豊能障害者労働センター・春の大バザー

豊能障害者労働センター・春の大バザー
 5月26日(土)、豊能障害者労働センター主催の大バザーは、盛況のうちに無事終了しました。
 今年は汗ばむほどの五月晴れで、お客さんも大変多く、午前中で品物がほぼなくなってしまう勢いでした。
 野外ステージではゆめ風基金のディーバ(歌姫)・加納ひろみさんや風船パフォーマンス、紙芝居があり、楽しい時間になりました。ステージのラストは、加納ひろみさんがゆめ風基金応援歌「風と夢」を歌いました。
 ゆめ風基金は提供していただいた広いスペースでパネル展を開き、募金箱も置かせていただきました。
 ゆめ風基金のスタッフもボランティアスタッフとして参加した他、牧口一二さん、河野秀忠さんをはじめ、ゆめ風基金の理事や障害者救援本部のメンバーの人たちも来てくださいました。
 売り上げは150万円もあったということで、豊能障害者労働センターは売り上げの一部をゆめ風基金に送金してくださいます。
 豊能障害者労働センターのみなさん、ご苦労様でした。
豊能障害者労働センター・春の大バザー
豊能障害者労働センター・春の大バザー

ゆめ風ネットさいたまより 茨城県つくば 竜巻被害状況調査

 茨城県つくば市で発生した竜巻の被害状況について、ゆめ風ネットさいたま(わらじの会)の吉田弘一さんから報告が届きました。
茨城県つくば 竜巻被害状況調査
日時 5月8日 9:00~19:00(現地12:00~19:00)
場所 茨城県つくば市北条地区、ならびにそれに隣接する地域
メンバー ゆめ風さいたま(わらじの会)辻浩司(運転も)、吉田弘一
方法 車、徒歩による目視、聞き込みなど
被災の原因 竜巻の発生による暴風での被害。
被災の規模  9日午後5時現在で確認された建物被害は▽つくば市952棟(うち全壊196棟)▽筑西市179棟▽桜川市80棟(うち全壊9棟)▽常陸大宮市41棟(同2棟)▽常総市25棟。またつくば市北条地区の約200世帯で続いていた停電は損壊家屋で引き込めない世帯を除き、同日午前、全面復旧した。(県発表)
つづきのくわしいレポートは、ここをクリックしてください。

5月12日の街頭募金、ありがとうございました。

5月12日の街頭募金は18人のご参加をいただき、36,211円の募金額となりました。
参加していただいたみなさん、ご苦労様でした。募金をしてくださったみなさん、ありがとうございました。
次回は6月9日(土)午後1時~5時 大阪なんば高島屋前です。
よろしくお願いします。

