2015年ゆめ風基金総会とシンポジウム

                           ゆめ風ネットさいたま(わらじの会) 事務局 吉田弘一
 ワタシのイメージの中のゆめ風総会はいつも桜の季節。ただ今年はいつもの大阪ではなく仙台だったこともあり、残念ながら桜はまだ蕾ではあったけれど。新潟出身の自分としても東北の春は抜群に爽快だ。春の空の青、そしてあちこちで街の背景に桜色が映るシーズンは、知らず心が軽くなることを春が来るたびに実感する。
 さて話はがらりと変わって。ロシア大使が駐留しているデンマークのNATOミサイル防衛計画への参加に難色を示し、その場合デンマークの艦船を核の標的にする可能性がある。と話したそうだ。毎度毎度ニュースを聞くたび暗い気持ちになる昨今だが、こんなニュースはいつもに増してズシリと気持ちが暗く重くなる。
 窮極の人災としての戦争の恐ろしさももちろんだがなによりも、いつもは忘れているだけで、甘い消費社会の上っ面をペロリ一枚剥げば、どこもかしこも惨憺な世界の有り様が覗く。そんな時に暗く沈む心は、桜色の街に心がうずくのと基本同様だ。
 帰りの新幹線、介助者であり多賀城出身の学生さんと少し話す。「初めてのゆめ風、シンポも含めてどうだった?」と感想を聞くワタシ。彼女の答えは「理想と現実というものについて考えてしまった」とのこと。今回の総会の後の風街シンポジウムの後半、監督が言っていた放射能災害を指しての「あんなことがあって生き方が変わらないなんて―」という言葉は印象的だった。
 「変わらない」のか「変えたくとも変えられない」のか、またどうであれ「変わらない」という結果だけが重んじられる話なのか。それが理想と現実、また本音と建前と呼ばれるものの中身なのだとも考える。「変わらない」としても「変えたい」と望むのであれば、「変わらなさ」を咎めるよりも、そうせざるを得ない根本的な部分、社会や地域の構造こそを変えていくべきだとも思う。
 さらに加えて考えるならば、私たち障害者を囲む言葉の中に「社会モデルとしての障害者像」などといった言葉がある。医療モデルとしての障害者像と対で出てきがちな言葉だが、障害だって健常だってすべての私たちは社会とは切っても切れない“ヒト”であるとも言える。だとすればワタシタチは自己決定や自分の思いだけで生きていけるものでもないのだろう。だとすれば私たちは、社会―地域と関わりながら、小さい関係を無限に積み重ねながら地域を作っていかなければならないのだとも強く確信する。そして小さくともそうして作った積み重ねはそうそう悪いものではないだろうとも思うのだ。
 そしてそれはいっさい他人ごとでなく、デンマークどころか私たちの頭上だってどこだって核ミサイルが行きかう航路であることと同様に、忘れているだけで自分たちの問題だ。
 会の終わり、「一日一日をクリアしていく。それで精一杯だ」と青田さんが語る。その通りだ。しかし精一杯ながらも一日ずつクリアし、積み上げる暮らしは苦しくとも私たちを裏切らないだろう。むしろそうした関わりの中に本来、人の暮らしはある筈だ。
 私たちの上に拡がる空は全て繋がっている。小さくともそうした積み重なった暮らしが一つの空の下で繋がっていく事、そうして作っていく地域や社会に思いを馳せる。

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