5月12日の街頭募金は18人のご参加をいただき、36,211円の募金額となりました。
参加していただいたみなさん、ご苦労様でした。募金をしてくださったみなさん、ありがとうございました。
次回は6月9日(土)午後1時~5時 大阪なんば高島屋前です。
よろしくお願いします。
本日12日(土)午後1時より街頭募金を行ないます。
本日12日(土)午後1時より午後5時まで、大阪なんば高島屋前で街頭募金を行います。
午後1時より午後5時までの時間帯のどの時間に参加していただいても結構です。
よろしくお願いします。
日本自立生活センター所長 矢吹文敏さんの報告NO.2
DPI日本会議、JIL合同による
「被災地障害者当事者支援プロジェクト」の活動を終えて NO.2
日本自立生活センター 所長 矢吹 文敏
同行ボランティア 石塚 光
〃 黒田 昭子
京都でてこいランド 松井 孝司
4月3日(火曜日)
今日は、昨日のうちに連絡を取っていた作業所を訪問する。日曜日に訪れた田野畑駅から少し離れた所にある「ハックの家」だ。
被災地センターから、50キロほど北の所にある「ハックの家」は、昨年の災害までは、水産加工の仕事をメインにしていた作業所だった。
ところが、津波によって水産加工場が全滅し、下請け作業を回してくれていた親会社がつぶれてしまったために、そこからの仕事はほとんどなくなってしまった。急きょ、今までは、サブ的に好きな人を中心にやっていた「沙織折り」をメインにするしかなかったという。
作業所の代表である竹下さんは、今年に入ってから、京都にある「風工房」のアトリエで作品展を行った経過もあり、その時の出会いが始まりで、今回の訪問となった。
沙織折りによるバッグ、財布、携帯電話ケースなど、様々な製品があるのだが、いずれも上品な色調で、オリジナル性に富んでいたものだ。通所者の中には、三陸鉄道で通っている人もいれば、近所の方もいたのだが、いずれも障害のある方だ。
聴覚障害の方も3人ほどおられ、一人の方に私が手話で尋ねると待ってましたとばかりに色々と話しかけてきた。私の手話力では十分に内容は把握出来なかったが、どうやら働いている仲間との関係を話してくれているようだ。 確かに、知的障害の方から精神の方まで障害種別で同じ職場にいることを伺うと、まさにそこはインクルーシブな社会ではあるのだが、今日的に制度上の違いもある当事者同士が同じ場所にいることの困難さは容易に想像出来る。
まさに地域性を象徴している作業所でもあるし、生活介護や就労支援の事業をかねていこうとする都会型(?)にとっても大いに参考になる作業所でもある。
ハックの家は、作業場の一部を被災者の避難場所として提供していたために、しばらく使えなかった場所を改修し、パンの専門家から作り方を教えてもらった技術で、今度はパンの製品も売り出すという。
しかし、問題も多い。どんなに良い製品を作り出しても、地元だけの購買力だけでは売り上げが伸びないのだ。 京都……だけではないのだが、うちのお店でも商品を預かっても良いよ、と言って下さる団体や個人の方。
全国組織が、被災地施設の自主作品の勾配をお手伝いするのも大きな力になるものと確信する。ぜひぜひ、その商品を預かって下さる団体・個人は、直接お問い合わせをお願いしたいものだ。
4月4日(水曜日)
今日は、爆弾低気圧と言うだけあって、かなりの強風だ。点滴に行く医院までの道すがら、車いすがかなりあおられた。まさか飛んではいかないだろうと思いつつ、側を流れる川を見て、そのまま跳ばされたらどうしようなどと想像してみた。
その後、センターの近くに、警察の車と消防車がやってきて、センター前の一方通行が通行止めになった。センターから3件隣のお店の屋根が吹き飛ばされそうに捲(めく)れ上がり、非常に危険な状態というのだ。
応急処置の工事も、この風が治まらないと危なくて出来ないとのこと。警察官と消防署員が交替で見張り、騒ぎが収まったのは結局夕方近くであった。
4月5日(木曜日)
一昨日のハックの家に続いて、今日は障害者が関わる近隣の工房と被災した観光場所を訪ねることにした。地元スタッフの案内で、車2台で出かけた。
最初に訪れたのは、絵はがきの風景や物語にも登場する浄土ヶ浜。宮古市内から車で20分ほど走ると、立派に舗装された道路から、急に細かくひびの入った少し凸凹の道を右折し、広い駐車場に入った。やたらと人なつこいカモメの出迎えを受け、浄土ヶ浜ビジターセンターとレストハウスが隣り合わせた場所を案内してもらった。
昨年の地震と津波による災害の直前近くに完成したばかりの建物と言うことだったのだが、レストハウスのほうは未だ公開されるだけの修理が出来ていない。私たちは、ビジターセンターのエレベーターを使って地下へ降り、可能な限り海岸沿いに近づき、美しい風景の観光スポットを見学することが出来た。