ヒデの救援レポート、2012年・5月21日

ヒデの救援レポート、2012年5月21:71
 日本全国で、全ての原発が停止した5月6日。関電が今夏の電力不足を喧伝し、原発再稼動の恫喝に奔走する日の読売新聞に、計画停電を導入する事柄に課題を見つけ、医療的ケアを人工呼吸器など必要とする障害者市民の声が掲載されました。医療的ケア連絡協議会代表の折田涼さんが写真入りで、計画停電への異議意見を発表しました。
読売新聞5月6日社会面
全原発停止停電おびえる命
人工呼吸器電源確保に苦心
 国内の全原発が発電を停止した5日、西日本の各地では、消費者から不安の声が上がる一方で、この機に電力問題を考えようという動きもみられた。病気を抱え、電気を使う機器を装着して在宅療養する患者にとって、停電への危機感は強い。人工呼吸器をつけた子どもの親でつくる全国組織バクバクの会の折田みどり事務局長(50)によると、呼吸器の内蔵バッテリーは長くて10時間、たんの吸引器は内蔵バッテリーがあっても20分~40分しかもたないという。長男の涼さん(23)は脊髄性筋萎縮症で、24時間人工呼吸器を使いながら大阪府池田市の自宅で暮らす。停電時に備えて外部バッテリーを用意しているが、折田さんの問いかけに対し、涼さんはまばたきで経験したことがないので不安と明かした。
 停電が長期に及ぶと、自家発電機のある近くの小学校に避難して電源を確保しなければならない。折田さんは計画停電をするなら、正確な情報がほしい。関西電力や自治体は、人工呼吸器の使用者がどこにいるのかを把握し、必要な人にバッテリーを貸し出すなどの仕組みも作ってと訴えた。
 産経、読売、毎日の各紙に掲載されましたが、その中の5月3日の朝日新聞大阪版から。被災障害者支援野崎観音で催し きょう・あす菊水丸さんら
 阪神大震災以降、被災地の障害者の支援を続けているNPO法人ゆめ風基金・事務局・大阪市・が3、4の両日大東市野崎2丁目の慈眼寺野崎観音で、東日本大震災の被災地への支援イベントを開く。開催中ののざきまいり8日までに合わせた。
 ゆめ風基金の活動を支援する芸能人が参加する。3日午後3時から、河内家菊水丸さんが河内音頭を披露。4日午後1時からは、桂文福さんと腹話術師の千田やすしさんが登場する。
 また、境内にある野崎観音会館では5日までの午前10時~午後4時に、救援活動のパネル展3、11東日本大震災・そのとき障害者に何が起きたか!も開かれている。無料だが、会場に募金箱を設け、支援を呼びかける。
問い合わせはゆめ風基金06-6324-7702
同じ朝日新聞に掲載された囲み記事 室井佑月さん
放射線量国は隠した
 作家の室井佑月さん(42)は法制化の動きに大きな問題を感じている。やっぱり国は、都合の悪い情報を出さない。福島第一原発の事故を経て、そんな思いを強くしたからだ。
 東日本大震災当時、両親が福島と宮城の県境に住んでいた。震災疲れで寝込んだ母当時(78)は死ぬ前に孫の顔が見たい。政府は直ちに健康に影響はないと繰り返すが、長男(11)を連れていくのは不安だった。福島入りした雑誌記者から風向きによって放射線量を測るガイガーカウンターがピーピー鳴ると聞かされていた。
結局、不安なまま母の元へ。この経験から、線量計を1台16万円で手に入れた後の昨年7月、同じように悩む母親らを助けたいと、友人と放射能測り隊を結成した。インターネットで希望を募り、昨秋まで関東や東北の学校、公園で放射線量を測った。
 放射性物質の拡散を予測するシステムSPイイ DIの情報は、原発事故後10日以上も国民に伏せられていた。国は混乱を招くと言うけど、高線量の方に逃げちゃった人もいる。避難に使える情報を、隠してたんだよ。
名古屋、社会福祉法人自立の家の提言の中から
地域住民との協働と支援の舞台づくりねらい
 地域防災力、被災時の受援力を高めることを目標に、災害時要援護者自身が参加し、当事者の立場で検証する仕組みをつくる。住民相互が連携した地域防災力の強化。避難所での暮らしにくさや避難生活における困難は障害者特有の問題ではなく、誰にでも起こりうる共通のことであるが、日頃の人間関係が希薄な中では排他的になる傾向がある。
 また、地域住民や地域の事業所の中には、保健、福祉、医療、建設、エネルギー燃料などの専門性を有する人材や専門業者もいることから、これらを発掘し、いざという時に連携できる仕組みを作ることが重要である。
そのために、地域の防災力、被災時の受援力を高めるためのさまざまな地域防災プログラムを通して、要援護者支援に関する人材の育成と協働を行うこと。
 要援護者の疑似体験だけではなく、要援護者自身が参加し、弱さの情報発信を通して地域全体の課題として共有する。ワークショップを通して、地域住民主導による要援護者マップの作成や要援護者搬送訓練を実施すること。
また、避難行動期の救護、避難支援という短期支援だけでなく、避難生活期における長期支援の視点を取り入れる。要援護者と避難支援者民生委員等、地域の民間企業、福祉サービス事業所合同による避難訓練、避難所開設宿泊訓練を実施すること。
 避難訓練では、より多くの住民が参加できるような工夫と、安否確認全戸声かけ訓練を取り入れることや、災害時の危険箇所や資源となる箇所を確認できるような取り組みディIJ、タウンウォッチングを取り入れること、
また、避難生活の混乱を学ぶための体験会、間仕切りセットの組み立て体験、避難生活を支えるグッズの紹介など避難支援プログラムの訓練を実施すること。避難生活プログラムでは、本番さながらに住民の自主管理、自主運営ができるよう構造化しない体験学習を取り入れること。地域の避難訓練へ高齢者、障害者、乳幼児も参加し、避難できるかどうかの点検を身体で覚える形で実施する。地域住民に広く参加を呼びかけるとともに、災害時要援護者となりうる人、日常的な支援は必要ではなくとも停電等環境が変わると要援護状態になる人への要援護者リストづくりも同時に行う。
 日常的に福祉サービスを利用していない人は、災害時には自分が要援護者になるという自分の問題への引き寄せと周囲の人にそうした存在がいることに気づいてもらう必要がある。
 例えば、地域の避難訓練カリキュラム災害時に起こること、要援護とは、当該地域の避難所、救援物資、ハザードマップの確認、実際の避難訓練、振り返り…困ったことと今後に向けて各自ができる事前の用意地域住民と福祉サービス事業所との連携協定障害当事者団体や福祉施設・事業所など、要援護者やその支援に当たる人が共に参加することを通して、日常の地域の結びつき・支援関係の強化につなげる。以上
 被災障害者支援ゆめ風基金に寄せられた救援金、金額は5月13日までに、230876514円です。
 これまでに支援した団体、個人への金額は5月2日現在、東北へ、129999050円。台風12号関連、香川県、和歌山県、兵庫県方面2942828円。フィリピン大洪水、10000000円です。
 このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌そよ風のように街に出よう編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。広く知ってもらいたいので、転送自由。自由にお使いください。
 息の長い救援が求められています。長期戦です。救援金の送り先は、郵便振替口座00980-7-40043ゆめ風基金です。;とうほく;と書いてください。
東日本大震災救援活動の中のhideの風景
ゆめ風基金に届いたハガキから
以前に支援金を届けた、被災地の団体の方からです。
 ゆめ風基金様お元気にご活動の事と思っております。お久しぶりです。かみくり荘川向です。皆様方のおかげで、ベランダが使えて、嬉しくなって筆を取りました。私が集めていた記念切手を送ります。役立てて下さい。ベランダに立つたびに、ゆめ風基金さんの事がいつも心に浮かびます。本当にありがとうございました。お体を大切にして下さい。川向和枝
hideが長年、代表をさせていただいた、大阪府箕面市の豊能障害者労働センター機関誌積み木232号巻頭文より
 この4月、設立30周年を迎え、振り返ると労働センターを支えてくださった数え切れない程多くの人の顔が走馬灯のように流れます。昨年はじめた畑事業は、石ころだらけの土を耕すことから出発し、風雨に耐え、暑さ寒さをのりこえて丸々太った丸大根、シャキシャキの水菜などが立派に育ち実りました。
 現在、豊能障害者労働センターは、助成金が減額される中、大所帯を抱え、風雨に耐えている状態です。苦しいと言いながら被災地障害者支援を無理してしなくても、とご心配の声もありますが、苦しい時こそ内にこもるのではなく私たちから発信し、つながっていく行動が必要だと考えています。
 これまで幾度となく危機を乗り越えてこられたのは、物心両面においてたくさんの方々が私たちを支えてくださったからこそです。非常に厳しい財政状況ですが、これまで応援してくださった方々に感謝を忘れず、事業を通じて継続的な被災障害者支援を私たちにできる形で続けていきたいと考えています。
 失われたいのちの尊さを胸に刻みつつ、私たちもここから発信し、活動を続けていきます。どうぞよろしくお願いいたします。
                           豊能障害者労働センター
                            TEL072-724-0324 
                            FAX072-724-2395
 被災障害者支援グッズ・夢に風にガッツくんTシャツ、希望のガッツくんトートバッグ売り上げの10パーセントは、ゆめ風基金に届けられます。

