講演録など
2012年 10月 三重県松阪市
どうも、みなさんこんばんは。紹介をいただきました、ゆめ風基金の八幡と申します。今日は、えらい雨の中、まして、夜にみなさん集まっていただい てありがとうございます。
私のほうは、先ほど紹介いただきましたように、今はゆめ風基金の理事ということで、東北の方へ行っておりますが、もともとは、1995年の阪神淡 路大震災があって、その直後から、もうずっと阪神間の障がい者支援にあたっていたんです。
あの時も、高速道路が倒れたり、ビルの1階が崩れたり、そうとう被害が大きくてですね。半年やそこら支援したくらいではどうしようもないというこ とがありまして。もう少し、5年、10年、長期の支援ができる団体をきちっと作ろうという風な声があがりましてですね。1月に震災があって、その支援を続 けていく中、5月にようやくゆめ風基金を立ち上げたような状態です。
その時に、すでに全国各地から、お金や、物や、人的支援をいろいろ受けていましたので、これからもそういう災害というのはあってはいけないという ものの、もし何かあった時には、その恩返しができるようなことはしていこうということは、考えておりました。
ただ、最近、この5年間くらい、その恩返しがあまりにでかくて。とどのつまりが、昨年の地震と津波と原発と、というのは、このような大きな災害に 人生の中で2度も出会うということは、私もぜんぜん思っていませんでした。
今回はそういう形で、阪神淡路の経験を活かしながら直接支援にあたっていこうということで。私のほうも、新潟の時の地震くらいだったら3日くらい でだいたい駆けつけることはできたんですけども、今回はガソリンが無いというのと、ゆめ風基金は大阪にあるんですけども、大阪から東北へ車で駆けつけるに は、ちょっと一人では荷が重過ぎるということもありまして。実際に入り込んだのは、3月11日に地震が発生して、17日に大阪を出発し、18日の朝に福島 に入り込んでいます。
その時は、医療的な物資、特に、人工呼吸器をつけた人とか、痰の吸引が必要とか、そういう風なことがあって、駆けつけて、福島の方で障がい者団体 の方に集まっていただいて。その後ですね、福島の支援はなんとかなりそうだということで、今度は宮城の方へ行きまして。宮城の方にボランティアさんが集ま るような所をある程度確保しながら、いったんは大阪に帰って、3月の30日に再度ボランティアとともに入り込みました。
昨年はずっとほぼ、東北暮らしみたいなかたちで。今もあんまり変わっていないんですけども、用事があれば大阪に戻ってきますけども、用事がだいた い無くなるとまた東北に戻るというような、そういうかたちでずっと走り回っているような生活をしております。
まずはじめに、今日は人権問題ということでいろいろお話をさせていただくんですけども。改めて、みなさんよくご存知の部分もあるかもしれません し、ま た、障がい者の現状がどうなのかということで、最初に写真を見たほうがわかりやすいかなということで、写真だけ、レジュメと別に用意させていただいてま す。
これをご覧ください。報道でもありましたけども、津波の被害というのは、今回僕たちの支援としては初めてで。のきなみ家が無い状態というのはも う、阪神淡路と比べても想像を絶する世界。それが、岩手から…青森くらいからですかね、福島くらいまでずっと続いているということで。やはり広大な敷地が 全部やられている、平地部分が全部やられているというのは、本当にテレビで見る以上に、現地へ入ってみると、心の痛むものがたくさんありました。
これもよく報道で出ていたように、船そのものが建物の上に行くような、そうとう津波の大きさを表しているんですけども。ただ、家が残っていると いっても、今回多くの方が瓦礫処理されたと思いますけども、1階部分は泥だらけで使い物にならないような、そういうかたちのものがずいぶんあります。役所 にしても、陸前高田とか、南三陸とか大槌とかずいぶんやられたところありますし、肝心要の行政までもが被災してしまったというふうなことですね。
この写真ですね、一番、皆さんから見て左の下のほうに
車椅子の方がいらっしゃるんですけども、仙台で私たちと関係があります「たすけっと」というグルー
プなんですけども。
そこの人たち、障がい者8人くらいがその日は会議をしておりまして。グラグラっときて、とにかくまぁ、入り口の玄関部分の硝子は割れるわ、蛍光灯 は落ちてくるわ、机とか椅子とかはぐちゃぐちゃになるということで。これではどうしようもないということで、まず避難が必要だ。そこで体育館に駆けつけた ときの写真がこれなんですが、すでに、外見てもわかるように、明るいうちの段階で、これだけ体育館に人が集まってしまっている。あの日はですね、雪が降る 寒い日でして、このままではとにかく身動きがとれそうもない。ここで暮らすというのはちょっと無理だということで、この車椅子の、女性の方なんですけど実 は、ここでの避難をいったんあきらめて、さっき会議をしていたぐちゃぐちゃな事務所にみんな舞い戻ってくるようになりました。結局、ブルーシートで硝子の 割れたところを塞いで、やるんですけども、布団とかを持ってきているわけではないので、初日に関しては、みんなこういう風なかたちで、車椅子の状態で一晩 を明かしたと聞いております。
これが実際に、そこに集まったメンバーの障がい者のかたのおうちの写真なんですけども。家が残っているといっても、津波は津波で、家が無くなって大変な
ん
ですが、地震のほうもありますので、残っている家だってこういう風に室内がぐちゃぐちゃになっている。あるいは、屋根瓦がずれて雨漏りがするような状態と
いうことで、家にはとても住めないなぁということで、避難生活が長引くかたちになります。
これは、そこ自身は物資がわりと1週間も経たないうちに来ているというか。ゆめ風基金もそうですが、他にも名古屋のグループとか全国のいろんなネット
ワークと繋がっているところに関しては、わりと早くにこういう風な物資が行っているんです。ただ、行かないところは、普通は3日間くらいは絶対備蓄が必要
と言いつつもですね、今回道路状況が悪かったために、1週間たっても、10日たってもぜんぜん物資が来なかった地域もたくさんあります。
これはですね、実際に避難所で避難をされた、けっこう
この方も痰の吸引とかが必要な方なんですが、ほとんどの障がい者が避難所で支援できないという、こ
のほうが圧倒的に多い中で、地域の学校で、彼女くらい重度な人であってもまだ十分過ごせたという、少ない方の事例なんですけども。ただ、彼女の場合は、こ
の時中学校3年生で、地域の学校にずっと通っていました。周りの人たちと非常に顔の繋がりがあったので、親子ともども、学校の先生や地域の人たちと繋がり
があったので、避難所で暮らせたという、数少ない事例ではあります。
一方で、これは、僕たちがいま通院とか買い物へ送迎している状態で、中にいらっしゃるのがリウマチの障がいの方なんですけれども。彼女のほうは、地域の
避難所に避難したけども、「あんたのような障がい者がここへ来ても、うちでは支援が難しい。あなたの来るところじゃない」と放り出されたと。たまたま追い
出されたときに、保健所の人たち、結構保健師さんが全国からも入り込んでまして。その人たちと出会えたときだったので、そちらのほうに避難をして、助かっ
たという話でした。
彼女の家自身は流されていなかったので、その後片付けをして、なんとか住めたんですけども。やはり地域からそういう風なかたちで入っても追い出さ れてしまった障がい者、あるいは、入り込んだけども、周りから本当に辛い事を言われて、教室の一つを借りても、そこから戸を閉めたままぜんぜん出る事がで きなかったという障がい者の方もたくさんいらっしゃいます。
これは仮設住宅の写真ですけども、当初は、けっこう
階段ばかりの仮設住宅でした。途中からだいたい1割の仮設住宅をスロープにしようということで、でき
ておりますけども、ぜんぜん障がい者が入れないような仮設住宅がやっぱりできてしまう。
ここは非常にめずらしくて、全部がスロープで繋がっているんですけど、たいていの場合は、一軒一軒個別にスロープを作っていることのほうが多いです。た
だですね、歩道がじゃり道というように実際車椅子を押して入れない。入り口にスロープがあっても、中はホテルのユニットバスのような状態ですから、結局、
風呂へ行く間口も狭ければ、段差もあるし、風呂の高さもですね、よっこら
しょと乗り越えるのに、障がい者にはとても難しい状態。湯船から離れて洗い場とい
うのがトイレと一緒になってますから、そんなに洗い場も広くないような状態で、障がい者自身は、仮設住宅に入っても風呂にも入れないよっていうこともよく
ありました。
これがですね、さっき言ったように、じゃり道ということで、電動車椅子でもそうとうきついですから。けっこう東北のかた、老々介護といいますか、高齢者
のかたの介護が多いんですけども、前へ進む事はできないし、雨が降るとそうとうぬかるみというかね、水溜りができてましてね。じゃりなので、泥ではないで
