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ゆめごよみ風だより

No.422008年9月5日発行

リレー・エッセイ 災害と障害者 第二十三回

私の戦争体験

戦争体験と申しましても、何しろ私が四年生の時ですので明確であるかどうか分かりませんが、おぼえていることを少しお話してみたいと思います。

私は神戸に生まれて神戸に育ちました。住んでいたのは山と海の中間あたりでした。

昭和十九年の末頃には戦争もだんだんとはげしくなってB29の爆撃機が夜となく昼となく空中を旋回しているのです。当時、私は小学四年生でした。

学校に行っていても、いつ爆撃が有るかわかりませんので、落ち着いて勉強できませんでした。学童疎開といって大部分の子どもが親から離れて田舎の安全な場所へ疎開をしておりましたが、私たち姉弟は行きませんでした。町の学校に残っていたのは体が弱いとか、私のような障害をもっているものだけだったように思います。がらんとした教室で死の恐怖におびえながら勉強しておりました。

空襲警報のサイレンが鳴ると、家の縁の下に穴を掘った防空ごうにかくれるのです。ここに入っていると、もし敵の兵隊が上陸してきても、爆弾が投下されても助かるだろうと思っていたようです。今思えば、爆弾が落ちれば防空ごうに入っている人たちは必ず死んでしまうのにどうしてあんなことを考えたのだろうと思います。

でも、その当時は何とかして助かりたいという思いがそうさせたのでしょう。

昭和二十年には、ますます爆撃機の数が増え、一晩中防空ごうの中で夜を明かす日が多くなり、危なくて通学できなくなってきました。

三月十六日の夜中、焼夷弾や爆弾がどんどん降下されて隣近所から燃えあがってくるので、もう防空ごうに入っていられない、家にいては危ない、とにかく安全な所へ避難しようと、母が私をひもで背負い、まだ小さかった弟と妹の手を引いて家を後にしました。父は最後まで家を守るんだと姉と二人で家に残りました。

私を背負った母親は山へ逃げようと必死に走り続け、安全な場所へ逃げようとするのですが、目の前を煙や火にまきこまれ、無我夢中に行くうちにいつの間にか自宅の近くまで帰ってきていました。そこで家が燃えているのを見て母が「ああ・・もう家が燃えてしまう・・・・もうあかんなあ」とつぶやくのを背中で聞いたのをはっきりおぼえています。

しかし、その場でとどまっている訳にもいきません。私達はまた迷って迷って山の方へ行こうとしていると、突然目の前の家に焼夷弾が落ち燃え上がって「パン!」という大きな音と共に窓のガラスがはじけ、その破片が弟の目に入り、弟は痛い痛いと泣いていましたが、それを見てやることもできず、早くその場をぬけなければ火の海の中で焼け死んでしまうと、母は弟の手を引き、どこをどう歩いたのかわからないままどんどん行きました。気が付くと爆風でちぎれた手首や足首、動かなくなった人たちがゴロゴロころがっているのです。私は目をおおってしまいました。

私たちもこの火の中から抜け出せなければ焼け死んでしまう。どこに行っても八方ふさがり。母は力つきたように「ああもうあかん」と叫びました。

その時です。一人の兵隊が走り寄って来て、「山へ逃げなさい、早くはやく」と道案内をしてくれました。山の上にあるお寺の境内でした。地獄で仏を見るとはこんなことでしょうか。あの時、教えてもらはなかったらおそらく死んでいたにちがいありません。お寺のまわりは山に囲まれ逃げて来た人たちがたむろしていました。私たちは助かったんだなあ、良かったなあと嬉しさでいっぱいでした。近くにいた人がコンペイ糖を二、三つぶ私の手のひらにのせてくれました。そのおいしかったこと、とろけるような味は今も忘れることはできません。

落ち着くと、家に残った父や姉の安否が気になってきました。母は、父を知っている人たちに聞きまわっていました。二人の無事を聞いたときには本当にホットしました。

しばらくして父や姉に会い喜び合いましたが、家は全焼してしまいました。その日、神戸の街は焼け野原と化してしまったのです。

今思えばあの戦争中、障害者たちはどうしていたのでしょうか?

敗戦後四十年、いまだその時の障害者のことは誰からも聞いたことがありません。

あの大空襲の中、逃げられたのだろうか、家で寝たっきりの方もおられただろうに、助ける人もなくそのまま焼け死んでしまわれたのではないかと胸が痛む思いです。

人間どうしが殺し合い、弱者がいつも犠牲になる・・・そんな無意味で恐ろしいことが果たして行われていいのでしょうか。

私は今後永久に戦争などにならず、平和のうちに過ぎてゆくことを心から願ってやみません。

五月二十一日に急逝された半澤照子さんを偲ぶ会でこの遺稿に出会い、掲載誌えんぴつの家だより編集部のご承諾を得て転載させていただきました

半澤(はんざわ)照子(てるこ)
一九三三年神戸市生まれ。三歳のときポリオにかかる。神戸大空襲の時、お母さんに背負われて逃げ助かる。七九年養護学校義務化反対運動に関わり、多くの仲間と「障害者の生活と教育を創り出す会」設立、八五年より代表。八七年障害者の生きる場働く場「みんなのお店シティライト」開店。二〇〇四年社会福祉法人シティライト初代理事長就任。阪神淡路大震災後は、困った時はお互い様とボランティア活動に取り組む。

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