みやぎ登米支部・「そうそうの杜」活動日誌 NO.1

 震災直後から被災地障がい者センターみやぎの支援活動に参加されてきた社会福祉法人「そうそうの杜」は、現在は被災地障がい者センターみやぎ登米支部を拠点にして、地元のグループ「ハグハウス」とともに登米市や南三陸町の仮設住宅をまわり、移動カフェを運営しながら個別ニーズを掘り起こす活動をされています。今回から、その活動日誌を連続掲載します。
「そうそうの杜」・東日本大震災派遣報告書 NO.1
日時:2011年9月1日(木) 天気:雨
報告者:・N
10:00 荒砥・平貝仮設住宅 訪問調査
12:00~13:00 ハグハウスにて打ち合わせ
14:00 ハグハウスにて支援物資の整理
16:30 登米拠点にて引継ぎ
活動した上で感じたこと
 午前は荒砥・平貝の仮設に訪問調査。荒砥・平貝はどちらも部落ごと移動しており、顔見知りの方が多いとの事。平日と言うこともあり、皆さん出掛けているところが多く出会える人が少ない。独居老人の方が暮らしており、少し話を聞くと震災当日の話をしてくださる。奥さんを津波で亡くしたことにとても後悔をしているように感じた。最後には「話を聞いてくれてありがとう」とポツリと言ってくださる。
話を聞くだけでもほんの少しかもしれないが心が和らぐのではないかと感じた。そこからコミュニティ作りのきっかけになってくるのではないか。そしてニーズも拾えて来ることもあるのではないかと思った。
 平貝の仮設では、身体的に障害を持っている方などが居る。まだほとんどの団体は入っていないようで話を聞くと社協の方が挨拶程度に来ただけだとのこと。入居して日が浅いせいもあり、出会えていないこともある。
皆さん遠慮されている部分が見られ、難しいとは思うが本当のニーズを拾っていかなければならないと思うし、見極めも大事になってくると思う。焦らずじっくり考えていきたい。体は元気だが精神的に追い詰められている人などがいたりそのことを言い出せない人はまだまだたくさんいるのではないかと感じた。
 送迎で関わっているWさんが避難所から平貝仮設に移ってきており、母と出会う。最近になってひざを悪くしたとの事で歩くのが大変だということで余っていた杖をその日に届ける。話の中でJDFさんから9月末に撤退し、送迎は出来ないと話されたとの事。今後の方向性については話がなかったようで不安が強かったとのこと。まる投げの状態。9月半ばで市従さんも撤退することもあり、改めて方向性を確認できる時間が必要だと思う。
 午後からは大雨のためハグハウスで支援物資の荷物整理。Hさんも来られ一緒に行う。Hさんがハグハウスに関わっていることがカリタスさんからはよく思っていないようでポツリと漏らしていた。この状況の中にあるのにそんな風に思うところもあるんだなあと思った。
感じたことを改善・向上させるのに必要なこと
 JDF・市従さんが撤退していくので送迎のことを含め今後の体制作り・方向性を決めていかなければならない。
他へ依頼したこと
 特になし
備考
 Tさん9月1日から9月7日まで学会のため神戸へ。
菊池さん・八幡さん・Oさん・Sさん・そうそうの杜で今後の体制作りを含め方向性について話し合い。9月5日予定

当事者同士って、やっぱりすごいなぁ~と思う。

現地ボランティア情報
「8月22日(月)」
NPOちゅうぶ S 仙台に到着したのは18日。それから25日までの滞在期間7日間。私が会って話しをすることができたのは、聴覚障害者のご夫婦KさんTさんだけだった。会って話しをしたとは言うものの、「話をした」とは言い難い状況だった。 本当に印象的な日だった。
 私は、少々の手話ができるからという理由もあった為なのか、聴覚障害者の梶原さんと同じチームになった。私は多少の手話表現は覚えているものの、聴覚障害者の人たちと話したことはほとんどない。手話の読み取りも苦手で、英語に例えるならABCを読めるくらいものなのだ。それなのに、タイミングとは本当に困ったもので。彼女と同時期というだけで、手話を使わなければならない環境に放り出されたのだ。私は手話の読み取りに、目も頭もしびれる一週間を送っていた。
 19日はまず、情報収集。行政や障害者の情報を把握しているだろうと思われる団体等に電話をかける。初めて電話したのは、某市役所の障害福祉課。緊張で舌がからまわる。私の説明下手がさらに磨きがかかる。結局、「電話では教えられない」との冷たいお声が…。まぁ、当然ですよね…。そりゃ、逆の立場だったら、あたしだってこんな良く分らない電話にホイホイ答えたりしないわ…。つくづくそう思わされた。
 公の機関に電話で当たっても、個人情報に関しては教えてもらえない。当然のことではあるが、大震災という非常時であってもそれは変わらないのだという現状を目の当たりにした。「個人情報保護法の観点から」そう言われてしまえば、これ以上言い返すすべもない。当然なのかもしれないが、歯がゆかった。ただ時間だけが、空しく過ぎていくのを感じていた。
 そんな時、手話通訳ボランティアで参加してくれているHくんのお父様が公務員であることが判明。仮設住宅に住んでいる聴覚障害者三世帯に呼びかけ、お茶会を設定してくれることになった。日程や時間まで、すんなり決まった。
 「あぁ、やっぱりこういうときは現地での関係性がモノを言うのだー。」
 短期間でのボランティアの意味があるのだろうか?仙台に来る前からの疑問。そして、電話掛けするたびに、明確になるその疑問の答え。分ってはいたけど、それに無力感を感じずにはいられなかった。けれども、この時、様々な個人がボランティアとして参加する意義がなんとなく分ったような気がした。こうやって、他から人が訪れることで、新しい関係性が生まれ、次の展開が生じてくるのだ!その事実に、ぞくっとするような感動を覚えた。
 そして、22日。朝からセンターを出発。聴覚障害者三世帯に会いに向かった。
現地に到着すると、女性が2人。AさんとBさん。三世帯のうち、二世帯の奥様2人だった。とても親しい感じで仲が良さそう。梶原さんが手話で話し始めると、2人とも待ってましたとばかりに、生き生きとした表情で話し始めた。
 「もう1家族いるんですよね?」梶原さんが尋ねるとAさんもBさんも困った表情になった。なにやら、高齢で話しが通じないらしい。だから、ここに来てもらってもね…という雰囲気だった。わたしも意味が良く分らず、梶原さんも「大丈夫だと思う」ということで、そのご夫婦にも来て頂くことになった。
 その間も、AさんとBさんのトークはどんどん続く。梶原さんが入ってさらに盛り上がり、AさんとBさんの表情がきらきらする。当事者同士って、やっぱりすごいなぁ~と思う。私は、その生き生きした会話の速さについていけず、話しに加わるどころか、内容を把握することすらあきらめかけていた。
と、そこに最後の一世帯。二人とも70代くらいだろうか。ご夫婦が入ってきた。梶原さんが話しかけるが会話にならない。AさんBさんが、二人に話しかけるがそれでも通じていない様子だった。
 手話が分らない私は、ごく自然に、手話が分らないこのご夫婦と話しをすることになった。
聞き取りをするのは、今日が初めて。私は、とりあえず名前から聞こうと思った。焦りながらメモ用紙を取り出し、「名前を教えてください」と書いた。すると、奥さんが○○と名字だけを書いてくれた。下の名前も教えてほしいのだが、手話をしても通じない。しばらくすると、雰囲気を察してくれたのか、○○に続けて、奥さんの名前T、ご主人の名前Kと書いてくれた。それぞれ、指さしして顔を合わせると、「うんうん」と頷いてれた。名前を聞き出すにも10分以上はかかっていた。
 