すけど、水溜りはそうとう大きなものができてました。2、3ヶ月してからようやく簡易舗装というかたちで舗装が進んだようなかたちになります。
まだこれ雪の少ないほうなんですが、東北というとこ
で、私たちが事務所かまえたところなんかも、一晩ですぐ雪が積もっちゃって、最初の頃は沿岸部に事務
所を作ろうと思っても、ぜんぜん借りられるような物件ありませんから、仙台であるとか、盛岡であるとか、郡山であるとか、内陸部のほうに事務所を作ったん
ですが、片道100キロ以上沿岸までかかりますので、1日に300キロくらい走ったことはざらにありましたね。ですから、10日もすると3000キロでオ
イル交換が必要な、とてもじゃないけど、1ヶ月どころか、10日くらいでオイル交換しなければいけないような、そんな状態でみんな走っていました。
突如これ、急に明るいような感じの写真になるんです
けども。これは宮城県の亘理というところで事務所をオープンしたんですが、ここに居る人たちは、一
番宮城県で福島に近い部分、山元町というところで、老人のほうのデイサービスをやっていた方々です。そのデイサービスのほうは全部流されちゃって、みんな
仕事が無くなってる。ここに集まっているメンバーも、4人くらいは自宅も流されて、避難所で暮らしているような状態だったんです。
4月の終わりに、親戚宅へ避難したという障がい者の親子が、最初の1週間目くらいは良かったんですが、知的障がい者のお子さんに対して、あなたの しつけが悪いのどうの、ということを相当言われたみたいで、ノイローゼぎみになっているというような情報がありました。私たちは、ボランティアの部屋空け てもいいかなと思って準備していたんですが、その翌日には結果的には精神病院に入院するかたちになっちゃって、間に合わなかったんです。
どうも、避難所暮らし、あるいは親戚宅も含めてですね、相当厳しくまいっている人たちがいるので、駆け込み寺みたいなの作ろう、必要だなというこ とで、この宮城県の南のほうに、駆け込み寺みたいな宿舎を作る事にしました。だけどやっぱり地元の人に運営してもらうほうがいいだろうということで、仕事 が無くて困っているということも聞いたので、「ささえあい山本」という老人デイサービスやってるグループの方たち、だいたい約3人分くらいの人件費を出 す。まぁ全員の分は出せないけども、それでここを運営していただけないかとお願いしました。またここを使ってですね、ここをきっかけに、老人デイサービス のほうの復活もしてもらったらいいですよ、ということで運営をお任せしてですね。今は老人デイサービスのほうも無事順調に動いておりまして、障がい者支援 のほうもやはり、この方たちにやっていただいているようなことが多いです。
これは先ほど石巻市で避難してた、さっき地域の学校
に行ったという生徒さんとお母さんですね。今は高校1年生で、僕らが行った時はかなりむすっとしてま
したけど、1時間くらい経つとこんな風に笑顔も出てきましたけども。
もう一つ、東北の特徴としてですね、なかなか障がい者が行政に対して声をあげる、ヘルパーとかそういういろんなサービスが非常に少ないし、通所できる部
分というのが少なくて、入所施設が多いようなところなんですが、声をあげていくというのが、障がい者に限らず健常者も含めて、東北の地域っていうのはなん
か少ないです。
そういうこともあって、県外、県内の障が い者の人たちがいろいろ交流しながら、もっともっと、復興のまちづくりに向けてバリアフリーを取り入れて もらおうというような、そういう声をあげていこうということで、今年の8月の19日から8月の31日まで、最後の日はちょっと歩くのじゃなくて、盛岡市で の要望ですね、だいたい12日間ほどかけて、岩手県の宮古市田老町という、北のほうにあるスーパー堤防のあったところから、今度は岩手県の一番南の端、陸 前高田市にある、奇跡の一本松という、もともと松がたくさんあって、津波で流されて一本だけ残ったというところまで、150キロの道のりを12日間かけ て、みんなで歩こうということでやったイベントです。
途中にですね、こういう風に、宮古市の市長さんに要望書を出したり、あるいは、三陸鉄道の社長さんに要望書を出したりしながら、いろいろみんなで 歩いて行きました。最後、陸前高田へ行くときは、100人近い人間がいっしょに歩いてくれるようなかたちで、まぁこういうかたちで奇跡の一本松までたどり 着いたというようなイベントなんですけど。
みんなやっぱりびっくりするのが、大阪の感じで言うと、たぶんヘルパーの派遣時間なんか半分以下だと思うと。そんな感じでサービスそのものを普段 から受けていないということが、実を言うと、地震のときも、いろいろ支障が出てくるというか、やっぱり日常の福祉基盤というのがどうあるかによって、災害 のとき、より一層深刻な問題も起きてくるというようなことです。
これは新聞記事の切り抜きなんですけれども、当
初ですね、船があったようなところで、道もぜんぜんうまく通ってないところが多いし、非常に悲惨な光景
だったところが、今年は、とにかく道は完全に通ったし、草はいっぱい生えてて、一見すると畑でもあるのかと思うんですが、よく見ると、土台部分なんかがと
ころどころにいろいろ残っていると。地元の人から言わすと、なにも、去年の8月から特に今年にかけて1年ちょっと、災害が忘れられているようなかたちには
なっているけど、復興そのものは全く進んでいない。なんか風化しちゃうようなそんな感じで嫌だけども。ただ、草が生えてくれたおかげで、道を通るときに心
の痛みだけは消えたと、いうようなことをおっっしゃっています。
まぁ、写真のほうはこれくらいにしてですね、私が今日話をしますのは、障がい者支援を通じて、改めて防災のあり方とか地域のコミュニティ作りをどう考え
ていくかという話をしたいと思っています。だいたい、人権問題で一番ひどいのは、やっぱり人の命がなくなるっていうか、そういうことでして、生命を脅かさ
れるというのは、一番人権侵害の事象です。
実際に、たとえば、こちらの方で、私は現地へ行ったよという人、どれくらいいますかね。ちょっと手を挙げて。では、その中で、障がい者と出会った という人いますかね。あ、お一人くらいですね。
今年1月に、全国の福祉の方たちを中心とする防災リーダー研修の講師をやったんですけども、その中で、主に社会福祉協議会の人たちが中心で、今と は全く違って、百二、三十人くらい、2回に分けてですけども、手が挙がったんですね。その時、障がい者の人に出会った人って言ったら、手挙がったの二人だ けだったんですね。
社会福祉協議会の人を中心とするところでさえ、障がい者の人と出会ったことっていうのはほとんどない。多分いろんなところからボランティアバスっ ていうのが出たと思いますけども、がれき、あるいは草引き、というようなところが中心であって、障がい者支援をやってきたというふうな人はほとんどいな かったと思うんです。
がれきもがれきで大事な話ではあるんですけども、なにも、がれきだけが本来しなければいけない仕事のはずではなかったのに、あまり多様なボラン ティアが入らない。そういう意味では今回、阪神淡路大震災とこの東北の東日本大震災とを比べると、非常に違っているものがいくつかありますね。
ボランティア一つにしても、阪神淡路大震災のときのほうが、わりと自由にみなさんやっていたというか、入り込んだというか。今回、統制がとれすぎている
というか、ガソリンが無いから現地に入ってはいけませんよという形で、ボランティアはあまり入らないでくださいということがありました。大阪府の社会福祉
協議会でさえ、実を言いますと、大阪府下の市町村社協に出した指示は、「大阪府社協としてまず先遣隊を行ってから追って指示をしますので、当面は各市町村
社協が独自に入るのはやめてください。」というような指示が出て、実際に大阪府社会福祉協議会が現地に最初に入り込んだのが、たしか3月31日だったと思
います。実を言いますと、私は大阪の箕面というところに住んでいるんですけども、箕面市の社協は、その大阪府社協の指示を無視して、翌日から物資を集めだ
して、3日目にはトラックで現地へ行って、物資を渡しているんですよね。そういうことをしますと、今度隣の池田市というところの社協さんから、「なんであ
なたたちは大阪府社会福祉協議会の指令を無視するんだ。」と。「箕面市さんだけやってると、うちの市は社会福祉協議会がさぼっているように見えるから、ス
タンドプレーはやめてくれ。」というような話もあったようです。
ただ実際に、被災者の側からいうと、11日に災害があって、二十日目に来てくれるのと、三日目に来てくれるのだったら、三日目に来てくれるほうが 絶対うれしいわけで、こういうふうなことを考えても、ある程度ガソリン不足という情報はあっていいと思いますけども、だからと言って、それぞれが、そのこ とをどう受け止めてどういうふうにするのか? これは無理だと思ったら、見るだけで帰ってきたって、僕は3日目4日目に行く価値があると思うんですね。
