≪3.11 あの日あのとき≫
被災地障がい者センターみやぎ
県北(登米)支部 小野寺ふさ江
私が住んでいる南三陸町は人口1万5千人の小さな田舎町でしたが、何より海が自慢で海の幸の宝庫でした。その海が、あの日 あのとき・・・。
3月11日金曜日14時46分 地面から突き上げられるように建物がジャンプしたと思ったら尋常でない揺れが始まった。私の職場(シャディギフトショップ)は店内の商品や什器が倒れポスレジが飛び恐怖を感じ店外に出たもののマンホールの蓋は3、40㎝ほどジャンプし、揺れはますます激しく私は地面に伏したまま揺れが収まるのをひたすら祈っていた。4、5分ほど続いただろうか。
揺れが収まると店内の事はさて置き、自転車を借り自宅まで直行。我が家の被害はスノーマンのミニ火鉢が落ちただけで、父が大被害だと笑いながら火鉢を元に戻していた。両親の安否と我が家の無事を確認し職場に戻ると目の前の国道は指定避難場所の1つであるベイサイドアリーナに向かう車で渋滞していた。町の防災無線でも津波の襲来を伝えていた。程なく社長が自宅よりご両親と弟を連れ避難してきた。
店の中は社長一家6人と私の7人でワイワイ賑やかにお喋りしていたが、何となく外の様子が気になり店外に出てみると、防災無線は6mの津波から10mの津波が・・・と言ったまま途絶え、遥か海側の街は黄色い煙が広がっていた。店の奥さんと黄色い煙は何?10mの・・・って?と疑問に思っていたが寒さで店内に戻ってしまった。店内で二言三言会話し、やはり外が気になり店外に出て社長の息子と街の方角を眺めていたら突然「来たぞー!逃げろ!!津波だ!!!」と社長の弟が走って来た。
その声の方向を見ると、既に川から波が押し寄せ、波の音、建物が壊れる音、プロパンガスが漏れてる音が一気に襲ってきた。思わず社長の息子に「走れ!!」と二人で波と逆方向に走り、走りながら社長の弟が店内に入るのを確認し、これで社長達は大丈夫と思い、必死に走った。社長の息子は遥か前方、このままでは波にのまれてしまう・・・目の前の建物の裏側に階段があることを思い出し上ってみた。ここは大丈夫かもと思い立ち止まり店の方角に振り返ると店が津波と流されてきた建物に倒され、一瞬にして消えてしまった。社長、奥さん・・・呆然としながら我が身にも波が押し寄せてきた。高いところ高いところと、とにかく高いところを目指し駆け上り、気付けば杉山に登っていた。もう大丈夫??と思った途端腰が抜けた。
何とか気持ちを落ち着かせ下におりると目の前は建物、車、船等のガレキの山・・・あっ!社長達は?店の方に近い場所に移動してみるとどこからともなく「たすけて~!!」と声だけが響く。耳を澄ますと「翔太~翔太~!!!」と社長が息子の名前を叫んでいる声が聞こえた。あっ!社長生きていたんだ!!と思ったが程なくその声は途切れ、別な方が助けを求める声だけが続いていた。助けたくても助けられないもどかしさ。心の中でどれだけゴメンなさいと言っただろうか・・・。
どれぐらい時間が経っただろうか。ようやく消防の救助が来た。自分の目の前に起きた出来事しか知らなかったが、街は全滅したとのこと。意味が分からなかった私は家に帰ろうと思っていたが、ガレキで断念し、近くにあるベイサイドアリーナへ向かう。
ベイサイドアリーナにはかなりの人が避難していた。知っている人の顔を見て大丈夫だった!?と皆涙を流していた。私はまだ、どうやったら家に帰れるか考えていると目の前に母がご近所さんと現れた。「なんで来たの」の問いに母は「家流された」ショックだった・・・。
あれ?父は? 母の実家に足の悪い姉がいるので、母の兄と供に向かったようだ。私は、母の実家に行く道のりは高台が多いし、山伝いでアリーナまで来れると思っていたので、ここで父の帰りを待つことにした。ベイサイドアリーナの体育館や小ホールは余震に備え立ち入り禁止。避難民はアリーナの通路で夜を過ごす事になる。独りぼっちになった社長の息子、翔太君と夜が明けるのを待った。翔太君は、自閉とアスペルガーを持っているので、人の空気を読むのが苦手な為、大勢の中では浮いている。が、懸命に生きようとしている姿はとても痛々しい。
翌日、諦めたとぽつり話してくれた。諦めたとは両親、祖父母、叔父がもう生きていないと。かたや私はまだ父が帰って来ると思っている。この日は母と私は母の一番上の姉の所に避難しようと思っていた。が、各方面から救助に来た方々の話から伯母の所まで津波が行った事を知った。
3日目、叔父が私達を探しに来てくれた。私達の姿を確認するとお互い号泣した。叔父も津波にのまれたが生き延びた事、伯父と父、伯母二人が行方不明を確認し他は皆無事だった事を知る。そして、始めて気付いたことがある。震災当日持っていた鞄(現金8万と通帳カード印鑑等)一式と車が店ごとながされた事。悔しい・・。でも、人の命が何より大事。皆が元気でいればそれでいい。
私たちの町は津波により道路、電気、水道等ライフラインが全て無くなった為お手上げ状態に。幸い、全国、各国からのご支援により、何とか今日まで生きてこられたと思っています。
ありがとう!の言葉をどれほど使ったでしょうか。本当に感謝感謝の日々でもありました。津波は辛く悲しい出来事で、思い出したくないことですが皆様からの暖かい善意は決して忘れる事は出来ないし、忘れてはいけない事だと思っています。
家族や友達、仲間が、平凡な日常がどれほど大切な事かが、今さらながら実感しています。震災から半年経ちますが、未だ父は帰ってきません。父だけでなく、伯父、伯母、社長一家、友人知人が行方不明のままです。生きていなくても必ず帰ってくると信じ、待ち続けるつもりです。私たちのような災害は今後起きないように、起きても被害が最小限に抑えられますように。と念じてやみません。
(そうそうの杜機関紙「想 創 奏」29号より転載)