障害者救援活動にご協力ください
- 障害者救援金
送り先 - 郵便振替口座
00980-7-40043
ゆめかぜ基金 - その他の振込方法
特定非営利活動法人 ゆめ風基金
〒533-0033
大阪市東淀川区東中島1-13-43-106
TEL:06-6324-7702
FAX:06-6321-5662
MAIL:info@yumekazek.com
No.702015年7月15日発行
4月19日、ゆめ風事務所に小室等さん、こむろゆいさんをお招きして、代表、副代表を加えた「座談会」が繰り広げられた。
40人の聴衆が縦横無尽90分のトークを固唾をのんで見守った。
牧口 今日は、小室等さんと、この後のライブに参加のこむろゆいさんにも立ち会っていただき、ここに座談会という企みが実現しました。ゆめ風の始まりのいきさつ、その前からの小室等さんとの出会いについてもお伝えしたいと思いました。小室さんとのおつきあいが始まったのは河野さんなんですね。
河野 今から三〇年くらい前、選挙運動で「勝手連運動」というのがあり、呼ばれて北海道に行ったんです。そこに小室さんと長谷川きよしさんがいました。
小室 横路さんが出た時でしょ。中山千夏さんときよしさんと僕と。あの頃、千夏さんが議員活動をしていた時期なものですから、全国のキャンペーンで、横路さんを表敬訪問した。そんな中で「イベントに、きよしさんと二人で歌ってくれませんか」みたいなことで行ったんだと思うんです。僕らは勝手連に行くのが一番の目的ではなかったんですけれど、河野さんと出会ってしまった(会場 笑)。
河野 打ち上げで、僕と小室さんは大いに盛り上がり「また、どこかで会いましょう」と。こっちは勝手に「お友達」(笑)。僕は本当は善良な人間なんだけど、その頃、どこかあいつは危険やというような目で見られていたんです。
小室 見ていました(笑)。
河野 阪神淡路大震災が起こって3日目に僕はリュックに水と食料を詰め込んで、西宮から歩いて神戸にたどり着いた。長田に障害者仲間がいたんですが電話は通じない。長田の公団の裏まで火が来ていて必死で駆けつけて助け出し、どうしようと思って周りを見渡したら、戦争中の光景だった。
牧口 ちょっと待って。北海道の話がいつの間にか神戸になってる。北海道はどないなったん?
小室 阪神淡路の話になるのが何ゆえかと言うと、障害を持った人達が震災に遭うと、どのようなことになるのか、最初に直面したというところから、ここに持っていこうとしているので、もう少々お待ちください(笑)。
河野 徳島に学童疎開に行って、戦争が終わって大阪に引き上げてくる時に神戸港まで船で来るんです。疎開に行くときは六甲山は見えなかったけれど、神戸の港に戻ってきたら目の前に六甲山があった。その時と同じ光景。家という家は潰れているし、貧乏な障害者拠点の多くが全壊。で、牧口さんに「何とかしようや」と。
小室 「何とかしようや」という話が、はなから10億という額でいく?
牧口 それがね、「とにかく金や」と言うんですよ。「わかった、どれくらい?」と聞くと「10億円」と。見たこともないお金でしょ。僕は「5億円くらいにせえへん?」って値切った。そしたら「10億円要る!」と。「なんで10億円?」「とにかく全国から金を集めないかん」と。僕は近畿しか頭になかった。
小室 話を最初に戻します、僕とゆめ風がつながっていくこと、僕がどのようにしてゆめ風のお手伝いをする気持ちになっていくかですが。
先ほどの勝手連の話に戻りますが、たまたま河野さんと出会って、訳の分からないままお酒を飲んでいて、河野さんの話には僕の知らないことがたくさんあって、僕は聞き役でいましたが、そのときはそのまんま別れたんですよ。「じゃあ、いずれまたどこかで」みたいな感じで。僕は当然それっきりと思ってた。それが、何日か後に、表彰状が届いたんです。それも手書きでね、「あなたはこういうことにちゃんと関心を持って、聞く耳を持つものであるということをここに表彰する」みたいなね。変なおっさんと知り合いになっちゃったなと思って。
河野 「あんたは偉いで賞」。(笑)
牧口 ゆいさんは知ってましたか?
