ゆめ風基金

特定非営利活動法人 ゆめ風基金

〒533-0033
大阪市東淀川区東中島1-13-43-106

TEL:06-6324-7702
FAX:06-6321-5662

MAIL:yumekaze@nifty.com

障害者救援活動にご協力ください

障害者救援金
送り先
郵便振替口座
00980-7-40043
ゆめかぜ基金
その他の振込方法

ゆめごよみ風だより

No.232004年2月9日発行

リレー・エッセイ 災害と障害者 第四回

切ない記憶

「災害」を戰争としてよいのでしょうか。

「障害者」を病気持ちとしてよいのでしょうか。一九二三年に生まれた私には、一九四一年十二月八日に始った日本軍のハワイ空襲を告げるラジオのニュースにおののいて「戰争や、戰争や」と私の部屋に告げにきてくれた母の声、その表情が、忘れられません。

対米・英・宣戰布告。

女学校での一せい檢診で微熱、一週間の檢温で校医から肺浸潤とされて、家で安靜にしていたのですが、ちょうど四歳年上の次兄、博も急性肋膜という診断で、煙の都大阪を離れて、郊外の帝塚山に転地療養しました。

一番上の兄が肺結核で入院していましたから、母は他の子どもの健康に一方ならぬ心配をしていたと思われます。

父母は大阪の家(タイル商)を離れられず、母の必死の願いで、姉がつきそってくれて姉・兄・私の三人が転地療養していたのです。けれど内科医から「このままでは死んでしまう」と言われた私は女学校を中途退学して海辺に在る?師浜療院へ入院。兄、博は回復して兵役に入り、姉は結婚しました。

当時の結核なんて、安靜にして食養生するしか方法がありません。住み込みの若い店員さんたちの粗末な食事のそばで、肉、魚の営養をとるなんて、心苦しいことでした。だから本拠を離れて転地したり、入院したりすると、ほっとしていました。そこへ父が母をいぢめます。「女は人間やない」と威張っていました。その女の腹から生まれて、女を抱く男は、何ですやろ。当時の男の女差別。

博兄は希望の航空士官になったのですが、一般町衆の私たちには判らない指令で、どこかへ配属されてゆきました。その出発がよく判らないので、どこへ行ったのかと案じていたのです。

母が私の部屋へとんできて「戰争や、戰争や」と叫んだのは、二重三重の意味がありました。どこに居るのか判らない博兄。私たち兄妹の中で一番よくできる、そして性格的にも優しく、尊敬できる、母と仲良しの兄。

その尊敬する兄は一九四二年一月十日、マレー半島の基地からシンガポール界隈の偵察にただ一機で何度か飛び、英軍の戰闘機群につかまって落とされたようです。その知らせは三月十五日に町内会からの電話で知りました。地上軍が確認した墜落機から名操從士佐々木氏と、偵察通信員の兄の骨、銘のはいった軍刀が送られてきました。

なんで人を殺さなければならないのか。

「天皇陛下の御為に喜んで死ね」と、幼い時から教育されてきた私達は、人間らしい人間としての情感を失わされていたのですね。

その翌年二月、一学年上の木村邦夫見習士官が兄のおまいりに来て下さり、ひそかに憧れていた博兄と同じようによくできた人だったので、木村、岡部、両家の母が婚約させてくれました。しかし何もできないうちに又どこかへ連れてゆかれます。婚約できたお蔭で初めて私の部屋で二人だけになりました。

その時、邦夫氏は軍服の襟を正して言ったんです。「自分は、この戰争は間違っていると思っている。こんな戰争で死ぬのは厭だ。天皇陛下の為に死ぬのは厭だ」と、はっきり言いました。「君(私のこと)の為や国の為なら死ぬけれども…」と少し低い声でつけ加えて。

そんな「戰争は間違っている」という考え方は、邦夫氏の信念だったのに、私はそれ迄、「死ね、死ね」の教育だったので驚きました。すばらしい非戰、人権の志?い邦夫さんをみすみす戰死させたのです。愛する人を戰争に征かせるなんて、はっきり「まちがってる」と言い切ったリンとした彼を、戰地にゆかせるなんて、今思っても申しわけない女、加害の女でした。まだ二十二歳の木村氏、こんなすばらしい人が大阪のまん中に存在したこと、今こそ、人類平和の世界を創る時代に「生きていてほしかった」と思います。

やがて母が喀血、出養生に叔母のそばに小居を借りて、私も一緒に安靜にしていましたが、もう食物は配給、身体の弱い者は労働もできず、人の情けに助けられていました。

その肺結核の母娘の頭上を、一九四五年三月、米軍機が大阪を大空襲。木村、岡部両方とも炎上します。父を探して焼野原を歩いた時、ごろごろ死体が横たわっていました。すさまじく多くの家が燒け、人が燒け、滅茶苦茶の廃墟。やっと生きてる父とめぐり合って母のそばへ戻りましたが。日本各地で、どんなに恐ろしい戰争災害があったか、眞相はわかりません。そして他国で人殺しをして。

敗戰後、七ヶ月經って、木村のお母さんがこられ、邦夫さんが沖縄で戰死した公報を知らされました。私はつくづく自分の「非道な軍国乙女」ぶりを痛感しました。ほんとに愛していたのなら、「厭だ」という戰争にはゆかせず、二人で心中したら良かったのではないでしょうか。ずっと言い續ける思い。

「ごめんなさい。木村邦夫さん」とばかり。

岡部おかべ伊都子いつこ
一九二三年大阪生まれ。相愛高女を病気の為中途退学。結婚、離婚、実家の破産を經て一九五四年から執筆活動に入る。生後一年位で中耳炎大手術。右耳は全くきこえない。色んな病気で入退院をくり返し乍ら心に思う言葉を書き續けて現在に至る。

©ゆめ風基金