 「二人暮らし」なのか「子供や家族がいるのか」を聞こうと思うが、コミュニケーションの方法が思いつかない。しかし、Tさんは話したい気持ちは持ってくれているようで、一生懸命に何かを書こうとはしてくれていた。Kさんを指さし、○才と書き、続いて数字の羅列を書く。そして、Tさん自分自身を指さし、○才、また数字の羅列。二人の年齢と生年月日だった。
 続いて「3月11日」と書いてくれた。私が手話で地震を表現すると、手話が通じたのか、ゼスチャーとしての理解だったのかは分らないが、TさんKさんともに、同じ地震の手話をして、「そうそう!地震!」という表情になった。
そこから、TさんもKさんもゼスチャーで話し始め、地震が起こった時のこと、避難した時のことを教えてくれた。
「いつからここに住んでいますか?」
「こまったことはありますか?」
「買い物はどうしてますか?」
 聞き取りをしようにも、どれを書いても、二人には通じなかった。Tさんが書けるのは、地名と日付と時間。それ以外は、ひらがなでも通じない。Kさんは、読もうとも書こうともしなかった。
 困った私にOさんが助け舟をだしてくれた。iPadだ。彼が、iPadでこの付近の地図+航空写真を出し、二人に見てもらいながら、指さしとゼスチャーで新しい会話を始めた。
 二人は、被災前は島で暮らし、Kさんは養殖の仕事をしていたこと。逃げた場所のこと。仮設住宅に住み始めた日。そして、いつも買い物に行っている場所。病院に通っていること。それに、いつも食べている食事のことまで分った。iPadに映しだすことで、お互いに『そうそう!これこれ!』と確認できて、コミュニケーションがスムーズになるのを感じた。今回の聞き取りで分った内容は、共通の言語があれば15分程度のものだったと思うが、それに2時間は費やした。
 聞き取りで判ったのは、今の二人の生活には、特に困っていることはないということだった。私には二人の会話を理解することはできなかったが、二人の間ではコミュニケーションが成立しており、穏やかな生活の様子が感じられた。報告そして、会議の結果も、二人には特に支援は必要ないということで終わった。
 震災ボランティア7日間の中で、特に支援を必要とする方にお会いすることはなく、あっという間に一週間は過ぎていった。ただ、TさんKさんにお会いして話しをしたことは、大阪に戻り、仕事に戻っても頭を離れない。
 震災ボランティアに参加してみて、私自身日本人である責任として、被災地で感じたことや経験させてもらったことを忘れず、伝えなければならないと思うようになった。そして、TさんKさんのように、言語を獲得する機会なく生活している人達がいるということについても、もっとたくさんのひとが、きちんと知り考えるべきことだと感じている。

