大盛況でした。「映画で共に生きる社会を~被災地を取材した記録から」

 6月12日(日)、箕面文化・交流センターで開かれた「映画で共に生きる社会を~被災地を取材した記録から」はあいにくの雨模様にもかかわらず、約150人の方々が参加され、大盛況でした。主催された(「障害者とともに」を考える企画グループ)ちまちま工房」のみなさんをはじめ、スタッフのみなさん、ご苦労様でした。
 第一部では映像作家・今村彩子さんが「目で聴くテレビ」のスタッフとともに被災地を取材したドキュメンタリー映画「架け橋~東日本大震災 宮城の被災ろう者は今~」が上映されました。
「目で聴くテレビ」は、聴覚に障害のある方のための放送局で、1995年の阪神大震災の教訓をふまえ、全日本ろうあ連盟、全日本難聴者中途失聴者団体連合会などが中心となり、98年からはじまった放送局です。聴覚障害者自身がキャスターやカメラマンとして番組制作に参加し、ニュースや地域の話題からスポーツ、手話学習、災害時の情報まで、手話と字幕をつけてさまざまな情報を提供しています。
 今村さんは聴覚障害者で、「目で聴くテレビ」のディレクターとして活躍されています。 今回の震災で被災地の聴覚障害者がどうしているのか、いまどんな問題をかかえているのかを直接自分でたしかめ、多くのひとにつたえようとこの映画を製作されました。
 3月22日、まず宮城ろうあ協会の会長の話では、避難所のろう者は手話で話をできるひとはいなくて食料や毛布などの情報がつかめず、常にまわりのようすを見ていなければならず、ストレスがたまるというものでした。テレビ放送でも手話通訳がつかず、それはNHKに要望して手話通訳がつくようになりましたが、テレビによっては手話通訳者の映像が切れてしまう。会長さんをはじめ、取材したすべての当事者が、基本的に、聴覚障害者にも、そしてどんなひとにでも情報が届く社会にしなければ、災害が起きるとたちまちいのちにかかわる困難な状況においこまれてしまうことを、切実に訴えておられました。
 避難所にいるろう高齢者夫婦は、地震直後、近くにあるものにしがみつき、ゆれが収まるのを待っていたら、近所のひとが避難するよう伝えてくれて、すぐに家を出たら直後に津波で家が流されてしまったそうです。その家を一緒に見に行くと、家はまったくありませんでした。
 もうひとりのろう高齢者夫婦は床屋をしていて、震災前まで開いていたお店に案内してくれました。お店のドアを開けると泥水でぐちゃぐちゃの椅子やタオル、はさみや櫛、壁や床が目に飛び込んできました。壁にかかった時計は地震のあった2:48で止まっていました。
 映画は惨状を映しながらも、聴覚障害者が当事者同士で安否の確認や問題の解決にむけて助け合っていこうとする姿や、この映画を通じて被災地の聴覚障害者にメッセージを伝える全国の聴覚障害者を映し出し、映画のタイトルどおり被災地の聴覚障害者との「心の架け橋」がつくられていくことを期待して終わりました。
 この映画の魅力は、なんといっても聴覚障害当事者の監督が自ら取材し、インタビューすることで、被災地の聴覚障害者の心をやわらげることができるだけでなく、聞こえるものにはわからないコミュニケーションの現場が映し出されることにあります。
 通常でもそのことに感動しますが、震災というとてつもなく悲しい現実に直面する中での出会いは、取材する者と取材される者という関係だけでない「友情」がこの映画を通してどんどん生まれていくことにより深い感動を呼び起こすのでした。
 第2部のシンポジウムでは、今村彩子さんが生まれつきのろう者で、家族とテレビを見て楽しむことができませんでしたが、お父さんがレンタルビデオ店で「E.T」や「ロッキー」などの洋画を借りてきてくれて、映像と一緒に内容がわかることが、とてもうれしかったというお話をされました。そして、自分も映画監督になって、聴覚障害者に限らず、多くのひとに元気や勇気を分けてあげられるような映画を作りたいと思ったということでした。