僕も実際に、いろんな人に言ってなんとか運転手つかまえて駆けつけられたの1週間目でしたけども、いっしょに行ってくれる人があったら、僕もたぶ ん3日目でも入ってたと思います。ガソリンが無いということの情報があれば、ガソリン積んでいけばいいだけの話です。あんまり大きな声では言えませんが、 最初はトラックにガソリンを10缶くらい積んで行ったと思います。帰ってくるのに1缶は必要ですから。やっぱり携行缶にガソリン入れたものをある程度持っ ていかないと走れなくなる。。
こちらはどうか知りませんが、大阪市だとだいたいヘルパーさんは電車を乗り継げばある程度のところに行けるんですけども、福島とか宮城とか岩手とかにな
りますと、絶対車でないと行けないというか。今僕は岩手県の宮古市というところで活動しているんですけども、よく言う保健福祉圏域というのがあるんです
ね。ま、都会だと人口30万人くらいでだいたい保健福祉圏域というのができるので、人口の多いところだと、1市で保健福祉圏域ができちゃう。私の住んでい
るところは人口12万くらいですので、お隣の市と、そのまたお隣の町と、というかたちで1市2町くらいで保健福祉圏域というのがあるんですけども。実は宮
古というところも人口がすくないですから、宮古市というところと、隣の山田町と、その上の田野畑村と、というかたちで1市3町くらいで保健福祉圏域を作る
んですが、実はこの面積が大阪府より広いんですよ。たった一つの保健福祉圏域なのに、大阪府の面積を超える広さ。端から端まで相当かかるし、僕らも今実際
に通院とか買い物を支援していますけども、片道ほんとに40キロとかね、行くだけで1時間くらいかかるようなことはざらにあるような、そういう支援の仕組
みですので、ガソリンがないと、とても動けない。最初に福島行ったときも、やはりガソリンというのが一番、医療物資というのもそうですけど、ありがたがら
れた。そういうことがあります。
僕は、阪神淡路大震災を経験した中で、実は、この災害っていうのを4期に分けて活動するっていうふうなことを最初から思っていました。いわゆる、緊急的
に避難所で生活をしているとき、というのが第1期。それから、避難所から仮設住宅へ移り住む、だいたい5月から8月くらいを第2期。第3期は仮設住宅に移
り住んでから震災1年目の頃。震災があって1年からそれ以降を第4期というかたちです。ただ、普通は2年で復興住宅ができるという話があるんですけども、
阪神淡路大震災のときも、できていませんよね。今回にいたってはぜんぜん、復興住宅ができる様子がいまだにぜんぜんないというか。高台移転という話がある
んですけども、山の方を削って整備して、そこに家を建てるっていうのは、まだ3年4年かかるような、そういう状態で、なんか復興住宅はこんなに建たないの
かなと思ってびっくりしてます。
土地が無いということで、仕方が無いという。仙台のように、一部流されたけども平地が多いようなそういうところでは、ある程度復興住宅の話が今進 んでいってますけども、沿岸部のほとんどの部分は、リアス式海岸と言われるように、非常に平地が少なくて、あとは山ばっかりのところですので、そういうこ とができていないと。
少し話を戻しますが、障がい者支援で言いますと、まず最初はですね、避難所を回って物資を配って行くということをするんですけども、ただ、阪神淡路大震
災のときから、避難所に障がい者がいたためしがないんですね。というのが、家が半壊とかね、場合によっては全壊判定と言われても、屋根さえ残っていれば、
やっぱり家のほうがいいやと。体育館に押し込まれても、とても生活できない。トイレのひとつもできない、ということで、非常に敬遠する場合が多いです。ま
して、一日や二日入っても、三日目でようやく電話が通じたということになれば、先ほどの方じゃないですけど、親戚と連絡をつけたり、知人、友人、いろいろ
な方々に連絡をつけて、そちらのほうに避難するとか。あるいは、やっぱり東北は、先ほど言ったように、入所施設がめちゃめちゃ多いんですよね。以前、宮城
の知事が、浅野知事さんという方が知事やってまして、その方が、コロニー解体を唱えました。コロニーって居住型施設のかたまりみたいなところなんですけど
も、やっぱり、そんなに障がい者ばかり集めてはいけない。もっと町中に障がい者が出るほうがいいですよということで、コロニー解体を叫んでいましたけど
も、その方が辞められたときに、完全にコロニーの看板は元に戻って、何事も無かったかのように、そのまま進んでいる。それもそのはずで、地域っていっても
在宅福祉の資源がないですから、結局は入所施設頼みになってしまうような状態。
岩手県の障がい者支援の代表者は今川幸子さんて、先天性の障がい者の方なんですが、今彼女まだ30代なんですけども、彼女ですら、住んでたのは大 船渡というところなんですけど、近くに支援学校すら無い。まぁ、昔で言う養護学校というところなんですけども。ですから、盛岡の支援学校に行って、小・ 中・高と、寮生活をされていて、土、日だけ自宅に戻るというような、そういうふうな人たちが圧倒的に多いです。だから、高校を卒業してもですね、地域で生 きるという選択肢があまりない。入所施設に行ってしまうのか、本人が相当がんばるか、親ががんばるか、みたいなかたちで、福祉サービスを受けて地域に生き ようなんていう発想そのものが元々無いわけです。
沿岸部で言うとだいたいそうですね、1市1町に必ず1社会福祉法人が、どでかいのがあるんですね。陸前高田だと愛育会とか、石巻だと祥心会とか、 何市と言えばなになに会というのが、1対1で付きまとうくらいにあります。それはやっぱり社会資源が無い時代に、行政がですね、最初にできた社会福祉法人 になんでもかんでもお願いしてしまうから、そこしかない。大阪だと、ヘルパー派遣ひとつとっても、いろんなNPO団体が、中には障がい者自身がですね、ヘ ルパー派遣事業者の事業主になっちゃったなんてところも今多いんですけども。そういうのがなくて、グループホーム5つあったら5つとも同じ社会福祉法人が 経営している。ある意味で言うと、1つのグループホームが流されちゃっても別のグループホームで全部受入ができるっていうことがあるんですけども、実際に 行くところを選択することができないです。。あるお母さんがおっしゃっていたのは、そこのサービスを受けたくないということで、岩手県のほうに言いに行っ たと。で、言いに行ったら、本来は苦情処理係なんですけども、なんか、社会福祉法人のその行いを正してくれるんだと思ったら、「あなたはそこの社会福祉法 人のサービスを受けたいんですか、受けたくないんですか」と。「受けたいんだったら、いろいろ不平不満を言っているよりは、おとなしくそのサービスを受け 続けたほうがいいですよ」と。これが、県の行政ということですからね。もうどうしようもないくらい選択肢が無いっていうのが、なかなか非常に不幸なことが 起こっていると。
陸前高田では、震災前から視覚障害者の方が、ヘルパー派遣を1時間しか受けられないと。買い物行くのだけでも、そんなに近くに無いですから。買い 物行って、視覚障障がい者の方はいろいろ説明を受けてやらないと、何を買っていいかわからないので時間がかかるんですけども。そうすると行って帰って1時 間では無理ですから、結局「買い物に行くのにヘルパー使えないから、僕は散歩にしか使ってないよ」とか。そういうふうな状態があります。大阪だったら、そ んなこと聞いたらすぐに行政に文句を言いに行くんですけども、そういうふうに行政に文句を言う人もいないという状況です。ですから、ヘルパー派遣の事業所 は、たいてい社会福祉協議会だけ。あるいは、ニチイ学館とか、民間の老人福祉をやっているところが、障がい者のこともたまにやっているよというような、そ ういうところだけで、いわゆる障がい者の方を専門にヘルパーを出すような事業所は一つも無いと。
そういうところで何が起きるかといいますと、逆に言えば避難所におられる方というのは、親戚もいない、普段福祉サービスとも繋がっていないとい う、一番大変な方が残ってらっしゃるわけで、けっこうお母さんも知的障がい者とか、一家3人、4人いるうちの2人、3人が障がい者とか、そういう方がたく さんいらっしゃるんですね。
僕たちが最初に行った時は、よく言われたのが、「へたに寝た子を起こしてくれるな」。つまり、福祉サービスが必要な人をどんどん見つけられたら、 地域で受けきれない、ということを言われたんですが、ゆめ風基金とか全国のネットワークでやろうというのは、1週間居て帰ろうという話じゃなくて、2年で も3年でも、必要があれば残ってしまうというか、そういうところですので、それは大丈夫です、と。地元でできるまで僕たちが支えますということで、そうい うところへ人を出していきます。やっているうちに、半年、1年経つとですね、そういうふうな形で、サービスが無い無いと言いつつも、なんとかデイサービス とか、そういうところに繋がりはするんですね。結局、お金がたくさん必要というような勘違いとか、誤解があって、サービス使っていないというのもあるの で、丁寧にいろいろ話していくと、ちょっとずつちょっとずつサービスと繋がっていくことがなんとかできるという話です。
