ヒデの救援レポート:2013年4月30日№118

●風光る4月から、風薫る5月へ!
5月1日は、今は姿なき、世界中の労働者のメーデー。
そして、5月5日は、世界中の子どもたちのいのちの日。
カール・マルクスの生誕日。
そして、何よりも、hideの畏友のおひとり、人工呼吸器を使う子どもたちの親の会『バクバクの会』初代会長の平本さんの命日。
ついでに、いい親ではなかったけれど、亡くなったhideの母親の誕生日です。
合掌あるべしです。


●被災障害者支援「ゆめ風基金」の呼びかけ人代表のフォークソングシンガー、小室等さんが、hideたちも知らなかった、迂闊!アノ、天下の雑誌『週刊 金曜日』に「なまくらのれん」と題するコラムを連載されていた。
天下の雑誌『週刊 金曜日』に「なまくらのれん」と題するコラムその中からの一編。
週刊 金曜日の連絡先
TEL 03-3221-8521
ここから
「災害時に、障がい者は置き去りだ。
例えば避難所でのトイレ問題。
一般人にとっても大変だが、障がい者にとってはその比較じゃない。
けれど障がい者用トイレなど誰も考え付かない。
避難所は障がい者を受け入れてないのだ。
・ベッドでなければ寝起きできない、高齢の母の介護を受けて暮らすAさん。
ベッドなどありうべくもない避難所で、何日も車椅子のまま眠れぬ毎日を過ごした。
その後仮設住宅に入居するも、バリアフリーではない住宅で外に出られず、ようやくスロープが設置されても、高齢の母にそのスロープを車椅子で出入りさせる力がない。
Aさんは、仮設に軟禁状。(記録映画『逃げ遅れる人々~東日本大震災と障害者』より)
障がい者置き去り、枚挙暇なし。
そこで「ゆめ風基金」だ。
「認定NPO法人・ゆめ風基金」
自然災害で被災した障がい者を支援する目的で阪神淡路大震災直後に大阪で設立された団体。
「ゆめ風基金」をなまくらのれん流に説明してみる。
どこかで災害が起きたら、即スタッフが駆けつけ、現地で障がい者のSOSをキャッチ、速やかにSOS発信元に現金を届ける。
実行に際しては不平等に徹する。
あっちもこっちも助けることはできない。「ゆめ風」身の丈の支援活動。
永六輔さんは、「ゆめ風基金」最初の10年間の呼びかけ人代表。
永さんの後を7年間、今僕が引き継いでいる。
実働は、もちろん事務局の最強スタッフのみなさん。
さて、あれから2年、今はどうか。
ほとんど被災地にはいりっ放しの事務局八幡隆司さんに聞いた。
『東北被災地沿岸、人口の流出で介護スタッフが圧倒的に不足。
買い物や病院への移送状態が深刻。
ようやくヘルパーが付いて病院までたどり着けても、病院内は介護支援管轄領域外。
病院内で過ぎてゆく時間の介護支援費は本人全額負担です』と、八幡さんは心痛める。
心痛めながら「ゆめ風」は支援活動を続ける。
この17年間で地震・噴火・豪雨・台風など様々な自然災害が起こり、「ゆめ風基金」は海外も含め、約4千万円を被災地の障がい者に届けてきた。
そして起こることが予想される大災害に備え基金2億円をキープしてきたが、これほど大規模な災害は予想できていなかった。
2億という金はそっくり東日本大震災支援に投入された。
その後2年間で更に2億以上の基金が集められている。
凄い。
「ゆめ風基金」への評価の現れだと思う。
だけどね、「ゆめ風」が必要とされるのって変でしょ。
「ゆめ風」がやっていることは、行政がやる気になればできることばかりなのに。
ここまで。
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これまで届けた救援金
236,894,624円(2013年2月12日現在)
内・東日本大震災救援金総額
191,385,539円(2013年2月12日現在)
ただいまの基金残高
260,654,573円(2012年12月末日現在)
このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、
被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。
広く知ってもらいたいので、転送自由。自由にお使いください。
息の長い救援が求められています。
長期戦です。
救援金の送り先は、
郵便振替口座:00980-7-40043 ゆめ風基金です。
「とうほく」と書いてください。


東日本大震災救援活動の中のhideの風景
●月刊「むすぶ」№506からの転載。
発行:ロシナンテ社
連絡先 TEL&FAX 075-533-7062
・福島を忘れないでください(高野桜さん:南相馬市小高区出身、高校生平和大使。)
小高工業高校をこの春に卒業しました。
私の家は南相馬市小高区にあります。
原発から20キロ圏内にあります。
原発事故がおきてから警戒地区に指定されました。
最初、私の家族は山形県に避難していました。
父は仕事の関係で、私と弟は学校で南相馬市に戻りました。
母、祖母、兄は今も山形で生活をしています。
家族はばらばらです。
母の実家が海沿いでしたので、そこの状況を見てきました。
一時帰宅したときは懐かしい気持ちでした。
そしていつかまた戻ってきたいという気持ちがつよくなりました。
その2ケ月後、4月に私のふるさとである小高区は警戒区域が解除されました。
でもいまだに除染も始まっていません。
だから人は住んでいません。
しばらく人が住んでいない家というものは傷みやすいです。
壊れてしまった家も沢山あります。
今は解体作業も始まっていて、崩れてしまった家は無くなっています。
町並みも変わっています。
ガレキの撤去も今月から始まっています。
小高区には、今中間貯蔵施設が作られています。
私はその様子を先月見てきました。
これから人が戻れるようにと計画されている町に中間貯蔵施設ができていることは、遠回しに国から、しばらくは戻れないと言われているようでなりませんでした。
私の家は雨漏りがしていて、そこは放射線量が高いのです。
東電の説明会では、家の中は除染ができないと言われました。
またネズミが住み着いていてネズミのフンだらけでした。
ネコやハクビジンが出入りしていました。
いつか戻りたいと思っていた家ですが、そうやって動物が住み着いているのを見ると帰りたくないという気持ちも生まれてきます。
私の高校は、30キロ圏内にあるスポーツセンターに仮設校舎を建ててすごしています。私は1年生から3年生まで違う校舎で過ごしてきました。
震災前は小高にある本校舎。
2年生では各地区にあるサテライト校舎で過ごし、3年生になって、みんなで今の仮設校舎に戻ってきました。
私は工業高校なので実習をしなくてはいけないのですが、その実習は仮設校舎とは別のところであります。
友達も避難した先の学校に転校する友達が沢山いました。
その友達も『みんなでまた一緒に勉強したかった』、『一緒に卒業したかった』という友達が何人もいました。
そして私は福島の高校生では初めて平和大使としてスイスのジュネーブにある国連欧州本部に訪問させていただきました。
そこで今の現状を報告させていただくと、情報が十分に伝わっていなかったようで
『もう復興していたと思っていた』と言われました。
●続く
以上
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