ。埼玉にある知的障害者の入所施設から二人の職員が5日間のボランティアで来ている。センターの活動を知って自ら志願した32歳男性の主任と24歳女性の職員が一生懸命活動している。ボランティアに志願した理由を主任に問うと、「自分は入所施設という小さい枠の中で働いていているが、もっと広く障害者のことを知りたい」というようなことを言っていた(私の理解では)。「施設」というフレーズには敏感に反応するような支援者が多い中で、施設職員という彼らの存在はある意味異質だ。施設職員の主任の方が、飲み屋で脱・施設派の年上のボランティアに何やら懇々と説教されたり思想性について詰問されている様に大いに同情しつつも、もしかしたらこのボランティア活動が彼の価値観を大きく変えるかもしれないと思うと、「まぁそれもありか」と酔っ払いに説教されている彼に心のエールを送った。「利用者」「メンバー」というフレーズにすら反応するくらいはっきりとした思想性を持つ支援者と、「障害者に関わる仕事がしたい」という純粋な思いで入所施設職員になった人間が一緒に飲むなんて、そんな面白い場面はなかなかないのではないか。ここに来る前私は母に「毎日飲みなや」と警告されていたが、ボランティア仲間と飲むのはこれだから止められない。と言ったら言い訳がましいが・・・。
今週は社会資源調査と称して名取市内の福祉サービス提供事業所をしらみつぶしに回った。障害者を専門にしているところはほとんどなく、多くは介護保険を中心に事業を行っていた。建物がえらく立派な事業所で「こんなに金があるところはまぁ大丈夫だろう」と思ってしまうが、話を聞くと津波で利用者が大勢亡くなりヘルパーが多数被災したのも加え仕事が3分の1になった、という事で大変そうだ。対応してくださった職員の「また一からですね・・・」という言葉には、今まで積み上げたものを失くしまた一からスタートすることの大変さを感じた。
ちょっと聴き取り調査に行ったつもりの社会福祉法人では、施設長からゆめ風基金から資金の支援の要請を受けた。津波で全壊した知的障害者通所施設を案内され、急遽建設した仮の施設の見学へ行き、津波で町ごと流されたゆりあげ地区を解説つきでドライブして頂く。自分たちで許可証を取って入っていった地区に施設長は顔パスで入るのはさすが。やはり自分たちだけで車で走るのと被災した張本人に案内されて見るのとでは実感がまるで違う。日中活動の場を失った利用者に一日でも早く活動に戻ってもらおうと緊急的に作った建物は、行政に様々な申請や報告をする前に作ってしまったので補助を受ける条件を満たしておらず、あらゆるところに資金提供をお願いするもことごとく断られたという。施設長は総費用2000万円のうちの、早急に支払わないといけない工事費用900万円のせめて半分をお願いできないかと言う。とにかくどこかから金を引っ張ってこないといけないという必死さ、「被害の状況を目で見てもらって伝える!」という施設長の熱意には感銘を受けつつも、もとあった施設も新しく建てた仮の施設もそれはそれは立派で、「ゆめ風がこういう法人をバックアップする可能性は低いかも」と思っていたが、今朝八幡さんに聞くと資金提供を決定したとのこと。わたしたちの3時間は無駄じゃなかった、というよりは施設長の熱意の勝利であり、たまたま私たちが訪れたラッキーとも言えるかもしれない。数十名の知的障害者まとめて引き受ける巨大な通所施設は「地域で生きる」という運動とは違う方向を向いているように見えるが、この地域にはあの法人のような大きな施設の他に障害者が行く場所がほとんどない。ゆめ風基金がこの法人への支援を迅速に検討し決定したことは良かったと思うが、それで終わるのはもったいない気もする。将来何かの形でこの法人とゆめ風やCILたすけっとが繋がれば、支援した甲斐がなおさらあるんじゃないかと思う。
精神障害者のグループホームを訪ねて世話人に「何か情報はありませんか」と聞いたら、逆に情報を流してくれませんかとお願いされたこともあった。グループホームで生活していた60代の男性が、震災から4日目の3月15日、おそらくパニックを起して失踪した。警察に捜索願を出しているが震災から3ヶ月経った今もまだ見つかっていない。詳しい情報をFAXしてもらってローリングで回る各チームに気にかけるようお願いした。当時は雪が降っていて長靴を履いていたという。今の仙台は先週は夏日で汗をかき、今週は梅雨入りして毎日雨が降っている。その人はどこかで雨をしのいでいるだろうか。

7月3日(日)ラジオ第2「ともに生きる」で心のネットワークみやぎが紹介されます

「心のピアサポート相談電話」について、佐川美紀さん(「こころのネットワークみやぎ」会長)が電話出演されます。
●7月3日(日)ラジオ第2「ともに生きる」
午前8時から8時30分、再放送が午後7時から7時30分です。
「被災地から”地域移行”を考える」というテーマで、大阪府立大学准教授の三田優子さんがスタジオゲスト。
番組前半で、岩手県の社会福祉法人が運営するグループホームの話、
後半で佐川さんが「心のピアサポート相談電話」のお話をされます。