ヒデの救援レポート、2012年・5月14日

ヒデの救援レポート、012年・5月14日:70
 5月18日、ゆめ風基金機関誌発送作業を担っていただいている、発送ボランティアの皆さんと、軽く、発送作業終了後に、新事務所御披露目の懇親会を行います。
 続いて、5月23日午後6時から、東日本大震災被災障害者救援本部大阪の会合がゆめ風新事務所で開催され、その後、午後8時から新事務所御披露目のささやかなパーティーを行います。どなたでも参加自由です。ぜひ、おいでください!参加費、おひとり1000円です!!
京都・花園大学・人権教育研究センター報第21号からの抜粋
連絡、TEL・075-811-5181、FAX・075-811-9664
原発事故を思いながら…I、K・センター委嘱研究員
 僕には子供が二人いる。うちの子と同年代の子供たちが近所にいる。気心が知れてきたのか、和気あいあいとケンカもしながら仲良くしている。
 新聞を開くとそこにある記事はあまりにも暗い。目をそむけたくなるような事件事故がある。これからの時代を健気に生きていくであろう子供達にとって、希望を感じる出来事があまりにも少ないように思う。
福島県での原発事故に注目している。福島県に住む人々の気持ちを想像する。特に子を持つ親の気持ちを。僕は、住み慣れた街を出ていかないといけない状況は耐えがたいことに感じ、現在も危機や苦難や危険が隣り合わせで継続する状況のなか、同じ日本という場所で、「原子力発電がないと日本の経済が電力不足で停滞する、経済の停滞により国際競争力がなくなる。そうすると失業者にあふれ、日本の国民全体に影響する」などの声が聞こえてくることに、違和感をおぼえる。
 親としてなら、子を危険にさらしたくないと思うのが妥当の線と考える。原子力発電を肯定的にとらえる人々の中にも子を持つ親はいると考えるのが自然と思う。子はいなくとも孫・姪・甥、近所の子供など身近に感じられる機会はあるだろう。原発を肯定する人々は、身近にいる将来を背負う若い人たちのことを考えて原発が必要と考えているのか、安全に暮らすこと以上に必要なことがあるのかどうかなど思いめぐる。
 妥当の線がみえなくなる。自然災害の延長で福島県で起きた原発事故に対して内省が働かないそんな感覚マヒの状態が自然となってしまっているのか?人が暮らしていく妥当の線はもうなくなってしまったのか?僕は、将来を託す子供たちに何ができるのか、遅まきながら考え始めている。
被災障害者支援ゆめ基金に寄せられた救援金、金額は、4月14日までに、227969836円です。これまでに支援した団体、個人への金額は5月2日までに、129999050円です。
このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。広く知ってもらいたいので、転送自由。自由にお使いください。
息の長い救援が求められています。長期戦です。救援金の送り先は、郵便振替口座:00980-7-40043:ゆめ風基金です。;とうほく;と書いてください。
東日本大震災救援活動の中のボクの風景。
社会福祉法人AJU自立の家発行、被災地の障害者支援及び地域福祉底上げ事業報告書
42ページの被災地状況が詳しく掲載された報告書です。
編集は、災害時要援護者支援プロジェクトです。
連絡先・TEL052-841-9888、FAX052-841-3788
はじめに、からの抜粋
 災害弱者に対する支援策について、国は「災害時要援護者避難支援ガイドライン・05年3月」をまとめ、これに基づき市町村は要援護者名簿の整備と避難支援プランの策定を進めてきた。
 東日本大震災ではこれが全くといってよいほど機能しなかった実態が明らかになった。名簿については誰を載せるかという役所の課題の一方で、誰となら安心して逃げられるかという地域住民としての関係性、当事者側にも問われている。
 個人情報保護法への過剰反応から、名簿開示に躊躇する自治体が多い中、発災時どういう基準でどういう手続きで開示すべきかも課題だ。その点、市民の生命と安全を守るため災害時における安否確認と支援ニーズの把握については行政の責任、実施にあたっては、障害団体や事業所と連携し速やかに行動する態勢が必要とするとした南相馬市の姿勢は鮮明だった。
 概して被災地の自治体では、国や県に伺いを立てないと動けない姿勢が目立ち、阪神淡路大震災の時に比べ、現場の判断力や気概が低下しているとの指摘もあった。自立の家は、発災2日目から被災地支援活動を開始した。私たちもそうであるが、被災地の障害者支援にあたった団体は避難所を訪ねても障害者がほとんどいないと言い、不思議に思った。
 避難所のリーダーも地元自治体の職員も障害者、要援護者の所在や安否を把握していなかった。安否確認と支援ニーズに関しては、無事を確認するだけでは完結しない。いわんや個別の支援ニーズは災害のプロセスの中で、また関わる人によっても変化する。支援者の感性に依存。避難支援ガイドラインは避難行動期を中心に描かれてきたが、避難生活期や復興期を含む長期的支援の視点が必要だ。災害ボランティアの出遅れと瓦礫撤去に終始し、個別のニーズに応えられない社会福祉協議会の実態も問題だ。
 皮肉なことに、避難所への避難をあきらめざるを得なかった人こそもっとも支援を必要とした。福祉避難所は現在の設置基準では機能せず、入所と入院を勧めるだけの通過施設としての位置づけである。指定避難所への福祉コーナーの設置も議論されているが、大規模災害では一般の人ですら収容しきれないのが実態だ。先進例としては中越沖地震の際の福祉避難所の開設があるが、介護保険モデルの機能的支援のため、適応できなかった障害者がいたことも忘れてはならない。
 被災した自治体の行政機能が損なわれたとしても、地元自治体のイニシャテイブがないと外部からの支援は困難だ。これまでの先進例の教訓からも、県がもっと前面に出て、被災自治体のバックアップに入る仕組みを考えないとダメだ。避難所というハコモノ施設に対する指定ではなく、避難生活支援センター、被災障害者支援センターなど、地域全体の避難生活を支援する拠点に対する指定に切り替えるべきではないか。
 障害者をみたことのない人に、その支援は無理である。東日本大震災ではいくつかの団体が連携しながら独自に障害者支援を展開した。そうした実績のある団体に委託するなど、現場に権限と財源を与え、全国的広域的支援につなげるべきではないか。
 1年が経過した今も、被災障害者の実態の把握がまともにされていない異常実態が続いている。対策の見直しを考える上でも、まずは被災障害者の実態調査が必要である。特に避難状況、避難生活状況、仮設住宅入居から復興に至るプロセスの把握をする必要がある。被災した市町村の大多数はそれがつかめていない。国が責任を持って実際に努めることが求められる。
 その上での防災計画と災害弱者対策の見直しが待たれる。ガイドラインの見直しや今後の防災計画に、当事者参加と災害弱者の視点が盛り込まれるかが注目される。
平成24年3月
012年事業の概要
災害時要援護者支援への提言
全国的広域的連携センターかまいしにおける支援活動報告
災害時要援護者の避難支援検討委員会報告
災害時要援護者支援セミナー報告まとめ、以上
被災地障がい者センターいわてのブログより
 久しぶりに釜石へ。昨日、被災地障がい者センターかまいし(名古屋自立の家)に、マグロウヒルカンパニーさんから寄贈していただいたラップトップパソコン2台を届けてきました。何かとおつきあいのあるセンターなので、顔見せもかねて、先月からセンターいわての活動に参加してくれている障害当事者の遠藤君も一緒に。このところセンターいわての活動は宮古を中心に動いているので、久々の釜石行きです。
 早速、センター長の小山さんに届けたパソコンを確認していただいたところ、これはしっかりしたものだ、ありがとうございます!と、喜んで下さいました。センターかまいしは昨年秋のオープン以来、着実に地域の方々とのつながりを築いてきているようで、私たちがおじゃましている間にも、センターのお手伝いに来ている聴覚障害の方、入浴支援を利用しに来ている方など、地元の方々が入れかわり立ち代わりいらしてました。センターいわての活動でもお世話になった釜石の相談支援員さんもお見えになって、久しぶりにご挨拶ができてよかったです。
 ホワイトボードの予定を見ても、なかなか多忙な様子。中には、センターいわてで関わってきて、センターかまいしに支援を引き継いだ方々のお名前もあって、きっちり支援が引き継がれてよかったなぁという想いと、今は自分たちが関わっていない一抹のさみしさと・・・ちょっぴり複雑な気持ちになったりも。勝手なものですね。
 お昼時だったので、ちゃっかりカレーをごちそうしていただいてから(ごちそうさまでした!)、センターかまいしをあとにした私たちは、電動車椅子ユーザーの遠藤君に仮設のバリアフリー度をチェックしてもらうため、釜石平田総合運動公園の仮設と遠野の穀町の仮設に向かいました。後略
以上!