ただその一方で、災害の時っていうのは、例えば、ある児童施設が、週そんなに通わない子どもたちが、毎日通うようになる。それも、朝から晩まで。 行くところが、学校もやってないし、ということで、もう職員が悲鳴をあげているという話があって。最初の間、こちらも2人ずつくらい人を出していたんです けども、これでは、避難所の障がい者がどれくらいいるか、調査すら進まないので、なんとかボランティアセンターのほうに人を出してもらえないかと言いに行 きました。ボランティアセンターのほうは、今はがれきで手一杯だから、障がい者のほうに人を回せないと。
「今みんな大変なので」とおっしゃるんですね。でも僕はもうカチンと来てしまって。みんな大変という「みんな」に、障がい者・高齢者が入ってない ですね。大多数の人が大変なので、少数の人は切り捨てて仕方がないのか、と。実を言いますと、新潟の地震のときとかにいろいろあって、全国社協の人とも話 してですね、新潟のときは、「今度災害が起きたら、社協さんと僕たちといっしょにうまくやっていきましょうね」という話をしたんですけど、結果的には障が い者・高齢者には目もくれないというか。ほかのNPO団体も、普段は要援護者支援のことでいっぱい講演回っていた団体が、実際にはぜんぜん要援護者支援し てないとか。そういうことがあって、ぜんぜん、障がい者支援をする団体というのがいないですね。これは、僕たちが実を言うとNPO法人のすきま産業みたい なもんなんで、すきまをやるというのがまず本来で。阪神淡路大震災のときは、ある程度社協さんが動いてくれた。それでもやっぱりさっき言ったようにすきま ができてくるので、そのすきまを埋めていくという作業だったのが、今回はまったくメインにならなければいけないような、そういう状況でした。今も国のほう は、例えば岩手県だと、5000万くらいかけて4、50人雇ってフォローアップというのをやっているんですが、何をやっているかって、50人くらい雇って いるうちの半分以上は内陸部に人雇って、相談支援をやっていると。相談支援ということは、実際には車を動かして送迎するわけでもないし、そういうことを やっていない。
来年は5億円かけて全国の社会福祉法人に呼びかけて緊急派遣体制を作るっていうんですけどね。ちょうど今問題になっていますよね。全国の今後のた めに5億使うんだったら、今被災地で実際に仮設住宅に暮らしてて、風呂もまともに入れてない人をどうするかって、被災地の問題に目を向けてほしいと思うの に、なかなか被災地のほうに直接関わってくれる人たちにお金が行かなくて、全部外側外側にお金が行ってしまうような。これは福祉も他の分野でもそうなんで すけども。困っているところになかなかお金が届かない仕組みだなぁという矛盾を感じながらやっています。
今回、実を言うと、障がい者の防災というのは、僕たちは、ゆめ風基金としては、これがあったからやってるわけじゃなくて、ちょうど阪神淡路大震災 から10年が経ったときに、節目だから、あのときも新潟の地震とかあったりしてね。本当に、災害があってから駆けつけるのでいいのだろうかと。それだと、 結局は避難所に障がい者が行けなくて、いろいろ見つけることもできなくて困るっていうことがありましたから。そうじゃなくて、普段から障がい者が避難所に 駆けつけられるためにはどうしたらいいのかとか、災害のときにできるだけ痛手を被らないようにどうしたらいいかという防災をやっていこう、そういうことを 打ち立てました。今日はちょっとね、「障害者市民防災提言集」というのを持ってきてなくて、その後に作った「こんなんええんや」って言う、障がい者高齢者 の実際の要援護者支援の取り組み事例集を、持ってきているんですけども。何をやっていくかっていうと、結局は、災害のときに障がい者高齢者だけが助かる仕 組みなんてありえないんですね。少なくとも、障がいを持たない、高齢でない人が安心して避難できる仕組みがあって、初めて障がい者高齢者支援にも支援が届 くんだろう、というふうに私たちは思っています。
そうやって考えてみるときに、普段の取り組みがどうなのかと。この間、世界銀行の集まりがあって、釜石の奇跡なんていうのが報道されました。結局 はあれも、震災前から、ある大学の方と釜石のほうと、高台へとにかく逃げようと。「つなみてんでんこ」という言い方をしてますけども。人のことをかまって なくて、自分がまず一番最初に避難する。そういう人にみなさんなりなさいよということを子どもたちに教えてたために、ほとんどの子どもたちが、学校から午 前中帰ってて家にいた子どもたちも居たにも関わらず、逃げ遅れずに済んだという話で。逆に子どもたちから「逃げたほうがいいよ」と言われて、子どもに言わ れて逃げたのが良かったとかいうような取り組みがあるわけですね。
高齢者施設ではほとんどのところは流されちゃって、特に寝たきりの方が多い高齢者施設なんかでも職員数が少ないですから、相当流されて、高齢者障 がい者の死亡率は今回めちゃめちゃ高いですね。阪神淡路大震災のときは、いきなりぐらっときて、建物が倒れる。いわゆる圧死というのが、一番死因として多 いですが、今回は溺死といいますか、津波が来るまでには30分くらい時間があった。その30分くらいの間にどう行動ができたかによって、生死の境が出てく るんですけども。同じように考えたときに、自分たちは、避難訓練で何やってるんだろうか。これもいろいろ話してたんですが、こちらの方と。僕もそうでした けども、学校でやったことというのは、地震が来ましたといって机の下にもぐりこむ。もぐりこんだ後、グランドへ出て、今日は何分何秒で、なかなかみなさん 成績がよかったですという話。障がい者の場合、まずその机の下にもぐりこむこと自体できないね、と。今エレベーターができて、2階、3階に障がい者の人が 学校で授業受けられるようになってるけども、ライフラインというか、電気が止まるとエレベーターすら動かないですから、どうやって下へ降りるかっていうの も相当問題になってくるとか。
もっと言うと、みなさんは避難所のことを相当誤解してるんじゃないかと僕は思っていまして。避難所っていうところでなんとか生き延びようと思う と、例えば、食べるものは2、3日食べなかったからと言って、ちょっとしたものがあれば、早急に元気な方は死ぬもんではない。震災で餓死したなんて話はほ とんどないです。衰弱死はあります。ただ、餓死はさすがに無いですね。でも、トイレっていいますか、物を食べなくても我慢できるけども、3日間出さずにが んばれって言われたら、それはできる人いないでしょう。だったら、避難所に行って、トイレをしようと思ったらどういうプロセスが必要になるかというと、ま ず学校の門を開けなければいけない。それから体育館も開けなければいけない。体育館のところにトイレがあるとしても、たくさんの人が利用するので、そのま ま出しっぱなしというわけにはいかんので、水をくんできて、次の方のために、バケツで一応水を汲んでおかなあかん。汚い話であれですが、ぼったん便所の場 合は水はいりませんけども。水洗であれば、水がいるだろうと。学校にはプールに水が溜まっていることが多いんですが、その学校のプールの水を使おうと思う と、プールの鍵を開けなければいけないし、バケツがどこにあって、それを使ってもいいのか、それをちゃんと知っておかなければいけない。ここまでのプロセ スで、自分はトイレの世話は大丈夫だと自信を持って言える人は手を挙げていただけますか、というふうになると、ほとんどの人が手を挙げづらいと思うんです ね。
というように、行けば誰かがなんとかしてくれる。つまり、避難所というのは、誰かが開けてくれて、誰かが運営をしてくれると思うんですね。その誰 かというのは、行政なのか教師なのかというと、行政ははっきりと無理だと言います。学校の先生だってお手伝いはするけど、主体的にそれを、近所の住民を避 難所に避難させる主体者ではないと。結局は、避難者が主体なんですね。その避難者が主体だということになかなか気づいていない。さらに、地震があってどう いうことが起こっているかというと、例えば、さっきも言ったように、家が無事ならば、1階は泥だらけになっても、歩ける障がい者の人で2階が行けるんだっ たら。歩けない人でも、体育館に来るくらいだったら、なんとか家族で抱えて2階に行って、ちょっと身動きとれんけどここで我慢してって言って、たくさんの 人がいるところよりは、自宅でがんばるわけですね。食料を学校に取りに行くと、たいていの場合、「あなたは避難所に避難していないから、ここで食料もらう ことはできません」と言われるわけです。避難所に居る人の支援しかしない。物資もそうです。本当はそうじゃなくて、避難所には行けないけども、ライフライ ンが途絶えるといったらどういうことかといったら、物がぜんぜんなくなっちゃうわけですよね。東京なんか見てると、東京は別に被災したわけじゃないのに4 月くらいに行くと、コンビニに食べ物全部ものがなくなっていました。とにかく食べるものがあるぞっていうと、われさきに食べるもの確保するからですよね。 そのわれさきにって言うときに、障がい者高齢者は出遅れるわけですよ。ですから、そういう人たちの支援を考えたときに、当然学校というところを中心にしな がら、外側の人たちについても、気を配らなければいけない。ということは、避難所というよりは、僕は、学校というところは、地域の、その小学校区の避難支 援センターになるべきだというふうに言ってます。
