被災地障がい者センターみやぎ・石巻支部Vol・1より

被災地障がい者センターみやぎ・石巻支部(被災地障がい者センター石巻)が冊子を発行しました。個々を拠点に活動するひとたちの震災発生時の状況や思いをつづった切実な報告と、その後の活動、現在と今後の支援活動について、言葉を寄せ合った貴重な資料となっています。
 その内容をひとつずつ紹介したいと思います。
被災地障がい者センターみやぎ・石巻支部Vol・1より
大震災とこれから
                     
 あの千年に一度と言われる東日本大震災から早七ヶ月が経過し、段々と肌寒くなってきました。今思うと、ただの悪い夢として現実逃避したくなる時もありましたが、津波や原発問題によってもたらされた被害の様子を見聞きする度に、あの日の光景が鮮明に蘇ってきます。
 三月の大震災の時、私の家にも大津波と瓦礫などが突然押し寄せ、一階の電化製品は全て使用不能になり、自家用車や使用していた電動車椅子も全て流されました。その際、私は母や祖母と共に家の二階に避難しました。
 ラジオから、数百人単位で遺体が見つかった話や、ある集落が水没した話といった絶望的な情報が流れ続ける中、私は猛吹雪と津波で水に浸かった家の周囲を呆然と眺めながら、次々に来る余震に、ただ怯えるしかありませんでした。
 やがて吹雪が止み、辺り一面が暗闇に包まれた中、夜空を見上げると星空が見えました。今思うと、それはまるでこの震災で亡くなられた方々の魂が、夜空に舞い上がったかのようでした。震災直後の大停電の中、星空は残酷なくらい美しかった事を今でも鮮明に覚えています。
 そして翌日以降、私は約二ヵ月程、自宅には戻れませんでした。その間、私と両親は市役所に二日程宿泊していましたが、大勢の人の中にいるストレスにどうしても耐えられなかった為、地元の東松島市の母方の祖母の家に避難しました。
 ただ改めて考えると家族や親戚、そして近しい友人達が皆無事で自宅に戻ってこれた事だけでも感謝しなければなりません。自分を含め私の周囲の人間が皆助かったからこそ、これから新しい事を始めようと考える余裕があるのですから。
 しかし親戚や友人の中でも家が津波で消失し、大切な人を亡くしてしまった方々など、震災の被災者でしか本質的に分かち合えない大きな悲しみを味わった方が多くいる事もまた重い現実です。また震災の影響でPTSD等により心が傷付き、疲れ切ってしまった人も多くいます。
震災以降祖母の家に避難してしばらく、私も連日発生する余震と友人との安否確認が出来なかった事による不安感により精神的にきつくなり、気が滅入ることがままありました。しかし当時を振り返ると私達親子を受け入れてくれた祖母の方が過度のストレスによって気が滅入っていたと思います。そして電化製品を買い直し、元の家での生活に戻れた事を改めて嬉しく思います。
 そして私は今、隣街の石巻市にて新しい活動を始めました。今年の八月の中旬に地元の障がいを持った当事者の先輩と数年ぶりに再開し、彼が県内外の様々な福祉関係のボランティアや支援団体の力を借りて、石巻の地域に住む障がいを持った当事者のサポートをして、自分達が主体的に行動が出来るように、住み易い環境を創り直していく為の団体を設立しようとしていることを知り、私もその活動に参加する事を決めました。
 まだ右も左も分からない中での活動ですが、その活動を通して、私達が住む石巻地域の地域福祉における多くの問題点が少しずつ見えてきました。それは石巻周辺も被災した事によるものもありましたが、それ以上に震災前から地元の障がい者福祉に対する閉鎖的な環境によるものもかなりあったと考えています。
 前々から薄々感じていましたが、地元地域には特に身体障害を持った当事者が定期的に通い、語り合える様な場所が殆ど見当たりません。また知的障害や精神の障害を持った当事者についても、施設や家の中に閉じこもりがちな方も未だに多くいます。そこで、「社会と繋がれる場所が無いのなら自分達で創ってしまおう。」という考えで活動を始めました。
 私自身、まだまだ勉強不足で障がい者福祉について知らない事も沢山あり、これからも精進していかなければなりませんが、少しでも声を上げて、制度やサービスを改正したり、利用しながら、より私達にとって住み心地の良い街に変えていければと考えています。そして何より、自宅以外で私が安心して身を置ける場所が出来た事も、大変嬉しく思います。(I)

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