被災地障がい者センターみやぎ・石巻支部Vol・1より

 被災地障がい者センターみやぎ・石巻支部(被災地障がい者センター石巻)が冊子を発行しました。個々を拠点に活動するひとたちの震災発生時の状況や思いをつづった切実な報告と、その後の活動、現在と今後の支援活動について、言葉を寄せ合った貴重な資料となっています。
 その内容をひとつずつ紹介したいと思います。
被災地障がい者センターみやぎ・石巻支部Vol・1より
東日本大震災時の状況と、7か月後の現状
                    被災地障がい者センターみやぎ・石巻支部スタッフ・A 
◇被災の時の状況
 3月11日は、石巻市の隣町にある東松島市のデイサービスへ行っており、いつもは施設に送迎をしてもらっていたのですが、当日は私用があったので、自分の車でデイサービスに行きました。今思えば、自分の車で行ったのが本当に良かったと心から思いました。デイサービスの予定は「卓球バレー」でした。「卓球バレー」とは、卓球台の周辺を6対6のチームに分かれ、ネットの下をボールが通過するように打ち合って、21点先取したチームが勝利というゲームです。
 午後からの活動は1時45分からで、卓球バレーをしていました。そして、私はふと時計を見ると2時35分でした。午後の活動は3時で終わりなので、もう少しで終わりだなと思い、気を抜いていたら2時45分くらいにあの悪夢の時間がやってきました。
 最初は地鳴りが聞こえてきました。次の瞬間、今まで体験した事のない強い揺れがきて、他の利用者やスタッフはたちまちパニックになりました。スタッフがバタバタと転倒する姿がみえ、車椅子の方も、後ろに引っ繰り返っていました。私も、後ろに引っ繰り返りそうになったのですが、偶然、足が卓球台に挟まり痛烈な痛みを感じましたが、転倒すること無く、事なきを得ました。
 揺れはだいたい一分以上揺れていたと思いますが、正確な時間はわかりません。ようやく揺れが止まり、落ち着いて周囲を見ると、窓のガラスは割れているし、停電になったので非常灯が付いていました。そのような状況でふと実家に居る母のことを思い出しました。確か一人でいるはずだから不安になっているだろうと思い、すぐに母の携帯に電話をしましたが繋がりませんでした。恐らく回線は混線していたのでしょう。
 すると、外から今までに聞いたことのないサイレンが鳴り響きました。放送では大津波警報が宮城県に発令されたと聞いて、さすがに焦りました。内心、こんな場所まで津波なんか来ないだろうと思っていました。何故なら、今まで津波警報は発令されるけど、陸地までの被害など無かったからです。
 ほどなくして、デイサービスに一台の車が来ました。すぐに父の車だとわかりました。車から父と母が降りてきました。たまたま父は自宅で仕事をしていて、私の所まで来たそうで、一緒に親戚の家まで行くぞ、と言われましたが、私は正直、仲間を置いて行くのが嫌で、最初は一緒に行くのを断りました。
 しかし施設の所長が帰れるうちに一緒に帰りなさいと言われたので、渋々帰ることにしました。仲間に謝りながら挨拶をして帰りました。自分の車があったので父の後ろに着いて行くことにしました。そして、親戚の家に行く途中、道路は避難する車で渋滞しており、道も陥没している場所があったり、停電で信号機は動いてないし、倒れていたりもしていて、外を走ってみてようやく今回の地震の凄さに気づかされました。
 親戚の家に行くと、家中のガラスや食器が割れていて、入れる状況ではありませんでした。取りあえずみんなで家の片づけをしていたら、私の兄が来ました。地震がおさまってから、母が心配で一度実家に戻り、最小限の物を車に積んでいたら、近所の人達が慌てて逃げる姿を見て不安を感じ、海を見に行きました。その時の海は穏やかで、なんともなかったのですが、取りあえず逃げたそうです。
 そして、自宅からだいぶ離れた場所で休憩をしていたら、後ろから瓦礫や車が凄い勢いで押し寄せてきて、津波に追われながら逃げ、親戚の家まで来ました。兄も家の片づけを手伝い、家の中にようやく入れる状態にしましたが、茶の間にはガラスの破片が散らばっており、廊下にカーペットを敷いてようやく落ち着きました。
◇半年間に及ぶ親戚での避難所生活
 親戚の家では、3家族全員で、のべ12人の共同生活が半年間にも及びました。震災当日の夜はみんなで布団にくるまりながら寝ることになったのですが、なかなか寝ることが出来ずにいました。私は一人で外の空気を吸いたくて、廊下にある窓を開けて外を眺めていました。
 その日の夜のことは今でも忘れられません。なぜかと言うと、空を見たら町の明かりが無いためか、こんな震災があったにも関わらず星がいつも以上に輝いていました。それを見ながら少しホッとしたのですが、ふと私の住んでいた場所の方角を見ると、空が明るくなっていて、黒い煙がもくもくと立ち昇っていました。その時はなにが燃えているのかわかりませんでした。その日は取りあえず寝ることにしましたが、私はデイサービスに居た利用者がどうなったのか心配で、なかなか眠れませんでした。