そこ自体が、避難支援センターになるべきで、そうなると今度は何がおこるかというと、被災した人ばっかりで運営するというのは、とてもじゃないけ ど無理です。よく言うんですけども、例えば、受付というのは真っ先に作らないといけない。その受付の用紙は誰が用意するんですか。ペンはどこに用意してあ るんですか。学校に、避難所になったときの受付用紙ありますかって言って、そんなん誰も見たこと無いっていうことになると思うんですね。例えば、たくさん の人が出入りします。食事の数を数えて、行政にも届け出なければいけません。そうすると、夜は私は行きませんよ、とかそういう人たちがいるので、受付で管 理をしなければいけないけども、仮に受付5人用意するとする。受付5人用意するとしても、朝から晩までは大変なので、例えば2交代にしてやるとすれば、そ こで10人要る。でも毎日毎日被災した人たちが受付をするというのは大変なので、3日に1回くらいでかんにんしてよ、ということになると、かける3日分 で、受付だけで30人要るんですね。つまり、いろんな役割が、炊事係とか、衛生係とか、本部とかいうことを考えると、500人からの人たちが、避難をし て、大きいところではもっと1000人とかになりますけど、そこの場にですね、なおかつ近所の人たちの支援まで入れるとなると、相当な人手がいるわけで す。だとすれば、避難所というところは、自分が被災したから行くだけじゃなくて、自分の家は無事だったから私が受付を3日に1日と言わず、私は毎日でも受 付やってあげるよ、というような、そういう人たちこそが、学校に駆けつけなければいけないんです。だけど自分の家が無事なのに、受付しに行くから自分は学 校に行ったほうがいいなんて考えている人は、今まずいないと思うんですよ。ですから、避難所の運営そのものが危ういので、障がい者高齢者支援に回らない。 高齢者障がい者のことって、言葉の上では優先せなあかんと言っても、自分のことがちゃんとできなかったら、なかなかいかないので、まずはそういうことを きっちりとやることが大切なんですよね。
避難所っていうところっていうか、例えば、ここでこんだけの人間が今日、ここで寝泊りしますから、みなさん毛布とかいろいろ、食べ物とか持ってき てくださいと。三日ほどここで生活するよって言っただけでも、みなさん相当荷物を持ってくると思うんですね。で、この机を全部とっぱらったとします。そし たら、とりあえずみなさん、めいめい好きなところに布団引いてくださいっていうか、布団は無理でも、自分の寝床の場所を決めて、毛布かぶって寝てみてくだ さいって言うと、絶対に真ん中から寝る人いないですね。端っこから寝ていきますね。端っこから寝る事によって、視覚障がい者の人が、杖で歩く道がなくなっ ちゃうわけですね。ですから、そういうのも最初からルールを決めて、壁際の、ここはトイレに行く通路になりますから、少なくとも、4面全部じゃなくても ね、左端と入り口の分ていうのは絶対に荷物は置かないでくださいというエリアを作っておくとか。車椅子の人が通るので、その通路を作るのに、幅90センチ くらいは空けておこうとか。中央のほうでもそういうふうにちゃんと通路を作って、後から来た人が、ど真ん中で身動きとれないようなところに行くっていうこ とがないようにしようというルール作りが必要です。そういうルールづくりっていうことについて、避難訓練をしているかというと、ほとんどのところがしてな いわけですね。
私のいるゆめ風基金というのが、大阪市の東淀川区というところにあるんですけども、実は、すべての小学校で避難所開設訓練が終わっているんです。 受付はどこに作りましょう。本部機能はここに置きましょう。それから、炊き出しの人はここにこう集まって、逃げ遅れた人たちを救護する班はこういうふうに しましょう。ということを、町内会ごとで役割作ってます。最後のほうにやったところなんかは、近くにあるなんとか園って障がい者の施設の人がいらっしゃっ たら、何年何組の教室を使ってもらいましょう。ペットを連れてくる人がいたら、第2グランドがあるので、そっちのほうにペットは全部まわしてもらいましょ う、とか、そこまでルール作りをしている。このルール作りって非常に大切です。
もう本当に災害時って我慢大会みたいになっちゃってるんですね。子どもたちでも、たとえば、学校に避難してくる翌日からサッカーして遊べるかって
いったら、そんな雰囲気ないですよね。僕たちが支援したときに、ボランティアさんに、最初から無理するなと。長期に構えなあかんからということで、1ヶ月
ボランティアとか来てたときなんかにも、休みをきっちり最初からとらせました。そうすると、休みの日に子どもらと遊びに行きたいって、4月の段階でサッ
カーボール持って避難所の学校行って子どもたちと遊ぼうっていったら、子どもたちいきいきとしてサッカーボールに触ってきましたね。5月になると、その後
いろんなところからスポーツ用品が届きましたけども。4月の時は子どもたちぜんぜん遊べる様子がなくて。ちょっとボールが自衛隊の車に当たって睨まれたり
してたようですけども。それでも別に怒られもせず、自衛隊の人も最後までいっしょに子どもたちと遊んでたんです。ただ、震災後、たとえば、何日目からサッ
カーしていいかなんていうのも、怖くて言い出せませんよね。だから、子どもたちはすごく精神的なストレスが大きいんだから、もう最初から、1年1組は小さ
い子の遊ぶ部屋にしておきましょうとかね。災害直後に「うちの子どもをあそばせる場所をください」って言える勇気のある母ちゃんというのはなかなかいない
と思うんです。
また、ぺたっと座り込むと、なかなか高齢になると、今度立てなくなっちゃうわけです。身動きがとれなくて。やっぱり、きちっと朝は体操しましょうとか。
ぺたっと座るのが無理な人は、まずその人から優先して椅子を使いましょうとか。そういうことを、たとえばこれが、さっき言ってたような、避難所の開設訓
練、運営訓練なら言いやすいわけです。
さきほど、陸前高田へ、ゴール目指して150キロを歩いたって言いました。1日に歩けるのが、20キロ歩けませんので、15キロごとに宿舎をかま えるんですけども、沿岸部はとうぜんやられて宿舎も無いし、津波も怖いしっていうことで、15キロごとに宿舎を決めようと思うと、バリアフルなところばっ かり。そうすると、その公民館でトイレどうしよう。洋式トイレ持っていったらいいか。なになにさんは褥瘡ができやすいから、とてもじゃないけど床になんか 寝られへんよ。そしたらエアマット持っていこうか。エアマット持っていくには発電機がいるなとか、いろいろ準備物がでてくるわけです。やってみりゃ、12 日間、けっこう重度な障がい者の人も含めて、非常に快適とは言いませんけど、なんとか過ごせるわけです。結局は、それはある程度の準備と、物と、人がい る。完全にバリアが無くなっていても、人がいなければどうしようもないんです。福祉避難所っていうのが、あたかもいいようなかたちで、今回あちこちにでき ちゃったので、それを増やしていこう、協定を結んでいこうっていう動きも実は制度的にはあります。
今回、阪神の時と違って、2時半という時間帯だったので、老人でも障がい者でも、デイサービスでそろそろ帰ろうかというときにぐらっときた。です から、とてもじゃないけど、家に帰せないからそのまま残ってしまったということで、夜間についても職員体制を組んだというところがあるんですけども、実際 に行政から人が来たなんて話はぜんぜんないですね。過去の災害でもそうですけども、行政が人の手配をしてくれたと言う事は無い。そこで福祉協定結んで、 「あんたのところの建物バリアフリーだし、夜間に宿直体制もあるみたいだから」と協定を結んでいる。こんなことをしていると、とてもじゃないけど、絵に描 いたもちで、動かないというか。僕は城東区で話を聞いたら、やっぱり職員さんが、特別養護老人ホームには居住している人がいるし、ヘルパー派遣先もある し、デイサービスもやってるし、登録人数からいうと200人くらいいて、自分たちの利用者ですら、きちっとケアできるかままならない。地震のときに職員が 被災したら、とてもじゃないけど、人の応援もらわないと、地域の人を助けることなんてできませんよ、ということで、私たちは福祉協定結ぶのが嫌だという聞 き取りのほうが多いですね。その割には、わりと安易にいま福祉協定が進んでいるというのが、非常に恐ろしいところです。このへんなんかも、僕たちは言って るんですけども、もし地域で可能な限り支援のできる人はしてもらう、そりゃ先ほど言った痰の吸引しろとか言いませんよ。でも視覚障がい者だったら別に食事 介助もいらないし、ちょっと持ってきていいということであれば、地域のほうでなんとかしますよということがあっても良いと思うんです。