この美しい風景を、過去何十年、何百年かに1回の割合で津波が襲っており、昨年の東日本の津波災害だけではなく、それより以前の時期に三陸海岸を襲った津波の史実や、その当時の生々しい写真や記録も掲示されていた。 もちろん、近海の魚のことや地理的な説明なども書かれていたのだが、この次に私たちが訪れることがあったら、やはり、2011年3月11日の記録も掲示されているのだろうか。何か、辛い記録である。
その後に訪れたのは、「ワークプラザみやこ」で、全くのアポイントも取らずに突然訪れたにも関わらず、仲田所長さんは快く案内してくれた。
クリーニング作業、襖・障子の張り替え作業、清掃作業業務の引き受けなどを行っていたのだが、私たちが訪れたのは昼休み時間。ほとんどの方は、工場から離れていた。
所長さんから説明を受けた後に、私たちが一番に関心を持ったのは「鮭革細工作業」であった。岩手県の魚、宮古市の魚、そして縁起の良い魚として大事にされている「鮭」の皮を鞣(なめ)して作った革細工で、高級感が溢れている。
名刺入れ、小銭入れ、キーケース、カードケース、財布、ストラップやしおりなど、鮭という魚の幅や模様を活かした商品が多い。
宮古を訪れる観光客が急激に落ち込んでしまった今、現地だけのお店に卸してもなかなか売れることが無い。商品の販路開拓をしなければならないとのことだった。京都からのメンバーが、お土産として少しずつ買わせていただいたが、結構評判は良い。少しでもお手伝いしたい商品である。
できれば作業も見たい気持ちではあったが、あまり無理なことは言えない。クリーニングや障子の張り替えなどの現場を見ることはできなかった。次の日程もあり、急な訪問にお詫びとお礼を伝え、私たちはその場からお別れした。
さて、今日の予定で残るのはもう一ヵ所。夕方には十分帰れるコースで決めたもの。近くにあった病院の食堂で昼食をとり、いざ出発。明日には帰京するために、「途中でお土産なども買って」などと思っていたのだが………、目的地を設定したカーナビを信用し過ぎたために、その後とんでもないことになってしまったのだ。
昼食を食べてから、今日最後の訪問先、〇○を目ざして、現地スタッフの案内で出発した。訪問先にも、訪問時間の目安もお伝えして了解を得、先ほどの作業所の話などをしながら向かったのだが……、先導していた車の進行方向が、いつの間にか山奥の方に侵入し、先の道が無い所で止まってしまった。
先のスタッフが「もーっ、俺のカーナビ古いからか信用できねー」とぼやきながら車を降りてきた。「それじゃ、こちらのナビで行きましょうか」という事で先導役を交代し、再び出発。Uターンして改めて走り始めたのだが、カーナビの指示通りに走っていると、何やら雰囲気が怪しい方向に向かい始めた。
河川敷の工事現場のような所に入り込んだかと思うと、急に道が狭くなり、どう見てもいつも車が走っている道とは思えない異様な光景が見えてきた。山間から木が倒れ、大小の落石があり、さらに道が狭くなっているのだ。
先ほどのカーナビがおかしいわけでは無かった。納得して良いのかどうかわからないが、私のカーナビも同じだったのだ。
そして最悪のパターンが起きた。私の車のタイヤがパンクしていたのだ。道路の凸凹だけではなく、タイヤの左脇を岩で裂き切ってしまい、実は、ホイールからタイヤが外れかかっていたのだ。
京都から運転してくれたMさんやスタッフのIさんがスペア交換作業を始めてくれたのだが、ジャッキを支える地面が凸凹で固定できない。ナットを外す道具も石に引っかかって回せない。お天気は良く、まだ明るい状況なので気持ちの余裕はあったが、もしかして上からの落石があったらどうしよう、などと思うと気が気ではない。
右上の高い方向には、先ほど私たちが走って来たと思われる大きな橋があり、次々と走り去る車の姿が見える。
ついには「JAFを頼もう」という事になり、携帯からJAFへ電話。幸いにも携帯は通じたのだが、何せこちらは迷ってしまっているので、現場の説明もうまくいかない。大分時間をかけて、かろうじて場所の確認もとれて出動してもらえることになったのだが、到着するのは50分後とのこと。
とても心苦しいことであったのだが、Mさんを残して、私たちは一度センターに帰ることとした……。
……とは言え、私は自家用車からリフトを使って降り、普通の乗用車に乗り換えなければならない。やっとの思いで、宮古センターの車に乗り込んだが、今度は私の電動車いすの折り畳みがなかなかきかず、何とか押し込んでもらった。
先程迷い込んだ道をUターンし、とにかくも国道45号線に戻ることが出来、センターみやこに帰着した。途中にもMさんとは連絡は取りながらではあったが、私自身も精神的に相当疲れていたことを自覚した。
「明日の昼にはもうここを離れることになる。」あっという間の訪問だ。こんなんで本当に支援になったのだろうか。もっともっとやることがあったのではないだろうか。車いすに乗った人と会ったのは釜石に行った時の一人だけ。センターを訪ねてくる、知的や精神の方とお話し出来たのも少しだけ。考えれば考えるほど、障害当事者による支援活動の難しさと根気強さが要求されることを改めて知った。こんな崖道で阻まれる自分たちが少々情けなかった。
