ゆめ風基金

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ゆめごよみ風だより

No.812017年12月8日発行

悪くも良くも、多くの仲間と刺激的に向き合った<br>そしてボクも救った……河野秀忠が逝ってしまった。あぁ〜いずこへ 代表 牧口 一二

とうとうゆめ風を呼びかけた権代表(故・永六輔さんの「副はいやだ、権にしよう」に倣って)の河野秀忠が知らない世界へ逝ってしまった。永さんの後を追うように……

河野とボクは、障害者問題総合誌『そよ風のように街に出よう』の発刊に始まって現在の被災障害者支援「ゆめ風基金」に至るまで、障害者に関連するさまざまを凸凹コンビよろしくやってきた。「あの二人がなぜ?」と不思議がられるほど、外から見ればまったく違うタイプの二人。だが、本人同士はまったく違和感なく四〇数年、ことある毎に「どちらか生き残ったほうが葬儀委員長をやろうな」と言い合っていた。じつは、そよ風のように消えたいボクは、河野がなぜ何度も言うんだろう?と、いぶかりながら、こちらが五つ年上なので、内心、お世話になるのはこっちだからよろしくね……なんて思っていた。

ところが、河野は順を間違えた。というか何故か慌てて、急いで逝ってしまった。酔って帰り、タバコを吸いたくなって玄関に出て、よろけて倒れたらしく、救急車で運ばれ、脳挫傷と硬膜下出血との診断。集中治療室で五日間、意識が戻らなかった(五日目に見舞い、「おい、河野ハン」で瞼がカバッ。でも意識はもうろう)。それでも一年ほどの入院生活の間に、歩けるようになったし、車いすに自力で乗り降りし、回復に向かっているように思えた。だが、ここ数か月前からは声をかけても足の裏をこそばってみても、瞼を開けたり閉じたりするものの、それが反応なのか定かでなく、意識はぼーっとしているままのようだった。そうした症状ながら粘りに粘って生きていた。何か、ボクに、ゆめ風に、言っておきたいことがあったのだろうか。

河野とボクが互いを意識したのは、おそらく一九七四年ごろだと思う。彼は脳性まひ者たち「青い芝の会」を手伝って、映画づくりに走り回っていた頃で、大阪ボランティア協会主催の集会に殴り込みをかけて、「暇な時だけボランティアとは何事ぞ! 障害者は四六時中、自分の障害と付き合っとるんだぞ」と、ボランティア志望者を震え上がらせていたらしい。当時、ボクは松葉づえだったが、車いすの仲間と「街に出よう」として、ボランティアを集めていた。そして七六年から地下鉄の駅にエレベーター設置を要求する運動を始めた。河野は七九年養護学校義務化に抗して反対闘争。そんな経過があってボランティア協会の企画で養護学校義務化賛成派(脳性まひ者のK+養護学校教諭)VS反対派(青い芝の誰か+河野秀忠)の討論会があり、議論が平行線になったときのマァマァ役としてボクが呼ばれたのだった。つまり、そのときが河野秀忠との初対面というわけ。だが、「青い芝の誰か」は「つまらん」と来なかったのだ。で、二人VS一人の討論が始まった。

どのような話の流れだったか忘れてしまったが、障害者へのタクシーの乗車拒否が話題になって、Kが「それは運転手の賃金が安いからだ」と言ったのに、河野ならぬボクが反応、「賃金が高くなればボクら障害者は乗り込むのが遅いと思われているから余計に乗車拒否が多くなるよ」と反論。いつの間にか二人VS二人の討論になっていたのだった。

その帰り道、河野から喫茶店に誘われ、そこで『そよ風のように街に出よう』を一緒に発行しないか、と声をかけられたのだ。そのとき、「片足だけなら」と答えたのを覚えているが、その片足が動く左足をイメージしていたのか、動かない右足だったのか、よく覚えていない。その片足が三八年も続くなんて思ってもいなかった。

ボクは青い芝の運動に憧れていた。新聞のコラム欄などに、青い芝の障害者が銭湯に行って、屈強な男から「せっかく一日の仕事を終えて汗を流そうと風呂に来たのに、おまえたちの姿を見たら気分が休まらん。おまえらは昼に来い!」なんて言われて、青い芝の連中は、その男の足に噛みついて抗議した、と報じられていた。「やってくれるなぁ」と心の底から感動したけれど、軟弱なボクにはとてもできない勇気だった。でも、彼らと話がしたかった。会いたかった。でもでも、怖かった。

その頃のボクは、やっと仕事に有り付いて間もなくのこと。美術学校デザイン科を出てもまったく就職できなかった。五四社を受け、面接でことごとく落とされた(使い走りができないからと)。そして四年後、学友四人が資金を出し合ってデザイン会社を設立した折に、ボクにも声をかけてくれたのだ。このチャンスを逃すまいと、高校時代の担任をはじめ小学校時代からの数名の恩師からお金を借りて仲間に加えてもらった。

そして、やっと仕事にも落ち着き、少し気分的にも周りが見え始めた、そんな矢先の青い芝運動との出会いだった。のこのこ彼らの拠点に出向き、「どんな仕事をしてるんだ」と尋ねられ、「広告をつくる仕事です」「なにィ、資本主義の奴隷かァ! 顔を洗い直してから来い!」と言われるのが怖かったのだ。それほど労働運動が盛んな頃だった(懐かしいなァ、いま労働運動は見る影もなく、働く若者の未来を奪っている)。

そんなボクの状況を救ってくれたのが河野秀忠だった。ボクが「青い芝の中で、落ち着いてじっくり話し合える人はいないかなぁ」と相談すると、紹介してくれたのがボクより十才以上若い、故・坂本博章だった。ボクんちに来てもらって、午前三時ごろまで話し合って(ボクは飲めないのでビールを注ぎ続けて)、最後に「いま迷っていることを一つでいいから教えてほしい」と言ったら、坂本はしばらく考えて、「やっぱり親のことかな」と言った。「愛と正義を否定する」「健全者(親)は敵だ」と言って憚らない彼らの群れ、その一人の坂本から「やっぱり親やもん」と聞けたことで、単純ながらボクは青い芝が怖くなくなった。それほど「愛と正義を否定する」「健全者(親)は敵だ」の言葉に惚れていた(ボクがキリストを信じて数年後のことで、いまも悩み苦しみ続けている言葉である)。

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