あるいは、そういう方たちを逆に地域でみてもらうこと。もしくは特別養護老人ホームでも、地域の人に来てもらって、専門的でない部分については やってもらうことによって、専門的な人が動けるという体制を作ることは非常に大事だと思ってます。結局人がどう動くかということを考えないと、場所がどう であるかを考えても仕方が無い。僕たち、避難所をまわっていると、学生たちとか、いろんなNPOと連絡をしてくれる人が、「私たち、障がい者の人たちがど こにいるか全部調べてきました」と。「このデータ使ってください」と言うんですけど。そのデータがだいたい、僕らからするとちょっとええかげんというか。 「うちは障がい者いませんから」っていうところに、実際に言ってるシリから、その横をダウン症っていう知的障がい者の人が歩いていたんですね。つまり、そ この地域の人たちは、車椅子の人以外、障がい者と思っていないとか。非常になかなか、「ご飯ですよ」って言っても、あの人はいつも取りにくるのが遅い、と いうふうに思われていた人が、実は聴覚障がい者だったと。「あそこの家族いつも仲いい。腕組んで歩いてるね」というのが、杖をなくした視覚障がい者だった とかいうかたちで、けっこう地元の人でも障がい者がいるということがよくわかってない場合が多くて、あ、これは自分たちできちっと調べなおさないと、あそ こはいないって言うからもう行かなくていいっていうことにはならないな、ということがありました。障がい者の人の名簿が大事だって言う言い方もするんです が、僕は名簿が大事なんではなくて、そこの地域にすんでいる人たちの関係性が大事だと思うんです。
今は、本当に障がい者の人、高齢者の人たちが、すべて福祉の領域で支援を受けるようになりました。これが非常に危ない。ある民生委員さんと、城東 区で聞き取りをしたときに、高齢者の人のところへ、一人暮らしとわかってるものですから、ちょっとたずねた時に、たまたまいなかった。たまたまいないこと くらいはあるかな、と。買い物行ったりすることもある人なので、と思って。で、また行ったら、またいなかったと。非常に心配になって、その夜行ってみた ら、明かりがついていたので、「あんたどうしたの。私、この間も今日の昼間も来たのよ」と言ったら、その方が「実は私、最近デイサービスに通うようになっ てね」という話になったんですね。別に民生委員さんにデイサービスに通うといちいち伝えなくてもいいとは思うけども、それが当たり前になっちゃうと、民生 委員さんのほうも、そこの人を気にかけなくなっちゃう。これが怖い。どう考えても、これから団塊の世代の人が、高齢者になっていく。今のところ、高齢者と いっても、70、80でも元気な人いっぱいいますけど。ただやっぱり、その中で、支援の必要な人がどんどんと出てくると、当然のことながら介護保険とか、 障がい者のほうも、町へどんどん出て行くと、自立支援法というかたちで、税金を投入しているけども、それが危うくなってくる。これまでは、どんどんヘル パーの時間数は伸びてきたけども、これからもずっと伸びるとは限らない。たとえば、ヘルパーさんが夜ずっといてくれるかというと、たいていは居ないので、 夕方2時間行きますよ、とか、朝2時間行きますよ、とか、夜間はだいたい居ないわけですよね。そんなときに、トイレの電球が切れたら、とてもトイレに行け ないわという時に、またヘルパーステーションに電話して来てもらうのがいいのか、それとも、お隣に夜の9時くらいだったら、「ごめん、トイレの電球切れた んだけど、電球持ってへんかな」とか、「ちょっと近くのローソンでなんとか調達してくれへんかな」とか言える関係があるほうがずっといいでしょ、と。
余談ですけど、実は、電球の取替えっていうのは、ヘルパーはやってはいけないことになってるみたいです。正式に言うと。堅いですが。日常のサポー トは、ヘルパーはしてもいいけども、大掃除に類するものはしてはいけない。つまり、窓の外側を拭いてはいけないとかね。庭の草引きはしてはいけないとか、 ヘルパーってめちゃめちゃ制限多いですから。じゃあ、誰が窓の外拭いてあげるの、庭の草引きしてあげるの、ってことになって。ヘルパーができないんなら、 近所の助け合いでやったらいいやん、ということは、本当にたくさんあるわけで。そういうことが必要かなと思っています。
私は、防災というのが、非常にコミュニケーション作りにいいなと思っていて。実を言うと、赤ちゃんからお年寄りまで。今日、先ほど販売しているっ て事例集にも書いてあるんですけど、うちの代表は、NHKを見て、中学生が地域のことでいろいろやっているのを見ながら、防災にも中学生入れたい、という ことで、いまゆめ風基金では「中学生プロジェクト」というのをやっています。それは、実際に、校舎とかマンションとか逃げ遅れたところで、中学生というの が、一番昼間いてくれる率高いですからね。屈強な男性たちは会社に行っていて、地域にいなかったりすることが多いですから。そのときに、中学生、高校生あ たりが、非常に頼りになるんじゃないか。避難所になったときだって、バケツどっから取ってくればいいかとか、どの部屋が危ないとか危なくないとか、中学生 よくわかってるわけですから。いろんな意味で、中学生が災害の支援の担い手になるんではないか、ということで、防災訓練なんかを、実際に障がい者のコミュ ニケーションの作り方とか含めてやっています。
私たちは、障がい者支援というのも地域でいろいろ取り組まないといけないので、ひとつは、障がい者の専門家集団として、城東区民センターというと ころを、災害が起こったら、すべての障がい者団体が集まろうね、と。どんなふうに本部つくったらいいかとか。トイレ作ったらいいか。本当に障がい者が使え るトイレって少なくて。学校なんかだと、体育館みたら、だいたい教室でトイレすませればいいということで、男女それぞれ4つずつくらいは便器ありますか ね。でも、500人からがそこに住んだら、4基ずつの便器でぜんぜん足らないわけで、ましてや、もし電気消えてたら、発電機でおこしたって、遠くまで電 気、こうこうと明かりつけるわけにいきませんから、けっこう臨時でトイレ設置せなあかんということ多いんです。障がい者の場合、特に洋式便器だけではだめ で、紙おむつなんか、高齢者もそうですけど、使ってると、ベッドタイプが必要になってきて、そんなんをどうやって作ったらいいかとかね。やってみたら面白 いんですよ。そこって、本当はボランティアセンターにもなる建物なのに、防災無線が部屋の中に通じない。つまり想定では、そこを拠点にするって言うけど、 実際やってみると、防災無線すら入らないところがボランティアセンターの拠点になる予定だったということがわかったりとか。ですから、いろいろやってみた らいい。で、障がい者バージョンと違って、今度は地域バージョンというのがあって、町内会の人たちと一緒に、一晩泊まろうとか言って、去年も一昨年も泊 まったんですが、今年は、実は今週の土曜日にみんなで泊まろうということになっています。
学校で講演するというと、けっこう口達者な障がい者じゃないとなかなか務まらないんですが、防災訓練というのはね、けっこうそこら走り回っている 障がい者とか、ぜんぜん言語障害重い障がい者も含めていっしょに参加できますから、一緒に寝泊りしながら、この人はこういう人なんですよ、ということを地 域で知ってもらうきっかけに非常にいいわけですね。さっきも言ったように、そこへ中学生が来てくれるんなら、中学生の方に、僕らも実際にやった車椅子の押 し方とか、今横で手話をやっていただいてますが、1日で手話を覚えるのは無理ですからね。筆談のしかたというのも教えられる。できるだけ長い文章書かない でねって。「昼 ご飯 12時 来る」とかね。そういうふうな短い単語のほうが、聴覚障がい者の人、わかりやすいですよ、とか。視覚障がい者の人の手引き の仕方とか。というのを、そのプログラムの中でいっしょにやったりもします。そういうことをすると、非常に地域の絆が深まるっていうか。
大阪市だと、町内会というところで、何かひとつ一生懸命やっているところっていうのは、他のことも一生懸命やるんですね。だから、福祉だけが進ん でいる町内会っていうのはないんですよ。町をきれいにしようという運動をやってれば、他の取り組みも進んでるという感じで、町内会の事例報告というので、 行政の人が頭を悩ますんですけども、つまり、いい取り組みをやっているところは、いろんな取り組みをやっている。だから、どの事例をテーマにしたって、結 局はやっぱりあそこが一番だなっていう町内会が出てくるっていうんですね。これから本当にそういうふうなことをやっていかないと、いろんな意味で税金とい うのが無くなってきて。日本て本当に赤字の国ですからね。北海道でいろいろ、財政面で厳しくなった町が、町民の力で立てなおしを図っているという話も含め ると、やはり、もっともっと行政の人に身を委ねるだけじゃなくて、自分たち自身も町づくりということを考えていかないといけない時代なのかなと、思ったり しています。いわゆる自治っていうのは、別に、住民も入って初めての自治なので、行政任せだけではいけない。