こむろゆい まったく知りませんでした(笑)。
小室 それでその賞状が届いた後に、自分たちはこのような活動している、一度おいでなさい、私たちが活動している場所に、ということで呼んでいただいて、その運動がどのように行われているのかというのを知る。本当に僕はまったく知らない、あるいは知ろうともしないで暮らしてきた人間であることも知る。河野さんからインプットされてくるものが、メディアから聞こえてくる「こういうことが障害者問題である」というのとは全然違う、とにかく本音ということ。
例えば河野さんたちが作っていた「そよ風のように街に出よう」(障害者問題総合誌)の中で、車椅子の人達の性の問題に真正面に向かうルポがあって、きれい事にするんじゃなく、当事者としてそのことに向かっていることを世の中に知ってもらおう、と。
障害者であることに何の憚ることがあろうか、社会に自分たちを、「見てくれー」というふうにやろうとしていることって、僕は、即わかったということじゃなく、何かおつき合いしているうちに段々わかってきて、そうこうしている時の「ゆめ風基金」の立ち上げでしたから、否応なくお手伝いさせていただこうというのが僕のかかわりでした。
もちろん性の問題だけじゃなくて、あらゆることが、僕ら健常者だけの世界で当然と思っている理屈が、当然じゃないことばっかりでね、本当に驚きの連続でした。
牧口 10億円の話に戻りますが、そんな大きなお金、どうやって集めようか、と思ったんです。河野は「10万円寄付してくれはる人を一万人集めたらいい」。僕も初めはそう思ったけれど、「今はみんな何かしたいという気持ちになっている。だから10万円くださる方もいるだろうけど、逆に1万円くださる人を10万人募った方がええ。裾野が広がるし1万円なら可能性がずっと高くなる。しかも、10年かけて1万円くださる人を募ろうと」。
この「10年かけて」というのに永六輔さんが乗ってくれたんです。あの時、永さん即答でね、「それはいい!」と。永さんが大阪に来られた時に、河野と二人で楽屋に行って「こんなことしようかと思っているんですけど、お力を貸してくれませんか」、「お名前をお借りするだけでも充分なんです」と言うたんです。永さんは「他にも名前が要るだろう」、「えぇ、そりゃもう」と。そのときに、おすぎさん、ピーコさん、千夏さん、筑紫哲也さん、とにかくすらすらすらと名前が出たんですよ。それもね、東京に戻ってみんなに声をかけてくれはるだけでも僕らは嬉しかった。ところが誘われたご本人から電話がくるんです。たとえば筑紫さんから「永さんから聞いた、僕もなるよ」って。僕はね、永さんの本気に惚れたというか、感じ入りましたね。
小室 さっき河野さんが、阪神淡路大震災が起こって3日目に、西宮から歩いて長田にたどり着いて周りを見渡したら、あの日の戦争中の光景と同じだった。つまり疎開に行くときは六甲山は見えなかったけれど、神戸の港に戻ってきたら目の前に六甲山があった。その時と今回の神戸は同じ光景。
同じだけれど、今回はそれに加えてもうひとつ見えたものがある。それは、地震の後で健常者が右往左往して「大変だ、大変だ」と騒いでいるけれども、「障害を持った人間にとってはなんでもない。昨日の昨日まで私らはそんな暮らしをしていたんだ」という。あなた方がいま陥っていることが私たちのずーっとの生活だったんだ、ということを突きつけられた。
何人の健常者がその現状を認識し受け止めることができるかっていうのが、その社会の持っている成熟さにもつながると思います。そういうことをゆめ風基金では、単に募金だけの問題ではなくて、活動自身がそういうことを皆さんにアピールしていく運動でもあるんだなと思いました。
牧口 やっぱりあの時、障害者みんな元気でしたもん。もともと自分らの日常が健常者の非日常になっていたけれど、災害時には全体が非日常になった訳だから。障害者は逆に処し方がわかっていたし、どう生きたらいいかも見通していたと思うんですよね。その元気さ、みんなが同じになっちゃった、みたいなところがあったと思います。
小室 ゆめ風基金ってなんのバックボーンもないまま、「何を二人で雲をつかむような話をしてるの」と言うようなことが実行できてしまえたということは、健常の側が持っている常識と、障害を持っている側の常識が食い違っているということが原点だったと思う。
そういうことは僕ら健常の側にいるものにとっては目からうろこ状態のことですよね。ゆめ風基金の立ち上げっていうのは、互いの常識の食い違いへの気付きがあったがゆえに実行できたということなのかも知れないですね。
河野 牧口はね、世の中の差別的非常識みたいなものが、震災とかでいっぺんに現れると。本当にその通りでね、今度の東日本のときもね、避難所に行っても障害者はいない。みんなそこに行かれへん。行っても対応してもらえない。「今はあんた方のことを言うてる場合と違うんだ」と正面切って言われてしまう。
小室 「それどころじゃないんだから」と?
