日本自立生活センター所長 矢吹文敏さんの報告NO.2

DPI日本会議、JIL合同による
「被災地障害者当事者支援プロジェクト」の活動を終えて NO.2
日本自立生活センター 所長 矢吹 文敏
同行ボランティア 石塚  光
〃       黒田 昭子
京都でてこいランド  松井 孝司
4月3日(火曜日)
 今日は、昨日のうちに連絡を取っていた作業所を訪問する。日曜日に訪れた田野畑駅から少し離れた所にある「ハックの家」だ。
 被災地センターから、50キロほど北の所にある「ハックの家」は、昨年の災害までは、水産加工の仕事をメインにしていた作業所だった。
 ところが、津波によって水産加工場が全滅し、下請け作業を回してくれていた親会社がつぶれてしまったために、そこからの仕事はほとんどなくなってしまった。急きょ、今までは、サブ的に好きな人を中心にやっていた「沙織折り」をメインにするしかなかったという。
 作業所の代表である竹下さんは、今年に入ってから、京都にある「風工房」のアトリエで作品展を行った経過もあり、その時の出会いが始まりで、今回の訪問となった。
 沙織折りによるバッグ、財布、携帯電話ケースなど、様々な製品があるのだが、いずれも上品な色調で、オリジナル性に富んでいたものだ。通所者の中には、三陸鉄道で通っている人もいれば、近所の方もいたのだが、いずれも障害のある方だ。
聴覚障害の方も3人ほどおられ、一人の方に私が手話で尋ねると待ってましたとばかりに色々と話しかけてきた。私の手話力では十分に内容は把握出来なかったが、どうやら働いている仲間との関係を話してくれているようだ。 確かに、知的障害の方から精神の方まで障害種別で同じ職場にいることを伺うと、まさにそこはインクルーシブな社会ではあるのだが、今日的に制度上の違いもある当事者同士が同じ場所にいることの困難さは容易に想像出来る。
 まさに地域性を象徴している作業所でもあるし、生活介護や就労支援の事業をかねていこうとする都会型(?)にとっても大いに参考になる作業所でもある。
 ハックの家は、作業場の一部を被災者の避難場所として提供していたために、しばらく使えなかった場所を改修し、パンの専門家から作り方を教えてもらった技術で、今度はパンの製品も売り出すという。
 しかし、問題も多い。どんなに良い製品を作り出しても、地元だけの購買力だけでは売り上げが伸びないのだ。 京都……だけではないのだが、うちのお店でも商品を預かっても良いよ、と言って下さる団体や個人の方。
 全国組織が、被災地施設の自主作品の勾配をお手伝いするのも大きな力になるものと確信する。ぜひぜひ、その商品を預かって下さる団体・個人は、直接お問い合わせをお願いしたいものだ。
 4月4日(水曜日)
 今日は、爆弾低気圧と言うだけあって、かなりの強風だ。点滴に行く医院までの道すがら、車いすがかなりあおられた。まさか飛んではいかないだろうと思いつつ、側を流れる川を見て、そのまま跳ばされたらどうしようなどと想像してみた。
 その後、センターの近くに、警察の車と消防車がやってきて、センター前の一方通行が通行止めになった。センターから3件隣のお店の屋根が吹き飛ばされそうに捲(めく)れ上がり、非常に危険な状態というのだ。
 応急処置の工事も、この風が治まらないと危なくて出来ないとのこと。警察官と消防署員が交替で見張り、騒ぎが収まったのは結局夕方近くであった。
4月5日(木曜日)
 一昨日のハックの家に続いて、今日は障害者が関わる近隣の工房と被災した観光場所を訪ねることにした。地元スタッフの案内で、車2台で出かけた。
 最初に訪れたのは、絵はがきの風景や物語にも登場する浄土ヶ浜。宮古市内から車で20分ほど走ると、立派に舗装された道路から、急に細かくひびの入った少し凸凹の道を右折し、広い駐車場に入った。やたらと人なつこいカモメの出迎えを受け、浄土ヶ浜ビジターセンターとレストハウスが隣り合わせた場所を案内してもらった。
 昨年の地震と津波による災害の直前近くに完成したばかりの建物と言うことだったのだが、レストハウスのほうは未だ公開されるだけの修理が出来ていない。私たちは、ビジターセンターのエレベーターを使って地下へ降り、可能な限り海岸沿いに近づき、美しい風景の観光スポットを見学することが出来た。
 この美しい風景を、過去何十年、何百年かに1回の割合で津波が襲っており、昨年の東日本の津波災害だけではなく、それより以前の時期に三陸海岸を襲った津波の史実や、その当時の生々しい写真や記録も掲示されていた。 もちろん、近海の魚のことや地理的な説明なども書かれていたのだが、この次に私たちが訪れることがあったら、やはり、2011年3月11日の記録も掲示されているのだろうか。何か、辛い記録である。
 その後に訪れたのは、「ワークプラザみやこ」で、全くのアポイントも取らずに突然訪れたにも関わらず、仲田所長さんは快く案内してくれた。