日本自立生活センター所長 矢吹文敏さんの報告NO.2

DPI日本会議、JIL合同による
「被災地障害者当事者支援プロジェクト」の活動を終えて NO.2
日本自立生活センター 所長 矢吹 文敏
同行ボランティア 石塚  光
〃       黒田 昭子
京都でてこいランド  松井 孝司
4月3日(火曜日)
 今日は、昨日のうちに連絡を取っていた作業所を訪問する。日曜日に訪れた田野畑駅から少し離れた所にある「ハックの家」だ。
 被災地センターから、50キロほど北の所にある「ハックの家」は、昨年の災害までは、水産加工の仕事をメインにしていた作業所だった。
 ところが、津波によって水産加工場が全滅し、下請け作業を回してくれていた親会社がつぶれてしまったために、そこからの仕事はほとんどなくなってしまった。急きょ、今までは、サブ的に好きな人を中心にやっていた「沙織折り」をメインにするしかなかったという。
 作業所の代表である竹下さんは、今年に入ってから、京都にある「風工房」のアトリエで作品展を行った経過もあり、その時の出会いが始まりで、今回の訪問となった。
 沙織折りによるバッグ、財布、携帯電話ケースなど、様々な製品があるのだが、いずれも上品な色調で、オリジナル性に富んでいたものだ。通所者の中には、三陸鉄道で通っている人もいれば、近所の方もいたのだが、いずれも障害のある方だ。
聴覚障害の方も3人ほどおられ、一人の方に私が手話で尋ねると待ってましたとばかりに色々と話しかけてきた。私の手話力では十分に内容は把握出来なかったが、どうやら働いている仲間との関係を話してくれているようだ。 確かに、知的障害の方から精神の方まで障害種別で同じ職場にいることを伺うと、まさにそこはインクルーシブな社会ではあるのだが、今日的に制度上の違いもある当事者同士が同じ場所にいることの困難さは容易に想像出来る。
 まさに地域性を象徴している作業所でもあるし、生活介護や就労支援の事業をかねていこうとする都会型(?)にとっても大いに参考になる作業所でもある。
 ハックの家は、作業場の一部を被災者の避難場所として提供していたために、しばらく使えなかった場所を改修し、パンの専門家から作り方を教えてもらった技術で、今度はパンの製品も売り出すという。
 しかし、問題も多い。どんなに良い製品を作り出しても、地元だけの購買力だけでは売り上げが伸びないのだ。 京都……だけではないのだが、うちのお店でも商品を預かっても良いよ、と言って下さる団体や個人の方。
 全国組織が、被災地施設の自主作品の勾配をお手伝いするのも大きな力になるものと確信する。ぜひぜひ、その商品を預かって下さる団体・個人は、直接お問い合わせをお願いしたいものだ。
 4月4日(水曜日)
 今日は、爆弾低気圧と言うだけあって、かなりの強風だ。点滴に行く医院までの道すがら、車いすがかなりあおられた。まさか飛んではいかないだろうと思いつつ、側を流れる川を見て、そのまま跳ばされたらどうしようなどと想像してみた。
 その後、センターの近くに、警察の車と消防車がやってきて、センター前の一方通行が通行止めになった。センターから3件隣のお店の屋根が吹き飛ばされそうに捲(めく)れ上がり、非常に危険な状態というのだ。
 応急処置の工事も、この風が治まらないと危なくて出来ないとのこと。警察官と消防署員が交替で見張り、騒ぎが収まったのは結局夕方近くであった。
4月5日(木曜日)
 一昨日のハックの家に続いて、今日は障害者が関わる近隣の工房と被災した観光場所を訪ねることにした。地元スタッフの案内で、車2台で出かけた。
 最初に訪れたのは、絵はがきの風景や物語にも登場する浄土ヶ浜。宮古市内から車で20分ほど走ると、立派に舗装された道路から、急に細かくひびの入った少し凸凹の道を右折し、広い駐車場に入った。やたらと人なつこいカモメの出迎えを受け、浄土ヶ浜ビジターセンターとレストハウスが隣り合わせた場所を案内してもらった。
 昨年の地震と津波による災害の直前近くに完成したばかりの建物と言うことだったのだが、レストハウスのほうは未だ公開されるだけの修理が出来ていない。私たちは、ビジターセンターのエレベーターを使って地下へ降り、可能な限り海岸沿いに近づき、美しい風景の観光スポットを見学することが出来た。
 この美しい風景を、過去何十年、何百年かに1回の割合で津波が襲っており、昨年の東日本の津波災害だけではなく、それより以前の時期に三陸海岸を襲った津波の史実や、その当時の生々しい写真や記録も掲示されていた。 もちろん、近海の魚のことや地理的な説明なども書かれていたのだが、この次に私たちが訪れることがあったら、やはり、2011年3月11日の記録も掲示されているのだろうか。何か、辛い記録である。
 その後に訪れたのは、「ワークプラザみやこ」で、全くのアポイントも取らずに突然訪れたにも関わらず、仲田所長さんは快く案内してくれた。
 クリーニング作業、襖・障子の張り替え作業、清掃作業業務の引き受けなどを行っていたのだが、私たちが訪れたのは昼休み時間。ほとんどの方は、工場から離れていた。
 所長さんから説明を受けた後に、私たちが一番に関心を持ったのは「鮭革細工作業」であった。岩手県の魚、宮古市の魚、そして縁起の良い魚として大事にされている「鮭」の皮を鞣(なめ)して作った革細工で、高級感が溢れている。
 名刺入れ、小銭入れ、キーケース、カードケース、財布、ストラップやしおりなど、鮭という魚の幅や模様を活かした商品が多い。
 宮古を訪れる観光客が急激に落ち込んでしまった今、現地だけのお店に卸してもなかなか売れることが無い。商品の販路開拓をしなければならないとのことだった。京都からのメンバーが、お土産として少しずつ買わせていただいたが、結構評判は良い。少しでもお手伝いしたい商品である。
 できれば作業も見たい気持ちではあったが、あまり無理なことは言えない。クリーニングや障子の張り替えなどの現場を見ることはできなかった。次の日程もあり、急な訪問にお詫びとお礼を伝え、私たちはその場からお別れした。
 さて、今日の予定で残るのはもう一ヵ所。夕方には十分帰れるコースで決めたもの。近くにあった病院の食堂で昼食をとり、いざ出発。明日には帰京するために、「途中でお土産なども買って」などと思っていたのだが………、目的地を設定したカーナビを信用し過ぎたために、その後とんでもないことになってしまったのだ。
 昼食を食べてから、今日最後の訪問先、〇○を目ざして、現地スタッフの案内で出発した。訪問先にも、訪問時間の目安もお伝えして了解を得、先ほどの作業所の話などをしながら向かったのだが……、先導していた車の進行方向が、いつの間にか山奥の方に侵入し、先の道が無い所で止まってしまった。
 先のスタッフが「もーっ、俺のカーナビ古いからか信用できねー」とぼやきながら車を降りてきた。「それじゃ、こちらのナビで行きましょうか」という事で先導役を交代し、再び出発。Uターンして改めて走り始めたのだが、カーナビの指示通りに走っていると、何やら雰囲気が怪しい方向に向かい始めた。
 河川敷の工事現場のような所に入り込んだかと思うと、急に道が狭くなり、どう見てもいつも車が走っている道とは思えない異様な光景が見えてきた。山間から木が倒れ、大小の落石があり、さらに道が狭くなっているのだ。