ヒデの救援レポート、9月12日

ヒデの救援レポート、9月12日:37
 すでに、経過してしまった日程も含まれて、申し訳ないのですが、日程のお知らせです。
 9月8日、午後6時半より。パーティ&パーティ[地下鉄御堂筋線、大国町駅下車すぐ。11月23日の被災障害者救援本部おおさか&ゆめ風基金共催の被災地被災障害者東北との、大交流イベントの実行委員会。
 9月9日、ゆめ風基金事務所にて。ゆめ風基金理事会。この間の支援状況報告、活動方針の確認のために。
 9月10日9月24日、いずれも、午後1時より、大阪難波、高島屋前にて、被災障害者救援本部おおさかの共同統一カンパ行動!だんだん参加者が減少しています。短い時間でも、結構ですので、ご参加ください。
 10月7日午後6時半より、被災障害者救援本部おおさかの会合。被災地特別報告を含みます。パーティ&パーティにて。ご参加を!
 10月8日・第2回被災障害者救援大バザー、午前11時より3時主催・豊能障害者労働センター大阪府箕面市の市立芦原公園にて。第1回の時と同じ場所です。連絡電話072-724-0324バザーの収益金は、全額、救援金として、ゆめ風基金に届けられます。東北地方の産品も販売されます。
 被災障害者支援ゆめ基金に寄せられた救援金、金額は、9月10日までに、177640252円です。これまでに支援した団体、個人への金額は、9月12日現在、91134600円です。
 このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌そよ風のように街に出よう編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。広く知ってもらいたいので、転送自由。自由にお使いください。
息の長い救援が求められています。長期戦です。救援金の送り先は、郵便振替口座00980-7-40043ゆめ風基金です。;とうほく;と書いてください。
東日本大震災救援活動の中のボクの風景。
東北関東大震災障害者救援情報・5からの抜粋、救援本部H
 はじめに東北関東大震災から5ケ月がたとうとしています。死者は1万5680人・行方不明4830人8月7日警察庁。避難している人が7月28日現在で8万7063人となっています。
避難先の内訳は、避難所1万2905人・旅館、ホテル1万9918人、親族、知人宅など1万8874人、岩手、宮城、福島3県を除く公営住宅など3万5366人。
 一方、3県の仮設住宅などへの入居数は7800戸増の7万6023戸人数は不明となっています。加えて、福島の原発事故についでは、まだまだ予断を許さない状況が続いており、更に被害が様々な形で拡大しつつあります。
 現地からの避難や、放射能に対する不安や風評などによる精神的負担、生活基盤である産業の危機など深刻な問題が続いています。この震災で亡くなられた1万5000人を越す人々に対して、心から哀悼の念を表するとともに、今現在、避難所や各種施設などにまだ避難している人たち、通常の生活を失い非常な困難に直面している人たちに対して私たちは、できる限りの支援を行わなければならないだろうと思います。
 5ケ月近くがたち、現在、仮設住宅への入居や生活の再建がある程度進みつつありますが、多くの人たちが、不便な場所での困難な生活を余儀なくされており、仕事や学校の問題など多くの深刻な課題に直面しています。
 障害者については、家の改造や周辺の道の整備なども必要ですが、十分な配慮が届いていない状況が続いていると聞いています。誰もが安心していきいきと暮らせる社会の建設に向け、現地の人たち自身が中心となった復興を目指して、より意識的に支援を進めていかなければならないだろうと思います。また、原発事故を踏まえて、福島県から長期的に避難することを希望する障害当事者も増えてきています。
 この間、被災現地では、ゆめ風基金の八幡理事を中心に、被害が最も大きかった沿岸部への支援のための拠点作りが進められています。救援本部では、この間の現地の新たな状況を踏まえて、支援についての目的や課題を明らかにし、具体的な実践と組織運営を再整理し、中長期的な視点に立った継続した取り組みの体制を整備していこうとしています。とりわけ、会計についても、しっかりと整理し、支援していただいているみなさんへの中間報告を行い、今後、更に増えるであろうと思われる組織からの財政支援のニーズにも的確に対応できる仕組みを作っていきたいと思います。
 現地のニーズにこたえていくためのボランティア活動についでは、組織的なラインを組んだ支援については継続しますが、個人でのボランティアは8月を区切りに一定整理したいと考えています。今後は、将来を見据えた自立生活運動づくりや地域生活支援のための事業建設更には、行政に対する要望活動あるいは避難所での権利擁護活動などを慎重に検討していく必要があるだろうと思います。以上
 台風12号の被災に対して緊急の情報を、関係するゆめ風基金ネットワーク、関連団体に発信をしました。台風12号の影響を受けた障害者団体のみなさまへ・NPO法人ゆめ風基金被災状況をお知らせください。
 いつもお世話になります。このたびの台風の影響を案じております。障害者活動拠点の建物や設備等に被害がある場合、あるいは被災障害者救援にあたる場合などは、救援金、物資、人の派遣など必要な支援をお届けしたいと思いますので下記欄に必要事項をご記入の上、FAX返送ください。お忙しいところすみませんがどうぞよろしくお願いします。
団体名・連絡先住所・メール・電話・FAX
団体の概略被害の概要・被害額・被害者救援活動の概要  以上。
 9月5日、富士通関西システムズ労働組合の方々が、ゆめ風基金事務所においでになり、救援金目録の授受がありました。
 目録・ゆめ風基金殿富士通関西システムズ労働組合は、東日本大震災・津波により被災された障害者への支援として、左記の支援を行うこととしました。支援の趣旨に沿い、貴殿の活動にお役立て頂きますようよろしくお願い致します。
・記・
金壱百万円也
平成23年9月5日
富士通関西システムズ労働組合、執行委員長、笹井雅輝
感謝、感謝ですね。
仙台のたすけっとから届けられたFAXから。
 いつもお世話になっています。先日、別添のお手紙がきましたので、お送りいたします。この方に初めてお会いした時は、被災した家の中、津波に浸った布団を乾かして、ごわごわの状態で、お話しを伺うと末期の肺ガンと判明しました。
 そこで、少しでも快適に暮らせるよう、パジャマやベッドに布団を提供してきましたが、その後、入院されたと聞き、回復を願っていましたが、先日亡くなられたことを伺い、やるせない思いを抱いていました。
 でも、このお手紙をいただき、自分たちが活動してきたことで少しでも助かる人がいたということが分かり、とても救いになりました。今後もこうした活動を続けていく上で、励みになりましたので、ご紹介いたします。どうぞよろしくお願いいたします。
 被災地障害者センターの皆さんへ!私共、宮城県石巻市H・Kは、7月8日に死亡しました。生存中は、助けていただきありがとうございました。最後に主人は苦しまずねむりについた事は、本当に良かったと思いました。
 主人は、障害センターの人に、一言ありがとうと伝えたかったと、言っていました。車イス、ベッド、ふとん、パジャマわがままいって申しわけなかったと・・・風呂に入れてやれなかった事が心残りでした。
 主人が亡くなって3日後に、市役所から電話がきて、介護が認定になりました。すごくくやしかった。もっと早くしてくれればいいのに。福祉の人が見にきて、くるしさも見ていったのに。風呂に入りたいと言っていたのに。くやしさでいっぱいです。
 私は思った。まてがきかない患者がいる事を・・・障害センターの皆さん、もう一回だけ、私のわがままをきいて下さい。1日、一刻、早く、まてない患者さんをたすけてあげて下さい。暑い中、大変でしょうが、一人でも多くの人のささえになって下さい。
 本当に短い間でしたけど、私達を助けてくれて、ありがとうございました。主人に、かわって、お礼させていただきます。ありがとうございました。石巻市N・K
ゆめ風基金に届いたお便りから
 前略、東日本大震災の支援に深く感謝します。本当に、優しさにふれ、行政の何もしないのに驚かされ、毎日のように涙しながら、怒りをもちながら、5ケ月間、ボランティアの皆様に背を押されながら、歩みはじめています。
 私の家も津波にやられないけれど、地震にて、半壊になり、赤紙を貼られた玄関をみながら、傾いている生活をしています。頭に来るのは、福島原発による、放射能汚染です。役場の方にも計測してもらい、三種類の器機で計測しても、高い放射線量です。それは、雨どいの汚泥と、雨どいから流れた所が、高放射線量です。
 孫が4才と6才のため、家人4人で、コンクリートを電動工具で削り、雨どいの汚泥除去もタワシでこすり、水道水で流し、警報値をこえなくなりました。土は、20-25センチ位削り、ようやく警報がならなくなる所迄掘りました。町役場から、ビニール袋をもらって来ましたが、除せんしたその土をどこに置くか、決定されていず、更にわが家の外がホットスポットになり、庭のすみで、1、76マイクロシーベルトを示しています。
 近所の雨どいをはかった所、6軒程、高濃度がでています。山元町も宮城県も、放射線にはふれません。知らされていないように思われてなりません。地震、津波、放射線と三重の苦難をせおいこんでいる現実です。目に見えないということは、おそろしくもあり、知らない方がいいのか。命をふみにじられている。いきどうりを感じています。M様より依頼あり、やまもと民活の語りつぐ証言巨大津波を送ります。始めての方に、胸のうちを、はきだしました。すみません。皆様方もお身体を気づかって下さい。
宮城県亘理郡山元町・S
 9・23大阪から元気を届けようチャリティーバザール開催趣旨・東日本大震災で頑張る勤労者とその家族、また大阪で避難生活を送る勤労者やその家族に対する生活向上と安定、豊かな暮らしをつくることをはじめ、東日本大震災で大きな被害を受けた東北地方復興に寄与する為、東北地方の物産販売を中心としたチャリティー活動を行う。合わせて、避難者同士、避難者と大阪府民との交流の場とする。
日時・2011年9月23日(金)午前10時より3時まで
場所・マイドーム大阪1階展示ホール(大阪市中央区本町)
主催・実行委員会連合・大阪社協・労金全労災など
後援・大阪市・大阪府など
内容・東北物産の販売・各組織の物品販売・会場舞台での出し物・食べ物コーナ・キッズコーナ・会場配置40ブース参加費用・1ブース五万円・収益金は、全額寄付していただく。以上!