今夜のみんなとの夕食、そして明日の午前中には、頼まれていたスタッフへの講話。障害者運動、まちづくり運動の経過などについての話を聞いて頂く勉強会。明日一日だけの宮古の町をゆっくりと散策したいところなのだが、どうやらその時間もないようだ。
4月6日(金曜日)
私たちの活動日もいよいよ今日で最後。朝から荷物のまとめも始まった。同行したI君は、現地スタッフからのお誘いもあり、あと3,4日残ることになったので、帰りは3人だけとなった。
「同じ釜の飯を食う」という言葉の通り、短い時間ではあったが、なごり惜しい気持ちでもある。
特に昨夜のお別れ食事会の出来事が話題になり、その思いをいっそう深めた。
……と言うのは、現地スタッフの皆さん方が「最後だから」と近くの飲み屋さんで食事をすることになった。バリアフリーで入れるお店というのがなかなか無いことは既に予想はついていたのだが、それほど沢山のお店の数があるわけでもなく、ここが良いね、と言うことであるお店に入った。
すると、そこの女将さんのような人が「車いすの方ですか。ここは皆さん土足厳禁で履き物を脱いでもらっていますので、車いすから降りて頂けますか?」とおっしゃる。現地の人たちは一瞬困った様子だったが、“えっ? 車いすを雑巾で拭いたらいいでしょう?」と聞くと、不承不承奥の方から雑巾を持ってきた。その布でタイヤを拭いていると、さらに奥から主人のような方が出てきて、「その車いす、床に傷つきませんか?」と尋ねてくる。
私は一瞬、懐かしい言葉だーっと受けとめた。
そうだよな~、昔、ボーリング場とか体育館とか、和風料理店とかスナックとかで、色んなこと言われて、その都度喧嘩のようになったけな~。そっか、ここは今か~、などと妙な所で感心してしまった。
でも、京都だって、3,4年前に小学校の体育館を借りる時に、同じ事言われてるし、持ち上げれば良いんですか~などと、まるで荷物扱いの言葉で扱われることも珍しくはない。
でも、滅多に車いすの人に出会わないこの地域でのこと。これでは、車いすの人も外へ出るのも勇気いるよな~、と思った次第。
……ともあれ、そんなこと言われたって、食べる時は楽しく食べて、楽しく飲む。これで良いのだ。みんなで、大いにしゃべり、少しは飲んだ。
……という事件があった次の日の朝なのだ。
私が1時間ほどお話しをする予定のネタとしてはこれ以上のネタはない。まちづくり運動の原点のような実際の事件が起きたのだから、私もつい熱が入ってしまった。
昔は座敷牢のような所で隠されていた人たちが沢山いたこと、介護疲れも重なった子殺しのこと、日本の福祉が施設造りに走ってしまったこと、私が小学校も中学校も行っていないこと、インターネットも携帯電話もない頃の時代に全国の障害者が一斉にまちづくり運動を始めたこと……、あれっ? あとどんなこと話したっけ?
どうも最近忘れっぽい。自分で言ったことも忘れてしまう。(そう言えば、政治家はみんな忘れるようだけど……、と余計なことも加えるが……)
地元のスタッフの人たちは「宮古は遅れてる、夕べの事件などは恥ずかしい」とおっしゃる。とんでもない。遅れているのではない。知らないのだ。新しい情報など知る機会もなく、その必要に迫られてもいない。重度障害者が「自分だけで、介助者を使って地域生活を行う」と言うことなど完全に諦めているし、それが出来るとも思ってはいない。地域によっては700時間以上の介助者を使って普通の家で地域の中で生活していることを知らないし、知ることもない。
宮古のセンターに毎日コーヒーを飲みに来るおじさんは「俺はね、仕事首になってから、お前は何もしないで飯ばかり食っててバカだ、と家族から毎日言われてる。」と話してくれた。一番身近な人たちからお前はバカだと毎日言われるのは辛いと思う。
その辛さを受けとめた現地スタッフの人たちが、DPIやJILのメンバーが、1100㎞離れた京都の私たちが、これから何が出来るのか。何をすればよいのか。
1年たっても、家が流され土台だけが残ってしまった風景は変わってはいない。そして当分変わる様子もない。宮古での福祉のまちづくりが、今日から始まったと思って頂ければ、そのスタートも意義のあることだ。
私たちは、さまざまな課題をお土産に、新しい出会いを忘れず大切にしながら、次の出会いへの拡がりを求めて、「被災地障がい者センターみやこ」を後にした。
その日の夜、同じ被災地センターの仙台を訪問し、遅くまで私たちを待っていてくれた皆さんとお話しをし、1時間ほどでおいとまをした。本当は石巻にも行きたかったし、福島にも寄りたかった。
しかし、残念ながら時間的な制約もある。またの機会を念じつつ山形・新潟経由で京都へ帰ったのは7日の午後11時59分頃。ちなみに、山形・新潟を通る時は雪が降っていて、京都へ帰った時には、満開の桜が待っていた。
多分、宮古の桜はまだかも知れない。でも、間もなく春だ。
皆さん、ありがとうございました。私たちは元氣です。また会いましょう!
