ヒデの救援レポート5月26日

ヒデの救援レポート5月26日:19
 被災障害者支援ゆめ風基金に寄せられた救援金、金額は、5月19日までに、144275799円。5月21日までに、144589578円。5月23日までに、145331682円です。これまでに支援した団体、個人への金額。
 福島県の障害者自立生活支援センター、福祉のまちづくりの会の事務所土止め塀の補修に100万円。このメールは、東北関東大震災被災障害者救援に関する、被災障害者支援ゆめ風基金副代表理事、障害者問題総合誌:そよ風のように街に出よう:編集長、バクバクの会事務局員でもある河野秀忠が感じた、各方面の被災障害者救援活動のあれこれの個人的レポートです。広く知ってもらいたいので、転送自由。自由にお使いください。
 息の長い救援が求められています。長期戦です。救援金の送り先は、郵便振替口座:00980-7-40043:ゆめ風基金です。;とうほく;と書いてください。
東日本大震災救援活動の中のボクの風景
 大阪でも、大震災被災地支援の若者による、音楽祭が港区舞洲で行われ、ゆめ風基金も呼びかけに応えて、パネルなどを出展しましたが、その後、主催者の方々が、ゆめ風基金事務所においでになって、報告された中に、東京から参加したミュージシャンの言動がありました。それによると、当日は快晴で、参加者は、3000人を超えて、みんなノリノリで盛り上げ、被災地支援の空気に満ち溢れたとのこと。ただ、東京から来たミュージシャンだけが、常に、悲痛な顔で、悲痛なトークしかしないので、会場の空気が少し沈んだと。東京の人たちは、放射能汚染に怯えていると、強調されても、被災地は、もっと大変な目に合ってるのに、東京の話しばかりをされてもなぁと、その方々は、小さくため息をつかれました。そして、福島県の原発で、最も恩恵を受けているのは、東京じゃないのか。こんな時こそ、東京都民は、総力を上げて、福島県を支援すべきだとも。うーんですね。
 ところで、牧口ゆめ風基金代表理事と、ボクの2人が、5月31日、6月1日の2日間、東京に行くことになりました。いつもの凸凹コンビです。31日は、NHK文化厚生事業団の会議で、牧口さんの役回りは、理事。ボクは、その介護者役。(笑)1日は、被災障害者救援本部とうきょうの会議ですね。この日は、ふたりとも、ゆめ風基金代表としてです。会議内容については、後日レポートします。3月にも、同じパターンで、東京に出向いたのですが、その時は、大震災直後ということもあって、街の雰囲気も暗く、ネオンは、ことごとく消されて、街行く人影も、いつもの半分位になっていましたね。飲食店も午後8時には、閉店していましたし、街行く人たちが、全員、マスクをしていたのが、印象的でした。確かに、人々の佇まいと、街の空気には、怯えの空気が感じられました。大震災後2ケ月を超え、どのような街の表情になっているのか、へろへろと出かけて、見届けて参ります。それにしても、疲れることではあります。救援活動も、いろいろ、様々です。
 ふくしま支援センターニュースナンバー3からの抜粋です。調査累計。障害者支援事業所85ケ所、避難所312ケ所、個別相談対応108件、電話相談56件。支援センターふくしま白石代表挨拶から。011年3月11日マグネチュード9、0という未曽有の大震災が東北、関東を襲いました。その地震から引き起こされた大津波によって岩手、宮城、福島の沿岸部はことごとく壊滅されて、27000人以上の死者と行方不明者を出しました。それに伴い、福島県では、大津波の影響で、第一原子力発電所が事故を起こし、目に見えない放射線が福島県内の人、農作物、家畜、自然を汚染しています。原子力発電所の事故の終息がいつになるやら予想がつかない状況なので、福島県の復興はまだまだスタートが切れないでいます。
 支援センターふくしまでは多くのボランティアさんたちの力を借りて福島県内の大部分の避難所を回って、障害をお持ちの方の安否確認と困りごとを聞いたり、ニーズ調査を行ってきました。そして、障害者の避難所での過酷な生活の全容が浮き彫りになりました。避難所の床が堅くて横になれなくて車イスのまま2週間も我慢している人、お風呂に1ケ月も入れないでいる人、避難所の駐車場の車の中で寝起きしている人、自閉症のため集団での生活が難しくて、避難所を転々としている人、:この世の終わりが来る:と言って恐怖している精神障害の人等、様々な障害者が避難所では苦労されていました。
 私たちは、200ケ所近くの避難所を見て歩きましたが、障害者らしき人は100名程度と、割合的には少ない数でした。ことに身体的に重度の障害者はあまり見当たりませんでした。避難所の生活が苛酷であろうことが分かっているので、知人や親戚の家に避難したり、または在宅で不便な生活に耐えているのではないかと想像しています。