 そして、次の日の朝を迎えました。次の日の朝は、とりあえず食料や物資の確保をすることに決めました。しかし、確保しに行くにも店はどこもやっておらず、手に入れることが困難でしたが、近くに身内が多いので、お互いに物々交換し合いながら、共同生活をしていました。
 けれど、水や燃料が手に入らず大変でしたが、一番大切なのはライフラインで、特に水と電気がないのは本当に不便でした。水は自衛隊の方々が給水車で来てくれたので助かりました。私も、車椅子で水を貰いに並んだりしました。水はなんとかなりましたが、やはり電気がないのが本当に不便で仕方ありませんでした。夜になると暗くて周囲が見えず、障がい者である私には不安で仕方がありませんでした。夜は私だけじゃなくて、子供達も怖がっていて、余震が来るたびに泣いたりしていました。子供達は、ちょっとしたことにも怯えるようになり「PTSD」になっているんだと思いました。
 今でもその症状は治らず困っています。電気が通ったのは、震災から約一か月くらいたってからでした。あの日のことは今でも忘れられません。ブレーカーを上げて電球を付けた瞬間、部屋中が明るくなり、みんなで拍手をして喜びました。28年間生きてきて、これほど電気のありがたみを感じたことはありませんでした。
◇「被災地障がい者センターみやぎ」と「CIL たすけっと」との出会い
 私が、「被災地障がい者センターみやぎ(以下「センターみやぎ」)」と関わるきっかけになったのは、障がい者の仲間の方で、福祉用具や物資を支援しているボランティア団体があると言う話を聞いたからです。
仲間の方から、何か必要な物はないのと言われたので、自宅で使う杖が津波で流されてしまったので、それを頼みました。「センターみやぎ」については、全くわからなかったので、FAXで、私の家に届けてもらえるように頼みました。そして、頼んでから五日後くらいに「センターみやぎ」に来ているボランティアさんがすぐに持ってきてくれました。持ってきて頂いて、凄く助かりました。
 それからしばらくして、近所の人に簡易ベットをもらったのですが、マットレスが無く、寝ていても体が痛くて眠れなかったので、「センターみやぎ」にマットレスをお願いしました。ついでに浴槽に使う取り外しが出来る手すりもお願いしたら、こちらも用意が出来ると言われ、数日後、三人のボランティアさんが持ってきてくれました。
 その時の一人が、大阪から来ている方で、もしよかったら、「センターみやぎ」の本部がある仙台市内の「たすけっと」に遊びに来ないかと誘われました。震災でバタバタしていたので落ち着ける時間がなく、気晴らしをしたい気持ちと、物資を届けてくれた感謝の気持ちを伝えたくて、泊りがけで行くことに決めました。
 私は「たすけっと」がどのような団体なのか解らなかったのですが、行ってみてようやく理解しました。障がい者の方々が中心になり、地域で自立的な活動をしている団体でした。初めて代表の及川さんにお会いしたのですが、正直、第一印象は、重度の障がい者の方が一体何が出来るのか、理解が出来ませんでした。
 しかし、関わって行くうちに徐々にですが、及川さんがしようとしていることが、私がしたいと思っていることと同じだと気付きました。同じ障がい者の方々に、生活や悩みなどの相談を受けたり、アドバイスをすることです。私が障がい者になってからやりたいと思っていたことなんですが、どうしてやったらいいか解らなかったので、実現出来ずにいました。
 石巻市では「センターみやぎ」のボランティアに誘われて、仮設住宅に行き、障がい者の方々の生活の実態を調査する活動をしました。障がい者用の仮設住宅と言っても、入り口までスロープが付いているだけで、入り口も車椅子のままでは入るのが困難であり、住宅の中は、バリアフリーなど全然なっておらず段差だらけでした。
 一番ガッカリしたのは、駐車場から仮設住宅に行くまでが、全く舗装もされておらず砂利道であり、車椅子では移動が困難でした。もう少し真剣に障がい者の不便さを市や国が対応してくれればと思いました。
 そのような活動が続いていたのですが、石巻にも、「たすけっと」のような拠点が欲しいと考えるようになりました。ようやく、10月1日に石巻の蛇田に拠点をもつことが出来まして、現在は、そこで活動をしています。
◇被災地障がい者センターみやぎ石巻支部の活動内容
 私達の活動を石巻地域の方々に知って頂く為に、私ともう一人の障がい者の仲間とボランティアさんで、事務所の周辺の蛇田地域に、一軒一軒チラシのポスティングをしています。ただポスティングをするのではなくて、お話を聞いて頂ける方には活動の内容を説明したりしています。毎週土曜日には、定例会議と言って、障がい当事者や関係者、震災以前から地域で福祉活動をされている団体などと、意見交換や地域での問題を解決するための会議をしております。
 これからの活動では、石巻で様々な方々と力を合わせ、震災以前より、障がい者が住みやすい街作りが出来るように頑張って行こうと、考えております。

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