ヒデの救援レポート、9月5日

ヒデの救援レポート、9月5日:36
 長く遅い、大型の台風12号が、やっとこさ日本海方面に抜けましたが、紀伊半島を始めに、各地に、多大な被害をもたらしました。各地の障害者拠点などに被害がなければいいのですが?
各地のゆめ風ネットワークのみなさん、被害調査などで、ゆめ風基金に連絡をいただくと、とてもありがたいので、よろしくお願いいたします。
 8月23日に、仙台市の仮設住宅広場で開催された、被災地障害者センターみやぎ&ゆめ風基金共催の、永六輔さんと小室等さんのトークと歌の集まりは、仮設住宅にしか宣伝をしなかったのに、100名を軽く超える人たちが集まってくださいました。
 公演途中から雨が降り出し、簡易カッパを配布しましたが、誰一人、席を立つひとがいなかったという、素敵な集まりになったとのことです。ゆめ風基金からは、3名のスタッフを送りました。詳しい報告は、ゆめ風基金ブログにありますので、ご覧ください。永さんが、岩手でもやろうと、声を大にされています。(泣)
 それらの映像は、9月23日、夜10時から、NHKで放映されるそうです。永六輔、夏の闘いがタイトルです。ご覧ください。
 被災障害者支援ゆめ風基金に寄せられた救援金、金額は、8月30日までに、175370393円です。これまでに支援した団体、個人への金額、支援総額は、9月3日現在86,134,600円になります。まだ、未発表のものもあります。
 このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌そよ風のように街に出よう編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。広く知ってもらいたいので、転送自由。自由にお使いください。
息の長い救援が求められています。長期戦です。救援金の送り先は、郵便振替口座00980-7-40043ゆめ風基金です。;とうほく;と書いてください。
東日本大震災救援活動の中のボクの風景
 吾亦紅と名付けられた植物は、小さな赤い花をつけます。大輪の紅薔薇のようにではなく、ひっそりと。大きな声、叫び。大勢の群集の権利要求、強い権力ではなく、小さく、ひっそりと。しかし、その大勢の人たちと同じように、わたしにも、赤い血潮がしっかと流れているんだぞと、われも、また、赤い吾亦紅と咲くのです。
去り行く夏の後ろ姿。
 8月19日一泊。ヒデは、徳島県佐那河内村(今度の台風で、一人が行方不明になった村です。合掌)の教育委員会主催の人権大学講座に呼ばれました。タイトルは、東日本大震災を人権の視点で考えるでした。車を走らせて会場に着くと、想像以上の山間の村で、山の尾根には、風力発電の風車が並んでいます。
参加者15名を相手に、救援活動のこんにゃく談義。講座が終わるとトンボ帰りで徳島市へ。ゆめ風基金ネットワークとくしま&かがわの仲間たちと活動行動の意見交換宴会。楽しいひとときでした。来年には、四国でゆめ風イベントを開催するそうです。
 続いて、23日から25日まで、亡くなった連れ合いの分納骨がしてある、熊本県天草にある連れ合いの実家のお墓参り。毎年恒例の愚息ふたりとの三人旅です。九州新幹線が開通したからと嬉しそうに、新幹線乗車。飛行機なら、1時間半の行程を、熊本駅まで、新幹線で3時間半、それから天草まで、バスで3時間。7時間半あまりの乗り物は、疲れます。来年からは、飛行機に逆戻りだぁ。
 実家での連れ合いのご兄弟さんたちとの被災地救援の話しでは、かわいそかねぇ。かわいそかねぇの言葉が連発されていました。ひとつの町に生まれ、そこで育ち、そこで暮らしを作り上げている人たちには、同じように暮らしている、被災地の人たちへの共感があったのかもしれない。ヒデには、分からない感情の発露かもしれない。
 へろへろと帰り、28日から一泊で、豊中の障害児者の進路を考える会恒例夏の一泊交流旅行で、福井県へ、バス旅行でした。障害のあるなしごちゃまぜの総勢66名。32回目の一泊旅行でしたが、この恒例の旅も、32年目で最後にするそうです。ヒデもいつから参加し始めたのか記憶にないくらいですが、名残り惜しい終わりです。
 ひとつが終わり、また何か始まるんだけども。こうして、ヒデの夏は後ろ姿を見せつつ、去って行きます。疲労度頂点をヒデに課しつつ。それとは関係なく、救援活動は続きます。
 9月には、ゆめ風基金代表の牧口さんと、またまた老々介護で、仙台市に入る予定です。障害者問題総合誌・そよ風のように街に出ようの取材も兼ねていますので、またレポートします。
兵庫・障問連機関紙からの転載報告
被災地ボランティア支援訪問 凪裕之当事者(NPO法人ぶったぁ)
 報告が大変遅くなりました。東北に行ってきました。滞在中は、被災地障害者センターみやぎのボランティアとして、たすけっとで大変お世話になりました。
 多くは、被災地センターのある仙台市に隣接する名取市・岩沼市の仮設、役所や事業所を回りました。避難所から仮設に生活が変わり、不満や先行き不安の中で、とにかく話したいという人たちと出会ったことが印象的でした。
 砂利道の歩きづらい仮設をウロウロしていたら、向こうから声をかけてこられます。僕の歩き方が目立つのかもしれませんが。仮設の生活は、通院や買い物の不便さが多く聞こえてきました。早くに奥さんを亡くし一人暮らしのお父さん、3、11後より障害が重く生活がしんどくなったにもかかわらず、こちらのサポートにこんなことをされたら、いつまで続くのか気になるから止めてと照れ臭そうに言いました。