 南相馬市のとある事業所では、津波と原発の恐怖から利用者である障害者が避難してしまったので、もう閉じようと覚悟していたら、避難していた利用者が戻って:避難生活に疲れ果てて:きていて、ぜひ事業所を続けてほしいとお願いされて、現在その事業所に20名もの利用者が通ってきています。
 その事業所には若い職員さんがいましたが、原発事故の関係から辞めてしまいました。そのような状況にも関わらず、事業所を運営している理事長をはじめ職員さんの心に動かされて、南相馬市の事業所に対して、支援センターふくしまでは支援物資とボランティアを送り込む支援活動を続けています。そして、これも原発の関係から南相馬市の計画避難に指定された地区の障害者の安否の確認と避難意向の調査を前述した事業所の理事長さんに、南相馬市から直々にお願いされ、私たち支援センターの応援部隊に南相馬市に入っていただいて、南相馬市内に散らばっている障害者の家を回って訪問活動を展開しています。
 今後の支援センターふくしまの活動としては、郡山に避難所兼サロンを設置して、南相馬市や川俣町、川内村、葛尾村、その他の地域から避難してきた被災障害者を受け入れる体制を確立していきます。それから、障害者用のバリアフリーの仮設住宅を2戸ばかり設置していこうと考えていますが、郡山は放射線量がかなり高いので、可能なら会津若松市に設けていきたいと考慮しているところです。さらに、全国各地の障害者団体と連携して、全国の避難所に被災障害者を受け入れる準備をしているところです。
 支援センターふくしまは、まだ事務局体制がしっかりしていないので、事務局員や事務作業のボランティアが少なく、データの整理がなかなかできていない状況です。後手後手になっていますが、今、郡山養護学校の卒業生名簿のデータ整理に着手していて、データが打ち終わった段階で、養護学校の同窓会役員の方と卒業生の名簿データを確認しあってから、福島県の浜通りと中通りに住んでいる卒業生の家を一軒一軒訪問していく活動を展開していきます。
 福島県は、何回も述べますが、原発事故の問題で行政も民間も右往左往しています。私たちもこのまま郡山に居続けていいものやら、判断に苦慮しています。私はもう歳なので放射線はあまり問題にはならないでしょうが、若い人たちや子供さんにとっては大変な問題になると警鐘を鳴らしている方たちもいます。原発からどんどん放射線が漏れだしている期間が長く続くのであれば、郡山の若者たちを遠いところに避難させることも考えていかなくなるかも知れません。
 このような福島県の状況ですが、いつも笑いを絶やさずに:いつも笑い顔でいると免疫力が上がります。免疫力がアップすると、放射線で壊れた細胞の遺伝子を修復するとのこと:、きっといつかは福島の復興をやり遂げるという強い意志で支援センターふくしまの活動を続けていく所存ですので、よろしくお願いいたします。白石清春
 5月20日に、市民活動交流センターひがしよどがわで行われた、ゆめ風基金理事の八幡さんの被災現地活動報告集会には、約50名もの参加者がありました。報告では、全体的な救援状況は、初期から、次の段階に移ったような感じ。北に行けばいくほど、福祉力が弱い。ヘルパー派遣事業所も少なく、津波に流されて、全く無いところもある。元々、ヘルパーを利用する習慣が少ない。安否確認もまだまだで、支援と調査の掛け持ちで、人手が不足して、苦しい。
 東北3県の人びとは、支援センターの申し出に対して、びっくりする程に遠慮深い。このような状況なので、大阪からのボランティア派遣については、大阪で一定の人数を確保するために、大阪でコーデネイトをしてほしい。などなど。集会参加者の中には、すでに被災現地に入って支援活動をされてきた人が、10名もおられ、それぞれに、体験を報告していただきました。中には、安否確認調査をしていると、そんなことはしないでくれと言われて、辛い思いをしたとの報告もありました。このような報告集会は、これからも続けていきます。
 ゆめ風基金事務所には、毎日、新聞、メディアの人たちが、おいでになります。各テーマごとに、橘高事務局長を先頭に、忙しい合間をぬって、対応にバタバタしています。いつも、写真を撮るので、会議をしているポーズをと、注文され、広くゆめ風基金のことを知ってもらいたいので、渋々、苦笑しながら、それらしいポーズを演出しとおりますがね。(笑)以上

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