先ほどのカーナビがおかしいわけでは無かった。納得して良いのかどうかわからないが、私のカーナビも同じだったのだ。
 そして最悪のパターンが起きた。私の車のタイヤがパンクしていたのだ。道路の凸凹だけではなく、タイヤの左脇を岩で裂き切ってしまい、実は、ホイールからタイヤが外れかかっていたのだ。
 京都から運転してくれたMさんやスタッフのIさんがスペア交換作業を始めてくれたのだが、ジャッキを支える地面が凸凹で固定できない。ナットを外す道具も石に引っかかって回せない。お天気は良く、まだ明るい状況なので気持ちの余裕はあったが、もしかして上からの落石があったらどうしよう、などと思うと気が気ではない。
 右上の高い方向には、先ほど私たちが走って来たと思われる大きな橋があり、次々と走り去る車の姿が見える。
 ついには「JAFを頼もう」という事になり、携帯からJAFへ電話。幸いにも携帯は通じたのだが、何せこちらは迷ってしまっているので、現場の説明もうまくいかない。大分時間をかけて、かろうじて場所の確認もとれて出動してもらえることになったのだが、到着するのは50分後とのこと。
 とても心苦しいことであったのだが、Mさんを残して、私たちは一度センターに帰ることとした……。
……とは言え、私は自家用車からリフトを使って降り、普通の乗用車に乗り換えなければならない。やっとの思いで、宮古センターの車に乗り込んだが、今度は私の電動車いすの折り畳みがなかなかきかず、何とか押し込んでもらった。
 先程迷い込んだ道をUターンし、とにかくも国道45号線に戻ることが出来、センターみやこに帰着した。途中にもMさんとは連絡は取りながらではあったが、私自身も精神的に相当疲れていたことを自覚した。
 「明日の昼にはもうここを離れることになる。」あっという間の訪問だ。こんなんで本当に支援になったのだろうか。もっともっとやることがあったのではないだろうか。車いすに乗った人と会ったのは釜石に行った時の一人だけ。センターを訪ねてくる、知的や精神の方とお話し出来たのも少しだけ。考えれば考えるほど、障害当事者による支援活動の難しさと根気強さが要求されることを改めて知った。こんな崖道で阻まれる自分たちが少々情けなかった。
 今夜のみんなとの夕食、そして明日の午前中には、頼まれていたスタッフへの講話。障害者運動、まちづくり運動の経過などについての話を聞いて頂く勉強会。明日一日だけの宮古の町をゆっくりと散策したいところなのだが、どうやらその時間もないようだ。
4月6日(金曜日)
 私たちの活動日もいよいよ今日で最後。朝から荷物のまとめも始まった。同行したI君は、現地スタッフからのお誘いもあり、あと3,4日残ることになったので、帰りは3人だけとなった。
 「同じ釜の飯を食う」という言葉の通り、短い時間ではあったが、なごり惜しい気持ちでもある。
 特に昨夜のお別れ食事会の出来事が話題になり、その思いをいっそう深めた。
 ……と言うのは、現地スタッフの皆さん方が「最後だから」と近くの飲み屋さんで食事をすることになった。バリアフリーで入れるお店というのがなかなか無いことは既に予想はついていたのだが、それほど沢山のお店の数があるわけでもなく、ここが良いね、と言うことであるお店に入った。
 すると、そこの女将さんのような人が「車いすの方ですか。ここは皆さん土足厳禁で履き物を脱いでもらっていますので、車いすから降りて頂けますか?」とおっしゃる。現地の人たちは一瞬困った様子だったが、“えっ? 車いすを雑巾で拭いたらいいでしょう?」と聞くと、不承不承奥の方から雑巾を持ってきた。その布でタイヤを拭いていると、さらに奥から主人のような方が出てきて、「その車いす、床に傷つきませんか?」と尋ねてくる。
 私は一瞬、懐かしい言葉だーっと受けとめた。
 そうだよな~、昔、ボーリング場とか体育館とか、和風料理店とかスナックとかで、色んなこと言われて、その都度喧嘩のようになったけな~。そっか、ここは今か~、などと妙な所で感心してしまった。
 でも、京都だって、3,4年前に小学校の体育館を借りる時に、同じ事言われてるし、持ち上げれば良いんですか~などと、まるで荷物扱いの言葉で扱われることも珍しくはない。
 でも、滅多に車いすの人に出会わないこの地域でのこと。これでは、車いすの人も外へ出るのも勇気いるよな~、と思った次第。
 ……ともあれ、そんなこと言われたって、食べる時は楽しく食べて、楽しく飲む。これで良いのだ。みんなで、大いにしゃべり、少しは飲んだ。
 ……という事件があった次の日の朝なのだ。
 私が1時間ほどお話しをする予定のネタとしてはこれ以上のネタはない。まちづくり運動の原点のような実際の事件が起きたのだから、私もつい熱が入ってしまった。
 昔は座敷牢のような所で隠されていた人たちが沢山いたこと、介護疲れも重なった子殺しのこと、日本の福祉が施設造りに走ってしまったこと、私が小学校も中学校も行っていないこと、インターネットも携帯電話もない頃の時代に全国の障害者が一斉にまちづくり運動を始めたこと……、あれっ? あとどんなこと話したっけ?
 どうも最近忘れっぽい。自分で言ったことも忘れてしまう。(そう言えば、政治家はみんな忘れるようだけど……、と余計なことも加えるが……)
 地元のスタッフの人たちは「宮古は遅れてる、夕べの事件などは恥ずかしい」とおっしゃる。とんでもない。遅れているのではない。知らないのだ。新しい情報など知る機会もなく、その必要に迫られてもいない。重度障害者が「自分だけで、介助者を使って地域生活を行う」と言うことなど完全に諦めているし、それが出来るとも思ってはいない。地域によっては700時間以上の介助者を使って普通の家で地域の中で生活していることを知らないし、知ることもない。
 宮古のセンターに毎日コーヒーを飲みに来るおじさんは「俺はね、仕事首になってから、お前は何もしないで飯ばかり食っててバカだ、と家族から毎日言われてる。」と話してくれた。一番身近な人たちからお前はバカだと毎日言われるのは辛いと思う。
 その辛さを受けとめた現地スタッフの人たちが、DPIやJILのメンバーが、1100㎞離れた京都の私たちが、これから何が出来るのか。何をすればよいのか。
 1年たっても、家が流され土台だけが残ってしまった風景は変わってはいない。そして当分変わる様子もない。宮古での福祉のまちづくりが、今日から始まったと思って頂ければ、そのスタートも意義のあることだ。
 私たちは、さまざまな課題をお土産に、新しい出会いを忘れず大切にしながら、次の出会いへの拡がりを求めて、「被災地障がい者センターみやこ」を後にした。
 その日の夜、同じ被災地センターの仙台を訪問し、遅くまで私たちを待っていてくれた皆さんとお話しをし、1時間ほどでおいとまをした。本当は石巻にも行きたかったし、福島にも寄りたかった。
 しかし、残念ながら時間的な制約もある。またの機会を念じつつ山形・新潟経由で京都へ帰ったのは7日の午後11時59分頃。ちなみに、山形・新潟を通る時は雪が降っていて、京都へ帰った時には、満開の桜が待っていた。
 多分、宮古の桜はまだかも知れない。でも、間もなく春だ。
 皆さん、ありがとうございました。私たちは元氣です。また会いましょう!
宮古にて 矢吹さん