 また、精神面で障害になり、物理面、経済面でも負担が大きくなってきている人もいました。慣れない生活環境の上、コミュニティーが保たれているのか、神戸の震災後の状況と重なってしまいました。
 逆にコミュニティーがあり、活気づいている仮設もありました。そこは、障害をもちながら仮設の世話役をやっている人がいて、何回か行きました。その人を支援するというよりも、そこの仮設の他の人の二一ズを聞きながら、その人のことを気にし続けていこうというセンターの目論見でした。
 自分のことを顧みず、仮設の他の人のために走り回っているという感じの人ですが、いつ気持ちが折れるか心配です。こちらが訪問して僕の体を見ると実は他にも障害があると言い、来訪を喜んでくださり、涙を流しながら手を握ってくれたことが強く心に残りました。後でセンターとして、そこの仮設の集会所の集まりに参加するなど、いい関係を作りつつあるということを聞いて嬉しく思いました。
 家を失い、ご家族が障害や高齢で他の施設で離ればなれになり、その施設利用で経済的負担が大きいという話しもいくつか聞きました。一緒に暮らすか施設に預けるか、新しい生活をどうやり繰りしていくか、続けていけるのかということで考え、悩んでいます。地元での相談を含め解決していける事業所など社会資源としっかり結びつくことが大きな課題になってきています。
 名取の事業所では、関係者が被災しヘルパーなども少ない状況が続いています。仙台などと違い、自立している障害者が限られ、高齢者事業所がほとんどです。障害者のヘルパー時間数も少なく、役所は原則論ばかりで個別事例までもっていけない状況だそうです。
 ある意味、仙台市と名取市は、阪神間と淡路が重なるように感じました。ですが、震災を機に、どこでも厳しい状況ですが、繋がり連携が、少しずつでも必要です。知的障害の外出支援などをしている事業所からは、3、11後施設入所者が多くなったこと、自閉の人が生活パターンに変化があり落ち着かないことなどが挙げられました。精神障害者のグループホームでは、3、11は無事だったのに4日後にパニックを起こし、今でも行方不明な人がいます。
 倒壊した拠点も見に行きました。社会福祉法人で多くの事業をやっており、その一つの通所の施設を失いました。日中活動として利用する障害者も多く緊急の活動の場が必要になり、別の場所で建物を無償で借り受けたものの、その建物の改造と、おまけにその後の余震で修復を余儀なくされ大きな債務を抱えています。なお、後日、ゆめ風基金からそこへ支援金を送ったということを聞きました。
 今回は名取市が中心でしたが、1日ずつ、石巻と岩手県の沿岸部の方にも行ってきました。町中が強烈な臭いとハエ、この世のものとは思われない街の姿に体の震えが止まりませんでした。しばらく言葉も失ってました。
岩手の方は仙台と違い、大きな施設が多く、街で障害者の姿が見えてこないということです。これから、障害当事者がどんどん岩手に行って、障害者が表に出るような活動(注、障害者派遣プロジェクト)が展開されると聞き期待しています。また、今回は通過しただけでしたが、福島には原発というとてつもなく大きなもう一つの問題を抱えています。
 今回は本当に短かったです。色んなことを僕なりに感じることができましたが、何もかもが中途半端な気がして、けど実はもっともっと隠れていることがあるんやって考えてしまうだけの日々が続いています。
 が、たすけっとの当事者やスタッフのみなさんは若い人が多く、とてもパワーがあり、頼もしく思います。どうか、長い活動になりますが、ご無理だけはせぬよう願いつつ、僕も何らかの形でつながっていたいと思っています。以上
 以前にお知らせした、7月30日に開かれたそよ風編集部の福本千夏さん主催の、「視覚障害者の落語家、桂福天さんの落語会・於いて、千里寺」は、盛会に終わりましたが、その会場で集められた、救援金が、福本さんから届けられました。三万円です。
 被災地の被災地図は、ゆめ風基金でも作成していますが、昭文社出版から詳細な●東日本大震災復興支援地図が出されました。その売り上げの一部は、大震災義援金とするそうで。電話03-3556-8111代●本体価格952円+税、全72ページ。ふたたび、旅人の行き交う街へ。●青森・岩手・宮城・福島・茨城・千葉・太平洋沿岸地域。沿岸地域本図・主要都市拡大図・広域図津波浸水範囲表示災害対策本部避難所道路通行規制鉄道運休状況など、が掲載されています。
第14回障害者自立生活フォーラムinかながわ大震災・・・今私たちにできることは、そしてこれから必要なことは・・・
前略、震災から5か月が過ぎた今、支援サービスや情報保障、生活費用などに関する様々な課題と、それに対する取り組み内容や動きについてご報告をいただきながら、今できることは、今後必要なことはなにか、共に考えていきます。このフォーラムを通して、被災障害者の現状を正しく認識したうえで、参加者それぞれの立場でできることを見出していきたいと思います。草々
2011年10月1日(土)午後1時から4時
神奈川県社会福祉会館ホール・横浜市神奈川区沢渡4の2
資料代500円
●被災地障害当事者・支援者の報告・講演・シンポジウム
講演・宇田川規夫氏・神奈川県災害救援ボランティア支援センターサポートチーム代表
被災地報告・井上朝子氏・被災地障害者センターみやぎ
宮下三起子氏・被災地障害者センターふくしま
河原雄一氏・湘南セシリア施設長
コーデネィタ・斎藤進氏・産業能率大学教授
●主催・NPO法人、神奈川県障害者自立生活支援センター