河野 そう。避難所で赤ん坊が泣くじゃないですか。泣かれたら、お母さんが赤ん坊を毛布にくるんで運動場であやしてるんです。それを見て、泣いたってかまへんやないか、と思うんだけど、やっぱりそこは排除される。東日本の大震災でもまったく同じ。だから、やはり日ごろ不条理に出会っている人間が「これはおかしい」と言い続けることがものすごく大事なんだな、と。
小室 それ、あれと一緒じゃないですか。今、普天間基地の、辺野古移設で反対する住民たちをドキュメントした三上智恵監督「戦場ぬ止み(いくさばぬとどぅみ)」という映画と、もうひとつはジャン・ユンカーンマン監督の、米軍上陸から戦後70年、沖縄がどのように扱われてきたかというドキュメント「沖縄 うりずんの雨」、二つの映画が出来上がって、奇しくも僕は両方の音楽を担当させていただいていて、映画の中にも出てくるけれども、読谷村のガマ(壕)の中で集団自決の時と同じ話ですよ。「子どもを泣かすな」っていって、結局、お母さんがね自分の子をね…同じ話ですよね。
牧口 だけど、政府はなんであないに沖縄の人の意見が聞けないんかね。選挙でみんなで選んでいるわけでしょ。だから意思表示がちゃんとできているのに、なんであんなに無視するんやろ。僕はあれで今の政府は完璧に信じられませんね。それと原発のこと。放射能もれが次から次とわかっていながら、それに手の打ちようもないのに再稼働とか、外国に売ろうとしたりする。僕はその人間性がわからない。
小室 あれだけ嘘を平気でついてきて、嘘がばれ続けてきて、何のお咎めもなしというのは、ありえないですよね。
牧口 阪神大震災の時、障害者の仲間が炊き出しをやっとったんですよ。それにエネルギーをもろた。震災の深刻な状況の中で、障害者は大変や、としか思えなかったんよね。
ところが、逆に元気でね、周りの人達に「寒いでしょう」って豚汁を配っていたという情報が入ってきたんですよ。そのとき、どれだけ励まされたか。「おお、やってくれるやん!」、僕らも何かせないかんと正直思ったんよ。
小室 だから、弱者も強者もなく役割を担ってかかわりあえるということが世の中にはあるはずなのに、世の中がまともに動いているみたいな時には、弱者と規定され区分けされた者たちは排除されちゃうんですね。
牧口 そういうことはなかなか報道されなかったけど、普段からの蓄積でそういうことを実際に活動としてやってくれていた。僕なんか、ものすごく力を得た。それで、ゆめ風が始まった。あれが根っこ。あの時、不思議なんやけど、最初の呼びかけ文、すらすら出たんよ。「みんなお金ないんやろ」「みんな寄っといで」、「みんな、お金要るんやろう」「集めるからどんどん取りに来て」みたいな言葉をツラーと書いていったんですよね。
小室 億というお金が結果として集まってくるわけじゃないですか。それを世の中ではどのように使っているのかということが問われますでしょ。それで、問われるということに怯えるのか。
いろいろな寄付の団体がありますけれど、集まったお金がそれなりの形で配られる、渡るのに何ヶ月もかかって、「今必要なのに」という時のずっと後になってからというのは、満遍なくいろんな意見をクレームがつかないようにということでしょ。
牧口 やっぱり、「平等に」の原則がどうしたって働く。
小室 そのへんゆめ風はどのように考えて?