もうひとりのシンポジストの古井正代さんは古くから主に関西の障害者運動を牽引してきた方で、今回福島県の被災地障がい者支援センターを応援するために福島県に行かれ、そこで感じられたことをお話されました。
 被災地では、地域であたりまえに障害者が暮らすことが危機に瀕しています。そのなかでも福島の場合は、原発被災が与える人災で、のっぴきならない方向へ進んでいます。
 2回目の訪問で郡山の避難所に行った時、ひとりの医師から話を聞きました。この医師はもともと原発に隣接する町で開業医をしていたそうです。震災後、彼は酸素ボンベを命綱として暮らす人々を何人も看取ったとのことでした。医療機器が不足する状況において、ただ死を待つことしかできない人々と時間を過したそうです。彼はもう医療機器の不足から人々が命を落とすことがないようにしたいと、現在担当する福祉避難所では、要介護者を全て医療機関の整っている近隣市町村の施設に送る取り組みを始めました。そのような状況で、現在避難所には介助の必要な障害者・高齢者がほとんどいない状態です。
 この医師の思いがわからないでもありません。しかし、あえて指摘させてもらうならば、避難所に来てから施設に移送される過程において、現状では障害者の決定権が入り込む余地はないと予想されます。わたしたち障害者は、30年以上障害者の運動をしてきて、脱施設化に向けて運動してきました。
今日被災地では障害者の置かれている状況はどうでしょうか。このような災害が起こるたびに人権も何もない状況に置かれることになってしまいます。
 今、とくに福島ということで、差別がいっぱい起こっています。障害者に限らず、福島ということで避難してきたひとに「放射能がうつる」とか、「来るな」とかあからさまに言われるそうです。
わたしたちは福島県を差別するようなことにしてはいけません。
 福島の問題はわたしたちの問題であり、障害者運動にとってきわめて大切な問題を示していることを知ってほしいと思います。
 今後どうあるべきか、課題についての論議では福祉避難所として聴覚障害者だけの避難所が必要であると今村さんも、映画の中で被災地の聴覚障害者も、箕面の聴覚障害者も口をそろえて話されました。
一方で古井さんは日頃の町をバリアフリーにし、聴覚障害者も視覚障害者も、だれもが当たり前に暮らせる街づくりをすれば、いざというときもバリアフリーとなると話されました。
 福祉避難所をつくるべきか否か、福祉避難所はどんな避難所なのか、これはわたしたちの中でも論議がわかれるところでしょう。
 阪神淡路大震災以後いくつかの災害を経験したにもかかわらず、避難所が劣悪な環境しか用意できないだけでなく、非常時だからがまんすることを被災者に求めることが多々ある現実があります。その劣悪な環境を変えるプロセスで、避難所のバリアフリー他、手話通訳者の配置、さまざまな障害者に対応できる避難所にしていく基本的な考え方があれば、特別に福祉避難所を用意するのではなく、どこでもさまざまなニーズに対応できる福祉対応の避難所が実現することになります。
 ただ、それを目標としつつもそこにいたるまでまだまだ長い年月を必要とするなら、そしてもしかするとその目標自体が幻想と化してしまうほど、差別のない社会の実現が困難なら、特別なニーズを持つ人々のための福祉避難所が必要になり、その整備を強く呼び掛けることになるのでしょう。
 この論議は、わたしたちがどんな社会を望むのかという、被災地にかかわらず日本社会全体の課題から浮かび上がる論議だと思いました。
 わたしたちの活動の中でも、なかなか情報が入りにくい聴覚障害者の被災情報など貴重な記録を映像化した今村彩子さんに敬意を表すとともに、古井さんの基本的な人権を視点にしたするどい報告と提案に賛同しました。
 この企画をされ、準備をされた方々の努力が報われた、とてもいい集まりになったことを報告させていただきました。
                                             細谷常彦

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