証言/気仙沼の精神科病院/薬不足4日目、発作次々

2011.7.9河北新報
証言/気仙沼の精神科病院/薬不足4日目、発作次々
 気仙沼湾を望む気仙沼市浪板地区に、統合失調症の患者ら約250人が入院する精神科病院「光ケ丘保養園」がある。東日本大震災による津波は病棟の2階まで押し寄せ、患者全員が一時、屋上に避難した。4日後には、湾周辺で発生した火災により、約5キロ離れた小学校への避難を余儀なくされた。移動や病院外での生活は困難を極め、患者は医薬品の不足で次々と発作を起こした。窮地に追い込まれた医療スタッフと患者は、どう行動したのか。(菊池春子)
◎「あちこちで倒れる患者。注射、息つく間もなく」
<避難>
 午前からの外来診療が終わり、ひと息ついたとき、激しい揺れに襲われた。午後2時46分。1階の薬局にいた看護課副主任水戸幸弘さん(46)は、急いで病院周辺の状況を確認し、担当する2階の閉鎖病棟へと向かった。入院している大半は重い統合失調症やてんかんの患者だが、思いの外、落ち着いていた。
 患者らを指定避難場所となっている病院の外のグラウンドに連れていくか、それとも、津波に備え、屋上に避難させるべきか。水戸さんが他のスタッフと話し合っていたその時―。
 「津波だ、津波が来る」。堤防付近まで様子を見に行った職員が、叫びながら戻ってきた。
 考える余裕はない。黒くて泥臭い水が、既に階段の下に迫っていた。
<上へ>
 「早く逃げっぺし」。看護師らが呼び掛ける。状況を理解しきれず、ベッドに入ったまま「やんだ、やんだ」と嫌がる患者もいた。看護師らはシーツを剥がして患者をそのまま包むようにして担ぎ、階段を上った。「死なせるわけにはいかない、との一心だった」。看護師中村好江さん(30)は振り返る。
 閉鎖病棟、開放病棟合わせて249人の入院患者全員と職員約50人の屋上への避難は約10分間で終了した。眼下の駐車場に止めてあった職員の車が、まるで映画のセットのように流されていく。患者らは寒さの中で、ひたすら身を寄せ合った。3階建ての病棟のうち、津波は2階の床上1メートルほどまで達していた。
<痛手>
 午後5時すぎ。浸水を免れた3階に全員で移動し、ベッド1台を2人で使って夜を明かした。
 長い闘いが始まった。
 停電、断水、食料の枯渇…。翌日から裏山の沢水を汲み、がれきを燃やした鍋で煮沸し、院内に残っていた食料を分け合った。
 最大の痛手は医薬品の不足だった。1階の薬局に保存していた在庫は引き波で全て流され、病棟に1週間分ほどを残すのみ。新たな入荷は見込めない。処方量を減らし、持たせるしかない。
 発生4日目、15日ごろだった。薬が減った影響で、患者が次々と発作を起こし始める。「あっちでもこっちでも、患者さんが泡を吹いて倒れている状態。息つく間もなかった」。新階敏恭医師(45)は患者の元を駆け回り、症状を抑えるための注射を打った。
◎迫る火の手 緊急避難/環境激変、混乱する患者/医師ら奔走、危機脱す
 医薬品の不足で患者が次々と発作を起こし始めていた気仙沼市浪板の精神科病院「光ケ丘保養園」に、追い打ちをかけるように火の手が迫った。
 気仙沼湾周辺では、11日夜から火災が発生。重油タンクが津波で流され、漏れた油からがれきに引火したことが一因とみられている。近くの鹿折地区は火の海となり、浪板地区周辺では林野火災が起こった。
 延焼は続き、市の災害対策本部に15日午後、「光ケ丘保養園の近くに煙が見える」との情報が入った。患者の緊急避難が決まる。
 午後3時すぎ、約5キロ離れた唐桑小体育館への移動が始まった。応援に来た東京消防庁のマイクロバス10台で、15人ずつを移送。午後10時近くまでかかった。
 病院以上に冷え込む体育館。慣れない環境に混乱し、一晩中、医師の名を叫び続ける患者もいた。隣接する校舎には、地元住民らも身を寄せている。同行した森きえ子看護長(58)は「まったく眠れなかった。あまりに厳しい状況だった」。
 「避難所生活」は一晩で限界だった。火災は鎮圧状態となり、翌16日午前、患者はバスで病院に戻った。
 病院に支援物資は少しずつ届き始めていたが、試練はなお続く。てんかんの発作に加え、体育館での寒さが災いし、肺炎を起こす患者が続出した。20日すぎまでに、肺炎で7人、低体温症で2人の患者が死亡した。
 医療スタッフも疲弊していた。精神科病棟の医師数は、国の基準で一般病棟よりも少なく定められている上、光ケ丘保養園の常勤医5人のうち、2人は80歳前後の高齢。ほか2人も自宅が被災するなどし、昼夜を問わず患者のケアに当たれるのは新階敏恭医師(45)だけになっていた。
 新階医師を支えたのは、経験とクリスチャンとしての信仰だった。光ケ丘保養園への赴任前は、医師不足が深刻な岩手県西和賀町の沢内病院の院長を務め、国際協力機構(JICA)の事業で、ネパールの医療支援に赴いたこともあった。「すべての経験を、今に生かさなければならない」。食事も睡眠もそこそこに、治療に奔走した。
 被災地から離れた病院への患者の移送も検討したが、事務職員の努力で25日ごろまでに発電機の調達、井戸水の活用などでライフラインを応急復旧した。全国からの医療チームの支援も始まり、最悪の状態を脱した。
 新階医師は振り返る。「精神科病棟の患者は、この病院で暮らすしかない人たちも少なくない。見ず知らずの場所に移し、一生を終えさせていいのか、という思いもあった」
 震災からまもなく4カ月。震災のショックからか、部屋からほとんど出ず、食欲も落ちてしまった患者もいる。
 外来診療は3月末に一部再開し、定期的に通院していた700人ほどの患者の半数近くが再び来院。震災後、精神的ストレスでうつ状態になり、来院する新患も増えた。
 激闘の日々を超え、地域の精神科医療の拠点は残った。その意味が今、重みを増している。
2011年07月09日土曜日
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