日本自立生活センター所長 矢吹文敏さんの報告1

DPI日本会議、JIL合同による
「被災地障害者当事者支援プロジェクト」の活動を終えて NO.1
日本自立生活センター 所長 矢吹 文敏
同行ボランティア 石塚  光
〃       黒田 昭子
京都でてこいランド  松井 孝司
昨年12月に行われたDPI日本会議常任委員会において、被災地障害者当事者派遣プロジェクト参加について、明けて2012年の派遣メンバーが確定していない中で、参加の呼びかけがあった。
これに応じた形で、日本自立生活センター矢吹他3名、京都でてこいランド松井ら合計4名が参加することとなった。
諸般の事情により、予定より2週間以上遅れた日程ではあったが、2012年3月29日から4月6日(一人は、4月10日に延長)まで、被災地障害者センターみやこに宿泊し、現地スタッフの指示と協議の中でそれぞれが活動した。
以下、日程に沿った活動の概略について報告します。
3月29日(木)
 私たち「日本自立生活センター」と「京都でてこいランド」のメンバー4名は、京都から自動車組と新幹線組みに分かれて出発し、岩手県盛岡市の駅で合流し、夕方6時頃に「被災地障がい者センターみやこ」に到着した。
連絡の勘違いか、どうやら私たちは30日に到着すると言うことになっていたらしく、現地スタッフの方々は大分慌てたようだが、職員・先着のボランティアの方々から温かく出迎えを受けた。
 初めての土地であることと盛岡からの途中にまだまだ残雪のあることで、訪れた私たちは、これからの活動に対する使命感や不安で少々の緊張感を覚えた。
 慌ただしく自己紹介をした後、早速に夕食前のミーティングに参加。
 今日の活動についての報告を一緒に聞かせて頂いた。
 「交流会」参加を呼びかけるチラシの各地域へのポステイング状況、今後の課題、明日の活動予定などが話された。
 私たちの明日の予定としては、コーディネーターの山下さんの指示によって、お花見交流イベント案内のチラシをポスティングすること、行政訪問などが確認された。
 寒いことを覚悟していたこととはまったく逆で、到着した日は、いわてでこの冬一番の暖かい日となった。私たちは、1階と2階に分かれての宿泊。運転の疲れも重なり、ゆっくりと睡眠することができた。
3月30日(金曜日)
 午前、矢吹は定期点滴のため、あらかじめ予約していた近くのO医院へ出かけ、ほかの二人はポスティングに出かけた。
……点滴を終えてからは行政機関訪問との予定ではあったが、かねてから会いたいと希望していた方が、急遽会えることになったとの連絡があり、山下さんの配慮により、釜石まで足を運ぶこととなった。DPIなどからの情報では、お名前や地域など詳細ではなかったが、その後の聴き取りで、ある施設に入所していたKさんと分かっていた。その方と思いがけずに釜石で会えるという新しい情報で、京都組は山下さんの運転で釜石センター(名古屋のAJU設置)を訪問することになった。
 午後3時頃に到着した私たちは、ほぼ同時刻にセンターに来られたKさんと合流し、施設から出て自立生活をしませんか?など、初対面にもかかわらずの突っ込み会話ではあったが、Kさんも負けじの人物で、私と同じで口から産まれていた。
 いずれは施設を出ての生活を行いたいとの希望も伺ったが、現時点では家族の方が反対していることやヘルパー派遣などの福祉サービスが極めて不足していることなどの面で足踏みされているという。
 さまざまな冗談も含め、プライベートな会話についての内容はカットだが、なかなか小気味の良い会話が弾み、メンバーとのメルアド交換などもあり、ギャグの応酬と再会を約してのお別れとなった。
 宮古から釜石までの道のり、国道45号線。山と海の風景が交互に現れる道中では、毎日のように報道で見せられていた山田町や大槌町の被災状況が目の前に現れた。1年以上たった被災地でありながら、破壊された家屋の土台だけが残されたまま、いまだにまったく手付かず状態の所が多かった。
 大きな店舗では1階が粉々に破壊され、小さな建物は跡形もなく、時には防波堤が破壊され、山間と思われるような所までの立ち木が倒れていた。思わずに、ここに自分がいたとしたらどうしていたのだろう、恐らくひとたまりもなく波に吸い込まれていたに違いない、と身が締まった。
 これらの建物にいた方々は、今はどこで何をしておられるのだろうか。
 だいぶ以前のことだが、健常者のある方が「地震や火災や津波で恐い思いをするのは障害者だけではない、健常者も恐いのだから同じ思いよ」と言ったことがある。はたして本当だろうか。一歩でも二歩でも、自分の力で逃げようとして逃げることが出来る人と、自分の力では一歩も動けない人の恐怖感と言うものが同じだろうか。私は大いに疑問に思ったことがある。
 車いすに乗ったまま、ベッドの上に寝たままの姿で、そのまま波に飲まれていってしまった状況を想像すると、何かしら気持ちが重くなる。
 釜石のほうに入りかけると急に風が強くなる。浜風なのだろうか。破壊された建物とまったく被害の無かった建物とが隣り合わせている。地元の人が、ここまで波が来たんだよという、その指先がその境を示している。本当に、数メートルの違いでその明暗は分かれていた。
3月31日(土曜日)
 今日は、朝から小雨模様。特に出かける予定はなかったが、来客の予定が組まれていた。障害当事者(K君)とそのお母さん。夕方にはお姉さんも合流し3人となった。
 わざわざ釜石の方から来られたとのことで、制度の活用についてやサービス提供の事業所に関しての情報に飢えていた。なぜ障害者がこの地域に住みにくいのか、何故この地域にサービス事業所が育たないのか、鶏と玉子にも似た現実の疑問が一気に噴出した。
 交通機関が不十分なこと、ヘルパーを使うということへの抵抗感がある地域性のこと、バリアフリー化がなかなか進まない地域であること、地域全体が障害者の自立生活にとって厳しい環境であること……などなど。障害当事者に対する施設運営者側の間違った姿勢、障害者に関わる制度や新しい情報の不足……。
 地震や津波災害以前の状況とも重なり、震災以後さらに厳しくなった状況が語られた。津波によって破壊されたさまざまな入所施設は、この際「脱施設化」を進める方向を期待したのだが、それは全く逆で「津波でも壊れない頑丈な施設造り」になっただけ、と言うのが現実とのこと。
 親子の訴えはあまりに重く、なおかつ幅が広く、私一個人では全く手も足も出ない大きな課題ばかりであったが、私自身が東北(山形)の田舎で育った経験と重なる部分が多く、その訴えの多くを共有することが出来た。