被災地障がい者センターいわてより

被災地障がい者センターいわてより
6月末まで「センターいわて」で活動をしていた山口真登香です。
8月11日(木)に岩手県山田町へ行ってきました。
追悼と復興の花火大会「LIGHT UP NIPPON」(ライト・アップ・ニッポン)は 19時スタート。
10日の午前中に名古屋を出発。東名→首都高→東北道で宮城、岩手入りし、「被災地障がい者センターいわて」の遠野宮守拠点に寄って6月に植えたゴーヤと朝顔の成長確認と、水やりをしてから釜石経由で山田町へ。
いろんな人に会いに行きたかったのですが、花火の打ち上げまでに時間がなかったので、寄れたのは釜石で知り合った二つの家族。
被災前まで床屋さんだったOさん一家は、床屋協会(?)から中古の床屋椅子をいただいたそうで、仮設自宅の前で小さく営業されていました。
「お客はあんまりないけどね、何もしないよりはいいでしょ(笑)。なじみの客がうちを探して来てくれるんだよ。」と、お父さんと話している間にも予約の電話が鳴り、お母さんから「お父さん!〇〇さん、来てくれるって!」の声に、とても嬉しそうでした。
津波でOさん(先天性小児麻痺)の車いすは流されてしまった為、5月に車いすの再支給申請をしていました。
しかし、車いすの判定員が足りていない状況で、新しく車いすを作るにはまだ当分かかると言われたそうで、名古屋のAJUに相談してOさんが使えそうな車いすを探してもらって届け、自分の車いすができるまでの間使ってもらっています。
届けた車いすは既製品の為、体にピッタリ合ってはいませんが、クッションを背中や体のまわりに当てたりして使ってくれていました。
Oさんもご家族も工夫しながら、仮設住宅での生活を続けています。
6月に着工を始めていた仮設住宅の外断熱の工事も終わり、この日の敷地内はひっそりとした雰囲気でした。
釜石市や陸前高田市などでは、新たに玄関に網戸を設置、部屋の窓を二重サッシにし、壁の外側から断熱材を張り付ける追加工事が完了しているそうです。
その足で被災以前に自宅で鍼灸院を開業していたNさんがいる仮設住宅へ。
花火が上がる時刻に近づいてきたので、車が込み始めていました。
浴衣姿の人もちらほら見え町は少し賑やかでした。
釜石市の青葉通りでは「釜石復興祈願祭」を行っていて人が集まっていました。
キャンドルナイトの蝋燭のあかりが、きれいに灯っていました。
Nさん兄妹(兄、全盲・妹、弱視)のいる仮設住宅に到着。
玄関扉に張られた「N鍼灸治療院」の張り紙に嬉しくなりました。
こちらも仮設住宅で営業を始めていました。
一室に簡易ベッドを置き、治療をされています。
Nさんの自宅1階にあった治療院は津波被害に遭い、何もかもなくなってしまいました。
私たちが出会った当初から、「また一から治療院を始めたい。」と言われていたので、仮設住宅での力強い第一歩だと、深く感じました。
花火の渋滞に巻き込まれながら山田町へ。
山田町にはSさん一家(父、認知症・兄、左目義眼・妹、リウマチ)が、住んでいて、この日の花火大会を見に来ると約束をしていました。
Sさんちの前には「被災地障がい者センターいわて」のメンバーと、現在関わりのある障害当事者とその家族が20人ほど集まっていました。
前日はみんなを盛岡にある「被災地障がい者センターいわて」に招いてBBQをしたそうです。
妹のRさんはちょうど誕生日で、パーティをしてとても楽しかったと教えてくれました。
花火大会が終わったあと、Sさんの家の前でも花火をし、みんなでよく笑いました。
特にメインストリームの畑さんがなんか面白かったです。
みんなが帰る時間になり片づけをしていると、Rさんが私たちに向かって声をかけました。「私、津波があって辛くて一度は死のうと思ったけど、みんなに会えてよかった。ほんとに。ほんとにありがとう・・」と、言う声が震えているのがわかりました。
寝食を共にしたセンターのメンバーとも久しぶりに会うことができ、とてもよい時間を過ごしました。
被災した沿岸各地で上がった花火。
いろんな場所で、みんなそれぞれの想いで空を見上げたことだと思います。
多くの命が犠牲となってしまった今年の3月11日。
私は宮城県と岩手県に滞在中、たくさんの人と出会いました。
あの地震がなければ、きっと出会うことのなかった人々。
お互いに、生きていなければ出会えなかった人達。
この出会いをずっと大切にしようという想いで花火を見上げていました。
最後に畑さんが突然歌いだしてくれたのは、「上を向いて歩こう」。
上手じゃなかったけど、とても心に響きました。
ほんとに涙がこぼれないように、上を向いて夜空を見ていました。
「LIGHT UP NIPPON」開催地区
宮古市田老地区 / 岩手県
山田町 / 岩手県
大槌町 / 岩手県
釡石市 / 岩手県
大船渡市三陸町 / 岩手県
気仙沼市 / 宮城県
多賀城市 / 宮城県
南相馬市 / 福島県
会津美里町 / 福島県
いわき市 / 福島県
■関連情報
・LIGHT UP NIPPONのWebサイト http://lightupnippon.jp/
AJU自立の家
やまぐちまどか