牧口 寄せられた大切なお金をどう生かすか、絶対に要る所があるはずやと。障害者に絞ってだけれど、要るって言うてきた所にボーンと提供しよう、そういう感じです。そして、不平等でいいから要るところに全部届けようという考え方でした。
小室 東日本大震災で、障害者がホテルに避難しているっていう事に対して、公共的なところに「ちょっとホテル代お願いします」って言ったって、すぐには来ないもんね。ゆめ風は、そこにピッと行く。
牧口 障害者とヘルパー10人ほどが原発事故でホテルに避難したんですよ。いろんな難病の人がいて避難所ではあかんという状態が起こって、ホテルに逃げた。人も設備も整ってるって。その発想もすごいけれど「ホテル代を送れ」言うてきたんですよ。これは生きたお金の使い方やった。
小室 この間、ゆいと岩手県の宮古に行ってきたんですよ。ちょうど3月11日に行って、僕のラジオ放送だったんですけどね。そのときに地元の活動をなさっている「ハックの家」の方とお話をさせてもらって、もちろん東日本の震災以前から活動なさっている方々です。
「震災以前と何か変わりましたか」って言ったら、「例えば今までになかった活動が増えました」と。病院への送り迎えや薬を取りに行くお手伝いなどが増えた、と。そのために人材を募り、給料を払わなきゃいけない、と。「大変ですね」、「でも、小室さん、ご存知かどうかわかりませんけど、ゆめ風っていう基金がありまして、そこから給料を出していただいています」と。「ああそうですか。そりゃよかった」って僕。ゆめ風を手伝っているということは言いそびれました(笑)。
(事務局) そのラジオ放送を聴いた東京の会員さんから電話がありました。「いい話聞いたよー。ゆめ風を応援してきてよかったー」って。こちらも嬉しくて「うっ」となりました。
こむろゆい 私たちは楽器を持って全国を廻っていますので、思わぬところで、「実はゆめ風というのがあって」というようなことを、私たちが関係者だと知らなくて話してくださることって何度もあります。もちろんライブにいらした方が「永さんと小室さんがラジオでゆめ風の話をされていて、問い合わせて振り込みました」って言ってくださったり。
小室 聞いていいかどうかわかりませんけど、20年やっている間にはどこかで何かぶつかることがあって、それは本当に建前としての理屈としてのぶつかり合いもあれば、もっと感情的なこと。実はあいつのことは嫌で嫌でしょうがないんだと思うと、正しいことを言っていても反対したくなるってことも、世の中にはあるじゃないですか。そういうあたり組織がぎくしゃくすることってなかった?
牧口 もちろん意見のぶつかり合いはありますが、お金のことに関してややこしくなったことはホントないですね。それは自慢できると思うんだけど。
小室 もちろん、僕も20年脇から見ていて「すごいな」と思っていることなんですけど。近畿労働金庫の方もいらしているので、少しお尋ねしましょう。労金としてゆめ風に協力するというのはどのような考えのもとでしょうか?
近畿労金担当者 私たちとゆめ風さんとは、阪神大震災の頃からのおつき合いです。10年前に障害者のNPOに融資できる制度「ゆめのたね」を一緒に作りました。そういう関係でずっとおつき合いしてきて、東日本大震災の時に、労金のお客さん、近畿2府4県150万人の組合員さんに被災された方を応援する預金をお願いして、利息の一部を寄付いただいて、それと同額を労金もゆめ風さんに寄付するという仕組みを作ったんです。
小室 だから、そうして労金さんにやっていただくということはゆめ風が信用されているってことだよね。
牧口 それは、著名人がたくさん手伝うてくれてはるでしょ。それが信頼のバックアップになっているのは間違いない。僕らだけではなかなかだと思います。
小室 いやあ、それにしたって結局のところ、信頼をする目に見える根拠なんてどこにもないわけじゃないですか。それはやっぱり、この20年間、ゆめ風基金が何をしてきたかという実績が人々からの信頼を勝ち取っているっていうことなんだと思います。
小室 今度、20年ということで、僕も含めて坂田明、林英哲という音楽隊がお手伝いさせていただこう、と。当然、この20周年というのは、今後どのようにしていこうかということに向けてのイベントでもあると思うんです。そういう時にこの質問はふさわしいとは思えませんけど、ゆめ風基金というのは店じまいなんていうことはあるんですか?