 大阪、名古屋、京都、それぞれの地域の障害者自身の活動家からの話を聞き、大いに勇気を得たという親子は、今後とも頻繁に関西との交流を図る決意を表明され、意欲的に活動される様子に、私たちも大いに刺激された。最近の障害者運動は、とかく原点から離れ、都会的な運動のみに走る傾向があるが、やはり、着実な福祉のまちづくり運動をしていかなければならないことを、その親子は教えてくれた。
 夕方には、三陸鉄道宮古駅にお邪魔をし、明日行われる三陸鉄道一部復興路線の開通式に参加するに当たって、もし社長さんに会えるものなら会いたい旨をお伝えした。駅からは直接に社長さんに伝えることは時間的に無理なので、役員さんにはお伝えしますとのお返事を頂いた。
 これで、日曜日ではあるが、明日の朝は早い出発になる。
 4月1日(日曜日)。
 今日は、三陸鉄道の一部路線の復興開通式典が、宮古市の田野畑駅などで行われる。
 私たちは、その式典に参加するべく、朝の7時半にセンターを出かけた。国道45号線を50キロほど北上し、途中から山間部の急な坂道を何分間か降りた所に、色とりどりの風船が舞い、たくさんの自動車が止まっていて、明らかにイベント会場であることを教えてくれた。
 イベント会場には、東京銀座のレストランが無料でお料理を振舞い、イカ焼きが提供され、大きなテントばりの会場ではさまざまなアトラクションが行われ、報道陣もごったがえし、テレビ中継も行われていた。
 駅それ自体は山でありながら、東を向けばすぐそばには海の風景。津波がここまで来たと言われてもにわかには信じられない光景ではあったが、まちがいなく、津波はここを走っていた電車を丸ごと飲み込んでいったのだ。
8時半から開始したと言う開通イベントには、平野復興担当大臣も参加。地元の人々にすれば、久々の明るいニュースに思わず笑顔が出てしまっている。まさに、三陸の足「三鉄(三陸鉄道)」の復活は自分たちの復興なのだ。
 テレビのコマーシャルも、地元新聞の紙面も大々的に特集を組んでいた。
 私自身は、この当事者支援プロジェクトに参加することを決めてから、昨年の内に、三陸鉄道の望月社長さんには一方的にメールを送りつけ、ぶしつけながら「復興に当たっては、ぜひともバリアフリーの鉄道にしてください。障害者も三陸の風景を楽しめる電車にしてください。私たち自身も何が応援出来るかも教えて下さい。」とお願いをしており、お返事も頂いていた。
とにかくも社長さんとはお会いしたかったという気持ちで、イベントの流れの中で、社長さんにお会い出来るチャンスをうかがった。三陸鉄道の関係者にもお願いし、少しの時間だけで良いからお話を伺える機会を頂けるようにお願いもした。
きわめて多忙の中、イベント途中で日程を消化している社長さんに、先程の役員さんから耳打ちをしてもらい、会っていただくことに成功した。名刺交換をするなり、社長さんからの開口一番。
「すぐにはできませんが、必ず徐々にバリアフリーのものにしていきます」と言う力強いお言葉を頂いた。
その言葉通り、新しい電車(車両)の中には、障害者(車いす)用のトイレが設置されていたことには驚いたのだが、私の顔を見るなりのお言葉に再度感激した。私は「よし、必ず、障害者仲間による三陸ツアーを組んで、リアス式海岸の展望を一緒に感じることができるように、その日を目ざして応援体制を組まなければ……、早速に多くの人たちに声をかけなければ……」と決意したのである。
寒かった。風が冷たかった。同行した京都組は、全員鼻風邪をひいてようだ。
しかし、望月社長さんが、多くの子供たちと戯れ、こよなく地域を愛しているお姿。そして、お祝いの旗や風船を持って走り回る子供たちの姿。イベントを身体全体で支えている若者たちの姿を見ていた私たちの心は、実に温かかった。
まさしく、繋がろう、三鉄! であった。
 イベントも半ばではあったが、朝早く起きてきた私たちは、これ以上だと本当に風邪をひいてしまう。満足な気分を抱いて、お昼過ぎに会場を後にした。
4月2日(月曜日)。
 昨日とは違い、今日はそれぞれが別途に行動。
 現地スタッフの方と一緒に、土曜日に印刷所から届いた「4月14日交流会、4月28日お花見のお知らせ」に関するチラシを、地図上の場所をいくつかに分割したブロックごとに、ポスティングすることとなった。
 その中には、点在している仮設住宅も予定されており、京都から到着した次の日にも行った活動の一環だ。訪ねていく家の中には、新聞や郵便物が溜まったままの家もあり、いくら声をかけてもお返事のない家も何軒かあるという。
 中には、郵便受けに以前に入れておいたチラシがそのままになっていたともいう。雇用促進住宅の棟全体がすでにだれも住んでいないと言う所もあるというのだ。
 地震の被害が甚大であることは今さら言うまでもない。津波の被害も私たちの想像をはるかに超えている。
 しかし、今まで住んでいたアパート全体の住人が忽然と消えてしまうという、まるでホラー映画のような状態が、目の前にあるのだ。
 ここに住んでいた人たちは、一体どこに行ってしまったのだろうか。
 午前中に、定期の点滴を受けに通院したO医院で伺った話によれば、その津波は、医院の前に流れている川の所で流れが止まり、医院の建物は無事だったという。
 看護婦さんによれば、釜石や大槌町、山田町などの医療機関が津波でやられ、血液検査などのさまざまな機器が使えなくなり、幸いにも被害のなかったO医院を訪れる患者さんが急に多くなったのだという。中には1時間以上もかけて通院してくる方もいて、病気を治すための通院が、逆に大変な負担になっている方もいるという。
 宮古で出会う方々も、釜石や田野畑で会う人たちの表情は予想以上に明るい。会話も普通に行われ、地元の自慢話も多い。しかし、何分か話していると必ず、津波の被害の話になってきて、今後の生活が不安であることを呟いてくる。皆、相手の立場に立ちながら、お互いに遠慮しながら被災状況を語っているのだ。この我慢力も考えると、日常的なストレスは相当に大きなものがあるのだと思う。
 限りなく人は優しい。 限りなく人は寂しい。 限りなく人は災害や事故を恨む。 時として人のことを考える余裕もなく、我が身を守ることを最優先する。 いずれも、誰もに起きる普通のことだ。
 中には、生きている自分に罪悪感を覚えてしまう人もいる。「あの大事な人が亡くなって、どうして自分は生きているのだろう……」と、考える人も少なくないという。
 災害は、すべての人を巻き込んで、悲しみを広げる。
 毎日を支援活動に使っている支援者たちが、今、疲れている。こんな時だからこそ、車いすの上からギャグを飛ばす。強いところも弱いところも、そのまんまの自分を映し出す。 お互いに何もできない人間が、何かを残すために、今日も何とか動いている。
宮古にて 矢吹さん