宮城県山元町のSさんから

宮城県山元町のSさんから
前略
 東日本大震災の支援に深く感謝します。ほんとうに優しさにふれ、行政の何もしないのに驚かされ、毎日のように涙しながら怒りをもちながら、5ヶ月間、ボランティアの皆様に背を押されながら、歩みはじめています。私の家も、津波にやられないけれど、地震にて半壊になり、赤紙を張られた玄関を見ながら、傾いている家で生活しています。
 頭に来るのは、福島原発による放射能汚染です。役場の方にも計測してもらい、三種類の器機で計測しても高い放射線量です。それは、雨どいの汚泥と、雨どいから流れた所が高放射線量です。孫が四才と六才のため家人四人でコンクリートを電動工具で割り、雨どいの汚泥除去後、タワシでこすり、水道水で流しも警報値をこえなくなりました。土は20~25cm位掘り、ようやく警報がならなくなる所まで掘りました。町役場からビニール袋をもらって来ましたが、除染したその土をどこに置くか決定されていず、汚染土を積み上げたなかで新たなホットスポットをつくりだし、庭の隅で1.76マイクロシーベルトを示しています。
 付近の雨どいをはかった所、数件ほど高濃度が出ています、山元町も宮城県も、放射能にはふれません。知らされていないように思われてなりません。地震、津波、放射能と三重の苦難を背負い込んでいる現実です。
 目に見えないということは、恐ろしくもあり、知らない方がいいのか。命をふみにじられているいきどおりを感じています。
 はじめての方に、胸のうちをはき出しました。すみません。
 皆様方もお身体を気づかってください。

被災地障がい者センターみやぎの活動が山形新聞に掲載されました

被災地障がい者センターみやぎから
被災地障がい者センターみやぎの活動が山形新聞に掲載されました(以下、引用)
ニーズ探り 自立助ける 
全国各地からボランティア “専門家”が集結・支援
山形新聞
2011年8月22日(月)掲載
山形新聞
記事をクリックすると、大きくごらんいただけます。

8月27日の街頭募金

8月27日の街頭募金は24人の方のご参加をいただきました。
募金額は51,916円でした。

この日は最初は真夏日の暑さで、途中から集中豪雨に見舞われました。参加された方、ほんとうにご苦労様でした。
9月の街頭募金は10日、24日の予定です。
みなさまのご参加をよろしくお願いします。(雨の場合は中止になることがあります。)

