ゆめ風基金

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ゆめごよみ風だより

No.282005年3月7日発行

リレー・エッセイ 災害と障害者 第九回

十年前のあの時を思い起こしながら

当時、私は岡山県総社市という人口五万人ほどの小さな町に一人で住んでいた。前年の秋、妻が脳腫瘍を発症して大阪・千里の阪大病院に入院しており、私は授業のない日や週末は片道三時間をかけて岡山から病院へ通っていた。

前週の金曜日、妻は主治医から週末外泊の許可をもらって枚方の留守宅に帰っていた。私もその日は枚方の家に帰り、月曜日の成人の日に妻を病院まで送って行った後、夜遅く総社の自宅に帰り着いて一人で寝ていた。夜明け前、不気味な音とともに寝床がユサユサと揺すぶられびっくりして跳び起きた。私は幼い頃から、たとえ小さな地震でも極端に脅えてしまう性である。総社市では震度は四だったがそれでも相当の揺れを感じ、私は慌てて寝床のすぐ傍らにあった座卓の下に潜り込み、それから部屋のガラス戸を開け放していつでも飛び出せるようにした。一、二度弱い余震があったが家具が倒れたり棚のものが落ちるということもなかった。急いでTVをつけると、兵庫県南部で強い地震があったという速報が流れたので枚方の留守宅に一人いる末娘に電話をして安否を確かめると、揺れるには揺れたが別に被害はなかったという。次に病院十三階の妻の病室に電話をかけたがすでに通じなかった。上の娘二人と孫が大阪市内に住んでいる。そこにも電話したがやはり通じない。

TVでは、前年の春まで勤めていたNHK大阪放送局の見慣れた報道部の大部屋のカメラが揺れの様子を映し出していたが、それほど酷い様子のようでもなかった。そのとき、震源地にある神戸放送局は壊滅状態になっていたのだが、そんなこととも知らない私は、とりあえず家族の安否に気を奪われていた。そのうちに大阪の娘から、入院中の妻からすぐ娘の家に安否確認の電話が入り、避難に備えて孫の衣類、緊急持ちだしの用意をするようにとの電話があったという連絡が入った。ということは妻も大丈夫だったということだ。夜が明けるにしたがって、TVが惨状を伝え始めた。阪神高速道路の巨大な橋脚が横倒しになりあちこちから煙が上がっている。恥ずかしながらそのとき私は、妻や子どもたちが無事であることにほっと胸を撫で下ろしたのみで、被災地の惨状下にある何万何十万人の人々、逃げるにも逃げ出せない障害者や高齢者のことにはほとんど想像を廻らせることができなかった。二、三日後ようやく、勤め先の短大の教え子達が学校のある高梁市のJR駅前でカンパ活動をするというのに助言するぐらいのことだった。

姫路市在住の大賀重太郎さんが、地震発生の直後から被災地の障害者の安否確認を求めるFAX通信『OZの箱』を発信し続け、二日後には全障連全国事務局(大阪)から全国の障害者団体・関係者に向けて救援要請の緊急通信第一号が出され,四日後の二一日には障害者救援本部が設置されている。被災地の障害者の安否確認とともに周辺の障害者運動の拠点が救援活動を開始していること、また全国各地の障害者団体から続々と救援物資が届いているといった情報が大阪の障害者グループを経てFAXでひっきりなしに送られてくるようになったのはそれから数日後のことだっただろうか。

震災から三週間あまり経って私はようやく神戸市兵庫区と須磨区に住んでいる妹たちの家を見舞いかたがた訪ねた。その道すがら、いたる所でビルが傾き家々が崩れ落ちているのを目にし、自分の平衡感覚が狂っているのではないかという錯覚に襲われた。

被災地のただ中である新開地に開かれたばかりの被災地障害者センターを訪ねたが、大通りを隔てて筋向かいの銀行の建物が無残に崩れ、砕け散った窓からブラインドがまるで襤褸布のように風に揺れていた。被災地センターが入っていた小さなビルも大きな亀裂が走り、建物内のあちこちに「危険!」の張り紙が張られていた。事務所を訪ねると、いかにも憔悴した表情の大賀さんがスタッフや支援のボランティアに指示したり電話連絡をしていた。私はそんな彼の様子を見て激励の言葉を口にすることすら憚かられ、早々に事務所を辞去した。

【ゆめ風基金】は、代表理事の牧口一二さんと『そよ風のように街に出よう』編集長の河野秀忠さんの二人のアイデアから始まったと思う。その年の三月か四月、何かの用件でお二人に会ったとき、構想を聞かされた記憶がある。十億円という金額を聞いて一瞬、途方もないという思いがよぎったが、十年かけて一人一万円が十万人というのを聞いてそれならいけそうだと思った。現実はそれほど簡単ではなかったが、それでもこの十年の間に全国にネットワークが広がり、その後の国内外のさまざまな災害の都度、支援の手を差し伸べているのを見ると、金額以上に「人間の絆」が広がっていることを思わずにはいられない。

この十年、私はいくつかの自治体の「障害者計画」の策定や災害時の障害者・高齢者の安否確認システムの検討プロジェクトにかかわったが、その中でも大災害時における危険情報や避難指示、避難誘導、さらには避難所や仮設住宅のあり方、生活再建の問題など数々の課題があることに気づかされた。また、昨年の二三号台風や中越地震の報道を見ても、行政主導のシステムがいかに机上論に止まり実効的でないかということも明らかになっている。だからと言って、行政の責任を追求するだけでは事態が改善されるわけでもない。

【ゆめ風】には【ゆめ風】としての設立趣旨、役割や活動範囲があると思うが、あえて言えば十年を機に災害が起きた後の支援活動から一歩進み出て、市民・当事者の視点でわが町の災害時における安全体制を点検し行政に具体的な提案をしていくような活動を支援することもやってみてはどうだろうか。自然災害を避けることは出来ないが、被害を可能な限り少なくしていくためには市民と行政の協働が欠かせないと思うからである。

(ここまでを書いて、たまたま【ゆめ風】のH・Pを開くと「障害者市民 防災まちづくり アイデア・コンテスト大募集!」の呼びかけが出ていたので「やはり」と我が意を得た思いである)。

杉本すぎもとあきら
一九三八年神戸市生まれ。NHKで三二年間、番組ディレクターとして働いたが、そのうち後半の二十年近くはもっぱら障害者関係の番組づくりに携わった。九四年、転身して岡山県高梁市という山間の小さな町の短大教師となり、介護福祉士養成教育に当たる。二〇〇〇年、兵庫県姫路市の私立短大が新設した介護福祉士養成課程の開設にかかわり、二〇〇五年三月まで学科長をつとめた。介護保険の第一号被保険者になって三年目、このあたりで引退しようと考えていたところ、芦屋市の私立短大が新設する介護福祉士養成学科に、と泣き落とされて四月からあと二年、常勤として勤めることになった。巳んぬる哉。著書に『あすを拓く~心身障害者とともに』(編著)、『講座・障害をもつ人の人権』(共著)、『障害者はどう生きてきたか〜戦前戦後障害者運動史』、『戦前戦後障害者運動史年表』他。

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