池田佳ず実さんによるピアノ演奏・交流会のご案内

被災地障がい者センターみやぎ・石巻支部より
池田佳ず実さんによるピアノ演奏・交流会のご案内
「被災障害者支援ゆめ風基金」、「被災地障がい者センターみやぎ」、「石巻支部」の取り組みに連帯する中で、関西でつながりのあった当事者の池田佳ず実さん(ピアニスト・兵庫県尼崎市)が石巻支部の阿部俊介さんとつながり、この度、「被災地障がい者センターみやぎ・石巻支部」で「ピアノ演奏・交流会」を開催することになりました。
今回の取り組みが、呼び呼ばれ、思いを伝え合い、当事者と当事者、当事者と地域、石巻と関西が豊かにつながっていく取り組みの一つになればと願っております。
関係者の皆様のご参加をよろしくお願い申し上げます。
日時:2012年5月19日(土)午後1時~午後2時30分
場所:被災地障がい者センターみやぎ・石巻支部事務所(石巻市蛇田中埣37)
内容:池田佳ず実さんによるキーボード演奏と歌の交流
くわしくはここをクりックてください。

CILたすけっと  ささえ愛 山元「パラソル喫茶」のお手伝い

ささえ愛山元「パラソル喫茶」
みなさま
お世話になっております
CILたすけっと スタッフの豊川です
先週の土曜日、ささえ愛 山元が開催するパラソル喫茶のお手伝いということで参加してきました。急な呼びかけにもかかわらず、当日は「ゆにふりみやぎ」の伊藤さんもお手伝い頂けることになり「ほぼ同世代?」二人での参加です。
通算10回目の開催は「高瀬西石山原団地」という仮設住宅で、ここでの開催は2回目です。この仮設住宅にお住まいの方は花釜地区という場所、ちょうどささえ愛 山元のご近所さんがおられるところです。
前回は屋外での開催でしたが、今回は集会所内でおこないました。
少々狭い集会所では、スタッフあわせて30人くらいがお喋り、折り紙、民謡を歌ったりと楽しそうに過ごしています。(写真添付)
後の反省会で聞いたところ、前回10月のパラソル喫茶では地震や津波の当時を振り返るような会話が多かったのに、半年たった今回は、今の生活や、どちらかというと普段の会話のような話しが多く聞かれたそうです。確かに私も会場の雰囲気も昨年とは違い、落ち着いて話しをする人が多くなった印象を持ちました。
今回初めての参加になりましたが、伊藤さん!どうだったでしょうか?
次回は5月12日(土)、浅生原箱根団地での開催予定です。引き続きお手伝い頂ける方募集します。