日本自立生活センター所長 矢吹文敏さんの報告1

DPI日本会議、JIL合同による
「被災地障害者当事者支援プロジェクト」の活動を終えて NO.1
日本自立生活センター 所長 矢吹 文敏
同行ボランティア 石塚  光
〃       黒田 昭子
京都でてこいランド  松井 孝司
昨年12月に行われたDPI日本会議常任委員会において、被災地障害者当事者派遣プロジェクト参加について、明けて2012年の派遣メンバーが確定していない中で、参加の呼びかけがあった。
これに応じた形で、日本自立生活センター矢吹他3名、京都でてこいランド松井ら合計4名が参加することとなった。
諸般の事情により、予定より2週間以上遅れた日程ではあったが、2012年3月29日から4月6日(一人は、4月10日に延長)まで、被災地障害者センターみやこに宿泊し、現地スタッフの指示と協議の中でそれぞれが活動した。
以下、日程に沿った活動の概略について報告します。
3月29日(木)
 私たち「日本自立生活センター」と「京都でてこいランド」のメンバー4名は、京都から自動車組と新幹線組みに分かれて出発し、岩手県盛岡市の駅で合流し、夕方6時頃に「被災地障がい者センターみやこ」に到着した。
連絡の勘違いか、どうやら私たちは30日に到着すると言うことになっていたらしく、現地スタッフの方々は大分慌てたようだが、職員・先着のボランティアの方々から温かく出迎えを受けた。
 初めての土地であることと盛岡からの途中にまだまだ残雪のあることで、訪れた私たちは、これからの活動に対する使命感や不安で少々の緊張感を覚えた。
 慌ただしく自己紹介をした後、早速に夕食前のミーティングに参加。
 今日の活動についての報告を一緒に聞かせて頂いた。
 「交流会」参加を呼びかけるチラシの各地域へのポステイング状況、今後の課題、明日の活動予定などが話された。
 私たちの明日の予定としては、コーディネーターの山下さんの指示によって、お花見交流イベント案内のチラシをポスティングすること、行政訪問などが確認された。
 寒いことを覚悟していたこととはまったく逆で、到着した日は、いわてでこの冬一番の暖かい日となった。私たちは、1階と2階に分かれての宿泊。運転の疲れも重なり、ゆっくりと睡眠することができた。
3月30日(金曜日)
 午前、矢吹は定期点滴のため、あらかじめ予約していた近くのO医院へ出かけ、ほかの二人はポスティングに出かけた。
……点滴を終えてからは行政機関訪問との予定ではあったが、かねてから会いたいと希望していた方が、急遽会えることになったとの連絡があり、山下さんの配慮により、釜石まで足を運ぶこととなった。DPIなどからの情報では、お名前や地域など詳細ではなかったが、その後の聴き取りで、ある施設に入所していたKさんと分かっていた。その方と思いがけずに釜石で会えるという新しい情報で、京都組は山下さんの運転で釜石センター(名古屋のAJU設置)を訪問することになった。
 午後3時頃に到着した私たちは、ほぼ同時刻にセンターに来られたKさんと合流し、施設から出て自立生活をしませんか?など、初対面にもかかわらずの突っ込み会話ではあったが、Kさんも負けじの人物で、私と同じで口から産まれていた。
 いずれは施設を出ての生活を行いたいとの希望も伺ったが、現時点では家族の方が反対していることやヘルパー派遣などの福祉サービスが極めて不足していることなどの面で足踏みされているという。
 さまざまな冗談も含め、プライベートな会話についての内容はカットだが、なかなか小気味の良い会話が弾み、メンバーとのメルアド交換などもあり、ギャグの応酬と再会を約してのお別れとなった。
 宮古から釜石までの道のり、国道45号線。山と海の風景が交互に現れる道中では、毎日のように報道で見せられていた山田町や大槌町の被災状況が目の前に現れた。1年以上たった被災地でありながら、破壊された家屋の土台だけが残されたまま、いまだにまったく手付かず状態の所が多かった。
 大きな店舗では1階が粉々に破壊され、小さな建物は跡形もなく、時には防波堤が破壊され、山間と思われるような所までの立ち木が倒れていた。思わずに、ここに自分がいたとしたらどうしていたのだろう、恐らくひとたまりもなく波に吸い込まれていたに違いない、と身が締まった。
 これらの建物にいた方々は、今はどこで何をしておられるのだろうか。