被災地障がい者センターみやぎの活動が産経新聞に掲載されました

被災地障がい者センターみやぎの活動が産経新聞に掲載されました(以下、引用)
被災障害者の今 見えぬ全容
「どこに避難しているのだろうか」 
産経新聞 8月20日(土)2時39分配信(以下、全文引用)
障害者支援センターみやぎ産経新聞
▲仮設住宅をまわり、支援が必要な障害者を探す被災地障がい者センターみやぎのスタッフ(写真:産経新聞)
【届かない支援】
 日焼けしていた顔に疲れがにじんでいた。炎天下、仮設住宅を一軒一軒訪ねて回る男性たち。支援を待っている障害者を探しているのだ。
 宮城県のほぼ中央の沿岸部にあり、東日本大震災で180人以上が犠牲になった多賀城市。大阪府からボランティアで現地入りしている宮内孝文さん(30)も連日、足を棒のようにして歩き回っているにもかかわらず、誰にも出会えない。「どこに避難しているのだろうか」。力なくつぶやき、また別の仮設住宅に車を走らせた。
 宮内さんは、仙台市で4月、NPO法人など14団体が集まり発足した「被災地障がい者センターみやぎ」の活動に参加。センターでは、障害の状態に合わせたきめ細やかな支援の必要性を自治体に訴え、どこにどのような障害者がいるのか情報提供を求めてきた。が、自治体の担当者は異口同音に「個人情報保護法があるから」と言って情報提供を拒んだ。
 だから、助けを求めながらも声に出せない障害者を探すことから始めなければならない。地元の授産施設などを訪ね、利用していた障害者が今、どこにいるのか、職員らから教えてもらうのだ。やっと自宅を探し出し、避難所や仮設住宅を1カ所ずつ回りながら安否を確認し、必要な支援を把握する。その作業は震災から5カ月以上もたった今も続いている。
 阪神大震災の被災障害者を支援する活動で実績があり、同センターとも連携を取るNPO法人「ゆめ風基金」(大阪市東淀川区)。その理事の八幡隆司さん(53)は「とりわけ自宅で暮らしている障害者は支援の手からもれている可能性がある」と表情を曇らせる。
 八幡さんは震災1週間後後の3月18日から被災地に入り、避難所の見回りを続けてきた。しかし、障害者はほとんどおらず、目にしたのは自宅で耐えている障害者とその家族だった。
 「東北では関西に比べて家族や地域で障害者を支えるケースが多く、福祉サービスを提供する事業者が少ない」と八幡さんは福祉基盤に違いを感じた。このため被災しても誰にも頼れずに孤立するケースも相次いでいた。
 来る日も来る日も障害者を探し、片道2時間かけて向かった避難所で一人の障害者にも出会えないこともある。八幡さんは「私たちの目的は支援であって、調査ではない」と、いらだちを隠さない。
 障害者手帳を持つ人は、被害が甚大な宮城県の沿岸部15市町で約7万2千人、岩手県では12市町村で約1万9千人、福島県では相馬市など13市町村で約3万2千人に上る。しかし大震災で被災した障害者の人数はいまだに明らかになっていない。
 全国13の障害者団体でつくる「日本障害フォーラム」も障害者が置かれている状況の把握に努めてきたが、7月までに接触できたのは宮城県で1435人。手帳を持つ人の約2%でしかない。
 同フォーラムの原田潔さん(46)はこう訴えている。「数字によって可視化されないと支援につながっていかない。人数はすべての活動の基礎になる。行政側は公式なデータを出すべきだ」
 東日本大震災から5カ月余りが経ってもなお、支援の手が届かない障害者が大勢いる。取り残されている被災地の障害者の実情に迫る。
以上

南相馬市の障害者実態調査報告

日本障害フォーラム(JDF)「被災地障がい者支援センターふくしま」から
 日本障害フォーラム(JDF)「被災地障がい者支援センターふくしま」では、福島県南相馬市からの依頼を受け、4月30日より、市内に住所のある障害者手帳所持者1139人の実態調査を行いました。このたび、この調査報告書がまとまりましたので、お知らせします。
○調査報告書は、8月29日(月)、南相馬市役所にて、桜井勝延市長に、被災地障がい者支援センターふくしまの白石清春代表より提出しました。またJDF藤井克徳幹事会議長ら関係者数名との懇談の時間も設けられました。
○個人情報保護などの課題のある中、自治体から情報開示を受け、JDFが自治体と協力して在宅障害者の実態調査を行ったのは南相馬市が唯一です。他の自治体における今後の対応、支援活動のあり方、さらには「災害時要援護者」対策への波及が期待されます。
○調査を通じて障害者の実態が浮き彫りになり、さらなる支援が求められるとともに、今回訪問確認ができた方(調査時点で市内に在住していた492人ならびに死去が確認できた方)以外の実態(市外避難等の約600人の方)がなお不明であり、今後の大きな課題として残されています。
南相馬市の障害者実態調査報告について
日本障害フォーラム(JDF)被災地障がい者支援センターふくしま

障害者、難しい災害対応 南相馬でNGOが調査
河北新報(2011年08月31日水曜日)

 障害者団体で組織するNGO(非政府組織)日本障害フォーラム(JDF)の「被
災地障害者支援センターふくしま」は30日までに、南相馬市で行った「緊急避難時
における要援護者」の調査結果を公表した。
 福島第1原発事故によって緊急時避難準備区域になった原町区と区域外の鹿島区に
は、調査時点でなお障害者492人が居住。このうち346人は一度避難したが、生
活環境や介護の問題から平均3週間程度で自宅に戻ったといい、障害者の災害対応の
難しさが浮き彫りとなった。
 調査は65歳未満で身障者手帳や療育手帳を持つ1139人が対象。情報公開制度
で市が公開した名簿を元に4~8月、JDF職員らが聞き取り調査を行った。警戒区
域に指定されている小高区は対象外。時間の経過などから、事故後の行動が不明な障
害者もいた。
 調査結果によると、障害者492人のうち、108人は症状の重さなどを理由に一
度も避難していなかった。「体を曲げられないので、床で寝られない」「薬の手配や
透析が避難先でできるかどうか心配」など、生活や医療環境の変化を理由に挙げる人
が多かった。知的障害のため、避難が必要かどうか本人が状況認識できないケースも
あったという。
 492人のうち、現在も緊急時の搬送や介助が必要なのは192人。避難した場
合、避難先で支援が必要なのは340人だった。また、168人は緊急生活支援や継
続的な支援を要望した。
 被災地障害者支援センターふくしまによると、東日本大震災で被災した東北の太平
洋沿岸の自治体のうち、これまでに障害者名簿を公開したのは南相馬市だけだとい
う。
 センターは「障害者が避難できなかったということは、介助する家族も避難してい
ないということで影響は大きい。行政と民間で要援護者の情報を共有し、避難支援の
計画を具体化すべきだ」と話している。
2011年08月31日水曜日