1995年1月17日

 今年もまた、特別な一日が終わろうとしています。17年前の1月17日、阪神淡路大震災が発生しました。6400を越えるいのちが失われてしまったこの大災害では、避難所から仮設住宅、そしてがれきが取り除かれ、町が復興していく過程でも次々と困難が押し寄せ、時には生き残ったいのちさえもが奪われました。
 町全体が混乱と困難に覆われる中、障害者はより過酷な状況にありました。
 避難所になった学校や会館そして仮設住宅は、障害者市民にはとても使えるものではありませんでした。また視覚や聴覚そして知的に障害がある市民には最低限の必要な情報が届かず、非常事態における被害が直撃しました。
 そんな困難な状態の中、被災地の障害者市民の生きる場・働く場をつくってきた障害者市民グループと全国の障害者市民グループが結集し、障害者救援本部を立ち上げました。救援本部は緊急の救援物資を届け、介護者を派遣し、車イスを利用する人に対応した障害者用住宅を建設しました。
 全国からの支援に力づけられた被災地の障害者たちは、届いた救援物資を活用して寒さにふるえる地域の人びとに豚汁を炊き出し、独居の高齢者に手づくりの弁当を配りました。
 障害があるひともないひとも、みんなで助け合っていこうとした被災地の障害者たちの行動は地域全体を元気づけ、またそれを支援した全国の障害者たちを勇気づけました。
 ゆめ風基金は障害者救援本部の支援活動を受け継ぎ、ふだんから非常事態に備え、必要なときにすぐに救援金を届け、長期的な支援をしていくために結成されました。
 それから17年の間、全国のたくさんの方々から預かった基金で、各地で発生した自然災害に被災した障害者を支援してきました。
 そして、昨年の3月11日、東北関東大震災が起きてしまいました。
 あの日から今日までの被災障害者支援活動を振り返ると、次々とやってくる過酷な現実に押しつぶされそうになるところを、被災地の障害者と全国各地の障害者がつながることでなんとか持ちこたえてきたというのが正直なところだと思います。
 17年前の寒い朝から、わたしたちは2つの「時」を生きてきたのだと思います。ひとつは失われたいのちたちの夢を刻むはずだった「無念の時」、もうひとつはがれきの下から立ち上がり、共に生きる社会をつくりだす「希望を刻む時」、この2つの時の間で、わたしたちの心の振り子は激しくなるばかりでした。
 それでも、わたしたちの社会は「共に生きること」、「助け合うこと」以外に生きる道がないことを、わたしたちは知りました。共に生きることも助け合うことも実は簡単なことではなく、とても勇気がいることで、数千人の命がうばわれてしまった悲しみをもってしても、わたしたちの社会はその勇気を持てないのでしょうか。
 今回の大震災の被害は、阪神淡路大震災を経験した障害者ですら、ただただ言葉をなくすばかりと証言しています。
 17年前の教訓が生かされていないと怒りを表しながらも、だからこそ17年前から夢見てきた「共に生きる社会」は被災地の障害者とつながることからしかつくりだせないと、障害者自身が被災地を訪ね、また被災地の障害者が移住するための受け入れなどもすすめられています。
 その意味からも、障害当事者によるボランティア派遣プロジェクトは、これからの障害者の運動の大きな可能性を予感させる大切な活動だと思います。
 さらに今回の災害はその上に福島原発事故を引き起こし、わたしたちが見過ごしてしまった大きな問題が解決できないまま、次の世帯、また次の世代へと負の遺産を届けることになってしまいました。福島の障害者運動は地域で地道な学習会をすすめ、自分たちのためにも、また地域のひとたちのためにも、そして未来を担う子どもたちのためにも原発をなくしていく運動を続けておられます。
 阪神淡路大震災の時、被災地にも春が来て、桜が咲きました。こんなに大きな苦しみをもたらしながら春の手紙を届ける自然を一瞬うらめしく思いました。しかしながら、ふりかえるとほんとうに「痛い春」でしたが、それでもこの自然とつきあうことでしか人間が生きられないことも知りました。この年に被災地に生き残った桜がひときわきれいで、被災地のひとびとの心をいやしてくれたことも事実としてあります。
 今回の過酷な状況もまた、どれだけの時間を費やせば希望がやってくるのか、まったく先が見えないこともたしかですが、ゆめ風基金を応援して下さる全国のみなさんに支えていただくことで一歩また一歩、問題を解決していきたいと思っています。
 これからも、ご支援をよろしくお願いします。

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