 だいぶ以前のことだが、健常者のある方が「地震や火災や津波で恐い思いをするのは障害者だけではない、健常者も恐いのだから同じ思いよ」と言ったことがある。はたして本当だろうか。一歩でも二歩でも、自分の力で逃げようとして逃げることが出来る人と、自分の力では一歩も動けない人の恐怖感と言うものが同じだろうか。私は大いに疑問に思ったことがある。
 車いすに乗ったまま、ベッドの上に寝たままの姿で、そのまま波に飲まれていってしまった状況を想像すると、何かしら気持ちが重くなる。
 釜石のほうに入りかけると急に風が強くなる。浜風なのだろうか。破壊された建物とまったく被害の無かった建物とが隣り合わせている。地元の人が、ここまで波が来たんだよという、その指先がその境を示している。本当に、数メートルの違いでその明暗は分かれていた。
3月31日(土曜日)
 今日は、朝から小雨模様。特に出かける予定はなかったが、来客の予定が組まれていた。障害当事者(K君)とそのお母さん。夕方にはお姉さんも合流し3人となった。
 わざわざ釜石の方から来られたとのことで、制度の活用についてやサービス提供の事業所に関しての情報に飢えていた。なぜ障害者がこの地域に住みにくいのか、何故この地域にサービス事業所が育たないのか、鶏と玉子にも似た現実の疑問が一気に噴出した。
 交通機関が不十分なこと、ヘルパーを使うということへの抵抗感がある地域性のこと、バリアフリー化がなかなか進まない地域であること、地域全体が障害者の自立生活にとって厳しい環境であること……などなど。障害当事者に対する施設運営者側の間違った姿勢、障害者に関わる制度や新しい情報の不足……。
 地震や津波災害以前の状況とも重なり、震災以後さらに厳しくなった状況が語られた。津波によって破壊されたさまざまな入所施設は、この際「脱施設化」を進める方向を期待したのだが、それは全く逆で「津波でも壊れない頑丈な施設造り」になっただけ、と言うのが現実とのこと。
 親子の訴えはあまりに重く、なおかつ幅が広く、私一個人では全く手も足も出ない大きな課題ばかりであったが、私自身が東北(山形)の田舎で育った経験と重なる部分が多く、その訴えの多くを共有することが出来た。
 大阪、名古屋、京都、それぞれの地域の障害者自身の活動家からの話を聞き、大いに勇気を得たという親子は、今後とも頻繁に関西との交流を図る決意を表明され、意欲的に活動される様子に、私たちも大いに刺激された。最近の障害者運動は、とかく原点から離れ、都会的な運動のみに走る傾向があるが、やはり、着実な福祉のまちづくり運動をしていかなければならないことを、その親子は教えてくれた。
 夕方には、三陸鉄道宮古駅にお邪魔をし、明日行われる三陸鉄道一部復興路線の開通式に参加するに当たって、もし社長さんに会えるものなら会いたい旨をお伝えした。駅からは直接に社長さんに伝えることは時間的に無理なので、役員さんにはお伝えしますとのお返事を頂いた。
 これで、日曜日ではあるが、明日の朝は早い出発になる。
 4月1日(日曜日)。
 今日は、三陸鉄道の一部路線の復興開通式典が、宮古市の田野畑駅などで行われる。
 私たちは、その式典に参加するべく、朝の7時半にセンターを出かけた。国道45号線を50キロほど北上し、途中から山間部の急な坂道を何分間か降りた所に、色とりどりの風船が舞い、たくさんの自動車が止まっていて、明らかにイベント会場であることを教えてくれた。
 イベント会場には、東京銀座のレストランが無料でお料理を振舞い、イカ焼きが提供され、大きなテントばりの会場ではさまざまなアトラクションが行われ、報道陣もごったがえし、テレビ中継も行われていた。
 駅それ自体は山でありながら、東を向けばすぐそばには海の風景。津波がここまで来たと言われてもにわかには信じられない光景ではあったが、まちがいなく、津波はここを走っていた電車を丸ごと飲み込んでいったのだ。
8時半から開始したと言う開通イベントには、平野復興担当大臣も参加。地元の人々にすれば、久々の明るいニュースに思わず笑顔が出てしまっている。まさに、三陸の足「三鉄(三陸鉄道)」の復活は自分たちの復興なのだ。
 テレビのコマーシャルも、地元新聞の紙面も大々的に特集を組んでいた。
 私自身は、この当事者支援プロジェクトに参加することを決めてから、昨年の内に、三陸鉄道の望月社長さんには一方的にメールを送りつけ、ぶしつけながら「復興に当たっては、ぜひともバリアフリーの鉄道にしてください。障害者も三陸の風景を楽しめる電車にしてください。私たち自身も何が応援出来るかも教えて下さい。」とお願いをしており、お返事も頂いていた。