 クリーニング作業、襖・障子の張り替え作業、清掃作業業務の引き受けなどを行っていたのだが、私たちが訪れたのは昼休み時間。ほとんどの方は、工場から離れていた。
 所長さんから説明を受けた後に、私たちが一番に関心を持ったのは「鮭革細工作業」であった。岩手県の魚、宮古市の魚、そして縁起の良い魚として大事にされている「鮭」の皮を鞣(なめ)して作った革細工で、高級感が溢れている。
 名刺入れ、小銭入れ、キーケース、カードケース、財布、ストラップやしおりなど、鮭という魚の幅や模様を活かした商品が多い。
 宮古を訪れる観光客が急激に落ち込んでしまった今、現地だけのお店に卸してもなかなか売れることが無い。商品の販路開拓をしなければならないとのことだった。京都からのメンバーが、お土産として少しずつ買わせていただいたが、結構評判は良い。少しでもお手伝いしたい商品である。
 できれば作業も見たい気持ちではあったが、あまり無理なことは言えない。クリーニングや障子の張り替えなどの現場を見ることはできなかった。次の日程もあり、急な訪問にお詫びとお礼を伝え、私たちはその場からお別れした。
 さて、今日の予定で残るのはもう一ヵ所。夕方には十分帰れるコースで決めたもの。近くにあった病院の食堂で昼食をとり、いざ出発。明日には帰京するために、「途中でお土産なども買って」などと思っていたのだが………、目的地を設定したカーナビを信用し過ぎたために、その後とんでもないことになってしまったのだ。
 昼食を食べてから、今日最後の訪問先、〇○を目ざして、現地スタッフの案内で出発した。訪問先にも、訪問時間の目安もお伝えして了解を得、先ほどの作業所の話などをしながら向かったのだが……、先導していた車の進行方向が、いつの間にか山奥の方に侵入し、先の道が無い所で止まってしまった。
 先のスタッフが「もーっ、俺のカーナビ古いからか信用できねー」とぼやきながら車を降りてきた。「それじゃ、こちらのナビで行きましょうか」という事で先導役を交代し、再び出発。Uターンして改めて走り始めたのだが、カーナビの指示通りに走っていると、何やら雰囲気が怪しい方向に向かい始めた。
 河川敷の工事現場のような所に入り込んだかと思うと、急に道が狭くなり、どう見てもいつも車が走っている道とは思えない異様な光景が見えてきた。山間から木が倒れ、大小の落石があり、さらに道が狭くなっているのだ。
先ほどのカーナビがおかしいわけでは無かった。納得して良いのかどうかわからないが、私のカーナビも同じだったのだ。
 そして最悪のパターンが起きた。私の車のタイヤがパンクしていたのだ。道路の凸凹だけではなく、タイヤの左脇を岩で裂き切ってしまい、実は、ホイールからタイヤが外れかかっていたのだ。
 京都から運転してくれたMさんやスタッフのIさんがスペア交換作業を始めてくれたのだが、ジャッキを支える地面が凸凹で固定できない。ナットを外す道具も石に引っかかって回せない。お天気は良く、まだ明るい状況なので気持ちの余裕はあったが、もしかして上からの落石があったらどうしよう、などと思うと気が気ではない。
 右上の高い方向には、先ほど私たちが走って来たと思われる大きな橋があり、次々と走り去る車の姿が見える。
 ついには「JAFを頼もう」という事になり、携帯からJAFへ電話。幸いにも携帯は通じたのだが、何せこちらは迷ってしまっているので、現場の説明もうまくいかない。大分時間をかけて、かろうじて場所の確認もとれて出動してもらえることになったのだが、到着するのは50分後とのこと。
 とても心苦しいことであったのだが、Mさんを残して、私たちは一度センターに帰ることとした……。
……とは言え、私は自家用車からリフトを使って降り、普通の乗用車に乗り換えなければならない。やっとの思いで、宮古センターの車に乗り込んだが、今度は私の電動車いすの折り畳みがなかなかきかず、何とか押し込んでもらった。
 先程迷い込んだ道をUターンし、とにかくも国道45号線に戻ることが出来、センターみやこに帰着した。途中にもMさんとは連絡は取りながらではあったが、私自身も精神的に相当疲れていたことを自覚した。
 「明日の昼にはもうここを離れることになる。」あっという間の訪問だ。こんなんで本当に支援になったのだろうか。もっともっとやることがあったのではないだろうか。車いすに乗った人と会ったのは釜石に行った時の一人だけ。センターを訪ねてくる、知的や精神の方とお話し出来たのも少しだけ。考えれば考えるほど、障害当事者による支援活動の難しさと根気強さが要求されることを改めて知った。こんな崖道で阻まれる自分たちが少々情けなかった。
 今夜のみんなとの夕食、そして明日の午前中には、頼まれていたスタッフへの講話。障害者運動、まちづくり運動の経過などについての話を聞いて頂く勉強会。明日一日だけの宮古の町をゆっくりと散策したいところなのだが、どうやらその時間もないようだ。