ただ、防災訓練にいたっては、行政も行政で、9月の防災訓練とかいうと、なんかあたかも自衛隊呼んできたり、消防署呼んできたりして、私たちはこ んなにやってますっていうんですね。やってますって言うんならやってくれたらいいんですけども、やれないんだったら、やってますって言わないで、こういう こともやってますけども、避難所のことはできません、ということを正直に言ってくれると、住民の方も不安になって、「じゃあ行政じゃなくて、私たちがやら なあかんのかな」と思うんですけども、すぐ見栄を張るんですね、行政の人たち。防災訓練はこんなに立派にやってて、私たちが住民を守るんだというようなこ とを言い切っちゃうような感じの防災訓練をしちゃうんで、住民がその気になってくれない。
日本は非常に地震大国であり、集中豪雨もあり、台風も来るし、場所によっては大雪も降るし、川は氾濫するし、原発もこうやってでてきた。というこ とになると、やっぱりいろんな備えをしなければいけないですから、やっぱり僕は小学校の時代から、避難所の学校を使って1泊訓練をするとか。やっぱり防災 教育から見直さなければいけないだろうと。
地震のとき、災害のとき、津波も全部ひっくるめて、よく「火事場のばか力」とかいいますけどね、何か急に災害のときにできる、というのは実は無い んですね。その前にやってきたことが、まぁ、6がけか半分くらいで役に立つっていうことで。普段どうやっているか、普段どんなコミュニティを持っている か、というのが一番問われてくるので、仕組みを作るというよりも、僕は、「ああいうことは、だれだれさんに頼んだらなんとかなるかな」というような、人の つながりをつかんでおくっていうのが、一番大きな防災だと思っています。
最後にもうひとつ、今回非常に多くのボランティアが入り込んでいる。阪神のときと比べて何が違うかというと、当初に入り込んだボランティアは、1ヶ 月、2ヶ月目でいうと阪神淡路大震災の時の3分の1しかいない。後半からめちゃめちゃ人が入っていっているかたちがありますけども、その中でもびっくりす るのが、今回のほうが、なんかあたかもいいことをしたいというのが顔に出ている人が阪神のときより多いように思います。すごく肩張っているというか。「や らせてください」っていうかたちになるんですね。
南三陸町のベイサイドアリーナという総合体育館。南三陸町の役所が流されています。町はほとんど壊滅状態です。高台にあったその総合体育館に人が 集まって、役所もそこに仮庁舎を作って、日本赤十字もベースを作ってる、自衛隊も来てる。体育館で物資もたくさんある。そこで何が行われたかというと、当 初は住民の人たちが自分たちで物資の仕分けしたりいろいろやってたというか、住民がいきいきとやっていた。ただ途中からあふれんばかりのボランティアさん が来て、全部住民の仕事を奪ってしまって、全部ボランティアがやって、炊き出しから何から。逆に言えば住民はただただ受け取るだけの存在になってしまっ た。1ヶ月もすると、住民の目はとろんとしている。ボランティアさんは、「今日ああいうことができたね」と、夜いきいきと笑っている。そういうふうな状態 だったんですね。僕はたいへん気持ちが悪かった。でも、僕だけかなと思って、勝手なこと言ってはいけないなと思っていたんです。たまたま、僕は被災支援を するとき、可能な限り地元の人を雇いたいと思っていて、たまたま雇った人が、そこで避難していた人で、今も仮設住宅なんですけども、やっぱりその方も、 「そうですよ。本当に、自分たちでやっていた時は、非常にみんないきいきしていたけども、私たちが何もできなくなって、その中でボランティアさんが笑うっ ていうのが、私たちはありがとうしか言えない立場だったけども、実は辛かった」と、おっしゃってます。仮設住宅で毎週のように集会所でイベントが開かれ る。ぼそっと住民もおっしゃります。「毎週毎週借り出されるのは辛い」と。それは、渡辺謙とか大物が来るんだったら生き生きして行くけど、あんまりよくわ からない合唱団とか来てね、そこに行くっていうのもなかなか辛いものがあるな、とか。あるいは、ボランティアさんががんばってくれるのはいいけども、やっ ぱり自分たちの地域は自分たちでがんばらないと、立ち上がるチャンスを失ってしまう、というようなことをおっしゃっています。
だから、よく言うんですけども、ボランティアが「こんなつまんない仕事」とか、「何にもすることがなかった」とか社協の人に文句をいう事があると 聞きますが、実を言うと、ボランティアが行って何もすることがないというのは、非常に平和なんです。幸せなんです。段取りをしてくれなかったって文句を言 うのは大間違いで、その時に行って、何を感じて何をするかという自主性が問題なんです。段取りをしてくれた人に文句を言うのは間違ってます。ですけども、 どうもそんなふうに、僕からすると、ちょっと困ったボランティアというと変ですけど。やる気はめちゃめちゃあるんですけども。どうもそのやる気と、コー ディネートする部分から言うと、昨日まであった支援が今日無いとかね。被災地というのは、1日1日変わりますから。そこらへんのところで非常に難しいもの があるから、やっぱり自分たちで行って見て、とりあえずは、最初やることなくても、行ってみることで、そのことを誰かに伝える事で、繋いでいくことで、自 分が2回目行けなくても、「こういうことをやったら私はいいと思ったよ」というふうに、思えると思います。
僕の友達で、昔、阪神淡路大震災でつきあっていた仲間が、障がい者支援に行きますって、来てくれました。聞いたら、針・灸・あんまの仕事持ってる んですね。僕は、「針・灸・あんまの仕事持ってるんだったら、自分たちの本業を活かしたことをやったら、すごい喜ばれるよ」って。「あなたが障がい者支援 するよりも、ばあちゃんまで含めて、いろいろマッサージとかしてあげるほうがよっぽど喜ばれるから、本業で来い」って言いました。そしたら今は、友達連れ て、2ヶ月か3ヶ月に1回くらいはずっと来てくれてまして、今でもすごく、仮設住宅で喜ばれています。ですから、いろんなことを、相手のことを思いやっ て。さっき言ったように、やる気ばっかりになるのは、社協が悪いわけではないんですね。1週間交代で頭を働かせずに行くと、そうなってしまうという。社協 の職員だって、現地では被災しているわけですから。そういうことがあっても、ある程度仕方が無い。ただ、やっぱり人の支援をするというのはどういうことか とか、隣近所の障がい者の支援をするのはどういうことかというのは、やっぱり自分たちがまっすぐ立っている、自分たちが主体的に動いていくということを中 心に考えないとなかなか難しいというふうに思っています。
後で、できれば質疑応答もあったほうがいいということで、だいたい残り15分くらいになってくるんで、これでいったん私のほうの話は終わりにし て、質疑応答に変えたいと思いますが、最後に一つだけ。ゆめ風基金というのは、寄付金だけで運営している非常に希少な団体なので、今日の本の購入もそうで すが、できれば寄付をお願いしたいと思ってます。
福島なんかは今日触れませんでしたが、もう人手が足らない。ヘルパーなんかいまだに辞めていってるから。ベテラン勢が辞めていっているような状態 で、やっぱり若い人はもたないんですよね。どうやってこれから現地で人を確保していくかがたいへんだったりとか。2年後3年後に新しい器が必要だったりと かで、長期の支援が必要になってきますので、今後とも、寄付というかたちでなんですけども、できる限り長い支援をいただけたら、ということを、締めくくり にしたいと思います。今日はどうもありがとうございました。
時間があるんだったら、もう少し使わせていただきます。やっぱりコミュニティ作りというのは非常に難しくて。言うのは簡単なんです。でもやるのは本当に
難しくて。僕も全国であちこち、こういう講演をしているものですから、実践しないことには、えらそうなこと言えへんやろ、ということで。地元で町内会巻き
込んで、というのはやっていますけども。予定では5箇所くらい、頭の中でやる予定だったんですけど、まだ、町内会で言うと、1、2箇所しか進んでないです
ね。だから問題なのは、全部でさっき、やってるような東淀川区ありましたけども、あれはゆめ風の関係だと、なんかすごい、非常に大阪市でも稀な例で、どん
どん、「あそこがやったらうちもやらなあかん」みたいな、そういう対抗意識の強い町だったんだと思いますけど。現実的には、例えばこの松阪のまちで、どこ
ができるか。避難所開設訓練みたいなやってみよう、とかね。子どもたちがあそこだったら集めやすいとか。もしくは、この障がい者団体だったら来てくれるん
じゃないか、というふうに、アクションを起こしていくことが大切だと思います。本来、今日は人権講座で、防災講座ではないのであれなんですけど。でもやっ
ぱり、なんでもそうですけど、聞いた話というのは、頭の中に残っているようで、実は残っていない。本当は、この次のステップとしては、たいていは、グルー
プワークやろうよ、と。できれば、実際に学校に行ってみてグループワークやろう。学校って、本当に使えるとこなんか?って。門からどれくらい距離ある、ト
イレいくつくらいある、防災備品何があるって。防災備品一つでも、水がある、それとか毛布がある。あると思うと持っていかないんですね。でも、みんなが