とにかくも社長さんとはお会いしたかったという気持ちで、イベントの流れの中で、社長さんにお会い出来るチャンスをうかがった。三陸鉄道の関係者にもお願いし、少しの時間だけで良いからお話を伺える機会を頂けるようにお願いもした。
きわめて多忙の中、イベント途中で日程を消化している社長さんに、先程の役員さんから耳打ちをしてもらい、会っていただくことに成功した。名刺交換をするなり、社長さんからの開口一番。
「すぐにはできませんが、必ず徐々にバリアフリーのものにしていきます」と言う力強いお言葉を頂いた。
その言葉通り、新しい電車(車両)の中には、障害者(車いす)用のトイレが設置されていたことには驚いたのだが、私の顔を見るなりのお言葉に再度感激した。私は「よし、必ず、障害者仲間による三陸ツアーを組んで、リアス式海岸の展望を一緒に感じることができるように、その日を目ざして応援体制を組まなければ……、早速に多くの人たちに声をかけなければ……」と決意したのである。
寒かった。風が冷たかった。同行した京都組は、全員鼻風邪をひいてようだ。
しかし、望月社長さんが、多くの子供たちと戯れ、こよなく地域を愛しているお姿。そして、お祝いの旗や風船を持って走り回る子供たちの姿。イベントを身体全体で支えている若者たちの姿を見ていた私たちの心は、実に温かかった。
まさしく、繋がろう、三鉄! であった。
 イベントも半ばではあったが、朝早く起きてきた私たちは、これ以上だと本当に風邪をひいてしまう。満足な気分を抱いて、お昼過ぎに会場を後にした。
4月2日(月曜日)。
 昨日とは違い、今日はそれぞれが別途に行動。
 現地スタッフの方と一緒に、土曜日に印刷所から届いた「4月14日交流会、4月28日お花見のお知らせ」に関するチラシを、地図上の場所をいくつかに分割したブロックごとに、ポスティングすることとなった。
 その中には、点在している仮設住宅も予定されており、京都から到着した次の日にも行った活動の一環だ。訪ねていく家の中には、新聞や郵便物が溜まったままの家もあり、いくら声をかけてもお返事のない家も何軒かあるという。
 中には、郵便受けに以前に入れておいたチラシがそのままになっていたともいう。雇用促進住宅の棟全体がすでにだれも住んでいないと言う所もあるというのだ。
 地震の被害が甚大であることは今さら言うまでもない。津波の被害も私たちの想像をはるかに超えている。
 しかし、今まで住んでいたアパート全体の住人が忽然と消えてしまうという、まるでホラー映画のような状態が、目の前にあるのだ。
 ここに住んでいた人たちは、一体どこに行ってしまったのだろうか。
 午前中に、定期の点滴を受けに通院したO医院で伺った話によれば、その津波は、医院の前に流れている川の所で流れが止まり、医院の建物は無事だったという。
 看護婦さんによれば、釜石や大槌町、山田町などの医療機関が津波でやられ、血液検査などのさまざまな機器が使えなくなり、幸いにも被害のなかったO医院を訪れる患者さんが急に多くなったのだという。中には1時間以上もかけて通院してくる方もいて、病気を治すための通院が、逆に大変な負担になっている方もいるという。
 宮古で出会う方々も、釜石や田野畑で会う人たちの表情は予想以上に明るい。会話も普通に行われ、地元の自慢話も多い。しかし、何分か話していると必ず、津波の被害の話になってきて、今後の生活が不安であることを呟いてくる。皆、相手の立場に立ちながら、お互いに遠慮しながら被災状況を語っているのだ。この我慢力も考えると、日常的なストレスは相当に大きなものがあるのだと思う。
 限りなく人は優しい。 限りなく人は寂しい。 限りなく人は災害や事故を恨む。 時として人のことを考える余裕もなく、我が身を守ることを最優先する。 いずれも、誰もに起きる普通のことだ。
 中には、生きている自分に罪悪感を覚えてしまう人もいる。「あの大事な人が亡くなって、どうして自分は生きているのだろう……」と、考える人も少なくないという。
 災害は、すべての人を巻き込んで、悲しみを広げる。
 毎日を支援活動に使っている支援者たちが、今、疲れている。こんな時だからこそ、車いすの上からギャグを飛ばす。強いところも弱いところも、そのまんまの自分を映し出す。 お互いに何もできない人間が、何かを残すために、今日も何とか動いている。
宮古にて 矢吹さん

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