日本自立生活センター所長 矢吹文敏さんの報告1
DPI日本会議、JIL合同による
「被災地障害者当事者支援プロジェクト」の活動を終えて NO.1
日本自立生活センター 所長 矢吹 文敏
同行ボランティア 石塚 光
〃 黒田 昭子
京都でてこいランド 松井 孝司
昨年12月に行われたDPI日本会議常任委員会において、被災地障害者当事者派遣プロジェクト参加について、明けて2012年の派遣メンバーが確定していない中で、参加の呼びかけがあった。
これに応じた形で、日本自立生活センター矢吹他3名、京都でてこいランド松井ら合計4名が参加することとなった。
諸般の事情により、予定より2週間以上遅れた日程ではあったが、2012年3月29日から4月6日(一人は、4月10日に延長)まで、被災地障害者センターみやこに宿泊し、現地スタッフの指示と協議の中でそれぞれが活動した。
以下、日程に沿った活動の概略について報告します。
3月29日(木)
私たち「日本自立生活センター」と「京都でてこいランド」のメンバー4名は、京都から自動車組と新幹線組みに分かれて出発し、岩手県盛岡市の駅で合流し、夕方6時頃に「被災地障がい者センターみやこ」に到着した。
連絡の勘違いか、どうやら私たちは30日に到着すると言うことになっていたらしく、現地スタッフの方々は大分慌てたようだが、職員・先着のボランティアの方々から温かく出迎えを受けた。
初めての土地であることと盛岡からの途中にまだまだ残雪のあることで、訪れた私たちは、これからの活動に対する使命感や不安で少々の緊張感を覚えた。
慌ただしく自己紹介をした後、早速に夕食前のミーティングに参加。
今日の活動についての報告を一緒に聞かせて頂いた。
「交流会」参加を呼びかけるチラシの各地域へのポステイング状況、今後の課題、明日の活動予定などが話された。
私たちの明日の予定としては、コーディネーターの山下さんの指示によって、お花見交流イベント案内のチラシをポスティングすること、行政訪問などが確認された。
寒いことを覚悟していたこととはまったく逆で、到着した日は、いわてでこの冬一番の暖かい日となった。私たちは、1階と2階に分かれての宿泊。運転の疲れも重なり、ゆっくりと睡眠することができた。
3月30日(金曜日)
午前、矢吹は定期点滴のため、あらかじめ予約していた近くのO医院へ出かけ、ほかの二人はポスティングに出かけた。
……点滴を終えてからは行政機関訪問との予定ではあったが、かねてから会いたいと希望していた方が、急遽会えることになったとの連絡があり、山下さんの配慮により、釜石まで足を運ぶこととなった。DPIなどからの情報では、お名前や地域など詳細ではなかったが、その後の聴き取りで、ある施設に入所していたKさんと分かっていた。その方と思いがけずに釜石で会えるという新しい情報で、京都組は山下さんの運転で釜石センター(名古屋のAJU設置)を訪問することになった。
午後3時頃に到着した私たちは、ほぼ同時刻にセンターに来られたKさんと合流し、施設から出て自立生活をしませんか?など、初対面にもかかわらずの突っ込み会話ではあったが、Kさんも負けじの人物で、私と同じで口から産まれていた。
いずれは施設を出ての生活を行いたいとの希望も伺ったが、現時点では家族の方が反対していることやヘルパー派遣などの福祉サービスが極めて不足していることなどの面で足踏みされているという。
さまざまな冗談も含め、プライベートな会話についての内容はカットだが、なかなか小気味の良い会話が弾み、メンバーとのメルアド交換などもあり、ギャグの応酬と再会を約してのお別れとなった。
宮古から釜石までの道のり、国道45号線。山と海の風景が交互に現れる道中では、毎日のように報道で見せられていた山田町や大槌町の被災状況が目の前に現れた。1年以上たった被災地でありながら、破壊された家屋の土台だけが残されたまま、いまだにまったく手付かず状態の所が多かった。
大きな店舗では1階が粉々に破壊され、小さな建物は跡形もなく、時には防波堤が破壊され、山間と思われるような所までの立ち木が倒れていた。思わずに、ここに自分がいたとしたらどうしていたのだろう、恐らくひとたまりもなく波に吸い込まれていたに違いない、と身が締まった。
これらの建物にいた方々は、今はどこで何をしておられるのだろうか。
だいぶ以前のことだが、健常者のある方が「地震や火災や津波で恐い思いをするのは障害者だけではない、健常者も恐いのだから同じ思いよ」と言ったことがある。はたして本当だろうか。一歩でも二歩でも、自分の力で逃げようとして逃げることが出来る人と、自分の力では一歩も動けない人の恐怖感と言うものが同じだろうか。私は大いに疑問に思ったことがある。
車いすに乗ったまま、ベッドの上に寝たままの姿で、そのまま波に飲まれていってしまった状況を想像すると、何かしら気持ちが重くなる。
釜石のほうに入りかけると急に風が強くなる。浜風なのだろうか。破壊された建物とまったく被害の無かった建物とが隣り合わせている。地元の人が、ここまで波が来たんだよという、その指先がその境を示している。本当に、数メートルの違いでその明暗は分かれていた。
3月31日(土曜日)