持って行かなかったら大変なことになりますよね。数がいくつくらいあるのかということを考えておくと、あるらしいけども、自分は毛布を持っていける立場に
あるんだから、「自分だけ毛布持っていってかっこ悪い」なんて思わないで、毛布をちゃんと持っていって、毛布を持って出れなかった人に1枚でも二枚でも、
余っていたら何枚でも渡せるようにしようよっていう、そういうふうなことも必要なんですが。
学校の備蓄倉庫見たことある人、手挙げてもらえますか。・・・・・シーンですよね。意外とないですよね。そっからしかはじまらないので、みんな備 蓄倉庫見にいこうって。一般的に言われるのは、3日間くらいは十分過ごせるように、地域の人たちが。新潟の小千谷の町では、最大人口の8割くらい避難し たって言ってます。今日見せた写真で、仙台体育館いっぱいになってたでしょ。あそこも実は沿岸に近い地域じゃないんですね。沿岸でだいぶやられた地域はあ るんですけども、そこからはだいぶ離れている。太白区っていうとこなんですけども、仙台市内なので。でもやっぱりライフラインが止まっちゃうと、さっき 言った買い物もできないし、情報も無いしっていうんで、人が不安で集まっちゃうんですよね。そういうこと考えると、必ずしも地震が起こって建物がつぶれた から人が集まるんじゃなくて、電気・水道・ガスが止まっちゃうと、人が集まるっていうことがよくわかりましたので。そういうときに、さっき言ったように、 家にろうそくがあるとか、懐中電灯がある人はいいけど。いろんな備えがある人はいいんだけど。そういうのが無くて、一人暮らしのおばあちゃんがいるという ことになると、そういう人たちはちゃんとできるんだろうか、と。自分が安心なら、次に人のことをちょっと考えてみよう、というような、そういうことをする ためには、やっぱり隣近所との付き合いをしないとだめですよね。
僕は、避難所の訓練もすごく大事だと思うし、場合によっては避難所の訓練でなくてもいいから、元気な人ばかりが参加しやすいイベントじゃなくて、 障がい者や高齢者とお茶でも飲みましょう会でもいいから、そんなんでも少しあれば、いろいろと、そういうときの備えができると思う。
防災訓練を通じると、僕は中学生にもすごくいいと思っているのは、中学生プロジェクトやってみたときの子どもたちの感想が、今まで自分たちが大人 から言われるばっかり、つまり自分たちが半人前ということばかり思い知らされてきたのが、障がい者の人に役に立つ。つまり、自分たちが人の役に立てるん だ、ということで、急に自分を見直すというか、自分の立場がこうあるんだということがわかったという、自覚ができたという話があるんですね。
なんでもそうですけど、タバコは最近自販機ができて吸う人が少なくなってきたけども、子どもたちが非行に走るとかいうことがあった場合、子どもの 名前がわかっているのと、わかっていないのとでは、えらい違いですね。子育て終わってしまうと、子どもの名前なんか絶対わかりませんからね。自分とこも、 子どもが小さいときは、同級生のなになにさんとかいうのは知っていますけども、子どもが成人しちゃうと、子どもなんて顔わかんないけども、防災訓練だと顔 がわかる。で、顔がわかると、知っている人の前であんまり悪さしにくいというのがあって、お互いに声掛け合いできるんで。だから、青少年の非行問題をする ためにというわけじゃないけども、相乗的にいろんな効果が現れてくることがあるだろうというふうに思っています。
意外と、ヘルパーというのは、実を言うと、若い人は10代からいますけども、結構60代ヘルパーというのもたくさんいるわけです。ですから、そう いうかたちで言うと、仕事というかたちでも、いろいろな人が携われる仕事なので、そういうのも増やしてもいいかな、とか。
あるいは、日本ほど、税金で福祉を全部やってしまおうという国はないんです。よその国は、たいていやっぱり、税金で半分。あとの半分はNPO的な 仕事っていうことで。でも、NPOって名前ついているところありますけど、ほとんどの福祉の事業所は、ようするに、やっていることのうち、90%以上が NPOと名前がつきながら、介護保険のお金なり、自立支援法のお金なりということでやっているので、ニチイ学館とか民間の株式会社とかいうところと、 NPO団体というのがほとんど変わらないというのが、実は福祉のNPOの今の姿なんですね。
環境問題なんか見ると、全くまともな人件費をもらっていないような人たちでも、一生懸命取り組んでいるとか。これからの団塊の世代が、年金も今の
ところまだきちっともらいながら、これから若い世代はいくら年金もらえるかわからないけど、今のところまだしっかり年金もらいながら、非常に活発に動ける
人たちがいると。
こういう人たちを、地域の中で、福祉かどうかは別にして、どう取り込めるのか。生きがいを持って、地域のことで貢献しようという人たちに変えていける
かっていうのが、僕は大きなポイントだと思っています。だから、そういう人たちを中心にしながら、防災訓練なり、障がい者の人たちと一緒にやっていくよう
な担い手にする。
逆に言うと、民生委員さんへろへろですね。行政からあれもこれも仕事言われるとかね。町内会会長さんもそうですね。どんだけ言うてくるねんと言い ながら、いわゆる町の役職は疲れきっています。今まで町のことにはうとかったけども、実は退職した団塊の世代の人たちを、うまく巻き込んで、地域の活性化 に繋げていくっていうことが、まず一つ大事なこと。で、もう一つが、防災っていうのは実を言うと非常に小さなエリアで考えなくてはいけない。ある小学校区 には中学校もあって、例えば、小学校の体育館が満杯になったら、隣の中学校使おうって、小学校と中学校が隣同士というところもある。ある小学校区は、とに かく学校の生徒は少ないし、高齢者ばかりいて、水汲みに行こうと思ったら、とてもじゃないけど若者の手がないよ、という形になってくる。そしたら高校生ボ ランティア、どっかと繋がって一緒に訓練したほうがいいんじゃないか、というような、そういうことも必要になってくるかもしれないというふうに。
松阪市全体で考えるにあたって、一つ一つの小学校区ごとに、丁寧に考えていくということが必要で、そう見ると、コミュニティ作りの基本というか、 向こう3軒両隣ですよね。隣の人との仲が悪いのに、町内会みんなが仲良くなるわけがないような話があって。けっこう、やっぱり1人住まいのマンションとか ね、新興のマンションでオートロックとかいうのがあって、難しいところがあります。ただ難しいところがあるからどうしようかではなくて、1番やりやすいと ころからコミュニティを広げていこうということで、1小学校区でいいから、モデル校をつくって、みんなで1回この小学校で防災訓練やってみようよ、と。
その訓練のときに一番大切なのが、行政が一番まずいことやっちゃうんですけども、全部段取りをしちゃうのね。つまり、失敗がないように段取りをし ちゃう。でも、それが非常にいけなくて、訓練というのは、実際の災害はハプニングが起こるんですから、とりあえずやってみながら、多少乱暴でも、いろいろ 積み重ねていって、「去年あれができなかったね、今年はちゃんとそれができるようにしようね」っていう、階段を上っていくようでいいと思うんです。いい訓 練というのは、僕は中身でなくて、毎年続ける事と、去年よりも、たった一人でも多くなって続いている、というような訓練というのが、一番いい訓練だと思っ ています。
いろいろ言いましたけども、僕はやっぱり、町内会の助け合いの精神があるところは、障がい者・高齢者が巻き込まれやすいし、今日は障がい者の方が ほとんど見受けられないですけど、僕はいつも障がい者団体にむかって、障がい者団体のほうが自ら防災に取り組もうという意識がまだまだ地域的には少ない、 と。そこをなんとかしないと。これはもし行政の方がいらっしゃっていたら、福祉課のほうにでも伝えていただいて。障がい者団体のほうからも、「防災訓練し ようよ」という声を挙げてくれ、ということを頼んだほうがいいと思います。
そういうことで、楽しい町というか、最近ニュースは暗いし、とにかく役所に向いていくと、金は無いという話ばかり。金なんかなくても、知恵と力で 地域をいろいろとやっていけることはあるし、それによって、有効な金の使い方をみんなで見つけることもできるんで。なんとか、この話が今回で終わるのでは なくて、来年「こんなことやったよ」というようなことは、ゆめ風基金のほうまで届けていただけるとありがたいな、ということで、質問がないとすぐにべらべ らしゃべる僕ですが。
また今月も、この後、東北へ行ってがんばります。寒いんですよね、向こう。だいたい0度になると、なんかあったかいなというか。マイナスの温度ば かり聞くので。冬はまた大変なんですけど。そういうことで、まだまだゆめ風基金というのは支援していきますので、また、みなさんの取り組みを聞かせてくだ さい。災害被災地もたいへんはたいへんですけども、繋がっていれば、被災地の物資を買っていただくというかたちで、長期の支援ができると思いますので。今 後ともひとつ、よろしくお願いします。どうもありがとうございます。