牧口 それが難しいんよねえ。えらいことやってもうた、と思っているんです実は。やめられへん。自然災害なくならへんもんね。
小室 カタログハウスがサポートしてくれたっていうのも大きかったですね。
牧口 特に初期はほんまにどうしてお金を集めようかというときに、助けてくれはったんです。そやから、東京のカタログハウスと近畿ろうきんは世界の七不思議。
小室 そして嬉しいのは、ゆめ風のようなものを求めている人たちたくさんがおられるってこと。そのことがゆめ風を大きく支えてくれていますよね。実務を担当している方々は、いいことばかりじゃないでしょう。めげる時もあるでしょう。でも、それをいろんなことが、多分、支えてくれているんだろうと思う。
それで、今後に向けてやっていくってことで、ゆめ風基金のような組織があるというのは世の中にとって本当にかけがえのないことだと思うけど、まあ、当たり前のことで身もふたもないことを言えば、このようなゆめ風基金みたいなものがなくて済む世の中じゃないとね、いけないってことですもんね。
牧口 そやけど、今の孤立感漂う世の中では、なかなか人を頼れないでしょ。だからゆめ風が土台になって何かいいコミュニティができへんかな、僕は夢みているけどね。
小室 それもうちょっと具体的に
牧口 いや、まだ具体的じゃないけど、みんなで共同体みたいなものを作って助け合って生きていけたらいいなあ。そんなエネルギーが湧いてこないかなと思っています。
1995年 | 阪神淡路大震災の障害者救援活動に | 100万円 |
---|---|---|
1998年 | 北関東集中豪雨の障害者救援活動に | 50万円 |
1999年 | トルコ西部大地震の救援調査活動と障害者救援活動に | 110万円 |
台湾大震災の救援調査活動と障害者救援活動に | 260万円 | |
2000年 | 有珠山噴火の障害者救援活動に | 145万円 |
トルコ被災障害児の医療活動に | 50万円 | |
東海集中豪雨で全壊した障害者作業所に | 290万円 | |
2001年 | エルサルバドル地震で全壊した障害者作業所に | 110万円 |
インド大地震の救援調査活動と障害者救援活動に | 120万円 | |
取地震で被災した障害者作業所に | 60万円 | |
2002年 | 阪神淡路大震災で被災した障害者の復興支援活動に | 525万円 |
アフガニスタン救援調査活動と車いすを贈る運動に | 30万円 | |
韓国の台風で全壊した障害者の生きる場に | 50万円 | |
2003年 | 名古屋障害者防災ネットワークづくりに | 100万円 |
阪神淡路大震災で被災した障害者の復興支援活動に | 300万円 | |
アフガニスタン被災障害者のぶどう園再建支援に | 10万円 | |
十勝沖地震で被災した障害者作業所の復旧に | 16万円 | |
イラン地震の障害者救援活動に | 63万円 | |
2004年 | 北陸豪雨災害で被災した障害者の復興支援活動に | 20万円 |
台風23号で被災した障害者の 生きる場はたらく場10カ所に | 375万円 | |
2005年 | 新潟中越地震での障害者救援活動と 生きる場はたらく場3カ所に | 438万円 |
福岡沖地震で被災した障害者作業所(2か所)に | 81万円 | |
宮崎台風の救援活動と 被災障害者の生きる場はたらく場(3カ所)に | 204万円 | |
2006年 | パキスタン地震での救援金に | 25万円 |
2007年 | 能登地震で被災した障害者作業所(4カ所)に | 50万円 |
新潟中越沖地震での救援調査活動と 被災した障害者作業所(6カ所)に | 219万円 | |
2008年 | ミャンマーサイクロンで被災した障害者の救援活動に | 150万円 |
中国四川大地震で被災した障害者の支援活動に | 24万円 | |
岩手宮城内陸地震で被災した 障害者の生きる場(3カ所)に | 30万円 | |
2009年 | 兵庫県佐用町で台風被害調査と 被災した障害者のはたらく場に | 46万円 |
フィリピン台風で被災した障害者のはたらく場に | 53万円 | |
2010年 | ハイチ大地震で被災した障害者の救援活動に | 100万円 |
2011年 | 東日本大震災で被災した障害者の救援活動に | 1億2,008万円 |
台風12号で被災した障害者の作業所(9カ所)に | 296万円 | |
2012年 | 東日本大震災で被災した障害者の救援活動に | 7,456万円 |
フィリピン台風12号で被災した障害者の救援活動に | 117万円 | |
2013年 | 東日本大震災で被災した障害者の救援活動に | 7,318万円 |
7月の豪雨災害で被災した障害者の作業所に | 50万円 | |
フィリピン台風30号の被災調査活動に | 29万円 | |
2014年 | 東日本大震災で被災した障害者の救援活動に | 1,057万円 |
フィリピン台風30号の障害者調査救援活動に | 100万円 | |
災害時移動送迎基金に | 500万円 | |
2015年 | 東日本大震災で被災した障害者の救援活動に | 1,109万円 |
フィリピン台風の障害者復興支援活動に | 30万円 | |
ネパール地震の障害者救援活動に | 113万円 |
東日本大震災救援金は、障害者の生きる場はたらく場再建・新設・修理38か所、県外避難所、避難移住支援7件、当事者団体による救援活動支援16件、8か所の被災地障害者センター救援活動に使われました。
©ゆめ風基金