今日は、朝から小雨模様。特に出かける予定はなかったが、来客の予定が組まれていた。障害当事者(K君)とそのお母さん。夕方にはお姉さんも合流し3人となった。
わざわざ釜石の方から来られたとのことで、制度の活用についてやサービス提供の事業所に関しての情報に飢えていた。なぜ障害者がこの地域に住みにくいのか、何故この地域にサービス事業所が育たないのか、鶏と玉子にも似た現実の疑問が一気に噴出した。
交通機関が不十分なこと、ヘルパーを使うということへの抵抗感がある地域性のこと、バリアフリー化がなかなか進まない地域であること、地域全体が障害者の自立生活にとって厳しい環境であること……などなど。障害当事者に対する施設運営者側の間違った姿勢、障害者に関わる制度や新しい情報の不足……。
地震や津波災害以前の状況とも重なり、震災以後さらに厳しくなった状況が語られた。津波によって破壊されたさまざまな入所施設は、この際「脱施設化」を進める方向を期待したのだが、それは全く逆で「津波でも壊れない頑丈な施設造り」になっただけ、と言うのが現実とのこと。
親子の訴えはあまりに重く、なおかつ幅が広く、私一個人では全く手も足も出ない大きな課題ばかりであったが、私自身が東北(山形)の田舎で育った経験と重なる部分が多く、その訴えの多くを共有することが出来た。
大阪、名古屋、京都、それぞれの地域の障害者自身の活動家からの話を聞き、大いに勇気を得たという親子は、今後とも頻繁に関西との交流を図る決意を表明され、意欲的に活動される様子に、私たちも大いに刺激された。最近の障害者運動は、とかく原点から離れ、都会的な運動のみに走る傾向があるが、やはり、着実な福祉のまちづくり運動をしていかなければならないことを、その親子は教えてくれた。
夕方には、三陸鉄道宮古駅にお邪魔をし、明日行われる三陸鉄道一部復興路線の開通式に参加するに当たって、もし社長さんに会えるものなら会いたい旨をお伝えした。駅からは直接に社長さんに伝えることは時間的に無理なので、役員さんにはお伝えしますとのお返事を頂いた。
これで、日曜日ではあるが、明日の朝は早い出発になる。
4月1日(日曜日)。
今日は、三陸鉄道の一部路線の復興開通式典が、宮古市の田野畑駅などで行われる。
私たちは、その式典に参加するべく、朝の7時半にセンターを出かけた。国道45号線を50キロほど北上し、途中から山間部の急な坂道を何分間か降りた所に、色とりどりの風船が舞い、たくさんの自動車が止まっていて、明らかにイベント会場であることを教えてくれた。
イベント会場には、東京銀座のレストランが無料でお料理を振舞い、イカ焼きが提供され、大きなテントばりの会場ではさまざまなアトラクションが行われ、報道陣もごったがえし、テレビ中継も行われていた。
駅それ自体は山でありながら、東を向けばすぐそばには海の風景。津波がここまで来たと言われてもにわかには信じられない光景ではあったが、まちがいなく、津波はここを走っていた電車を丸ごと飲み込んでいったのだ。
8時半から開始したと言う開通イベントには、平野復興担当大臣も参加。地元の人々にすれば、久々の明るいニュースに思わず笑顔が出てしまっている。まさに、三陸の足「三鉄(三陸鉄道)」の復活は自分たちの復興なのだ。
テレビのコマーシャルも、地元新聞の紙面も大々的に特集を組んでいた。
私自身は、この当事者支援プロジェクトに参加することを決めてから、昨年の内に、三陸鉄道の望月社長さんには一方的にメールを送りつけ、ぶしつけながら「復興に当たっては、ぜひともバリアフリーの鉄道にしてください。障害者も三陸の風景を楽しめる電車にしてください。私たち自身も何が応援出来るかも教えて下さい。」とお願いをしており、お返事も頂いていた。
とにかくも社長さんとはお会いしたかったという気持ちで、イベントの流れの中で、社長さんにお会い出来るチャンスをうかがった。三陸鉄道の関係者にもお願いし、少しの時間だけで良いからお話を伺える機会を頂けるようにお願いもした。
きわめて多忙の中、イベント途中で日程を消化している社長さんに、先程の役員さんから耳打ちをしてもらい、会っていただくことに成功した。名刺交換をするなり、社長さんからの開口一番。
「すぐにはできませんが、必ず徐々にバリアフリーのものにしていきます」と言う力強いお言葉を頂いた。
その言葉通り、新しい電車(車両)の中には、障害者(車いす)用のトイレが設置されていたことには驚いたのだが、私の顔を見るなりのお言葉に再度感激した。私は「よし、必ず、障害者仲間による三陸ツアーを組んで、リアス式海岸の展望を一緒に感じることができるように、その日を目ざして応援体制を組まなければ……、早速に多くの人たちに声をかけなければ……」と決意したのである。
寒かった。風が冷たかった。同行した京都組は、全員鼻風邪をひいてようだ。
しかし、望月社長さんが、多くの子供たちと戯れ、こよなく地域を愛しているお姿。そして、お祝いの旗や風船を持って走り回る子供たちの姿。イベントを身体全体で支えている若者たちの姿を見ていた私たちの心は、実に温かかった。
まさしく、繋がろう、三鉄! であった。