4月6日(金曜日)
 私たちの活動日もいよいよ今日で最後。朝から荷物のまとめも始まった。同行したI君は、現地スタッフからのお誘いもあり、あと3,4日残ることになったので、帰りは3人だけとなった。
 「同じ釜の飯を食う」という言葉の通り、短い時間ではあったが、なごり惜しい気持ちでもある。
 特に昨夜のお別れ食事会の出来事が話題になり、その思いをいっそう深めた。
 ……と言うのは、現地スタッフの皆さん方が「最後だから」と近くの飲み屋さんで食事をすることになった。バリアフリーで入れるお店というのがなかなか無いことは既に予想はついていたのだが、それほど沢山のお店の数があるわけでもなく、ここが良いね、と言うことであるお店に入った。
 すると、そこの女将さんのような人が「車いすの方ですか。ここは皆さん土足厳禁で履き物を脱いでもらっていますので、車いすから降りて頂けますか?」とおっしゃる。現地の人たちは一瞬困った様子だったが、“えっ? 車いすを雑巾で拭いたらいいでしょう?」と聞くと、不承不承奥の方から雑巾を持ってきた。その布でタイヤを拭いていると、さらに奥から主人のような方が出てきて、「その車いす、床に傷つきませんか?」と尋ねてくる。
 私は一瞬、懐かしい言葉だーっと受けとめた。
 そうだよな~、昔、ボーリング場とか体育館とか、和風料理店とかスナックとかで、色んなこと言われて、その都度喧嘩のようになったけな~。そっか、ここは今か~、などと妙な所で感心してしまった。
 でも、京都だって、3,4年前に小学校の体育館を借りる時に、同じ事言われてるし、持ち上げれば良いんですか~などと、まるで荷物扱いの言葉で扱われることも珍しくはない。
 でも、滅多に車いすの人に出会わないこの地域でのこと。これでは、車いすの人も外へ出るのも勇気いるよな~、と思った次第。
 ……ともあれ、そんなこと言われたって、食べる時は楽しく食べて、楽しく飲む。これで良いのだ。みんなで、大いにしゃべり、少しは飲んだ。
 ……という事件があった次の日の朝なのだ。
 私が1時間ほどお話しをする予定のネタとしてはこれ以上のネタはない。まちづくり運動の原点のような実際の事件が起きたのだから、私もつい熱が入ってしまった。
 昔は座敷牢のような所で隠されていた人たちが沢山いたこと、介護疲れも重なった子殺しのこと、日本の福祉が施設造りに走ってしまったこと、私が小学校も中学校も行っていないこと、インターネットも携帯電話もない頃の時代に全国の障害者が一斉にまちづくり運動を始めたこと……、あれっ? あとどんなこと話したっけ?
 どうも最近忘れっぽい。自分で言ったことも忘れてしまう。(そう言えば、政治家はみんな忘れるようだけど……、と余計なことも加えるが……)
 地元のスタッフの人たちは「宮古は遅れてる、夕べの事件などは恥ずかしい」とおっしゃる。とんでもない。遅れているのではない。知らないのだ。新しい情報など知る機会もなく、その必要に迫られてもいない。重度障害者が「自分だけで、介助者を使って地域生活を行う」と言うことなど完全に諦めているし、それが出来るとも思ってはいない。地域によっては700時間以上の介助者を使って普通の家で地域の中で生活していることを知らないし、知ることもない。
 宮古のセンターに毎日コーヒーを飲みに来るおじさんは「俺はね、仕事首になってから、お前は何もしないで飯ばかり食っててバカだ、と家族から毎日言われてる。」と話してくれた。一番身近な人たちからお前はバカだと毎日言われるのは辛いと思う。
 その辛さを受けとめた現地スタッフの人たちが、DPIやJILのメンバーが、1100㎞離れた京都の私たちが、これから何が出来るのか。何をすればよいのか。
 1年たっても、家が流され土台だけが残ってしまった風景は変わってはいない。そして当分変わる様子もない。宮古での福祉のまちづくりが、今日から始まったと思って頂ければ、そのスタートも意義のあることだ。
 私たちは、さまざまな課題をお土産に、新しい出会いを忘れず大切にしながら、次の出会いへの拡がりを求めて、「被災地障がい者センターみやこ」を後にした。
 その日の夜、同じ被災地センターの仙台を訪問し、遅くまで私たちを待っていてくれた皆さんとお話しをし、1時間ほどでおいとまをした。本当は石巻にも行きたかったし、福島にも寄りたかった。
 しかし、残念ながら時間的な制約もある。またの機会を念じつつ山形・新潟経由で京都へ帰ったのは7日の午後11時59分頃。ちなみに、山形・新潟を通る時は雪が降っていて、京都へ帰った時には、満開の桜が待っていた。
 多分、宮古の桜はまだかも知れない。でも、間もなく春だ。
 皆さん、ありがとうございました。私たちは元氣です。また会いましょう!
宮古にて 矢吹さん

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