イベントも半ばではあったが、朝早く起きてきた私たちは、これ以上だと本当に風邪をひいてしまう。満足な気分を抱いて、お昼過ぎに会場を後にした。
4月2日(月曜日)。
昨日とは違い、今日はそれぞれが別途に行動。
現地スタッフの方と一緒に、土曜日に印刷所から届いた「4月14日交流会、4月28日お花見のお知らせ」に関するチラシを、地図上の場所をいくつかに分割したブロックごとに、ポスティングすることとなった。
その中には、点在している仮設住宅も予定されており、京都から到着した次の日にも行った活動の一環だ。訪ねていく家の中には、新聞や郵便物が溜まったままの家もあり、いくら声をかけてもお返事のない家も何軒かあるという。
中には、郵便受けに以前に入れておいたチラシがそのままになっていたともいう。雇用促進住宅の棟全体がすでにだれも住んでいないと言う所もあるというのだ。
地震の被害が甚大であることは今さら言うまでもない。津波の被害も私たちの想像をはるかに超えている。
しかし、今まで住んでいたアパート全体の住人が忽然と消えてしまうという、まるでホラー映画のような状態が、目の前にあるのだ。
ここに住んでいた人たちは、一体どこに行ってしまったのだろうか。
午前中に、定期の点滴を受けに通院したO医院で伺った話によれば、その津波は、医院の前に流れている川の所で流れが止まり、医院の建物は無事だったという。
看護婦さんによれば、釜石や大槌町、山田町などの医療機関が津波でやられ、血液検査などのさまざまな機器が使えなくなり、幸いにも被害のなかったO医院を訪れる患者さんが急に多くなったのだという。中には1時間以上もかけて通院してくる方もいて、病気を治すための通院が、逆に大変な負担になっている方もいるという。
宮古で出会う方々も、釜石や田野畑で会う人たちの表情は予想以上に明るい。会話も普通に行われ、地元の自慢話も多い。しかし、何分か話していると必ず、津波の被害の話になってきて、今後の生活が不安であることを呟いてくる。皆、相手の立場に立ちながら、お互いに遠慮しながら被災状況を語っているのだ。この我慢力も考えると、日常的なストレスは相当に大きなものがあるのだと思う。
限りなく人は優しい。 限りなく人は寂しい。 限りなく人は災害や事故を恨む。 時として人のことを考える余裕もなく、我が身を守ることを最優先する。 いずれも、誰もに起きる普通のことだ。
中には、生きている自分に罪悪感を覚えてしまう人もいる。「あの大事な人が亡くなって、どうして自分は生きているのだろう……」と、考える人も少なくないという。
災害は、すべての人を巻き込んで、悲しみを広げる。
毎日を支援活動に使っている支援者たちが、今、疲れている。こんな時だからこそ、車いすの上からギャグを飛ばす。強いところも弱いところも、そのまんまの自分を映し出す。 お互いに何もできない人間が、何かを残すために、今日も何とか動いている。
池田佳ず実さんによるピアノ演奏・交流会のご案内
被災地障がい者センターみやぎ・石巻支部より
池田佳ず実さんによるピアノ演奏・交流会のご案内
「被災障害者支援ゆめ風基金」、「被災地障がい者センターみやぎ」、「石巻支部」の取り組みに連帯する中で、関西でつながりのあった当事者の池田佳ず実さん(ピアニスト・兵庫県尼崎市)が石巻支部の阿部俊介さんとつながり、この度、「被災地障がい者センターみやぎ・石巻支部」で「ピアノ演奏・交流会」を開催することになりました。
今回の取り組みが、呼び呼ばれ、思いを伝え合い、当事者と当事者、当事者と地域、石巻と関西が豊かにつながっていく取り組みの一つになればと願っております。
関係者の皆様のご参加をよろしくお願い申し上げます。
日時:2012年5月19日(土)午後1時~午後2時30分
場所:被災地障がい者センターみやぎ・石巻支部事務所(石巻市蛇田中埣37)
内容:池田佳ず実さんによるキーボード演奏と歌の交流
くわしくはここをクりックてください。
CILたすけっと ささえ愛 山元「パラソル喫茶」のお手伝い
みなさま
お世話になっております
CILたすけっと スタッフの豊川です
先週の土曜日、ささえ愛 山元が開催するパラソル喫茶のお手伝いということで参加してきました。急な呼びかけにもかかわらず、当日は「ゆにふりみやぎ」の伊藤さんもお手伝い頂けることになり「ほぼ同世代?」二人での参加です。
通算10回目の開催は「高瀬西石山原団地」という仮設住宅で、ここでの開催は2回目です。この仮設住宅にお住まいの方は花釜地区という場所、ちょうどささえ愛 山元のご近所さんがおられるところです。
前回は屋外での開催でしたが、今回は集会所内でおこないました。
少々狭い集会所では、スタッフあわせて30人くらいがお喋り、折り紙、民謡を歌ったりと楽しそうに過ごしています。(写真添付)
後の反省会で聞いたところ、前回10月のパラソル喫茶では地震や津波の当時を振り返るような会話が多かったのに、半年たった今回は、今の生活や、どちらかというと普段の会話のような話しが多く聞かれたそうです。確かに私も会場の雰囲気も昨年とは違い、落ち着いて話しをする人が多くなった印象を持ちました。
今回初めての参加になりましたが、伊藤さん!どうだったでしょうか?
次回は5月12日(土)、浅生原箱根団地での開催予定です。引き続きお手伝い頂ける方募集します。
及川智さんより 「東日本大震災における貢献者表彰」
皆様へ
連日の活動お疲れ様です。及川智です。
先日5月1日に東京帝国ホテルにおいて行われた、社会貢献支援財団主催の「東日本大震災における貢献者表彰」表彰式に出席してきました。
これは、CILたすけっと及び被災地障がい者センターみやぎの活動に対して表彰されました。
合わせて128の団体、個人が表彰を受けました。盛大な表彰式で一人ひとりの活動が紹介され登壇しました。さまざまな活動があった中、地震発生直後人命救助をされるも津波の犠牲となられた方々も多数いらっしゃいました。また、被災地の消防団、医師看護師、支援団体、個人と本当にいろんな支援活動があったことがわかりました。
センターみやぎの活動がこういった形で評価されたことはとても嬉しいことですが、まだ活動は長く続きます。「復興」を目指して活動する方々と思いを共有しながら日々の活動をしていきたいと思いました。
表彰の副賞として50万円を頂戴しました。これはセンターみやぎの活動費として活用したいと考えております。
最後に社会貢献支援財団のホームページを紹介いたします。ご参照ください。
社会貢献支援財団のホームページ
http://www.fesco.or.jp/
被災地障害者センター大船渡から
お世話になっております。
センター123の太田です。
大船渡にて、利用者さんを集めたバーベキュー会を先日行いました。
そのご報告をさせて頂きます。
4月21日(土)に、
大船渡湾とサン・アンドレス公園を一望できる当事務所の駐車場にて
開催しました。
参加者は19名
・利用者さん 10名
・スタッフ、ボランティア 9名
風がちょっと肌寒い中でしたが、大変盛り上がりました。
利用者さんからは、
「今までこういった会に参加したことがない。すごく楽しかった。」
などとご意見を頂き、
初回にしては上出来だったと思います。
今後も2ヶ月に一度ぐらいのペースで開催し、
なるべく利用者さんを巻き込んでいこうと思っております。
これからも頑張っていきますので、
どうぞよろしくお願い致します。
4月14日交流会
4月14日(土)交流会
朝7時30分に大船渡を出て10時前にみやこ事務所に到着。
午後のプログラムで山田の佐々木留美子さんが出ていたNHK番組を録画したDVDを流そうということになったが、パソコンでは移らず電気屋へ伊藤君が走る。ただ録画していたものがDVD-RAMという記憶媒体で再生するには2万円以上の機械が必要ということでした。1万円以下で買えると思っていたので、今日のために高い買い物はできないと判断してとりあえずは購入を断念。あらためてパソコンを使って再生を試みる。最近デジタル波での放送が始まり、プロテクトがかっていて、パソコンでは再生できないらしい。
なんとかネットしらべて、とりあえず映像が映るようにセッティングし、私の役目は終了。他のみんなはひたすら調理とここへ来る人の送迎。午前中に今日ボランティアで歌をみんなに聞かせていただけるというRIKO(丸本莉子)さんが到着。昨夜の夜行できたということでした。
12時開始。少し遅れた人もありましたが、現地の人が16人、スタッフとCILもりおかの人も同じくらいの人数で、30人を超える交流会。
最初にじゃじゃ麺など食事を開始。採れたてのふきのとうの天ぷらはやはりおいしい。その間に佐々木るみさんの出ていた番組と竹田市立宮城台小学校からお蔵絵r手来たビデオを紹介。
1時から地元参加者で今後ここでやりたいことを話し合いました。カラオケ、運動会、パソコン学習、手芸などが出てきました。他に家で困っていることを聞くと、施設でいじめられるとか、仮設住宅でやることがなくて暇で困っているというはなしもありました。
それが終わっていよいよRIKO(丸本莉子)さん登場。21歳の彼女は去年広島から東京へ歌で食べて生きたいと上京したそうです。自身の曲や上を向いて歩こうなど5曲を披露してくれました。途中じゃんけんゲームでRIKOさんの初CD(彼女いわくきっとプレミアがつくそうです)5枚をプレゼント。また彼女の手作りミサンガが地元の人たち全員に配られました。
3時にはにぎやかな交流会も終了。
その後川畑さんとTRYについて打合せ。やるかどうかという話はやる方向で固まりました。後は30日の当事者派遣のメンバーとの話し合いで、具体的な準備について教えてもらうことになります。
6時ごろに送迎に出ていたメンバーも帰り、盛岡に帰るメンバーと宮古に残るメンバーに別れました。
宮古に残ったメンバーは地元スタッフとご苦労さん会。今後のことについて色々話をしました。
みやこではどんこというさかなが良く売られてます。ここでもどんこのたたきがあったので、食べてみました。
4月11日、12日、13日
4月11日(水)
昨晩は釜石のAJUの被災地センターに泊まり、電車で盛岡に帰る。
最寄り駅は松倉駅。待合室があるだけの無人駅でパッと見には駅に見えない。
昼過ぎに盛岡事務所に戻り、武田君と打合せ。
夕方からはふれあいらんど(岩手県総合福祉センター)で「東日本大震災障がい者支援活動推進プラットフォーム会議」に参加。この会議はもともと被災6日後(3月16日)に、県社協障がい者福祉協議会(障がい協)と県知的障害者福祉協会(知福協)が、障がい者施設支援のため「合同支援プロジェクトチーム」を結成したのが発展したもの。この合同プロジェクトで昨年3月19日から被災地の障がい関係者の状況把握、救援物資の搬送、被災施設への人的派遣支援、支援ニーズの把握していたということですが、やはり施設中心で在宅の人や避難所の人への支援はあまりしていない感じがしていました。
ただ参加団体は広がり今は私たちを含め、岩手県、岩手県身体障害者福祉協会、岩手県重症心身障害児を守る会、日本知的障害者福祉協会、きょうされん、岩手県障がい者110番、全国脊椎損傷者連合会岩手県支部、盛岡市ボランティア連絡協議会、岩手県療育センター、NPO法人難民を助ける会、NPO法人日本セルプセンター、被災地障がい者
センターいわて、全社協全国社会就労センター協議会、JDF東日本大震災障害者総合支援本部、県社協障がい者福祉協議会、岩手県知的障害者福祉協会など17団体が参加している会議であり、昨年はここで色々と情報収集をした部分も大きくありました。
今年になって国の「障がい者福祉サービス復興支援事業(以下復興支援事業と略す)」がはじまり、今回の会議には復興支援センターの職員7名が会議に加わりました。
他にボランティア団体の連携を図るいわて連携復興センターの方も今回初参加。56回目の会議となり、県内の障がい者団体の参加が少なくなる中、久しぶりに人数の多い会議でした。
今回は復興支援センターの活動紹介、JDFいわての陸前高田事務所が4月17日に開所することが大きな報告としてありました。復興支援事業は県が県社協に委託をしています。県内9拠点のうち沿岸部は4拠点があり、宮古では被災地障がい者センターみやこ事務所の隣に復興支援センターができました。宮古は県社協の直営ですが、釜石や大船渡は既存の社会福祉法人が運営する形で職員増員をしています。
相談事業と既存の福祉サービス事業所へのアドバイス、被災障がい者の実態把握、今後の災害に備えた新たな支援マニュアルなどの作成が業務であり、直接支援をするわけではないので、私たちの仕事が減るわけではなさそうです。
またみなし仮設住宅に入っている障がい者情報も未だ掴めていないこともあり、どういう動きになるかはまだ現段階では良くわからないという感じでした。
ただ全体状況については今後もこの会議を通じて知ることができるのかなと思いました。
会議が終わった後も陸前高田の今後の支援のあり方などについてJDFいわての小山(おやま)さんと話をし、19時半に事務所に戻る。
事務所ではCILもりおかの川畑さんと田野畑村ハックの家の小野ひかりさんと会いに行っていたという西沢さんがすでに戻っていました。小野ひかりさんは将来自立生活がしたいという希望もあり、昨年は盛岡まで自立生活プログラムに参加していました。今回は田野畑村やハックの家がどういうところなのかを川畑さんが直接見に行くことを目的にしていました。
4月12日(木)
東京救援本部世話人会議
朝9時過ぎに事務所を出発。1時前には着くと思っていたのが、電車の時間がうまくなくて少し遅刻。何とか会議の始まりには間に合いましたが。
今回の会議は東北6拠点のメンバーも参加し、1年間の振り返りと今後の方針の確認をすることが主な議題。お互いが顔の見える関係で支援を継続していくうえで、重要な会議となりました。
会議の後に交流会があったのですが、私は世界銀行・JCIA共済パブリックセミナーがあり、世界銀行の東京事務所へすぐに移動。今回の会議は「大規模災害における市民社会の連携を考える」というテーマで、東京、仙台、神戸をインターネットのテレビ電話でつなぐ形式で行いました。
午後6時から8時までの予定が少し延び、8時20分ぐらいに終了。私は会議の後に交流会に参加できるような時間でなかったので、直接夜行バスで宮古に帰ることにしていました。ただ会議が長引いてバスの発車まで余裕なく、おにぎりとお茶を買い込んで品川バスターミナルに着いたのは発車10分前でした。
とにかくぎりぎりセーフで一安心。車内でおにぎりを食べたあとは、愛用の空気まくらと空気腰あてを膨らませ、体制を整えた後はただただ寝るだけ。翌朝7時過ぎには宮古に到着。
4月13日(金)
午前中はあすのみやこの交流会に向け参加者、メニュー、プログラムなど簡単な確認を行い、買出しなどに向かう。午後からはそのほかのことも含めてミーティング。
交流会のメニュー、メインはじゃじゃ麺。それと地元のふきのとうをとってきて天ぷらにすることに。
交流会以外のことでは、1年経って活動報告を出そうということになり、被災者の人たちの聞き取りを5月末には終えるよう計画的に進めること。またここに来てもらったボランティアの人にも原稿依頼をし、原稿はできるだけ5月中に集め、6月に編集をし、8月には発行したいということを確認しました。
また東京の会議でメインストリームの佐藤さんから川畑さんとメールのやり取りをし、TRYの事務局についてCILもりおかで引き受けることが話されたので、その点も明日確認することにしました。
3時過ぎに会議を終え、みんなは明日の準備、私は大船渡の千葉さんと久しぶりに打合せをすることにしました。夕方5時40分ごろに大船渡の事務所に到着。事務所の向かいにあった建物が取り壊されていて、通り過ぎそうになりました。
トイレは事務所に併設する形で新たに作られ、ようやく水洗の洋式トイレに。
今後の予定について伺うと、今の事務所は来年11月で契約更新をしないといわれているので、となりの千葉さんの妻の実家の土地を利用し、事務所のみ引越しをする。障害者の活動場所についてはもう少し高台を予定。知人が山を整地しているので、そこの土地を借りて建てたいとのことでした。
難民を助ける会も補助については良い感触であり、赤い羽根共同募金からもすでに228万円の補助金が決定しているとのこと。さらに丸紅基金も申請中。事務所は平屋作りにしてあまり費用はかけたくないとのことでした。
その他リフトカーについて5月末車検の車は大阪に返さなければいけないこと、会計のルールについて、宮古と大船渡の合同会議を開き、東京で新たに担当となった森さんに来てもらうことなどを話しました。
そのままみやこにとんぼ返りするつもりでしたが、「事務所は今日は誰もいないので泊まって行ったら?」と声をかけられました。千葉さんは少し疲れていて、相手はできないとのことでしたが、夜に沿岸沿いを100キロ近く一人で走行するには少し体力的にも自信がないので泊まることにしました。それと復興屋台村がすぐ近くあると教えられたのが決め手にはなりましたが。
千葉さんお勧めのすし屋さんに案内してもらい、おいしくて、また地元の人と話をしながら楽しく過ごせました。